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環ROY「BREAK BOY」

環ROYの新しいアルバム「BREAK BOY」は実直で律儀なアルバムだ。環ROYはここで、彼のような才能に溢れたアーティストであれば全く無視してもいい事柄について綿密に語っている。

おそらく、彼がヒップホップという狭いフィールドを飛び出して、外部に立つ覚悟を持っていることは、誰もが認るところだろう。だから彼は、トラックにおいてもリリックにおいても、その筋のリスナーやミュージシャンが認める「いわゆるヒップホップ」の音楽性から離れて、縦横無尽にラップすることができる。ところが、このアルバムには、一聴すると「いわゆるヒップホップ」のように聞こえる歌詞があるだろう。しかしそのように聞こえてしまう余地こそが、このアルバムが立ち向かった困難さを示している。

環ROYはこのアルバムの中で、何度も繰り返して、音楽に、ヒップホップに、両義的な評価を与えていく。「J-RAP」のなかで彼は日本のヒップホップシーンについて「排他的で閉鎖的」「ダジャレみたいでだせえ」「大人になれば卒業」だと言うが、しかし同時に「オレは愛してるさ」と認める。これを注意深く聞かなければならない。つまりこの歌詞こそが、一聴すると上述したような「いわゆるヒップホップ」に聞こえてしまうことだろうということだ。

もし、これがシーン全体に批判的な態度を取ってから「それでも自分の帰る場所であり、それが愛しい」と述べてみせるくだりであるならば、そのすべてがヒップホップという浪花節の焼き直しに過ぎない。つまり、シーン批判など存在しないも同然で、それは最終的には「シーンを愛する」という言葉を引き出すための順路なのだ。全体がシーンを保全するためにあると言って差し支えない。しかし環ROYがここでやろうとしているのは、「ダジャレみたいでだせえ」と言うことと「オレは愛してる」と言うことを同時に行うということだ。後者を言うためだけに前者を存在させるならば、それはインチキだし、しかも今この時代において「どちらが正しい」と言うことはあり得ない、彼はそう思っているようだ。「メジャーシーンは間違っている、俺たちのやっていることこそ本物である」と言い続けているだけならば、残されるのは最後までメジャーになれない小さなコミュニティだけである。そこでは一見、外部について語り合っているようで、誰もそんなことはできないだろう。EXILEなどが快調に売れていく中で、上述のような、シーンの内部に見せつけるための浪花節の物語を演じ続けてしまうだろう。本当に外部に対して、それが反抗であっても、態度を表明したいのならば、それではいけないのだ。「J-RAP」と同じことは、「BGM」の中で、ちょうど逆照射されるように歌われている。原曲を歌った仲井戸麗市は「ポップスを書かねえと ポップスを唄わねえと 甘いメロディー とろける節まわし 小娘達が聴き惚れそーなポップス」と述べた。これは、発表された85年には相応しいような、分かりやすい皮肉だ。しかし環ROYはカバーするにあたって、やはりポップスに両義的な評価を下そうとする。

ポップスを書かねーと
ポップス歌わねーと
大して売れやしねーし
バイトしなくちゃなんなくなるぜ
ポップスを書かねーと
甘いメロディーを作らねーと
自称ラッパーと呼ばれちまうぜ
一生Mステなんか出れるわけねー
上手い歌うたわねーと
下手だからオートチューン
クソガキが共感できる音楽
作らねーと 作らねーと

甘いメロディー
おしゃれなトラック
素敵な歌詞で
一発当てよう

これは原曲と同じくポップスそのものへの皮肉であるようだが、しかし同時に皮肉を気取っている多くの者たちがバイトに明け暮れているし、「一生Mステなんか出れるわけねー」のだと指摘している。「携帯着メロダウンロードしてもらわねーと話にもならねえ」と彼が言うのは、今や単に事実なのだ。我々はヒップホップを多くのリスナーに聴いてもらいたかったはずなのだ。そのことを認めなければ、自分たちの音楽は、自分たちのためのものにしかならない。環ROYは原曲の意図を理解した上で、その皮肉をも相対化して読み替えている。それは彼が、どちらも正しいとして、すべてを等価に扱いたがったからこそできたことだろう。

