先日「シベリア少女鉄道の再放送」を見に行って、それが大変面白かったのでそのことを書きたい。
もともと僕はこのブログでは、演劇や音楽イベントなど、ライブパフォーマンスに類するものはなるべく扱わないことにしている。単に収拾が付かなくなってしまうというのがその最も大きな理由で、それをやり出すと、たとえば僕はカポエイラの見せる虚構の素晴らしさについてなど、熱心に語り出したくなってしまう。ぜひそうしてしまいたくなるだろう。しかし、やはり調子に乗って何でもかんでも語ることなく、このブログはあるべきだろう。ということから、演劇のようなライブ性の高いものは扱っていない。だが「シベリア少女鉄道の再放送」はビデオ上演だったこともあるから、それを言い訳に、せっかく興味深い内容だったのでここに紹介したい。どこまでうまくこの演劇について語れるかは不明だが、やってみたいと思う。
僕がこれを見たのは先日、西島大介君に会ったときに僕が「こういう小説が書いてみたい」と話したところ、「それが描こうとしているものはシベリア少女鉄道に少し似ているかもしれない」と教えてもらい、並々ならぬ興味を持ったからだ。実際、僕が西島君に語った内容と符合する部分もあれば、そうでない部分もあったが、しかし仕掛けとして持っていたものは確かに酷似していた。今回、僕が見たのは「残酷な神が支配する」だ。この作品はミステリである。小説としてのミステリの用語に沿った言い方をすれば、これは演劇として叙述トリック行ったものであると言っていいだろう。しかしこれは、観客から隠された要素を持つようなもの、たとえば登場人物たちにとって自明である人間関係が最後の瞬間まで説明されないことによってトリックを成り立たせるようなものとは異なる。なぜなら、そのようなものはまさに叙述によるトリック、つまり結局は小説というメディアによってもまた可能なものだ。それをそのまま台本に書くことは不可能ではないし、またそれを演じることは不可能ではないが、ただ読者としてその台本を読んでも同じトリックを体験可能ならば、「演劇として叙述トリックである」とは呼べないだろう。
「残酷な神が支配する」は演劇において叙述としてあるもの、物語の進行を担う部分をトリックとして採用した。それはつまり舞台装置であり、演劇の場面転換そのものである。この劇は回転するラウンドテーブルを三カ所に仕切った舞台で演じられる。仕切られた場所のそれぞれが二面を壁として持つ扇型の舞台になっており、場面転換はこのラウンドテーブルが回転することによって行われる。それぞれの場面はいずれも大学の中の一部屋という設定になっていて、一カ所は部室、一カ所はカフェテリア、そしていま一つはシステム管理室という具合だ。それぞれの部屋の両壁には扉が付けられており、それは部室においては片方が「入り口」、もう一方は「ロッカーの扉」ということになっている。同じくカフェテリアでは扉は「入り口」と「トイレへの扉」として、そしてシステム管理室では、「入り口」と「奥の部屋への扉」としてある。僕の拙い説明ではだいぶ理解していただけるか怪しくなってきたので、仕方なく図版を示すことにする(本当は図版を作ることの方がずっと不得手なので、できれば描きたくなかったのだが)。その舞台とはこういうものである。
さてこの舞台において、扉はお互いに反対側から見れば、別の場面における「別の意味を持った扉」である。つまり部室において「入り口」であるものは、システム管理室から見れば「奥の部屋への扉」である。そしてまたシステム管理室の「入り口」は、カフェテリアにとっての「トイレへの扉」である。以下、同様にカフェテリアの「入り口」は、部室では「ロッカーの扉」としてある。役者たちは、このルールに沿って舞台に現れ、また捌けていくのだが、このミステリの「犯人」はその扉のルール自体をトリックとして使ってしまう。「ロッカーの中に人質を閉じこめるためには大学構内を移動して部室に行かなければならない」というお約束を無視して、「カフェテリアの入り口」を「ロッカーの扉」として使ってしまうのである。
ところが登場人物たちがそのトリックに気づく頃、事態はさらに混乱してしまう。「数時間前の回想シーン」が突発的に行われることで危機を脱したり、突如として舞台の外部にアントニオ猪木が映し出されたビデオスクリーンが登場し、猪木の挙動に合わせて(物語の進行を離れて)ラウンドテーブルが左右に回転してしまう。しかもそのスクリーンにうっかり接触することによって物語のキーとなるアイテムを「舞台の外部」へと取り落としてしまったりと、面倒なことが次々に起こるのだ。ここで役者が状況としておかれるメタフィクションは、すべてを喜劇へと導いてしまう。最後にはラウンドテーブルが回転を止めなくなり、役者たちはそれでも舞台の上で定型的な物語としてのミステリの台詞をしゃべり続けるために、仕方なく、まるでレコードの上の針のようにその場で行進しながら話し始める。人々はゾロゾロと、本来は別々の場所としてあるはずの部屋から部屋へ移動しながら(むしろ移動しているのは部屋の方だが)演技を続けなければならなくなるのだ。「残酷な神」としての舞台装置が「演劇」の進行を支配する中で、もはや全く「物語」の進行は成り立たなくなる。
