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イカれたDJどもを縛り首にしろ 連中がタレ流している音楽なんて ぼくの人生に何の関係もない
さて、劇場で見てから一ヶ月以上経って、ようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について書くことができる。この一ヶ月の間に「破」については多くの意見が交換されたと思うが、僕は忙しくてあんまり見ていない。でも二次創作的だと言われているという意見をちらりと伝え聞いて、これはそんなに単純なものではないだろうと思った。では何なのか。それを、例によって今からこの文章を書きながら、考えてみたい。ただまあ、おそらく、僕の意見はこの作品を見た一ヶ月前から変わっていない。最初に僕が思ったのは鶴巻和哉がやってくれたんだということで、これは本当にすごい作品だ、ということだ。
「破」が二次創作的だという意見に対して、僕は「序」が既にそうだったというしかない。「rebuild」の「re」に込められていた反復の含意はそういうことである。旧エヴァという母体を王道の物語へと焼き直す態度はそうであった。さらに、もともと旧エヴァという作品自体が、ロボットアニメの、あるいはアニメそのものの二次創作しか描くことができないという断念からスタートしたものではなかったか。根底にアニメ的なものしか持たないモノが、それを際限なく過剰にしていくことで現実を突きつけようという作品だったのだ。だから、「破」こそは二次創作的であるという指摘はほとんど何も言っていないに等しい。ならばこの「破」とは、「re」などという反復で象徴できるようなものではないのではないのか。「破」の一字によって破壊、破綻、破産、破滅させられるものとは、やはりエヴァンゲリオンそのものなのだと思う。「序」において、しっかりとワンダバ式に盛り上げられていくヤシマ作戦や、前向きに生きるシンジの姿によって、我々は確かに王道の物語としてのエヴァンゲリオンの再話を見た。我々はそれを二次創作だと呼んでいい。「本来ありうべきだったエヴァンゲリオンを作っているのだからそうではない」というのなら、もちろん誤りである。
しかし、「破」は「序」を引き継いで同じ事をやっているとは全く言えない。むしろ、ドラマに着目すれば「序」「破」はたしかに同位相にあるのだと言っていい。だからこそ、この「破」が何かを壊したと感じさせるならば、それはドラマには全くないし、今そこを見続けてもしかたがないのである。シンジやアスカがゼロ年代的な主体性を見せているということは、むろんドラマにとって重要なことに違いない。それは疑う余地がないことだ。しかし、僕は言ってしまおう。「破」というフィルムにおいて、それはもう、物語がループを繰り返しているか否かとか、ゲンドウのセリフの元ネタがなんだとか、この物語を楽しむ上で皆が欠かすことのできない「謎解き」と同列になっていて、ともに「破」がいま何をやっているかということにとっては、あまり重要なことではない。
「序」の前口上として庵野秀明は、旧エヴァ以来、新しいアニメはなかったと述べたが、しかし後にエヴァが直面した二次創作しか描くことができないという断念を受け継いだ上でロボットアニメはなお前進してきたし、それはほかでもないガイナックスの「トップをねらえ2!」や「グレンラガン」において、輝かしい達成を見せている。だからこそ、「破」においては、旧エヴァが経験していないものがあからさまに作品に介入させられている。旧型プラグスーツの丸みを帯びたデザインや、対照的に鋭さを強調する仮設五号機のデザインは、あきらかに「旧エヴァ」より後の時代に我々が経験したガイナックスのロボットアニメ作品、たとえば「トップをねらえ2!」の系譜にあるものとして見ることができる。旧エヴァ視聴者にとって「新しいもの」として現れる「旧型」のプラグスーツは、エヴァが王道の物語として再話されることを示唆しながら、しかしそのデザインによって既に先行した存在があるということをも訴えている。アスカがテストプラグスーツを着ている瞬間に、ドラマの上でゼロ年代的な主体性を見せることなど、いわば当然のことなのである。