しかし、冒頭に書いたように、これは環ROYが書かなくてもよかったことだ。彼はいきなりはみ出てしまっても良かったのに、ヒップホップシーンに対して、成し得る限りの仁義を切っている。ひどく真面目で、律儀すぎる。ヒップホップを本当に批判するとはどういうことか、そしてヒップホップを愛しているから何をすべきなのか、それを言うのが本来の姿なのだから、それを言おうとしている。しかし、それを言うことは、今のシーンにおいては、そこから完全に出て行くことと同義になるだろう。だからおそらく、このアルバムがシーンから受け入れられても、受け入れられなくても、彼は納得するだろう。

その先にあるものについて。誰からも外部に立ってしまった先で、自分は一体何をするのか。彼は「love deluxe」や「Break Boy In the Dream」の中で何度も「全部気持ちの持ちよう」と自分に言い聞かせ、「ちょっとくらい苦しい方が上手くいくんじゃないかと思ってる そうやって折り合いを付けないとやっぱ立ってらんなくなる」と吐露する。さらに「分かれ道どっちも正解」と言って、自らが下したその判断に沿わせて、自らの行く先の確かさを信じようとする。この孤独な最後に、言葉は、寄る辺なき自らを鼓舞するためだけに使われる。そういう、このアルバムのエンディングは、弱くて切なくて、強くて美しい。

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2010.03.30 | | コメント(2) | トラックバック(1) | [音楽

RE:EV

不思議なことに、冬コミで批評系の同人誌を出すことになった。「エヴァンゲリヲン新劇場版:破」についての本で、タイトルは「RE:EV」という。同人誌に寄稿したことは何度かあるけど、自分で作ったことは一度もない。

先に頒布される日時などを書いておくと12月31日(冬コミ3日目)の東京ビッグサイト。ブースは「壁の彩度」さん(東1 C14b)と「ピアノ・ファイア・パブリッシング」さんの(西1 れ13b)の2ヶ所に委託で置かせていただきます。これ、かなりすごい内容なので、ぜひお買い求めください。

装画とカラー口絵、そしてブックデザインは壁の彩度さんとI.S.Wの柊椋さんに全面的に協力してもらいました。これが素晴らしい。評論の本には見えないカッコいいデザインになっています。僕はめったなことで自分のサイト上に画像を貼ったりしないのだが、見せた人の誰もが「いいね!」と言ってくれる素敵な書影をここに貼ります。

RE:EV

さて、この本がどういう本かというと、以下のようなものです。

RE:EV

表紙=TNSK(壁の彩度)
カラー口絵=TNSK&saitom(壁の彩度)

【巻頭言】
あれを見て何かを思ったはずなんだ、僕はどうしてもそれを言葉にしたい / さやわか

【レポート】
一四歳女子の観た新劇場版ヱヴァンゲリヲン:破 / 飯田一史

【アンケート企画・ヱヴァを見た!】
寄稿者:ミンカ・リー(ニコニコ動画の伯爵のメイド)/REDALiCE(ALiCE'S EMOTiON運営)/今日マチ子(漫画家・イラストレーター)/施川ユウキ(漫画家)/TNSK(イラストレーター)/サカイ テッペイ(大学院生)/土屋亮一(シベリア少女鉄道 作・演出)/佐藤大(脚本家)/植草航(アニメーション作家)/柳谷志有(デザイナー)/川名潤(エディトリアル・デザイナー)/saitom(デザイナー)/youkiss(My Favorite Thingsオーガナイザー/サークル壁の彩度代表)

【インタビュー】
きみまるインタビュー・二次創作の幸福と「気持ち悪」さ ――『RE-TAKE』をめぐって / 聞き手・構成 坂上秋成
我々は何を作ろうとしていたのか? 山本充(青土社『ユリイカ』編集長)インタビュー / 聞き手・構成 さやわか

【論考】
エヴァを壊すこと、鏡を割らないでいること ――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』について / 長岡司英
私たちの望むものは、くりかえすことではなく / 七里
坂本真綾――真希波・マリ・イラストリアスへの長い道 / 飯田一史
ループの詐術に抗い、『EOE』を肯定すること / 前島賢
アイ・ケア・ビコーズ・ユー・ドゥー/I Care Because You Do / 西島大介
「新本格とエヴァ」試論 / 蔓葉信博

【付録】
年表:不在のアダム/すべてがエヴァになる 正典を夢想する人のためのEVANGELION年表 / さやわか

すごすぎる執筆陣だ。僕の手腕でも何でもなく、飯田一史さんや西島大介さんに手伝ってもらいながら企画を一緒に考えてもらって、原稿を集めてもらったりすらしたのだけれど、それにしてもすごすぎる!