メタフィクションが演劇に見られるのは必ずしも珍しいことではない。「第四の壁を破る」というような言葉は僕でも知っているし、「観客に見られている」ことに登場人物が気づく作品も多々ある。従ってメタフィクションという手法自体は演劇において、ありふれたものだと言ってもいいだろう。登場人物が物語を進行させようとする努力がついに失敗に終わるという点でも、それはまたメタフィクションにとって典型的なものである。しかし「残酷な神が支配する」がほかの作品と異なるのは、作品がそのメタフィクションによって演劇とは何か、現実とは何かという批評性を発現させないように働くことだと僕は思う。メタフィクションとは観客に対して、自分が演劇を見ているのだということを強く意識させる。それゆえ、たとえばこの演劇は、それが描く世界が実は外部的な「演出」によって成り立っているということをもとに「何一つ自分の思い通りには進行しないという現実」を描くという結構の付け方もできた。しかしこの作品のメタフィクション性は、メタ的な演劇がそのような形で批評的に語られうるということ自体も織り込み済みにして、雪崩式に演劇のすべてを破壊し、物語でも演劇でもないものにしてしまい、舞台の上はまさにグダグダになってしまう。最後にミステリの台詞を一通り語り終わり、役者が「もう何も言うことないわ」と言っても、なおラウンドテーブルは回り続けてしまう。この神はそこまで残酷である。せめて、この演劇のメタフィクションを批評的に語るとすれば次のようにしか言いようがないだろう。すなわち、現実なんてグダグダなものだ。それはつまり、現実とは「何一つ自分の思い通りには進行しない」ということもまた必ずしも言えないものだということである。だからこの演劇は、その「現実」をアイロニーやペシミズムには向かわせない。そこに生きる人々の焦燥と混乱を、ただ愛情深く笑い飛ばそうとする。
2008.07.03 |
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東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。
僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味を感じている。
東浩紀はこの論考を、大塚英志の物語論を批判することから書き始めている。ここではごく簡単に説明するしかないが、それはつまりこういうことである。「物語消費論」を書いた93年頃までの大塚英志は、日本のフィクションが文学やマンガなどメディアを問わず結局は「現実は描けない」、逆に言えば物語しか書けないということを自らに認め、しかしその上でなお逆説的に現実を活写しようとするものだとしていた。そして、とりわけ困難な条件の下にその挑戦を続けるのがマンガやアニメのリアリズムであり、それは自然主義から連なる文学などのフィクションと同等に価値あるものであるとして説いていた。東浩紀はこの大塚英志の立場を「物語擁護」の姿勢であったとしている。しかし近年、具体的には2003年に「キャラクター小説の作り方」において、大塚英志は「ゲーム的な小説」について、テーブルトークRPGを例にしながら批判を行ったとされる。そこで語られる「ゲーム的な小説」とはまず次のようなものだ。
TRPGの物語は、特定の規則に則って有限の要素を組み合わせることで生まれる。したがって、そこで語られる物語は、装飾的な細部がいくら多様で複雑であろうとも、基本的には予想を超えることはない。主人公はヒロインを救い出すだろうし、強大な敵は打ち倒されるだろうし、世界の秘密は最後には明らかになるだろう。
上記の内容は大塚英志の言葉としてはこうある。「ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、ということを伝えておきたいのです」。つまり「ゲーム的な小説」は「物語の類型化」を招き、物語の想像力を衰退させるものだということだ。東浩紀はこの大塚英志の批判について、まず「物語の類型化」を、それが避けえないものとしていったん擁護する。「ゲーム的な小説」に限らず、神話から近代小説まで物語というものが煎じ詰めれば定型に収斂可能であることは自明のものとしてあることは広く理解されてきたからだ。その条件の下でなお「現実」を描く試みとしてあったとしてこそ、大塚英志は「物語擁護」を行っていたにもかかわらず、ゲームについてはその創造性を大塚英志は見出していないと東浩紀は書いている。すなわち彼の言葉では以下のようになる。
『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実にたどりつくことがない。
そこで、東浩紀は一つの疑問形から、彼の「ゲーム的リアリズム」への試みを開始する。