このように、「破」においては、とにかく視覚のうえでは至る所で旧エヴァを追い詰めようという策略が展開されている。たとえば「序」が忠実に繰り返した例の極太明朝のスーパーインポーズを取り払っていることにも「トップをねらえ!」に対した「トップをねらえ2!」に通ずるものを感じる。しかし、このスキームの頂点にいるのはやはり新キャラクターであるマリである。
彼女はその運動のすべてが旧エヴァ以降のもので、フィルムにおいてほとんど別レイヤ上の存在のようにすら見える。旧エヴァを破綻させるために彼女がやるべきなのは、ただその場で動くだけでいい。彼女が口の端をよく動かして嘲笑うさまは、旧エヴァで「チャーンス」と笑ったアスカと全く別の位相で響く。マリの豊満な胸の運動はこのくらいのアニメ的な想像力に導かれており、旧エヴァ第壱話からあれほど視聴者が注意喚起を促されたミサトの胸を生身の女性のそれに引きずり下ろす。ゼロ年代アニメの存在である彼女が動き、話すたびに、アニメであることを突き詰めていたはずの旧エヴァの登場人物はどんどん過剰さを失い、反面にスキニーな実体らしさまでもを露呈してしまうのだ。カヲルは「序」に引き続き今作でも物語の外部を暗示するようなセリフをいくつか述べたが、しかしマリの登場によって彼の危うさは相対的に失われていく。カヲルのメタフィクション性は観客にとってそれ自体がフィクション内部の娯楽装置として受け入れられてしまう段階にある。言うなればカヲルは作品が虚構であることを観客に強く意識させようとなどしないのである。ここでメタフィクションは既にフィクションを食い破ってなどいない。カヲルは言葉によってメタフィクションを暗示し、それ故にドラマの上でしかメタ的でない存在だが、しかしマリはセリフの上では何一つ暗示せずに、しかし物語全体を嘲笑う、真の意味で物語の外部に立つ存在なのだ。
ほかに。旧エヴァに存在したカットが、構図を複製され、しかし描き改められ、その上で全く別の文脈でドラマに挿入させられていることに注目したい。例えばシンジが屋上で上を見上げるシーンや、レイが特攻するシーンにおいて、フィルムが伝えようとした状況、そして重要なのはエモーションが完全に別のものに置き換えられている。ここで行われているのはもはや単なる二次創作ではない。月並みな言葉になってしまうが、MAD的なものが働いている。しかしそれ以上であるようだ。シーンを作り直すだけならば「序」のようにしてやればいいのだ。みんなの知っているあのシーンの絵を描き改めましたというだけならばリメイク(re)作品だと自然に言うことができる。しかし「破」は、旧エヴァのすべて、テレビも映画もゲームもパチンコも、そのすべてを使用可能なリソースとして認識し、自由に要素を抜き出して思うままに旧作の中に忍び込ませながら、エヴァという歴史を捏造している。旧作の設定に依拠しながら別の物語を組み上げる二次創作とは違うし、旧作から映像や音声を抜き出して文脈を成立させるMADとも違うことをやっているようだ。しかもオフィシャルな作り手にしかできないそれを、意図的にやっている。
僕が唐突に思い出したのは三国志のことだった。三国志は、三国志演義がたいへん有名であり定本のように扱われているが、しかし実際のところ何が正史なのかははっきりしない。そして、今や夥しい数の三国志が、勝手気ままに創造されている。しかしそれらを見て、我々は「三国志の二次創作だ」などと考えたりはしない。三国志の一次創作物が何なのかということ、さらにいえば史実がどうであったかということすら、我々には何の関係も持たない。「破」によってエヴァにもたらされたのは、おそらくそのような事態だ。その意味で、「破」もマリも、エヴァを簒奪しようと目論んでなどはいない。「正史」は単に消滅する。そして、新劇場版の描く「偽史」が幕を閉じるころ、我々の時間は劇中と同じ2015年に追いつくだろう。これはうまくできている。
ところで、しかし、むろんこのフィルムに庵野秀明の「らしさ」はあまり感じなくて、次には彼が、本当に破綻させるということはどういうことなのか教えてくれるのかもしれない。僕はそれを待っているだろうか。僕は「破」に満足しているので、分からない。しかし、それでも、次にも何かのショッキングなものを期待してしまう。今回の劇中曲のような、あの狂った気恥ずかしいスタイルでしか味わえないものは、確かにあるのだ。
2009.08.05 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [映像]
進行方向別通行区分を聴いていたら気持ちが戻ってきた。