この本で僕は文章はあまり書いていないし、企画も原稿もデザインもいろんな方にぜひとお願いした。僕は原稿を印刷所に入稿してお金を出して印刷したくらいのことだ。ではなぜ僕はこんな本を作ったのか。

僕は過去に「破」についてはブログに書いていて、その後にWEBスナイパーで泉信行さんと村上裕一さんと鼎談をしたのだが、個人的には紙のメディアに「破」についての人々の意見がまとまっていないことに不満があった。

それで、とある雑誌で「破」の企画があって、僕も文章を書いたのだが、いろいろな経緯があってその本は出なかった。そのへんの事情についても同人誌の中にちょっとだけ書かれているが、ともかく僕はすごくガッカリした。もちろん、エヴァが表紙になったり、作品の見どころを紹介したり、制作者インタビューが掲載された雑誌などもあったのだが、僕が読みたいのはそんなものではなかった。あの映画を見た、性別や世代や職業や立場を異にする、たくさんの人たちが何を思ったのか。どう受け止めて、どう応答するのか。本当は、雑誌はそういうものを見せることができたはずなのだ。インターネットでそういうものが書かれていても、それをずらりと並べてみることはできない。それを褒めるべきか、貶すべきかみたいなことがまずは問われるような議論には付き合ってられない。連中がタレ流している音楽なんて、僕の人生に何の関係もない。何かを言わずにいられないような何かがあるからと、とにかくざわざわと人々が呟くのが見たいんだ。だって、そういえばかつての「新世紀エヴァンゲリオン」だってそういうものだった。

そういうことを言っていたら、ある人が、「ならばあなたが作ればいいのではないか」ということを言ってくれた。これにははっとした。僕は昔から、インターネットで空気なんか読まずにえらそうなことを言ったら、言いっぱなしにせずに意地でも自分は発言に沿えるようにしてきたつもりだ。そうでないと、自分の言ったことを裏切ることになる。だから僕はやらねばならない。もう、絶対に、意地でも、やるのだ。

たくさんの人たちによる、たくさんの意見、そういう本は作ることができた。しかも、この本の論考はどれも本当に素晴らしいのだ。すごい読み応えがあって、編集者としてできた仕事として、珍しく気に入っている。カラー口絵付きで80ページ、1000円です。素敵な原稿が揃った、間違いなく損のない本なので、どうかぜひどうぞ。

2009.12.24 | | コメント(25) | トラックバック(2) | [アニメ] [文章

口口口「everyday is a symphony」

ゼロ年代ってのが終わろうとしていて、僕もまた、この10年が何だったかということについて考える。もちろん、今年のベストディスクは何だったかとか、そういう人並みのことを考えようとも思っていた。しかしどちらも、ついこの間まで、特にこうだという考えはなかった。

ところがちょうど今月、口口口のニューアルバムが出て、僕はこのアルバムこそゼロ年代を総括して、次の10年に何が起こるかを示してみせる、すごいアルバムだと思った。もしも2010年代がどんなものかと言うなら、いや控えめに書くとしても、僕がゼロ年代後半から2010年代の前半をどんなものだと考えているかを言うには、このアルバムを紹介するのが近道だと思う。つまりこのアルバムは一聴してすぐに僕にとっての2009年のベストになったし、口口口のこれまでのアルバムのベストになったし、ゼロ年代を語る上で外せない価値を持った一枚になったのだ。

僕がこのアルバムにふれたのは、11月の頭にナタリーで口口口の三浦康嗣さんといとうせいこうさんにインタビューさせていただくことがあって、その資料として聴かせてもらったのが最初だ。このインタビューは、会話の音が口口口によって録音され、三浦さんがそれを元に曲にしてくださった。つまり口口口の声に混じって僕の声がサンプリングされて使われているのだ。これが、すごく、すごい。とてもいい曲だし、このアルバムの思想を伝えている音楽なので、ぜひ聴いてください。

口口口がなぜこんなインタビューをやっているかというと、今回のアルバムの手法としてフィールドレコーディングを採り入れているからだ。つまり、室内や野外でテレコを回して録音した音をサンプリングソースとして使い、楽曲を作っている。電車の発車ベルをループにしてメロディを奏でたり、桶で水を汲む音を使ってビートを刻んだり、鳥の声をさまざまなピッチで鳴らしてシンセのような効果を生んだりしている。

