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RE:EV

不思議なことに、冬コミで批評系の同人誌を出すことになった。「エヴァンゲリヲン新劇場版:破」についての本で、タイトルは「RE:EV」という。同人誌に寄稿したことは何度かあるけど、自分で作ったことは一度もない。

先に頒布される日時などを書いておくと12月31日(冬コミ3日目)の東京ビッグサイト。ブースは「壁の彩度」さん(東1 C14b)と「ピアノ・ファイア・パブリッシング」さんの(西1 れ13b)の2ヶ所に委託で置かせていただきます。これ、かなりすごい内容なので、ぜひお買い求めください。

装画とカラー口絵、そしてブックデザインは壁の彩度さんとI.S.Wの柊椋さんに全面的に協力してもらいました。これが素晴らしい。評論の本には見えないカッコいいデザインになっています。僕はめったなことで自分のサイト上に画像を貼ったりしないのだが、見せた人の誰もが「いいね!」と言ってくれる素敵な書影をここに貼ります。

RE:EV

さて、この本がどういう本かというと、以下のようなものです。

RE:EV

表紙=TNSK(壁の彩度)
カラー口絵=TNSK&saitom(壁の彩度)

【巻頭言】
あれを見て何かを思ったはずなんだ、僕はどうしてもそれを言葉にしたい / さやわか

【レポート】
一四歳女子の観た新劇場版ヱヴァンゲリヲン:破 / 飯田一史

【アンケート企画・ヱヴァを見た!】
寄稿者:ミンカ・リー(ニコニコ動画の伯爵のメイド)/REDALiCE(ALiCE'S EMOTiON運営)/今日マチ子(漫画家・イラストレーター)/施川ユウキ(漫画家)/TNSK(イラストレーター)/サカイ テッペイ(大学院生)/土屋亮一(シベリア少女鉄道 作・演出)/佐藤大(脚本家)/植草航(アニメーション作家)/柳谷志有(デザイナー)/川名潤(エディトリアル・デザイナー)/saitom(デザイナー)/youkiss(My Favorite Thingsオーガナイザー/サークル壁の彩度代表)

【インタビュー】
きみまるインタビュー・二次創作の幸福と「気持ち悪」さ ――『RE-TAKE』をめぐって / 聞き手・構成 坂上秋成
我々は何を作ろうとしていたのか? 山本充(青土社『ユリイカ』編集長)インタビュー / 聞き手・構成 さやわか

【論考】
エヴァを壊すこと、鏡を割らないでいること ――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』について / 長岡司英
私たちの望むものは、くりかえすことではなく / 七里
坂本真綾――真希波・マリ・イラストリアスへの長い道 / 飯田一史
ループの詐術に抗い、『EOE』を肯定すること / 前島賢
アイ・ケア・ビコーズ・ユー・ドゥー/I Care Because You Do / 西島大介
「新本格とエヴァ」試論 / 蔓葉信博

【付録】
年表:不在のアダム/すべてがエヴァになる 正典を夢想する人のためのEVANGELION年表 / さやわか

すごすぎる執筆陣だ。僕の手腕でも何でもなく、飯田一史さんや西島大介さんに手伝ってもらいながら企画を一緒に考えてもらって、原稿を集めてもらったりすらしたのだけれど、それにしてもすごすぎる!

この本で僕は文章はあまり書いていないし、企画も原稿もデザインもいろんな方にぜひとお願いした。僕は原稿を印刷所に入稿してお金を出して印刷したくらいのことだ。ではなぜ僕はこんな本を作ったのか。

僕は過去に「破」についてはブログに書いていて、その後にWEBスナイパーで泉信行さんと村上裕一さんと鼎談をしたのだが、個人的には紙のメディアに「破」についての人々の意見がまとまっていないことに不満があった。

それで、とある雑誌で「破」の企画があって、僕も文章を書いたのだが、いろいろな経緯があってその本は出なかった。そのへんの事情についても同人誌の中にちょっとだけ書かれているが、ともかく僕はすごくガッカリした。もちろん、エヴァが表紙になったり、作品の見どころを紹介したり、制作者インタビューが掲載された雑誌などもあったのだが、僕が読みたいのはそんなものではなかった。あの映画を見た、性別や世代や職業や立場を異にする、たくさんの人たちが何を思ったのか。どう受け止めて、どう応答するのか。本当は、雑誌はそういうものを見せることができたはずなのだ。インターネットでそういうものが書かれていても、それをずらりと並べてみることはできない。それを褒めるべきか、貶すべきかみたいなことがまずは問われるような議論には付き合ってられない。連中がタレ流している音楽なんて、僕の人生に何の関係もない。何かを言わずにいられないような何かがあるからと、とにかくざわざわと人々が呟くのが見たいんだ。だって、そういえばかつての「新世紀エヴァンゲリオン」だってそういうものだった。