さて、折を見て詳しく書きたいですが「Quick Japan84」で「'95」という連載を始めました。僕は長いものを書き始める前に「今から書くのはこういう内容です」ということを絶対に言わないのですが、今回はちょっとだけ書きます。なぜ書くかというと、僕はこの連載に対して非常にマジメな気分だからです。
まず、この連載は橋本治「89」を強く意識して書いています。逆に言えば「89」を読めば僕が何をしようとしているかはほとんど分かりそうなものですが、読むのが面倒な方は今売っている「小説トリッパー」の橋本治インタビューを読むとだいたいどういう本だったのか分かると思います。次にこの連載は、僕がここ10年くらい書いたもののほとんどすべてが要素として組み込まれることになると思います。しかしだからといってこの連載が別に僕がいままで書いたものの中で一番難しいとか長いとかヘンだとかまともだとかっていうわけでは全然ないので、お気になさらずに。……という文章自体、「89」へのオマージュです。第三に、タイトルから想像できると思いますがこれは1995年について書いています。しかし実際に僕が書こうとしているのはむしろ現在の状況についてであって、懐古的なものを目指さないことにしています。どちらかというと僕はこの本を95年にゼロ歳だった人、5歳だった人、そしてもちろん14歳だった人、などなど、そういう人のことのことばかり考えながら書いています。今載っているのは導入の導入みたいな内容で、まだ何も言っていないに等しいのですが、ついでに書くと、僕は1995年を単に切断線として指摘するロジックにかなり飽きているので、違ったものを書こうとしています。ちなみに第一回では、渋谷系からテクノに至る90年代前半とゼロ年代を一連の流れで語れるように、小室哲哉と90年代後半のビジュアル系と椎名林檎の位置づけを再定義しようとしています。ともあれ誌面とのバランスを考えながら、連載では細かな検証よりも多様なトピックに触れていこうと思っています。連載タイトルには批評と書いてありますが、しかしこれは僕が自分の書くものの中でもっとも使いやすい文体を使っていて、だから僕が思う評論や批評とは違った書き方をしています。
さて僕が「自分は今これについてブログに書こう」と思った進行方向別通行区分について。これは表現の興味が異化作用に集中しているという意味では、僕にとってまったく現代詩と同じ興奮をもたらすバンドになる。それは歌詞が現代詩として読めるということではない。それもあるが、しかし言葉のレベルだけではなく、バンドのパフォーマンスの全体が違和感を起こすフックとして選ばれている。それで僕は「現代詩的なバンド」と思ったのだ。
しかしもちろん、分かりやすいのは歌詞を参照することではある。
これはもっとも笑いに近い例だが、このバンドの言葉は基本的にこれである。ここには生の実感や感情の表出はない。卑近な固有名詞と素朴な恋愛感情が押韻を伴って連呼されるとき、そこには言葉に操作を与えてやろうという歪さと禍禍しさしかない。彼らの地名と人名への固執は、あまりにも言葉そのものに対して自覚的でありすぎる。貴乃花
若乃花
抱きしめる
貴花田
若花田
キスをした
これはほとんど「コトバを連呼するとどうなる」と言われているに等しい。八王子 下から読んだら何かが見える
天王寺 下から読んだら何かが分かる
吉祥寺 逆から読んだら何かが変わる
本能寺 逆から読んだら何かが起こる
ところで藤井貞和の「コトバを連呼するとどうなる」(『枯れ葉剤』)だが、ASA-CHANG&巡礼のニューアルバムの一曲目がこれだった。Amazonで試聴できる。アルバムタイトルになっている「影のないヒト」はMySpaceで聴いた限りでは僕には「花」からの発展を信じることができなかった。これはこれで素晴らしいものなのだが、ここに「花」の驚き(これもMySpaceで聴けるので未聴の方は発表順に聴いてみるのがおすすめ)が残っているかと言ったらそうではないと思う。むしろデカダンスへの傾倒がわかりやすく目立ってしまう。コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
たいへんなことが起きる
センチメンタルになまはげの話を歌ったと思ったら「愛が地球を救う」と連呼して両腕を宙に漂わせるのだ。言葉とアレンジとライブパフォーマンスが一体となって表現される、その異形の接合の生々しさ。進行方向別通行区分による現代詩の体現とはここにあって、それは彼らが異化という効果そのものであろうとしているということであり、見るたびに驚かされる。言うこと聞かない悪い子はおしおきされた