筆者の疑問は単純である。大塚はゲームの技法をTRPGで代表させ、類型化を免れえないものだと考え、そのライトノベルへの影響を否定的に捉えていた。しかしそれは正しいだろうか。
僕がいま問いたいのはこの一つの疑問である。東浩紀はそれにどのように答えていったか。まず彼は「ゲームという物語体験」の新しい形として、大塚英志の挙げたテーブルトークRPGではなく、ノベルゲームを例として提出する。そしてその構造分析をゲームというメディア全体に敷衍した形で次のように述べる。
ゲームにおける物語体験は、キャラクターが存在する物語世界(虚構)を充実させるだけでなく、プレイヤーが存在する世界(現実)を繰りこむことではじめて固有で単独的なものに変わる。
これはつまり、ゲームというものが物語と登場人物という虚構だけでなく、プレイヤーという物語外の存在の関与(ゲーム上での操作)、もしくは関与の不可能性(プレイヤーキャラクターを含む登場人物がときとしてプレイヤーの意志を離れて物語を進行させること)を内在させているという指摘である。すなわちゲームはあらかじめメタフィクションを誘発するような条件の下で成り立っているメディアであるとしたものである。「ONE」や「AIR」などの優れたノベルゲームが、彼にとってその具体例としてあるだろう。この指摘自体は全く間違いではない。しかし、このメタフィクション性の指摘のみをもって、東浩紀はつまりはゲームが「現実を描きうる」のだ、という言い方で当初の疑問に対する回答に代えてしまう。
ここでようやく、今書いているこのブログの記事において僕が指摘したい点に到達する。すなわち、ここで東浩紀は結局、ゲームも含めてフィクションは、やはりおしなべて現実を表象するからこそ価値があるのだとしてしまうのである。この回答は、実はまだ半分であるように僕は思う。なぜなら、ここでは物語が類型化を免れえないという課題については、ゲーム的リアリズムがそのメタフィクション性によって、まさにその課題自体をメタ的に指摘しうるものだという主張によってのみ解決されてしまうのである。ところが東浩紀は、その上で、あらゆる物語が類型化を免れえないことが現前した時代に作家が選ぶことが可能な態度は二つあるとして、その一つとは、作家が自分の物語が定型的なものに過ぎないことを理解した上で、商品としての物語を再生産するという方向性だとするのだ。
ジャンルや世代を問わず、いまや多くの作家が無意識にその方向を選択していると言える。純文学作家は純文学のデータベースを用いて純文学のファンに向けて、ミステリ作家はミステリのデータベースを用いてミステリのファンに向けて、アニメ作家はアニメのデータベースを用いてアニメのファンに向けて、それぞれ商品価値が高い「小さな物語」を提供する。そして、ときどき、そのいくつかがベストセラーになる。それが現代の物語消費の風景である。本論はその風景を批判するものではない。筆者もまた、それらの物語を享受し、笑ったり泣いたりして毎日を送っている。
東浩紀はこのような物語のあり方を言葉の上で認めながら、しかしそれをウェルメイドな再生産を目指すものに過ぎないものとして扱っているというのは否定できないことだろう。ここで彼は、作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする。ポストモダンにおける定型の物語の再生の課程については単に近代的な創作の延長であるとして、注意は払われないのだ。そして彼が批評家として関心を寄せるのは、作家の採りうべきもう一つの態度として述べられるもの、すなわち、彼が舞城王太郎
「九十九十九」や桜坂洋
「ALL YOU NEED IS KILL」に見出した、ゲーム的な物語がメタ的な視点によってポストモダン社会の「現実」の活写に到達するようなフィクションであるとされる。「メタリアル・フィクションの誕生」の結びとして彼は次のように書いている。
このような視点を手に入れたことで、私たちは今後、さまざまな作品にゲーム的リアリズムの可能性を発見することができるだろう。「ゲームのような小説」は、決して死を描けないわけではない。現実を否定するわけでもない。
彼が見出したゲーム的リアリズムは、確かにポストモダンにおけるフィクションの可能性の一つとしてあるし、一定の評価に値するものだろう。しかし、彼はついにフィクションは「現実」を描くものだという本来性を論拠にしながらその立場を確保している。ここで彼の批評は、現代に表出している作品群から批評に値するものとそうでないものを峻別し、その一方を捨てようとしているだけでなく、それは結局「人間が描けているか」などに代表される、文学論における純文学とエンタテインメントの峻別の構図に類似してしまっていないだろうか。
そこで我々は東浩紀の最初の疑問に立ち返らなければならない。いや、もっと言えば大塚英志の「ゲームのような小説」に対する批判へと戻らなくてはならない。
ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない
このような物語は、結果としていまフィクションの可能性を狭めているだろうか。それは単にウェルメイドな再生産としてのみ、単なる商品としてのみあるのだろうか。しばしばベストセラーとして登場するそれらを、ケータイ小説を、「らき☆すた」を、ウンコをしないアイドルへの絶対的な愛情を、奈須きのこを、武道館や紅白歌合戦という大時代的な成功を目指すPerfumeに抱かれる感動を、相対性理論やかつての□□□が見せた過去の作品のデータベースからの奔放な参照を、批評は語る必要がないのだろうか。レビューは、それを一笑に付すものだとすることができるだろうか。また僕らがインターネットで作品を語るときに、ある作品への評価を、単なるランキングやマッピングの素材として片付けるべきなのだろうか。
僕はそうは思わない。ポストモダンがあらゆる事物の相対化に達したならば、我々がその状況をいま受け入れて生活していくとするならば、その状況下で他者がさまざまな作品に対して愛情を投げかけているということを我々は肯定するべきである。そのための言葉を我々は模索しなければならない。他者の愛情をおおらかに肯定するために機能する言葉を探さねばならない。しかし、それが東浩紀に突きつけられるべき問題としてはないのも、またポストモダンにおける事実である。それは、我々の一人一人に与えられた課題であるはずだ。
最後に一つの例を挙げよう。「Fateは文学」という言葉がある。これを
はてなダイアリーのキーワードは、単に熱烈なファンによる過剰評価として説明している。文学とそうでないものは、悪びれもせずにより分けられようとしている。そして誰かがそのような形で愛情を語ったときに、彼を擁護する言葉が何もないということを、我々は、そろそろ遅まきにも認識するべきだ。
2008.06.24 |
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「思想地図 vol.1」において、個人的に面白かったのは福嶋亮大による中国のライトノベル状況に関する考察と、韓東賢による「朝鮮学校はヤバい」という伝説から始まる議論だった。前者は僕がしばしば好む「自分の知らないところで何かが起こっている」ということについてのレポートであり、後者は90年代に社会学を楽しんだ僕としては見逃すことのできない現代のフォークロアから始まる話だったので、楽しかったのだ。
しかし最も考えさせられたのは黒瀬陽平による公募論文だった。僕はここで彼が書いているアニメ表現論は優れたものだと思うし、いま書かれるべきものとして正しいと思う。しかし、僕が注目させられたのは彼が自ら表現論を展開する動機として書いている内容だった。それは、現在のアニメ批評に表現論がなく、物語論だけが氾濫しているため「萌えアニメ」のようなものを扱えずに批評は停滞しているのではないかというものだ。黒瀬陽平の整理によると、九五年の「エヴァ」以降、物語の構造を分析する物語論的な批評がアニメでは優勢となり、〇二年の「ほしのこえ」をピークにして以後失速する。指摘されているのは、東浩紀のエヴァ論が、その作品じたいが持つメタフィクション的な構造を指摘することをもって、物語論によって表現論をも語ることを可能にしている、ということである。しかし注意すべきなのはここで黒瀬陽平は、この東浩紀によるエヴァ論のあり方が失策であると指摘しているのではなく、むしろその後アニメ評論の系譜として作品の(メタ)構造を指摘するという物語論だけが残り、結果としてアニメというメディアこそを条件として成り立つ批評性、すなわち表現論は後退した、としている点だ。彼は次のように書いている。
東がアニメにおけるメタフィクションを論じるとき、その背後には必ず八〇年代の押井的なメタフィクション性が、とりわけ『うる星やつら2』の存在があった。東のエヴァ論を物語論としてのみ読むのなら、『エヴァ』の分析を通して、押井的メタフィクションを特権的なものとする日本アニメ史があらわれてくるだろう。
事実、東のエヴァ論はそのように読まれていたと考えてよい。なぜなら、「ポスト・エヴァ」のアニメとして『ほしのこえ』から「セカイ系」を見出す視線そのものが、東の持っていた「メタフィクション志向」を象徴するものだったからである。
僕は東浩紀がこのような書き方を選んだことについて、彼がポストモダニストらしくエヴァのメタフィクション性を正しく指摘したのだと思う。そのあり方は、虚構がそれ自体によって破綻する瞬間に作品は「現実」を表象するという、かつてポストモダンの批評がメタフィクションを語った際に多く見られた語り口として馴染み深いものなのだ。だが僕もまた、黒瀬陽平と同じく、東浩紀によるこの議論のやり方が誤りであるというわけでは全くない。しかしメタ的な構造を持った作品こそが90年代後半という「現実」を活写したのだとすることで批評となすという、この姿勢が受け入れられたとき、「アニメは現代社会の現実を描くものであり、批評は作品からそれを抽出することをもってなされるべきだ」という理解が一般化してしまったとは考えられないだろうか。エヴァは「碇シンジは僕だ」という言葉に代表されるように一般消費者にとって、またアニメについて語る者にとって現実の問題と関連付けて語る親和性があまりに高くあった。そこからアニメは、またアニメについて語ることは、つまり現実について語ることなのだという流れは強化されていったのではないかと僕は思う。