そういうことを言っていたら、ある人が、「ならばあなたが作ればいいのではないか」ということを言ってくれた。これにははっとした。僕は昔から、インターネットで空気なんか読まずにえらそうなことを言ったら、言いっぱなしにせずに意地でも自分は発言に沿えるようにしてきたつもりだ。そうでないと、自分の言ったことを裏切ることになる。だから僕はやらねばならない。もう、絶対に、意地でも、やるのだ。

たくさんの人たちによる、たくさんの意見、そういう本は作ることができた。しかも、この本の論考はどれも本当に素晴らしいのだ。すごい読み応えがあって、編集者としてできた仕事として、珍しく気に入っている。カラー口絵付きで80ページ、1000円です。素敵な原稿が揃った、間違いなく損のない本なので、どうかぜひどうぞ。

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2009.12.24 | | コメント(25) | トラックバック(2) | [アニメ] [文章

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

さて、劇場で見てから一ヶ月以上経って、ようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について書くことができる。この一ヶ月の間に「破」については多くの意見が交換されたと思うが、僕は忙しくてあんまり見ていない。でも二次創作的だと言われているという意見をちらりと伝え聞いて、これはそんなに単純なものではないだろうと思った。では何なのか。それを、例によって今からこの文章を書きながら、考えてみたい。ただまあ、おそらく、僕の意見はこの作品を見た一ヶ月前から変わっていない。最初に僕が思ったのは鶴巻和哉がやってくれたんだということで、これは本当にすごい作品だ、ということだ。

「破」が二次創作的だという意見に対して、僕は「序」が既にそうだったというしかない。「rebuild」の「re」に込められていた反復の含意はそういうことである。旧エヴァという母体を王道の物語へと焼き直す態度はそうであった。さらに、もともと旧エヴァという作品自体が、ロボットアニメの、あるいはアニメそのものの二次創作しか描くことができないという断念からスタートしたものではなかったか。根底にアニメ的なものしか持たないモノが、それを際限なく過剰にしていくことで現実を突きつけようという作品だったのだ。だから、「破」こそは二次創作的であるという指摘はほとんど何も言っていないに等しい。ならばこの「破」とは、「re」などという反復で象徴できるようなものではないのではないのか。「破」の一字によって破壊、破綻、破産、破滅させられるものとは、やはりエヴァンゲリオンそのものなのだと思う。「序」において、しっかりとワンダバ式に盛り上げられていくヤシマ作戦や、前向きに生きるシンジの姿によって、我々は確かに王道の物語としてのエヴァンゲリオンの再話を見た。我々はそれを二次創作だと呼んでいい。「本来ありうべきだったエヴァンゲリオンを作っているのだからそうではない」というのなら、もちろん誤りである。

しかし、「破」は「序」を引き継いで同じ事をやっているとは全く言えない。むしろ、ドラマに着目すれば「序」「破」はたしかに同位相にあるのだと言っていい。だからこそ、この「破」が何かを壊したと感じさせるならば、それはドラマには全くないし、今そこを見続けてもしかたがないのである。シンジやアスカがゼロ年代的な主体性を見せているということは、むろんドラマにとって重要なことに違いない。それは疑う余地がないことだ。しかし、僕は言ってしまおう。「破」というフィルムにおいて、それはもう、物語がループを繰り返しているか否かとか、ゲンドウのセリフの元ネタがなんだとか、この物語を楽しむ上で皆が欠かすことのできない「謎解き」と同列になっていて、ともに「破」がいま何をやっているかということにとっては、あまり重要なことではない。

「序」の前口上として庵野秀明は、旧エヴァ以来、新しいアニメはなかったと述べたが、しかし後にエヴァが直面した二次創作しか描くことができないという断念を受け継いだ上でロボットアニメはなお前進してきたし、それはほかでもないガイナックスの「トップをねらえ2!」や「グレンラガン」において、輝かしい達成を見せている。だからこそ、「破」においては、旧エヴァが経験していないものがあからさまに作品に介入させられている。旧型プラグスーツの丸みを帯びたデザインや、対照的に鋭さを強調する仮設五号機のデザインは、あきらかに「旧エヴァ」より後の時代に我々が経験したガイナックスのロボットアニメ作品、たとえば「トップをねらえ2!」の系譜にあるものとして見ることができる。旧エヴァ視聴者にとって「新しいもの」として現れる「旧型」のプラグスーツは、エヴァが王道の物語として再話されることを示唆しながら、しかしそのデザインによって既に先行した存在があるということをも訴えている。アスカがテストプラグスーツを着ている瞬間に、ドラマの上でゼロ年代的な主体性を見せることなど、いわば当然のことなのである。