坂井の前歯は白い雪のように
坂井の前歯は白い雪のように
坂井の前歯は白い雪のように
坂井の前歯は白い雪のように
Wow Wow Love And Peace
Wow Wow 愛が地球を救う
Wow Wow Love And Peace
Wow Wow 愛が地球を救う
2009.06.22 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [文章]
漫画の話が続くが、講談社BOXの企画で漫画家の西島大介さんと一緒に、一年間の予定で「ひらめき☆マンガ学校」という「漫画の描き方講座」を行うことになった。今特設サイトで参加者を募っているので、基本的に抽選になるけど、ぜひいろいろな方にご応募いただければと思います(今月いっぱいで締め切りなので急いだ方がいいのかも)。去年の夏にやった一日漫画教室の拡張版というわけだが、実際にはこの企画は2年近くかけて西島君と一緒に考えたもので、それがいよいよスタートするという感じ。内容は一言で言うと「漫画の描き方」ではなく「漫画家になる方法」をやる、というものになるのかな。先日人に説明したときにも「参加したいけど絵が描けない」と言われたが、そういう人ですら漫画家になれてしまう、というコンセプトがある。むしろ「絵の描き方」のようなものは一切やらないはずだ。だから漫画家になりたい人はもちろん、漫画を読むのが好きだとか、漫画批評に興味があるとか、漫画じゃなくてもいいから何かしたいだけの人とか、幅広い方に参加していただけるはずです。
今の漫画業界は主に戦後からずっと続いてきたやり方で成り立っていて、原稿持ち込みをして、漫画賞を獲って、漫画家のアシスタントになって、編集者と共に企画を叩いて連載デビューする、というものになっていて、しかし最近ではその枠にとらわれないような「漫画家」が誕生している。また一方で「漫画の描き方」を扱う本は、ほぼ技術的に高度な絵の描き方に終始して、本当に漫画という読み物を作るためにどうやればいいのかは結局分からない。以上のことから、今日的なノウハウを「漫画教室」にできないだろうか、というのがこの企画である。中身については、去年の夏にやった一日版の全内容が「パンドラ Vol.3」に掲載されているので、見ればだいたいどういうことをやるのか分かります。興味のある方はぜひご覧ください。同じ講談社BOXの企画である東浩紀さんの「ゼロアカ道場」との差別化を意識するように「参加者全員が100%マンガ家になれる!!」という惹句がついているのだが、この文言は講義内容のヒントというか答えになっていてちょっと面白い。「パンドラ」には一日漫画教室に参加された今日マチ子さんを迎えての鼎談も掲載されているんだけど、そこで「漫画などの文系ジャンルの中には実は体育会系的なノリがあって、そういうものになじめず居場所がないと思っている人に勧められる教室だ」という話をしていただいていて、これはこの教室とか西島大介という作家のスタンスを的確に表している言葉だと思う。
ところでこの「パンドラ」は、今までの号とガラッと変わっていてちょっとびっくりした。表紙が吉原基貴さんの絵になっている。この人の絵はたとえて言うなら丸尾末広の漫画作品のようなハードな印象があり、そのためどことなく懐かしい90年代以前のサブカル誌のようなとんがったセンスの表紙になっている。今どきこういうのを、とくに若者向けの商業誌でやるのは嫌いじゃない。
内容にも変化があって、一言で言うと批評に関するものが多くなっている。批評に興味のある方が読むと楽しめるのではないか。巻頭の「ひぐらしのなく頃に」特集からして論考が中心で、藤田直哉さんなどが書かれているのが面白い。東浩紀さんのゼロアカ道場に関する考察もある。僕も「ゼロアカ道場」の第五回関門レポート記事を書かせていただいた。また宇野常寛さんの連載が始まっていて、今回の「ダークナイト」論については、「ゼロ年代の想像力」について僕が不満に思っていた点、例えば音楽についての考察が全く抜けている部分などをフォローしようという書き手の気概が感じられて面白く読めた。