さて、ここでフィールドレコーディングという手法は、一見するとこのアルバムにとってアーティストの「いまここ」、音楽の現場性を伝えるために機能しているように見える。ゼロ年代の音楽においては、また他のカルチャーにおいても、アーティストのナマの感情、ナマの実感、ナマの状況というものが大きな価値を持つようになっているから、このアルバムではフィールドレコーディングがそれを伝える仕掛けとして働いているようだ。

しかしここで注意すべきなのは、口口口はデビュー当初から単なる現場主義は通過しているということだ。2004年のファーストアルバム「口口口」とセカンドアルバム「ファンファーレ」の二枚、これらの極めてポップなアルバムによって、彼らは90年代後半からゼロ年代初頭にかけて先鋭的なリスナーやミュージシャンが選択した抽象性――たとえばそれは「アブストラクト」とか「音響派」のようなジャンル名に象徴される――に異を唱える。その抽象性とは大文字の「音楽」を維持して音楽の全体性がゼロ年代以降にも継続することを偽装するためのものだったが、それが隘路であり、かえって作品の射程をどんどん狭めていることは明らかだった。口口口はそれを批判して90年代を完全に終わらせるために、バンドスタイルで「アーティストの等身大」に見えるポップスという具体性を示したのだ。それが2004年だった。

だから、2009年末であるいま、口口口のフィールドレコーディングを指して、これは現場性を表現したアルバムだなどと単に言ってはいけない。我々は本当に注意深くあるべきで、ここではむしろ、ゼロ年代が現場性を重視したことに対する批評が行われていると見るべきである。つまり口口口は、録音されたものは本来、現場そのものと一致させられないというシンプルな事実に我々を立ち返らせようとする。彼らはフィールドレコーディングによって集められた音源を、すべて楽曲を構成する素材としてしか見ていない。そこにはソースが内包する空気感(現場性)やリスペクトの意識が重視された従来のサンプリングに対する意識と真逆であるかのようだ。彼らはソースを徹底的に切り刻み、別の意味づけを行い、別の文脈を作り上げることに躊躇しない。

ところが、口口口はそうすることで楽曲の現場性を否定するわけではない。彼らは電車の音によって東京という都市に生きることを、水の音によって温泉のレイドバック感を、卒業式の音によって青春の切なさを、全く豊かに表現している。それは偽装されたものではなく、やはりメンバーの実感として間違いなくそこに存在している。彼らは編集された音源からエモーションが立ち上ることを否定していない。言い換えれば、現場性やエモーションは作品に本来的に宿るわけではなく、ポップスを成り立たせる編集課程によってこそついに生み出されるのだと熟知している。口口口はここで現場性や感傷への安易な傾倒を慎重に退けつつ、誠実にそれらを立ち上らせようとするのだ。

このアルバムは、それをダイレクトに表現している。それはゼロ年代の現場主義に対する批評であり、彼らがこれまでリリースしたすべてのアルバムへの批評でもある。そしてなお、ゼロ年代後半からの表現、今やあと数日で始まろうとしている10年代前半の表現にとって、この編集への意識というものが一つの鍵となるだろうことを、高らかに宣言している。

2009.12.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

さて、劇場で見てから一ヶ月以上経って、ようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について書くことができる。この一ヶ月の間に「破」については多くの意見が交換されたと思うが、僕は忙しくてあんまり見ていない。でも二次創作的だと言われているという意見をちらりと伝え聞いて、これはそんなに単純なものではないだろうと思った。では何なのか。それを、例によって今からこの文章を書きながら、考えてみたい。ただまあ、おそらく、僕の意見はこの作品を見た一ヶ月前から変わっていない。最初に僕が思ったのは鶴巻和哉がやってくれたんだということで、これは本当にすごい作品だ、ということだ。