このように、「破」においては、とにかく視覚のうえでは至る所で旧エヴァを追い詰めようという策略が展開されている。たとえば「序」が忠実に繰り返した例の極太明朝のスーパーインポーズを取り払っていることにも「トップをねらえ!」に対した「トップをねらえ2!」に通ずるものを感じる。しかし、このスキームの頂点にいるのはやはり新キャラクターであるマリである。

彼女はその運動のすべてが旧エヴァ以降のもので、フィルムにおいてほとんど別レイヤ上の存在のようにすら見える。旧エヴァを破綻させるために彼女がやるべきなのは、ただその場で動くだけでいい。彼女が口の端をよく動かして嘲笑うさまは、旧エヴァで「チャーンス」と笑ったアスカと全く別の位相で響く。マリの豊満な胸の運動はこのくらいのアニメ的な想像力に導かれており、旧エヴァ第壱話からあれほど視聴者が注意喚起を促されたミサトの胸を生身の女性のそれに引きずり下ろす。ゼロ年代アニメの存在である彼女が動き、話すたびに、アニメであることを突き詰めていたはずの旧エヴァの登場人物はどんどん過剰さを失い、反面にスキニーな実体らしさまでもを露呈してしまうのだ。カヲルは「序」に引き続き今作でも物語の外部を暗示するようなセリフをいくつか述べたが、しかしマリの登場によって彼の危うさは相対的に失われていく。カヲルのメタフィクション性は観客にとってそれ自体がフィクション内部の娯楽装置として受け入れられてしまう段階にある。言うなればカヲルは作品が虚構であることを観客に強く意識させようとなどしないのである。ここでメタフィクションは既にフィクションを食い破ってなどいない。カヲルは言葉によってメタフィクションを暗示し、それ故にドラマの上でしかメタ的でない存在だが、しかしマリはセリフの上では何一つ暗示せずに、しかし物語全体を嘲笑う、真の意味で物語の外部に立つ存在なのだ。

ほかに。旧エヴァに存在したカットが、構図を複製され、しかし描き改められ、その上で全く別の文脈でドラマに挿入させられていることに注目したい。例えばシンジが屋上で上を見上げるシーンや、レイが特攻するシーンにおいて、フィルムが伝えようとした状況、そして重要なのはエモーションが完全に別のものに置き換えられている。ここで行われているのはもはや単なる二次創作ではない。月並みな言葉になってしまうが、MAD的なものが働いている。しかしそれ以上であるようだ。シーンを作り直すだけならば「序」のようにしてやればいいのだ。みんなの知っているあのシーンの絵を描き改めましたというだけならばリメイク(re)作品だと自然に言うことができる。しかし「破」は、旧エヴァのすべて、テレビも映画もゲームもパチンコも、そのすべてを使用可能なリソースとして認識し、自由に要素を抜き出して思うままに旧作の中に忍び込ませながら、エヴァという歴史を捏造している。旧作の設定に依拠しながら別の物語を組み上げる二次創作とは違うし、旧作から映像や音声を抜き出して文脈を成立させるMADとも違うことをやっているようだ。しかもオフィシャルな作り手にしかできないそれを、意図的にやっている。

僕が唐突に思い出したのは三国志のことだった。三国志は、三国志演義がたいへん有名であり定本のように扱われているが、しかし実際のところ何が正史なのかははっきりしない。そして、今や夥しい数の三国志が、勝手気ままに創造されている。しかしそれらを見て、我々は「三国志の二次創作だ」などと考えたりはしない。三国志の一次創作物が何なのかということ、さらにいえば史実がどうであったかということすら、我々には何の関係も持たない。「破」によってエヴァにもたらされたのは、おそらくそのような事態だ。その意味で、「破」もマリも、エヴァを簒奪しようと目論んでなどはいない。「正史」は単に消滅する。そして、新劇場版の描く「偽史」が幕を閉じるころ、我々の時間は劇中と同じ2015年に追いつくだろう。これはうまくできている。

ところで、しかし、むろんこのフィルムに庵野秀明の「らしさ」はあまり感じなくて、次には彼が、本当に破綻させるということはどういうことなのか教えてくれるのかもしれない。僕はそれを待っているだろうか。僕は「破」に満足しているので、分からない。しかし、それでも、次にも何かのショッキングなものを期待してしまう。今回の劇中曲のような、あの狂った気恥ずかしいスタイルでしか味わえないものは、確かにあるのだ。

2009.08.05 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [映像

天元突破グレンラガン

「天元突破グレンラガン」というアニメは、放映中に飛び飛びで見ていたものの、全話を通して見たことがなかった。ここ最近引きこもっていろいろな作品を鑑賞している間にようやく通して見ることができ、やはりこれは大変な作品だと思ったので、ここで何か書いてみたい。