しかしこの本でやけに面白かったのは編集後記として書かれた部分は野崎編集長が講談社BOX編集部員の立場から「ファウスト」「ライトノベル」そしてこれまでの「講談社BOX」を総括していて、これはけっこう刺激的な読み物だと思う。雑誌がこういう自己言及的な読み物を載せることにはいろいろな意見があるだろう。というか、これは編集者の所業としては読者を煽るようなものだから、これに対して読者からいろいろな意見が起きないのなら、編集者の目論見にとって残念なことではないかなと思う。個人的には、こういうのは時代の変化をどう捉えて舵を切っていこうという作り手の意志がはっきりと出る部分なので好きだ。
しかも「パンドラ」は編集長の交代制を標榜しているので、今号の作り方が必ずしも今後の同誌のカラーになっていくというわけでもないのだ。次はどうなるのか全く分からない。今どきこんなノリで雑誌を作ってしまうところがちょっとすごい本だなあと思う。
2009.05.14 | | コメント(1) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章]
ブログを更新できないのはとても辛い。毎日、辛い。辛い辛いと思いながら日々を過ごしている。
とどのつまり、僕の場合、ウェブサイトを運営することを生活と切り離すことができないのだろうか。そうではないものとして作りながら、しかしいつも、どうしてもそこから逃れることができない。
一般的に、そんなことは考えるべきことではないのかもしれない。それに、ウェブには素晴らしい書き手がひとりいて、その人は、ウェブに書くものは究極的には日記であって、だから終わりのないものだ、そのことに忠実であれ、まして結末など設けるべくもないものだ、というようなことを言っている。僕は、いいものを書くその人に敬意を払っている。しかし、それは僕のやり方とは違うとも思っている。僕がウェブで10年、やってきたことは、その人とは違うやり方だったように思うし、これからもそうだろうと思う。ウェブにものを書くとき、別段その人を意識して書いているわけではない。逆らわなければならないと思ったこともない。しかし、ウェブサイトの作り手として、僕の考え方というものがある。これは作品なのか。あるいはただ日々の営みの残滓なのか。いや、どちらでもなく、そのせめぎ合いの中にこそ僕がウェブで書くものはあるはずだと言いたい。そう書くと、あまりに自己弁護的なのだろうか。最近は、そういうことをよく考えるようになった。
書くたびに告知ばかりのようだが、告知がある。もう明日だが、蒲田で行われる「文学フリマ」においていずみのさんの「漫画をめくる冒険」の下巻が発売されて、僕はこの本に解説を書かせていただいた。これは本当にいい本で、文学フリマ以後にももちろん店舗やネット上で販売され続ける(サイトの記述によるとメロンブックスにはもう入荷しているようだ)から、ぜひ多くの人に読んでいただきたい。
僕がこの本を読んで思ったことは、これは必ずしも漫画に限った本ではないな、ということである。もちろん、そういう評価にいずみのさん自身がどう思われるかは分からないし、またいずみのさんはこの本で、漫画を解析するための理論を構築しているというのは間違いないことである。もっと言えば、次々に作品が作られ、どんどん消費されていく漫画というメディアに対して、どうやって豊かな読み方をするか、という理論を作られている。
しかし、僕が漫画に限らないと言うのは、この本が、例えば漫画が好きな人や、あるいは漫画読みと呼ばれるような人にだけ読まれてしまうのはもったいないように思うからだ。いずみのさんがここでやっていることは、漫画に限らず、我々が「作品」に対したときに、それをどうやって享受するのかということなのだ。
そして、その裏にあるのはやはりインターネットなどで一般ユーザーが「作品」について語る状況ではなかろうか。漫画理論の本だと言ってもいいが、しかしそれが使われる環境を思ってこそ、本書は書かれている。だから、漫画論だから、漫画に興味がない人は読む意味のないものだなどと思わなくていい。また、「漫画論にとって重要な本ができた」とばかり言わなくてもいいはずだ。いずみのさんは新しい漫画論の書き手として優れた人で、その分野で寄せられる期待は言うまでもないものだが、僕は、小説でも音楽でも映画でも絵画でもゲームでもアニメでも演劇でも、ひょっとして批評でもいいだろうが、誰かがアウトプットした何かを受容しようとしている人にとって価値のある本だと思う。いずみのさんは「作品」の成り立ちを作者だけに任せないし、かといって読者だけが作品の内実を弁別できるというような言い方もしない。作者と読者が行う活動の間から「作品」というものが生まれるという奇跡に、この本は敬意を払おうとしている。今は、広い読者がその姿勢について考えていい時期だと思う。