つまり黒瀬陽平が「押井的メタフィクションを特権的なものとする日本アニメ史」として指摘するものは、アニメを語ろうとする者がいま、ポストモダンの批評におなじみにある「メタフィクション性から現実社会の問題を指摘する」というパターン化が可能な作品のみを批評の対象としたがっている、ということである。それはまさしく、今月号の
「ユリイカ」において伊藤剛が、まさに東浩紀に対して対談で指摘した内容であるように思う。132ページを見よう。
伊藤 (中略)『m9』では紙屋高雪さんが『闇金ウシジマくん』を通して下層社会について考えようといった原稿を書かれているんですけど、僕はそれに対して論難しようというのではないんです。ただ、「マンガを通して社会を知る」という素朴な社会反映論的な構えこそが社会に開かれた「批評」であるというのは違うのではないか、ということは言っておきたいんですね。
東 そういうのは昔からあるから、一概に否定するつもりはないですけど。
伊藤 もちろん、「社会反映論」がいけないと言っているのではなくって。マンガ評論という文脈で問題にしたいのは「社会反映論対表現論」という二項対立に陥ってしまうのがまずいということです。これは夏目(房之介)さんの登場以降できた図式とも言えるんですが、つまり九二年の『手塚治虫はどこにいる』で、それまでのマンガ評論がマンガに反映された社会の諸問題を読み解くということをやっていたのに対し、マンガ自体に内在する表現の法則をいったん取り出すという作業を経由しないと、社会を論じるにしても間違いを冒してしまうのではないか、ということを言い、「表現論」という言葉を使い始めた。さらに(引用者註:「しかし」?)夏目さん自身が、九七年の『マンガと「戦争」』という本で、戦後の日本マンガと戦争という問題系について考察しているんだけれども、ここで「表現論という枠組みではうまくいかなかった」と自分で言ってしまっている。(中略)「表現論」は社会の現実から離れて表現の中に沈潜していく態度であるととらえられがちになったんですね。そうした「表現論」への反発として、紙屋さんのような素朴反映論が歓迎されている部分はあると思うんですよ。
僕は反映論と表現論は矛盾なく接続しうるものであると考えていて、実際に『テヅカ・イズ・デッド』の第二章でそういうことを書いた。つまり、それは全体をシステムとして捉えるということで、社会は作家にとって環境である、でも、作家というサブシステムにとって、社会だけが環境のすべてなのではなくて、もうひとつジャンルという環境もあるはずで、執筆においてその両方が参照されるだろうということなんです。
東 伊藤さんが言っているのは、社会が表現に対して影響を与えるのは内容ではなくて形式だということですね。それもまた昔から言われていることで、ごくシンプルに言えばこういう考え方です。内容は作者が意識して作る。だからむしろ社会反映論では説明できない。けれども形式は無意識で作られる。つまり、作者のおかれた条件が、作者の意識を経由しないで反映している。したがってそこでは社会反映論が機能する。批評は作者の無意識まで降りていき、そこで社会に出会う。要は、批評は、作者がなにを考えて作品を作ったとか、作者がなにを描きたかったかなんて、最初から相手にしていない。精神分析でも記号論でも二〇世紀以降の作品研究は基本的にそういう立場なはずですが、実際にはこのレベルまで行くと高度な話になるようで普及していない。そこで一般的には、この作品はニートの主人公が出てくるから格差社会の現実を描いているよね、という通俗的、というか「それってそのまんまじゃん」的な読解が批評だと見なされ続けている。
伊藤 そういうわかりやすい話だけじゃまずくない?というのが僕の立場です。(後略)
ここで大切なのは、これは、ここで語られているマンガや、また黒瀬陽平が指摘したアニメに限った話ではないということである。我々は批評において、レビューにおいて、作品を語ろうとするあらゆる環境において、いま「作品が現実を語っているか」ということをもってその作品を評価しようとする。そのこと自体が、必ずしも問題なのではないと僕は思う。なぜなら批評が1つの側面として、作品から現実問題を見出すというのは否定し得ないことだからだ。しかし、繰り返すが、我々が批評において、レビューにおいて、作品を語り合うあらゆる環境において、つまり、例えばいまインターネットにおいて、ある作品が現実問題を語っているから「こそ」、その作品は評価されるのであり、評価軸はただそこだけに限定され、そして現実の問題に寄り添わない作品は唾棄すべきものだと考えるならそれは間違いなのだ。