ガイナックスというアニメ制作会社がロボットアニメを作るということは、あらかじめ、相当な苦労を伴うものとしてあるのは確かだ。彼らの作品には「トップをねらえ!」があり「新世紀エヴァンゲリオン」があり「トップをねらえ2!」があるわけで、つまり彼らは原初から「ロボットアニメを作る」ということ自体に批評的な目を持った作品を作り続けており、新たに作るにしても当然その内容はメタ的な視点を十分に踏まえた上である必要があるのだ。そしてガイナックスにおけるすべてのロボットアニメを踏まえるということは、日本のロボットアニメ史全体を踏まえるということに他ならない。自己に向き合いながら、過去と対話しながら、彼らは「新しいロボットアニメ」を提示していかねばならないのだ。

では「天元突破グレンラガン」は何をやっているのか。大枠では、この作品は全四部からなるその物語構成によって日本のロボットアニメ史を総決算しつつ更なる前進を目指そうとしていると言えるだろう。それを指摘できる糸口としてあるのは、やはりまずは第一部におけるカミナというキャラクターと、その死だろう。

カミナというキャラクターは、一体何を象徴する人物だろうか。彼は主人公であるシモンの義兄弟と名乗り、作中で「アニキ」と呼ばれる。しかし、それはシモンを社会化したり彼に生き方、ロールモデルを与える父性的な存在という意味ではない。そう考えるなら間違いである。つまり彼は、例えば「機動戦士ガンダム」におけるアムロ・レイにとってのブライト・ノアであるとは言えないのだ。カミナはシモンに規範意識を徹底させたり社会化を促すことは一切なかった。むしろそのような規範意識を彼は嫌悪していた。第五話において、村長が村人に偽神を崇めさせることで維持されているアダイ村に対して彼が激しい嫌悪感を示すのはその表れである。彼は近代において人々が生きる寄る辺として抱いたイデオロギーを象徴する人物などではなく、「大きな物語」の象徴などではない。つまりこの物語はそういう文脈で語るようには作られていない。

要するにこの物語は、実存のあり方についてよりも、やはりあくまでロボットアニメというフィクションの歴史とそのあり方を象徴的に描いたものとして読み解かれるべきである。そして、その視点で眺めた場合にカミナとは誰なのかを考えるべきである。さすれば彼はもちろん、この作品がオマージュを捧げている「ゲッターロボ」に代表される、70年代の「王道の」ロボットアニメの象徴としてあるだろう。カミナは常に、当時のロボットアニメが「当然そうである」ように行動するキャラクターである。例えば彼が「シモン、アレをやるぞ」と言えばそれは当然「ロボットの合体」なのである。彼にとってロボットが合体して戦うということは疑問を差し挟む余地のない必然なのだ。そして彼は、機械の体をまるで肉体のように柔軟に駆って敵を打ち倒す。そこに複雑な論理は必要ない。カミナが牽引する「グレンラガン」の第一部とは、そのような「古き良き」ロボットアニメに対して忠実に描かれる。

ところが、第一部の最後でカミナは死んでしまい、そこで「古き良き」ロボットアニメは終わりを迎える。思えば第一部においてはこの物語にはほとんど「死」という現実が介入してこない。原則として「死」は存在しないか、うやむやにされている。敵ロボットを倒した後でも、コクピットから脱出した操縦士が逃げ帰る姿がたびたび描かれることで、この物語の活劇は明るく楽天的な形で維持され続けるのだ。

ところが、「まるで漫画のように」不死身の活劇を繰り広げ続けていたカミナが第八話で死んでしまうことで、この物語は「死」というリアリズムに直面してしまう。だからカミナの死に端を発して、第一部の終わりから第二部以降には敵キャラクターが爆死する姿もちゃんと描かれるようになるのだ。アニキのいないロボットアニメの中で「アニキならどうするのか」を考えて敵を倒そうとするシモンは、しかし「死」というリアリズムに縛られて残虐に敵を破壊することしかできないようになる。それは「新世紀エヴァンゲリオン」が突き当たった問題と根底を同じくするものであり、だから第九話冒頭の戦闘シーンなどは「エヴァ」の戦闘描写と非常に近い陰鬱さをたたえている。また第十話の「ダメだよ、オレはアニキにはなれない」という言葉は「自分たちはかつてのロボットアニメを作ることができない」という意味に他ならない。

だが物語はここで「かつてのロボットアニメを描けない」という自負を受け入れた上で前に進もうとする。カミナは第一話で、「お前じゃなくてオレを信じろ。お前の信じるオレを信じろ」と言い、次には「お前を信じるオレを信じろ」と言っていた。そして死の間際には「お前の信じるお前を信じろ」と言ったのだ。さらにニアは「シモンはアニキじゃない。シモンはシモンでいいと思います」と言う。シモンはニアとカミナの言葉をやがて理解し「自分の信じる」ロボットアニメの主人公となり、強大な敵を打ち倒すのだ。それが第二部のストーリーである。つまりこの物語は「エヴァ」の問題を作品の半ばにして超克していくのであり、それはこの時代にあって、もはや驚くべき事ですらないのかもしれない。