さて、このブログの話に戻るが、しばらく、いくつかの記事がそれなりに間をおかずアップされるだろう。僕にとってはうれしいことに、間違いなく、そうなる。なぜかというと、もう書いてあるから。
2009.05.09 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章]
「リアル鬼ごっこ」という小説の評価は全くひどくて、それは知っていた。いわく、物語の筋が陳腐であり、かつ展開が矛盾したものであったり突飛であったりして、とても読むに耐えないのだという。こんなものが何万部も売れて、映画化まで決まるのはおかしいという。Amazonのレビューにはそういう罵詈雑言を書き連ねたレビューがどんどん掲載されている。それによると、そもそも文章が書けておらず、この本を罵倒するレビューを書いている者の方がよっぽど豊かな日本語能力があるのだという。
僕がただ不思議なのは、そんなにひどい本ならば、なぜ何万部も売れたのだろうかということだった。Amazonレビューの意見では、小説読者の質が下がっているから、こんなものが売れるのだということだった。実につまらない意見で、そんな老人の繰り言のようなことを書いていて楽しいのだろうかと思う(もちろん彼らは楽しいのである)。そういう意見は単に書き手自身が作品を否定しただけであって、結局この本が多くの人に支持された理由について何がしかの理解をもたらすわけではない。もちろん一般読者が、自分が何か有益な思いをできなかったことを理由にして、ひどい作品だと切って捨てることはあるだろう。しかしそれだけなのであれば、彼らがやっていることとは、この本に感動して「私は面白かったです」と舌足らずに述べる少数のレビューと変わらない。感動した者たちを馬鹿呼ばわりできるのには及ばない。それどころか「こんなものに泣ける奴は愚かだ」と言う人は、結局書物に泣くことを期待するという点には半ば同意してしまっている。そして、この本がなぜ支持されるのか、一体何を描いているのかという疑問はなお残るのだ。それで僕は、文庫をひとつ買い求めて、読んでみることにした。
たしかにひどい本である。この文庫の全く何がひどいと言って、とにかく解説がひどすぎる。解説によると、この本の作者は出版不況を変えるために自費出版から現れたヒーローなのだという。それどころか、どうやら自費出版を除く既存の出版システムでは、この不況を打破することはできないのだと言っているようだ。これにはたいへん驚いた。今どき、フィクションをめぐる状況において同人活動が無視できなくなっているというのなら、いささか見飽きた類の意見だが、まだ分かる。既存の作り手たちがマーケットの動向を読めなくなっているという意見だけなら、多くの人が首肯する類のものだろう。しかしこの解説が言っているのは同人シーンのことなんかではない。我々は自費出版に賭けるしかないのだという。自費出版については、どちらかというと様々な問題があると書かれたものを僕はよく見かけるから、これをそのまま認めるわけにはいかなかった。そもそも、その解説は新人発掘と流通の仕組みについての話であって、作品がどのように優れているかとか、何が書かれているのかということではないのだ。結びの部分で、ほとんど余談のように、命を賭けた鬼ごっこという非日常的な設定に現実世界と同じ不条理さがあるから読者の共感を得たのだ、みたいなことを書いているが、現代社会の不条理をフィクションから感じるという話を今さらしたいのであれば、20世紀にも不条理小説がいろいろあるから読めばいいのではないだろうか。結局この解説は、作品について大したことを理解させてはくれない。暴動のようにつまらないぞと叫び続けるレビューの方が、ただ惨状として残される。