しかしまた僕は、伊藤剛や黒瀬陽平が表現論に見せる積極性とはまた違った論点を持ちたい。先ほどの引用において黒瀬陽平は、「ほしのこえ」から「セカイ系」を見出す視線そのものが「メタフィクション志向」を象徴するのだと指摘して、現在の物語論の優位を語っている。逆に言えば彼は、現在において物語論はメタフィクション的な作品から現実を見出すというポストモダンの批評にありがちなものとしてのみあるとしているのである。僕は、
先日も書いたようにこれは物語論としてもまた十全なものではないと思うのだ。エヴァという反物語からいかにして2008年の状況に至るのかということを考えたときに、物語論は「ほしのこえ」などのセカイ系は「定型の物語の回復の過程」としてあるという視点を持ってよいし、物語論として正確にあるならばそうでなければならない。なぜなら、黒瀬陽平の指摘したものだけが今日の物語論として可能であるならば、それこそ物語論は「らき☆すた」などの「萌え系」の作品を扱えなくなるし、また僕が先日書いたように奈須きのこのようなエンタテインメントが現在において人気を博している事態を黙殺せざるをえなくなる。そして、それは実際にいま起こっていることなのだ。
物語論が「現実」を見出すものとしてあるという状況と、僕が先日来あちこちで書いている「定型の物語の回復」というテーマについては、もう少しだけ考察できる部分がある。それもまたやはり東浩紀の記述から、彼が「セカイ系」の時代にまさに「メタリアルフィクションの誕生」という題で行った論考から導き出されるものだ。しかしここでいったん記事を終えて、それについてはまた改めよう。
2008.06.23 |
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「ディエンビエンフー」は非常に面白い。どのくらい面白いかというと、1・2巻が同時発売されたときにあまりに面白かったので、読み終わってすぐにその足で続きが載っている「IKKI」を買いに走ったほどだ。その続きというのがまたすごくいいシーンで、それがすなわち今回発売された3巻の冒頭にあたる部分だ。44ページの、大ナタを振るうトン将軍の絵なんて超マンガだ。このコマの「いいのかな? 俺様に抜かせて。」という見得の切り方にはマンガの外連味がある。ようやく、以前「角川版ディエンビエンフー」で描かれた内容を越えて、今IKKI版の「ディエンビエンフー」で西島大介がやろうとしていることは、はっきりしつつある。彼はここで少年マンガをやろうとしている。もっと言えば、面白いのは彼が、みんなが注目し渇望する「ジャンプ」ではなく、なぜか「少年チャンピオン」的な要素をも取り込もうとしているところだ。2巻冒頭のお姫さま対カリフラワー戦の「360度全方位爆弾」などでそれは顕著に見られる。
死角なし。
回避不能。
360度全方位からの
クレイモア地雷の雨。
700発×36個=
2万5200発。
この数字の過剰さは間違いなく「バキ」や「覚悟のススメ」が持っているそれだと僕は思う。これは意味としては「絶対に避けられません」ということであって、それは少年チャンピオン的な数字のインフレーションによる「絶体絶命」感の演出に多く見いだせるものだろう。それは西島大介の洗練された(指弦を操るカリフラワーの指先のコマに凝縮されたジャズレコードのジャケットのようなクールネスを見たまえ)絵と相まって非常にカッコいいシーンになっている。
この見開きは平衡感覚が大幅に崩された動きの大きいものになっている。似たような見開きは「モーニング2」で先日完結した「世界の終わりの魔法使い 小さな王子さま」でも見られた。西島大介は最近、このような歪められた全景図のカッコよさを多く描くようになっている。かつてイラストレーターとしての彼の仕事では、どちらかというと平地を正確なパースに従って描き、そこに細密なテクスチャを載せていくようなものが多かったはずだ。おそらく彼は
「アトモスフィア」のラストで平面的な(でしかない)ものとしてコマ内を描く彼自身のやり方を超越してから、このような歪んだコマを多く描くようになったのではないだろうか。ぜひ付け加えておきたいが、「アトモスフィア」のラストシーンは、西島大介が平面として認識されすぎる自分の絵を逆手にとって、マンガのコマについて表現論的な批評性を見せ、さらにシミュラークルからなるマンガという(反)物語論の問題までにも1つの結論を付けている。この達成があったからこそ、彼は以後、あれほどの批評性を持った作品をずっと描いていない。おそらく今のところ、到達点としての「アトモスフィア」を直接に受け継ぐものを描く理由がないのだろう。いずれにせよ「アトモスフィア」はマンガ読者を自認する人すべてにぜひ読んでもらいたい傑作だと僕は思う。