だからこの物語はそこで終わらずに、さらにリアリズムの問題を突きつけようとする。それが第三部以降の展開である。グレンラガンを量産化したロボットたちは俗に言う「リアルロボット」のようなリアリスティックなものになり、また敵の形状も「エヴァ」における使徒のように無機質な姿形をしたものになる。また第一部と第二部において戦いの場は常に荒野であり、それはかつてのロボットアニメや特撮ヒーローたちが主に荒野を戦場とし、あるいは市街地においても人気のない場所で戦ったことと同じようにされていた。しかしリアリズムがさらに強く意識される第三部において戦いの場は都市であり、そして敵を倒せば「巻き添えになって殺される一般市民」が現れる。このような描写は昨今のロボットアニメでは頻繁に見られるものであり、例えばごく最近の例では鬼頭莫宏「ぼくらの」にあった市街地における甚大な被害などが思い出される。第三部とは、リアリズムに縛られた現代のロボットアニメの世界そのものなのである。

この問題に対して、第二部において「ロボットアニメのヒーロー」を自覚したシモンは、被害者が出る前にグレンラガンで敵を殲滅してしまえばいいというふうに考えるのだが、それはリアリスティックなロボットアニメとは相容れない考え方であった。シモンは第二部で困難を乗り越えたように見えたが、結局彼はカミナが象徴していた「スーパーロボットもの」のヒーロー像を再帰的に採り入れることに成功しただけであり、戦争後に安定を目指す世界において彼は古い想像力を引きずったロートルに過ぎない。だから彼は戦闘にあたって都市破壊も辞さない乱暴な手段を当然のように行ってしまうが、その行動は現代のロボットアニメのリアリズムを象徴するキャラクターとなったロシウから「なぜそう楽な道を行く!」と批判されてしまう。単にスーパーヒーローが派手に戦い、「死」という問題を捨象した上で勝つという展開は、リアリズムにとっては安直なやり方、「楽な道」でしかないのだ。そして、物語中の民衆にもそれは受け入れられない。暴動を起こし、カミナの銅像を打ち倒そうとする民衆とは、ロボットアニメにリアリズムを求め、スーパーロボットによる勧善懲悪ばかりで事が済むことを許さない我々視聴者の姿に他ならない。

しかし、ロシウのリアリスティックな想像力は、結局すべての人類を救うことができない。ロシウは、シモンのやり方では世界を平和に導くことが出来ないと考えて、物語を主導する実権をシモンから奪い、新たな敵を倒すために様々な策を弄する。しかし彼は結局地球上の人間の半数も救うことができず、しかも「絶対的絶望を与える」ことを明言する最後の敵によって全滅を予告される。いかなる策も通じない「絶対的な絶望を与える」敵とは何だろうか。現実的な解法が一切通用しない相手、それはフィクションそのものだ。だからこそロシウは最後にはリアリスティックな解法を諦め、フィクショナルな解法を持ったシモンに物語の担い手を戻すことを選ばざるを得なくなる。そして、シモンは自らの想像力をどこまでも増大させながら最後の戦いに臨むのだ。最後の戦いは、敵の数が「無量大数」と表現されたり、存在確率を変動させるミサイルが出てきたり、銀河を掴んでぶん投げたりしてもうメチャメチャな展開である。敵の攻撃も、シモンや仲間達の想像力を逆手に取るようにして、想像可能ないくつもの可能世界(多元宇宙)の中に彼らを封じ込めたりする。これはもはや、フィクションの想像力そのものがぶつかり戦っているという感じになっていて、とにかく面白い。

最後にシモンたちは可能世界の中から「敵に打ち勝つ」という「自分たちの目指す世界」を選び取ることで勝利を掴む。かくしてこの物語は、70年代ロボットアニメの奔放な想像力からスタートし、それがいったん挫折し、しかし再帰的にそれを導入し直して、かつ最後にはあらゆる想像力の極限を突破するところで終焉する。ロボットアニメはもちろん、我々の想像力というものが果てしなく高みへと駆け上り続けるものだということを高らかに謳いあげる、これはとても素敵な物語だ。

2008.10.14 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [アニメ

ファウスト Vol.7 (2008 SUMMER)