この文庫のカバーに書かれた呼び込み文には、さりげなく「ベストセラーの〈改訂版〉」と書かれている。出版社におなじみのやり方だと、文庫で加筆があったりした日には大々的にそのことを報じてセールスにつなげようとするものだが、ここで〈改訂版〉の文字はたった一個所、本当にささやかにしか書かれていない。だからまあ、この「改訂」は誇るべき事ではなくて、文章としてまずいところを直したという意味なのかもしれない。実際、文庫の方はそこまでの悪文とも思わなかった。別段うまいわけではないが、もっとひどい文章ならインターネット上にもたくさんあるし、もちろん商業出版されたものにだってある。僕はひどいと言われる単行本のほうを読んではいないので、それが僕に与えられたこの本だった。しかしそもそも本当の理想を言うなら、小説の善し悪しについて文章能力を認められるかどうかで判断すべきではないのだろう。
さて、話の筋に矛盾があるとか突飛であるとか、不合理な展開があるという向きに、僕はなぜそんなことを思うのか不思議である。この物語の最初のページ、「西暦3000年」という設定が述べられた時点で、読者はまあ、これがほとんど童話のような、ファンタジーノベルだと思ってもいいと思ったからだ。「西暦3000年に”佐藤”という性を持つ者が500万人を超えた」という導入部は荒唐無稽だと言ってもいい。しかしそこからはまず数字のインフレーション、過剰さを受け取るべきなのであって、これはハードSFが開始されるという合図ではないし、もちろんリアリズム小説を期待するべきでもない。
したがって、「西暦3000年なのに町並みの描写が現代と変わらないのがおかしい」などと言うのはこの冒頭を読み誤っている。そんなことが問題ではないのだ。このインフレーションについて通常ならざるものを感じるならば、それがリアリズムに則っていないという安易な指摘に留まってはいけない。それではこの作者の何が真に異常と呼べるのか分からなくなってしまう。また「佐藤探知機」などという機械が登場するからといって、それがすなわち失笑に値するわけではない。世の中には「警官殺し機」とか「心臓抜き」という道具が登場する小説だってあるだろう。
そう、たしかにこの作品には奇怪なところがある。不気味な色を湛えている。僕が本当にちょっと面白いなと思ったのはそこで、この作品には「西暦3000年」のような超然としたイメージと、「佐藤」という凡庸なイメージをこんなふうな乱暴なやり方で結びつけてしまうようなところが全編を通してある。そこではリアリズムの構築が放棄されているというよりも、従来的なリアリズムの感覚がこの作者にはないと言える。西暦3000年という漠然とした超未来と、「十三」などというひどく卑近な地名が混在したところで、この作品の気味の悪さは生まれてくる。
個人的に興味深かったのは舞台が「王国」であり、これがひどくステロタイプな絶対王政のイメージでもって描かれることだった。王は宮殿に住み、玉座に座り、クラシック音楽を聴き、ワインを飲んでいる。絶対王政どころではないかもしれない。時は西暦3000年であり、かつ現代日本的な日常を描きながらも、作者は権力というものをRPGによくあるような紋切り型のハイファンタジー的な意匠でもってイメージしてしまうのだ。日常が存続し、家庭があり、学校があり、会社組織がある一方で、権力は複雑なやり方で支配を維持しているとは考えず、いきなりRPGになってしまう。管理型の権力を想像するどころか、独裁者のようでありながらこれはビッグ・ブラザーとも違う。民衆と権力は関係づけられないまま、そこにはただ支配のイメージだけがある。こういう想像力は若い書き手と言っていい作者の現実認識がよく出ているようで面白かった。また規則的に挿入される「○月○日、○曜日、午後十一時、”リアル鬼ごっこ”○日目……スタート」などというフレーズもゲーム的なところからの借り物であり、律儀に繰り返されるその薄気味の悪さはちょっと見ものである。この作品はある倫理観に沿って書かれており、それはおそらく、リアル鬼ごっこというゲーム自体の存在をエンタテインメントの上で否定していないし、何万人が虐殺されようがかまわないようなものなのだ。そこに違和感を感じた人がこのような書き方を悪趣味だと言うならば、たしかにその人にとってそうだと言っていいだろう。しかし僕はこのように現実を認識して、こういう小説を書いてしまう若い書き手がいるということに、そして今やこれがアウトサイダーなものだと言うことすらできないかもしれない現実に、計り知れないものを見たという快感を感じてしまう。
2009.04.02 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章] [ゲーム]