「破」が二次創作的だという意見に対して、僕は「序」が既にそうだったというしかない。「rebuild」の「re」に込められていた反復の含意はそういうことである。旧エヴァという母体を王道の物語へと焼き直す態度はそうであった。さらに、もともと旧エヴァという作品自体が、ロボットアニメの、あるいはアニメそのものの二次創作しか描くことができないという断念からスタートしたものではなかったか。根底にアニメ的なものしか持たないモノが、それを際限なく過剰にしていくことで現実を突きつけようという作品だったのだ。だから、「破」こそは二次創作的であるという指摘はほとんど何も言っていないに等しい。ならばこの「破」とは、「re」などという反復で象徴できるようなものではないのではないのか。「破」の一字によって破壊、破綻、破産、破滅させられるものとは、やはりエヴァンゲリオンそのものなのだと思う。「序」において、しっかりとワンダバ式に盛り上げられていくヤシマ作戦や、前向きに生きるシンジの姿によって、我々は確かに王道の物語としてのエヴァンゲリオンの再話を見た。我々はそれを二次創作だと呼んでいい。「本来ありうべきだったエヴァンゲリオンを作っているのだからそうではない」というのなら、もちろん誤りである。

しかし、「破」は「序」を引き継いで同じ事をやっているとは全く言えない。むしろ、ドラマに着目すれば「序」「破」はたしかに同位相にあるのだと言っていい。だからこそ、この「破」が何かを壊したと感じさせるならば、それはドラマには全くないし、今そこを見続けてもしかたがないのである。シンジやアスカがゼロ年代的な主体性を見せているということは、むろんドラマにとって重要なことに違いない。それは疑う余地がないことだ。しかし、僕は言ってしまおう。「破」というフィルムにおいて、それはもう、物語がループを繰り返しているか否かとか、ゲンドウのセリフの元ネタがなんだとか、この物語を楽しむ上で皆が欠かすことのできない「謎解き」と同列になっていて、ともに「破」がいま何をやっているかということにとっては、あまり重要なことではない。

「序」の前口上として庵野秀明は、旧エヴァ以来、新しいアニメはなかったと述べたが、しかし後にエヴァが直面した二次創作しか描くことができないという断念を受け継いだ上でロボットアニメはなお前進してきたし、それはほかでもないガイナックスの「トップをねらえ2!」や「グレンラガン」において、輝かしい達成を見せている。だからこそ、「破」においては、旧エヴァが経験していないものがあからさまに作品に介入させられている。旧型プラグスーツの丸みを帯びたデザインや、対照的に鋭さを強調する仮設五号機のデザインは、あきらかに「旧エヴァ」より後の時代に我々が経験したガイナックスのロボットアニメ作品、たとえば「トップをねらえ2!」の系譜にあるものとして見ることができる。旧エヴァ視聴者にとって「新しいもの」として現れる「旧型」のプラグスーツは、エヴァが王道の物語として再話されることを示唆しながら、しかしそのデザインによって既に先行した存在があるということをも訴えている。アスカがテストプラグスーツを着ている瞬間に、ドラマの上でゼロ年代的な主体性を見せることなど、いわば当然のことなのである。

このように、「破」においては、とにかく視覚のうえでは至る所で旧エヴァを追い詰めようという策略が展開されている。たとえば「序」が忠実に繰り返した例の極太明朝のスーパーインポーズを取り払っていることにも「トップをねらえ!」に対した「トップをねらえ2!」に通ずるものを感じる。しかし、このスキームの頂点にいるのはやはり新キャラクターであるマリである。

彼女はその運動のすべてが旧エヴァ以降のもので、フィルムにおいてほとんど別レイヤ上の存在のようにすら見える。旧エヴァを破綻させるために彼女がやるべきなのは、ただその場で動くだけでいい。彼女が口の端をよく動かして嘲笑うさまは、旧エヴァで「チャーンス」と笑ったアスカと全く別の位相で響く。マリの豊満な胸の運動はこのくらいのアニメ的な想像力に導かれており、旧エヴァ第壱話からあれほど視聴者が注意喚起を促されたミサトの胸を生身の女性のそれに引きずり下ろす。ゼロ年代アニメの存在である彼女が動き、話すたびに、アニメであることを突き詰めていたはずの旧エヴァの登場人物はどんどん過剰さを失い、反面にスキニーな実体らしさまでもを露呈してしまうのだ。カヲルは「序」に引き続き今作でも物語の外部を暗示するようなセリフをいくつか述べたが、しかしマリの登場によって彼の危うさは相対的に失われていく。カヲルのメタフィクション性は観客にとってそれ自体がフィクション内部の娯楽装置として受け入れられてしまう段階にある。言うなればカヲルは作品が虚構であることを観客に強く意識させようとなどしないのである。ここでメタフィクションは既にフィクションを食い破ってなどいない。カヲルは言葉によってメタフィクションを暗示し、それ故にドラマの上でしかメタ的でない存在だが、しかしマリはセリフの上では何一つ暗示せずに、しかし物語全体を嘲笑う、真の意味で物語の外部に立つ存在なのだ。