ここ最近、このブログはメタ批評的にありすぎて、それは僕自身気に入っていない傾向だったのだけれど、仕事のせいもあって、またいろいろ考えるところがあって、意図的にそっちに傾倒していた。しかしあれこれと書評なんかを書いて(まだ上梓されていないけど)だいたい一区切りがついたので、ようやく作品論に戻っていくことができる。ところが、そういうものをどんどん書いているうちに、今度は作品を享受する時間が取れなくなっている。これはゆゆしき問題だ。「崖の上のポニョ」も見ていないというのはおかしなことではないか。そうかとしているうちに「ファウスト」の新号がついに出てしまい、これはもう間違いなく読まねばならないのだけれど、雑誌なのに1240ページもあるのだ。読み切れない。中にも書かれているけど、これはもはや凶器である。鈍器である。読み切れないから、もう、ここにまず書いてしまう。このブログで第一に大切なのはスピードと量なのだ。

とりあえず、筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」だけは読んだ。中学生のころ筒井康隆の愛読者であった僕として、「ファウスト」に筒井康隆が、しかもいとうのいぢの絵で載るなら読まずにおられようか。だからこれだけはまず、読むのだ。全部は読めなくても、佐藤友哉特集にはまだ手が付けられなくても。

最高に面白い。これはまずい。エロ過ぎる。微エロはない。エロい。いとうのいぢのキャラが手コキするなんて、もう角川的な、またラノベ的な判断からしてありえない。しかし筒井康隆は「ライトノベル」というものについて、つまりは「中高生が性的な興味を抱くところから物語を読み始める作品群」としてあっていいということを全面的に認めて、元祖インモラル、元祖アンチタブー全開な作家として、若い書き手になど「おれ」が負けるわけない、というヒップホップ的な、空気などあえて読まない自負によってこのハードコアな小説を作り上げた。そういう意味では、この作品は「時をかける少女」のような、かつて彼が書いていたSFジュヴナイルの作品たちと比較しても、もちろん全く違う意味を持たされている。「時かけ」が美しい友情物語としてアニメ映画化され、中高年のアニメファンなどにも賞賛されている今、しかし筒井康隆という作家は、それはそれとして、ならば今の中高生を対象にしたものを書くならば、彼らと同世代の登場人物を主人公とした強烈なエロがいいだろう、という正しい時代認識を持っている。まさに読むにあたってすっかり中学生の頃の筒井康隆読者に戻っていた僕にとっても「頭がフットーしそうだよおっっ」というわけで、すぎ恵美子以降の価値観を持った小説を赤塚不二夫よりも一つ年上の作家が決然として書くのだ。かつ、同時に「時かけ」にも符合させる、学校の理科実験室、二人のタイプの違う少年、未来人、という余裕綽々とした目配せ。これはすごすぎる。

ところがこれ、終わっていない。続きがものすごく気になるところで読者に対しては手コキが寸止めなのである。「To Be Continued NEXT FAUST!」という、冗談のようなハートマークが付けられている。そうか、分かりました、つまり続きはまた二年半後ってことですね……などといくわけはないのだ。逆に言えば、そんなことになれば太田編集長は筒井康隆という大作家に対してとんでもなく礼を欠くことになるはずで、それは避けねばならない、と太田編集長自身が自覚している……はずである……たぶん。そうであってほしい! だから1136ページの「Thank you all readers! 『ファウスト』Vol.8は2008年末刊行予定です。」という、衝撃的な文句もまた、本当なのである……はずである……たぶん。

自分のことに触れさせていただくと、実は僕はこの「ファウスト」の中で、東浩紀さんにインタビューをさせていただいた。この分厚い本は東浩紀特集も備えているのであって、そこは批評の読者にもちょっと注目していただきたいあたりだ。これは「動物化するポストモダン」が三カ国語で翻訳されたということについての内容で、僕のインタビューのみについていえばもうちょっと紙幅が欲しいというか、僕の仕事の限界ギリギリの強度を読者に、そしてもちろん太田編集長や東浩紀さんにお伝えすることができなかったかもしれないが、しかし今一番語られねばならない状況論はこのインタビューで確実に東浩紀自身の口から述べていただき、紙上に封じ込めることができたという自負がある。だから今の批評について何か考えたいと思っている方には、とにかくぜひ読んでいただきたい。

佐藤友哉特集もまだ読んでいないが非常に楽しみにしている。取りあえず「佐藤友哉の人生・相談」だけ最初に読んで泣きそうになった。次に僕が読むのは、当然、鏡家シリーズの最新作にして入門編である「青酸クリームソーダ」に決まっている。ページをめくるのがもったいなくて、まだ最初の1ページしか読んでいない。どんなミステリになるのか。とてもドキドキする。あと西島大介君の漫画こそ、一番最初に読んだ。読みながらニヤニヤし、やがて爆笑していたら家人に不審がられた。