「ディエンビエンフー」の話に戻る。西島大介がいわゆるリアリスティックな戦争マンガを描こうとしていないのは明白で、彼は「遠くにあって決して到達できない」という現代的にリアルな戦争を、少年マンガの「存在しない」リアリズムに結びつけた。だからこのマンガで人を切ればゴム人形のように輪切りにされるし、マシンガンの弾はナイフ一本ですべてはね返されることが可能なのだ。そして3巻では強力なキャラクターが次々に登場し、読者をまるで「バキ」のように単純にプロレス的な「強さ議論」へと誘う。ここで彼はバトルを見せるから、読者に楽しんでもらいたいはずなのだ。あとは、お姫さまが敗北を契機に必殺技を2つ3つも身につければ完璧なのだ。ああ、このマンガを本当にたくさんの若い読者が読んだらいいのになと思う。
しかし、これがただの「バトルマンガ」に終わっていない、というよりむしろ現代に自覚的な語り手としてある西島大介がもはやただのバトルマンガとして終わらせることができないのも事実である。キャラクター同士の見得の切り合いが終わり均衡状態が決壊したとき、人は一瞬で命を奪われる。その現代のバトルマンガに定型的にある展開を、西島大介はあっけなく命が奪われる戦争と、「かわいいキャラ」としての自分のキャラクターの希薄さに結びつけている。彼はいつも通り、入念に考え抜いたあげくに新たな題材として戦記を選び、描いている。また「2人はまだ、お互いを知らない」という毎回繰り返されるヒキの文句は、つまりは矢沢あい「NANA」と同種のものだ。西島大介は最終的に起こる悲劇を前提にしながら物語を前に進めるという物語的に極めて定型的なものを試している。この物語の定型性は多くのケータイ小説と関連付けて語ってもいいし、例えば今フジで放映しているドラマ「ラスト・フレンド」だって同じ事をやっているとも言える。簡単に言えば、彼はその定型性を利用して物語を終結に向けて「ひっぱって」いる。まさに「ヒキ」なのだ。このような定型性を常に批評的に醒めた目で理解した上で物語の要素として選び出すことができるのが西島大介という作家の真に恐ろしいところだと僕は思うのだが、しかしおそらく、その定型を完全に受け入れた上で、「愛」や「死」という素朴で、しかし重い感動を本当に読者に届けることができるかというのが、彼の今作での挑戦なのだろう。「アトモスフィア」については、2006年に出版されたにもかかわらず、今なお多くの読み手によって語られるべき言葉が語られていないように僕には思われるが、しかし既に西島大介がさらにその先に進んでしまった「ディエンビエンフー」の面白さは、何というかもう、単純に面白い。
「ディエンビエンフー」といえば、
サウンドトラックが発売された折に、フライヤー用に短い推薦文のようなものを僕が書かせていただいた。その文章は今
DJまほうつかいのMySpaceで読むことができる。短いが、こちらもぜひ参照していただきたい。
2008.06.18 |
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今売りの「クイック・ジャパン」78号では、「我々は再び、何を見ようとしているのか?」という小特集で「劇場版 空の境界」について小論を載せていただきました。なんと中田健太郎さんが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」について書かれた評論と併せて載せていただくという、僕にとっては大変名誉な原稿だ。僕が書いたのは実際のところ、先日このブログで「ゼロ年代の想像力」について書いたときの「定型の物語」についての内容と大きくかぶっているが、ただ「空の境界 劇場版」についての内容なので、ずっとその作品について多く書いている。特に記事では、劇場版の第四章のパンフレットで奈須きのこさんに対して行ったインタビューから、奈須さんの言葉を引用している。それは以下のようなものだ。
たしかに九〇年代の後半の頃は「もうあらゆる王道がやりつくされたから、やってもしょうがない。それとは違うことをやるべきだ」という雰囲気があったと思います。自分もその熱に罹っていたと思います。『空の境界』をやろうと思ったのもその表れだろうし。けど、出来上がってみればこの結果ですし(笑)。ツンツンしながらも、結局は自分を育ててくれた"王道"の力をどうしようもなく愛していたんでしょうね。
この言葉は、まさにこのブログに先日書いた、「空の境界」から「月姫」に至った奈須きのこも、そしてセカイ系もファウストも、「木更津キャッツアイ」すらも、みんな定型の物語の再生に向かっていたのではないかという議論につながるものだ。つまり、前回の東浩紀の言葉として引用した「いまや、あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉に対応して、九八年の時点で奈須きのこははっきりと彼の言う「王道」に向かって舵を切り始めていたという僕の論の根拠がこの奈須さんの言葉にはある。
ちょうど先日、同じ問題について、評論家の福嶋亮大さんが
次のように書かれていた。