ほかに。旧エヴァに存在したカットが、構図を複製され、しかし描き改められ、その上で全く別の文脈でドラマに挿入させられていることに注目したい。例えばシンジが屋上で上を見上げるシーンや、レイが特攻するシーンにおいて、フィルムが伝えようとした状況、そして重要なのはエモーションが完全に別のものに置き換えられている。ここで行われているのはもはや単なる二次創作ではない。月並みな言葉になってしまうが、MAD的なものが働いている。しかしそれ以上であるようだ。シーンを作り直すだけならば「序」のようにしてやればいいのだ。みんなの知っているあのシーンの絵を描き改めましたというだけならばリメイク(re)作品だと自然に言うことができる。しかし「破」は、旧エヴァのすべて、テレビも映画もゲームもパチンコも、そのすべてを使用可能なリソースとして認識し、自由に要素を抜き出して思うままに旧作の中に忍び込ませながら、エヴァという歴史を捏造している。旧作の設定に依拠しながら別の物語を組み上げる二次創作とは違うし、旧作から映像や音声を抜き出して文脈を成立させるMADとも違うことをやっているようだ。しかもオフィシャルな作り手にしかできないそれを、意図的にやっている。

僕が唐突に思い出したのは三国志のことだった。三国志は、三国志演義がたいへん有名であり定本のように扱われているが、しかし実際のところ何が正史なのかははっきりしない。そして、今や夥しい数の三国志が、勝手気ままに創造されている。しかしそれらを見て、我々は「三国志の二次創作だ」などと考えたりはしない。三国志の一次創作物が何なのかということ、さらにいえば史実がどうであったかということすら、我々には何の関係も持たない。「破」によってエヴァにもたらされたのは、おそらくそのような事態だ。その意味で、「破」もマリも、エヴァを簒奪しようと目論んでなどはいない。「正史」は単に消滅する。そして、新劇場版の描く「偽史」が幕を閉じるころ、我々の時間は劇中と同じ2015年に追いつくだろう。これはうまくできている。

ところで、しかし、むろんこのフィルムに庵野秀明の「らしさ」はあまり感じなくて、次には彼が、本当に破綻させるということはどういうことなのか教えてくれるのかもしれない。僕はそれを待っているだろうか。僕は「破」に満足しているので、分からない。しかし、それでも、次にも何かのショッキングなものを期待してしまう。今回の劇中曲のような、あの狂った気恥ずかしいスタイルでしか味わえないものは、確かにあるのだ。

2009.08.05 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [映像

進行方向別通行区分「理論武装」

進行方向別通行区分を聴いていたら気持ちが戻ってきた。

さて、折を見て詳しく書きたいですが「Quick Japan84」で「'95」という連載を始めました。僕は長いものを書き始める前に「今から書くのはこういう内容です」ということを絶対に言わないのですが、今回はちょっとだけ書きます。なぜ書くかというと、僕はこの連載に対して非常にマジメな気分だからです。

まず、この連載は橋本治「89」を強く意識して書いています。逆に言えば「89」を読めば僕が何をしようとしているかはほとんど分かりそうなものですが、読むのが面倒な方は今売っている「小説トリッパー」の橋本治インタビューを読むとだいたいどういう本だったのか分かると思います。次にこの連載は、僕がここ10年くらい書いたもののほとんどすべてが要素として組み込まれることになると思います。しかしだからといってこの連載が別に僕がいままで書いたものの中で一番難しいとか長いとかヘンだとかまともだとかっていうわけでは全然ないので、お気になさらずに。……という文章自体、「89」へのオマージュです。第三に、タイトルから想像できると思いますがこれは1995年について書いています。しかし実際に僕が書こうとしているのはむしろ現在の状況についてであって、懐古的なものを目指さないことにしています。どちらかというと僕はこの本を95年にゼロ歳だった人、5歳だった人、そしてもちろん14歳だった人、などなど、そういう人のことのことばかり考えながら書いています。今載っているのは導入の導入みたいな内容で、まだ何も言っていないに等しいのですが、ついでに書くと、僕は1995年を単に切断線として指摘するロジックにかなり飽きているので、違ったものを書こうとしています。ちなみに第一回では、渋谷系からテクノに至る90年代前半とゼロ年代を一連の流れで語れるように、小室哲哉と90年代後半のビジュアル系と椎名林檎の位置づけを再定義しようとしています。ともあれ誌面とのバランスを考えながら、連載では細かな検証よりも多様なトピックに触れていこうと思っています。連載タイトルには批評と書いてありますが、しかしこれは僕が自分の書くものの中でもっとも使いやすい文体を使っていて、だから僕が思う評論や批評とは違った書き方をしています。