それにしてもVol.8は、本当にすぐに出るのだろうか。もはや「2008年末」というのは最初っから信じられない僕だが(佐藤友哉が書いているとおり、Vol.6にだって「Vol.7は半年後に出る」と予告されていたのだ)、それでも延びた結果として来年の春くらいに出てくれるのなら、本当にうれしい。楽しみだ。「ビアンカ・オーバースタディ」の続きだって気になるし、第一、僕は「ファウスト」が帰ってくるのをずっと待っていたんだ。本当は僕も明日までの仕事があって、やらなくちゃいけないんだけど、でもさあ、いま再び「ファウスト」の新しい1ページを読むことができるなんて、本当に幸せで、楽しくって、やめられない。そしてこの1240ページをすべて読み尽くしてしまっても、またきっと新しい1ページを届けてくれると約束してくれているのだ。「ファウスト」が続いていく世界。本当かなあ。僕は信じちゃうよ。

2008.08.10 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [アニメ

文学環境論集 東浩紀コレクションL

東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。

僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味を感じている。

東浩紀はこの論考を、大塚英志の物語論を批判することから書き始めている。ここではごく簡単に説明するしかないが、それはつまりこういうことである。「物語消費論」を書いた93年頃までの大塚英志は、日本のフィクションが文学やマンガなどメディアを問わず結局は「現実は描けない」、逆に言えば物語しか書けないということを自らに認め、しかしその上でなお逆説的に現実を活写しようとするものだとしていた。そして、とりわけ困難な条件の下にその挑戦を続けるのがマンガやアニメのリアリズムであり、それは自然主義から連なる文学などのフィクションと同等に価値あるものであるとして説いていた。東浩紀はこの大塚英志の立場を「物語擁護」の姿勢であったとしている。しかし近年、具体的には2003年に「キャラクター小説の作り方」において、大塚英志は「ゲーム的な小説」について、テーブルトークRPGを例にしながら批判を行ったとされる。そこで語られる「ゲーム的な小説」とはまず次のようなものだ。

TRPGの物語は、特定の規則に則って有限の要素を組み合わせることで生まれる。したがって、そこで語られる物語は、装飾的な細部がいくら多様で複雑であろうとも、基本的には予想を超えることはない。主人公はヒロインを救い出すだろうし、強大な敵は打ち倒されるだろうし、世界の秘密は最後には明らかになるだろう。

上記の内容は大塚英志の言葉としてはこうある。「ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、ということを伝えておきたいのです」。つまり「ゲーム的な小説」は「物語の類型化」を招き、物語の想像力を衰退させるものだということだ。東浩紀はこの大塚英志の批判について、まず「物語の類型化」を、それが避けえないものとしていったん擁護する。「ゲーム的な小説」に限らず、神話から近代小説まで物語というものが煎じ詰めれば定型に収斂可能であることは自明のものとしてあることは広く理解されてきたからだ。その条件の下でなお「現実」を描く試みとしてあったとしてこそ、大塚英志は「物語擁護」を行っていたにもかかわらず、ゲームについてはその創造性を大塚英志は見出していないと東浩紀は書いている。すなわち彼の言葉では以下のようになる。

『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実にたどりつくことがない。

そこで、東浩紀は一つの疑問形から、彼の「ゲーム的リアリズム」への試みを開始する。

筆者の疑問は単純である。大塚はゲームの技法をTRPGで代表させ、類型化を免れえないものだと考え、そのライトノベルへの影響を否定的に捉えていた。しかしそれは正しいだろうか。

僕がいま問いたいのはこの一つの疑問である。東浩紀はそれにどのように答えていったか。まず彼は「ゲームという物語体験」の新しい形として、大塚英志の挙げたテーブルトークRPGではなく、ノベルゲームを例として提出する。そしてその構造分析をゲームというメディア全体に敷衍した形で次のように述べる。

ゲームにおける物語体験は、キャラクターが存在する物語世界(虚構)を充実させるだけでなく、プレイヤーが存在する世界(現実)を繰りこむことではじめて固有で単独的なものに変わる。

これはつまり、ゲームというものが物語と登場人物という虚構だけでなく、プレイヤーという物語外の存在の関与(ゲーム上での操作)、もしくは関与の不可能性(プレイヤーキャラクターを含む登場人物がときとしてプレイヤーの意志を離れて物語を進行させること)を内在させているという指摘である。すなわちゲームはあらかじめメタフィクションを誘発するような条件の下で成り立っているメディアであるとしたものである。「ONE」や「AIR」などの優れたノベルゲームが、彼にとってその具体例としてあるだろう。この指摘自体は全く間違いではない。しかし、このメタフィクション性の指摘のみをもって、東浩紀はつまりはゲームが「現実を描きうる」のだ、という言い方で当初の疑問に対する回答に代えてしまう。