たとえば、西尾維新や佐藤友哉のような小説家は、それ以前には存在しなかった。デビュー当初の彼らが徹底して暗いファンタジーを書いたのは、コミュニケーションがほとんど瓦礫のように空洞化していることを示すためだった。彼らは、人間と人間のつきあいなどとうに偽物になっていることを、切実に感じていた。しかし、やはり彼らが示すように、その虚飾に満ちたやりとりを続けることしか、もはや人間に残された道はない。もしその虚飾のコミュニケーションすら剥ぎ取られれば、人間は世界から追放されるしかない。彼らの「漫画・アニメ的リアリズム」は、そういう暗い認識と繋がっている。
とはいえ、こんな作家は例外で、いまや「漫画・アニメ的リアリズム」はまっとうな人間ドラマをやり、血の通ったコミュニケーションを描くための素材にすぎなくなっている。もちろん、僕たちはいまでも砂漠のようなコミュニケーションをやっているのだが、それがあまりにも自明になると、安定したドラマをつくることにさして大きな抵抗はなくなる。2008年の我々は、すでにコミュニケーションをきわめてポジティヴに捉えている。かつてコミュニケーションが、逃れたくても逃れられない悪夢的な行為として描かれていたことは、とうに忘れ去られていると言うしかない。宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」は、その忘却のひとつの象徴である。
ここで福嶋さんが述べている「あまりにも自明になると、安定したドラマをつくることにさして大きな抵抗はなくなる」という言葉は、一読して分かるように「砂漠のようなコミュニケーション」についてのものだ。しかしこれはやはり前述の「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので」という話と通じているのだと思う。福嶋さんはこれをコミュニケーションに関わるメタリアルなフィクションの系譜という文脈で議論なさっているが、僕が前回書いたものは単にポストモダン文学の系譜から敷衍できるとした点で異なっている。しかし両者の根は同じだ。ポストモダンという時代に人々が直面した困難に関わるものであることは間違いがない。
ただ、今回のQJの記事では、この2008年において今「まっとうな人間ドラマ」を作家たちが作るということを踏まえた上でなお、我々がそれを鑑賞し論ずることを考える時期に来ているのだ、ということをテーマにしている。そしてそのことはまた、この記事だけでなく、僕が今現在、最も問題にしたいと思っていることなのだ。「ヱヴァ」について書かれた中田健太郎さんは、結びとして次のように書かれている。
問題となっているのは、『エヴァ』の抱える反復性とオリジナリティの間の葛藤が、新しい物語世界のかたちをとって、現代の視聴者の感受性とたしかに切り結ぶこと、それ自体なのである。
エヴァが反復の物語であるということは、単にエヴァが何度も「最終話」を作り直しているということを意味するのではない。エヴァという物語が繰り返しであるということは、物語論の上でも表現論の上でも、その基礎にあるロボットアニメの文法はもちろんのこと、既に語られたあらゆる物語のデータベースから要素がサンプリングされ、それを再構成して「エヴァ」を成り立たせてある。そして「ヱヴァ」はそれに対して自覚的にありながら、なおそれを行うということを意味する。しかも庵野秀明はその再話をエンタテインメントとして作り上げるという。そして中田さんが述べようとしているのはもちろん、作り手のその力強い一手を、受け手である我々が受けて立ってしかるべきであるのだということに他ならないだろう。
「我々は再び、何を見ようとしているのか?」という小特集のタイトルは、言うまでもなく庵野秀明の「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」という言葉を正面から引き受けようと呼びかけるものだ。昨今の作り手による、この再び物語を物語ろうとするという変調は、むろん受け手の変化にも呼応したものでもあると思う。だが、しかしならば今、それが人々に享受される状況になっているということについて、我々は前向きに語るべき言葉を持つべき時期なのだ。ある作品を鑑賞することが、そしてそれに対して下す評価が、「信者」だ「黒歴史」だといった粗悪なマッピングに流用され、単に人々のコミュニケーションを暗く楽しませるだけに消費されてしまう状況は変わってきているだろうか? 少なくとも、この2作が劇場版という形で再話され、ヒットを飛ばし、DVDを驚異的に売っているということについて、我々は肯定的な言葉を紡いでいけなければならない。そうでなければならないはずだ。僕はここに主題を述べよう。我々は作品を愛し、評価を検討して、その上で再びただ愛する、という回路に達することができるだろうか。
2008.06.17 |
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