さて僕が「自分は今これについてブログに書こう」と思った進行方向別通行区分について。これは表現の興味が異化作用に集中しているという意味では、僕にとってまったく現代詩と同じ興奮をもたらすバンドになる。それは歌詞が現代詩として読めるということではない。それもあるが、しかし言葉のレベルだけではなく、バンドのパフォーマンスの全体が違和感を起こすフックとして選ばれている。それで僕は「現代詩的なバンド」と思ったのだ。

しかしもちろん、分かりやすいのは歌詞を参照することではある。

貴乃花
若乃花
抱きしめる
貴花田
若花田
キスをした

これはもっとも笑いに近い例だが、このバンドの言葉は基本的にこれである。ここには生の実感や感情の表出はない。卑近な固有名詞と素朴な恋愛感情が押韻を伴って連呼されるとき、そこには言葉に操作を与えてやろうという歪さと禍禍しさしかない。彼らの地名と人名への固執は、あまりにも言葉そのものに対して自覚的でありすぎる。

八王子 下から読んだら何かが見える
天王寺 下から読んだら何かが分かる
吉祥寺 逆から読んだら何かが変わる
本能寺 逆から読んだら何かが起こる

これはほとんど「コトバを連呼するとどうなる」と言われているに等しい。

コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
たいへんなことが起きる

ところで藤井貞和の「コトバを連呼するとどうなる」(『枯れ葉剤』)だが、ASA-CHANG&巡礼のニューアルバムの一曲目がこれだった。Amazonで試聴できる。アルバムタイトルになっている「影のないヒト」はMySpaceで聴いた限りでは僕には「花」からの発展を信じることができなかった。これはこれで素晴らしいものなのだが、ここに「花」の驚き(これもMySpaceで聴けるので未聴の方は発表順に聴いてみるのがおすすめ)が残っているかと言ったらそうではないと思う。むしろデカダンスへの傾倒がわかりやすく目立ってしまう。

しかし、進行方向別通行区分は、上に引用したような句の直後に「隣のあの娘はマシンガン」という乱暴なコーラスを交えてしまう。この曲のタイトルが「理論武装」というのも示唆的である。彼らは異化のアプローチが一定の成果を上げることを認めながらも、ペダンティックな態度とともに予定調和に終始すると判断しているわけである。彼らは「下から読んだら何かが分かる」などということを本当は信じていない。しかしリフレインと「たいへんなことが起こる」という具体性の欠如をもって言葉を批評的にとどまらせる段階にもない。それすらを相対化して乗り越える言葉を持ち込もうとする。繰り返しになるが、その姿勢は言葉だけにとどまらない。もちろん彼らが20回近くの「解散ライブ」を行っていること自体も表現の一端としてあるが、動画があるので、ぜひ見てほしい。

言うこと聞かない悪い子はおしおきされた
坂井の前歯は白い雪のように
坂井の前歯は白い雪のように
坂井の前歯は白い雪のように
坂井の前歯は白い雪のように
Wow Wow Love And Peace
Wow Wow 愛が地球を救う
Wow Wow Love And Peace
Wow Wow 愛が地球を救う

センチメンタルになまはげの話を歌ったと思ったら「愛が地球を救う」と連呼して両腕を宙に漂わせるのだ。言葉とアレンジとライブパフォーマンスが一体となって表現される、その異形の接合の生々しさ。進行方向別通行区分による現代詩の体現とはここにあって、それは彼らが異化という効果そのものであろうとしているということであり、見るたびに驚かされる。

2009.06.22 | | コメント(1) | トラックバック(0) | [音楽] [文章

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