ここでようやく、今書いているこのブログの記事において僕が指摘したい点に到達する。すなわち、ここで東浩紀は結局、ゲームも含めてフィクションは、やはりおしなべて現実を表象するからこそ価値があるのだとしてしまうのである。この回答は、実はまだ半分であるように僕は思う。なぜなら、ここでは物語が類型化を免れえないという課題については、ゲーム的リアリズムがそのメタフィクション性によって、まさにその課題自体をメタ的に指摘しうるものだという主張によってのみ解決されてしまうのである。ところが東浩紀は、その上で、あらゆる物語が類型化を免れえないことが現前した時代に作家が選ぶことが可能な態度は二つあるとして、その一つとは、作家が自分の物語が定型的なものに過ぎないことを理解した上で、商品としての物語を再生産するという方向性だとするのだ。

ジャンルや世代を問わず、いまや多くの作家が無意識にその方向を選択していると言える。純文学作家は純文学のデータベースを用いて純文学のファンに向けて、ミステリ作家はミステリのデータベースを用いてミステリのファンに向けて、アニメ作家はアニメのデータベースを用いてアニメのファンに向けて、それぞれ商品価値が高い「小さな物語」を提供する。そして、ときどき、そのいくつかがベストセラーになる。それが現代の物語消費の風景である。本論はその風景を批判するものではない。筆者もまた、それらの物語を享受し、笑ったり泣いたりして毎日を送っている。

東浩紀はこのような物語のあり方を言葉の上で認めながら、しかしそれをウェルメイドな再生産を目指すものに過ぎないものとして扱っているというのは否定できないことだろう。ここで彼は、作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする。ポストモダンにおける定型の物語の再生の課程については単に近代的な創作の延長であるとして、注意は払われないのだ。そして彼が批評家として関心を寄せるのは、作家の採りうべきもう一つの態度として述べられるもの、すなわち、彼が舞城王太郎「九十九十九」や桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」に見出した、ゲーム的な物語がメタ的な視点によってポストモダン社会の「現実」の活写に到達するようなフィクションであるとされる。「メタリアル・フィクションの誕生」の結びとして彼は次のように書いている。

このような視点を手に入れたことで、私たちは今後、さまざまな作品にゲーム的リアリズムの可能性を発見することができるだろう。「ゲームのような小説」は、決して死を描けないわけではない。現実を否定するわけでもない。

彼が見出したゲーム的リアリズムは、確かにポストモダンにおけるフィクションの可能性の一つとしてあるし、一定の評価に値するものだろう。しかし、彼はついにフィクションは「現実」を描くものだという本来性を論拠にしながらその立場を確保している。ここで彼の批評は、現代に表出している作品群から批評に値するものとそうでないものを峻別し、その一方を捨てようとしているだけでなく、それは結局「人間が描けているか」などに代表される、文学論における純文学とエンタテインメントの峻別の構図に類似してしまっていないだろうか。

そこで我々は東浩紀の最初の疑問に立ち返らなければならない。いや、もっと言えば大塚英志の「ゲームのような小説」に対する批判へと戻らなくてはならない。

ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない

このような物語は、結果としていまフィクションの可能性を狭めているだろうか。それは単にウェルメイドな再生産としてのみ、単なる商品としてのみあるのだろうか。しばしばベストセラーとして登場するそれらを、ケータイ小説を、「らき☆すた」を、ウンコをしないアイドルへの絶対的な愛情を、奈須きのこを、武道館や紅白歌合戦という大時代的な成功を目指すPerfumeに抱かれる感動を、相対性理論やかつての□□□が見せた過去の作品のデータベースからの奔放な参照を、批評は語る必要がないのだろうか。レビューは、それを一笑に付すものだとすることができるだろうか。また僕らがインターネットで作品を語るときに、ある作品への評価を、単なるランキングやマッピングの素材として片付けるべきなのだろうか。

僕はそうは思わない。ポストモダンがあらゆる事物の相対化に達したならば、我々がその状況をいま受け入れて生活していくとするならば、その状況下で他者がさまざまな作品に対して愛情を投げかけているということを我々は肯定するべきである。そのための言葉を我々は模索しなければならない。他者の愛情をおおらかに肯定するために機能する言葉を探さねばならない。しかし、それが東浩紀に突きつけられるべき問題としてはないのも、またポストモダンにおける事実である。それは、我々の一人一人に与えられた課題であるはずだ。

最後に一つの例を挙げよう。「Fateは文学」という言葉がある。これをはてなダイアリーのキーワードは、単に熱烈なファンによる過剰評価として説明している。文学とそうでないものは、悪びれもせずにより分けられようとしている。そして誰かがそのような形で愛情を語ったときに、彼を擁護する言葉が何もないということを、我々は、そろそろ遅まきにも認識するべきだ。

2008.06.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽] [マンガ] [アニメ] [ゲーム] [映像] [ガジェット

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