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文学環境論集 東浩紀コレクションL

東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。

僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味を感じている。

東浩紀はこの論考を、大塚英志の物語論を批判することから書き始めている。ここではごく簡単に説明するしかないが、それはつまりこういうことである。「物語消費論」を書いた93年頃までの大塚英志は、日本のフィクションが文学やマンガなどメディアを問わず結局は「現実は描けない」、逆に言えば物語しか書けないということを自らに認め、しかしその上でなお逆説的に現実を活写しようとするものだとしていた。そして、とりわけ困難な条件の下にその挑戦を続けるのがマンガやアニメのリアリズムであり、それは自然主義から連なる文学などのフィクションと同等に価値あるものであるとして説いていた。東浩紀はこの大塚英志の立場を「物語擁護」の姿勢であったとしている。しかし近年、具体的には2003年に「キャラクター小説の作り方」において、大塚英志は「ゲーム的な小説」について、テーブルトークRPGを例にしながら批判を行ったとされる。そこで語られる「ゲーム的な小説」とはまず次のようなものだ。

TRPGの物語は、特定の規則に則って有限の要素を組み合わせることで生まれる。したがって、そこで語られる物語は、装飾的な細部がいくら多様で複雑であろうとも、基本的には予想を超えることはない。主人公はヒロインを救い出すだろうし、強大な敵は打ち倒されるだろうし、世界の秘密は最後には明らかになるだろう。

上記の内容は大塚英志の言葉としてはこうある。「ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、ということを伝えておきたいのです」。つまり「ゲーム的な小説」は「物語の類型化」を招き、物語の想像力を衰退させるものだということだ。東浩紀はこの大塚英志の批判について、まず「物語の類型化」を、それが避けえないものとしていったん擁護する。「ゲーム的な小説」に限らず、神話から近代小説まで物語というものが煎じ詰めれば定型に収斂可能であることは自明のものとしてあることは広く理解されてきたからだ。その条件の下でなお「現実」を描く試みとしてあったとしてこそ、大塚英志は「物語擁護」を行っていたにもかかわらず、ゲームについてはその創造性を大塚英志は見出していないと東浩紀は書いている。すなわち彼の言葉では以下のようになる。

『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実にたどりつくことがない。

そこで、東浩紀は一つの疑問形から、彼の「ゲーム的リアリズム」への試みを開始する。

筆者の疑問は単純である。大塚はゲームの技法をTRPGで代表させ、類型化を免れえないものだと考え、そのライトノベルへの影響を否定的に捉えていた。しかしそれは正しいだろうか。

僕がいま問いたいのはこの一つの疑問である。東浩紀はそれにどのように答えていったか。まず彼は「ゲームという物語体験」の新しい形として、大塚英志の挙げたテーブルトークRPGではなく、ノベルゲームを例として提出する。そしてその構造分析をゲームというメディア全体に敷衍した形で次のように述べる。

ゲームにおける物語体験は、キャラクターが存在する物語世界(虚構)を充実させるだけでなく、プレイヤーが存在する世界(現実)を繰りこむことではじめて固有で単独的なものに変わる。

これはつまり、ゲームというものが物語と登場人物という虚構だけでなく、プレイヤーという物語外の存在の関与(ゲーム上での操作)、もしくは関与の不可能性(プレイヤーキャラクターを含む登場人物がときとしてプレイヤーの意志を離れて物語を進行させること)を内在させているという指摘である。すなわちゲームはあらかじめメタフィクションを誘発するような条件の下で成り立っているメディアであるとしたものである。「ONE」や「AIR」などの優れたノベルゲームが、彼にとってその具体例としてあるだろう。この指摘自体は全く間違いではない。しかし、このメタフィクション性の指摘のみをもって、東浩紀はつまりはゲームが「現実を描きうる」のだ、という言い方で当初の疑問に対する回答に代えてしまう。

ここでようやく、今書いているこのブログの記事において僕が指摘したい点に到達する。すなわち、ここで東浩紀は結局、ゲームも含めてフィクションは、やはりおしなべて現実を表象するからこそ価値があるのだとしてしまうのである。この回答は、実はまだ半分であるように僕は思う。なぜなら、ここでは物語が類型化を免れえないという課題については、ゲーム的リアリズムがそのメタフィクション性によって、まさにその課題自体をメタ的に指摘しうるものだという主張によってのみ解決されてしまうのである。ところが東浩紀は、その上で、あらゆる物語が類型化を免れえないことが現前した時代に作家が選ぶことが可能な態度は二つあるとして、その一つとは、作家が自分の物語が定型的なものに過ぎないことを理解した上で、商品としての物語を再生産するという方向性だとするのだ。

ジャンルや世代を問わず、いまや多くの作家が無意識にその方向を選択していると言える。純文学作家は純文学のデータベースを用いて純文学のファンに向けて、ミステリ作家はミステリのデータベースを用いてミステリのファンに向けて、アニメ作家はアニメのデータベースを用いてアニメのファンに向けて、それぞれ商品価値が高い「小さな物語」を提供する。そして、ときどき、そのいくつかがベストセラーになる。それが現代の物語消費の風景である。本論はその風景を批判するものではない。筆者もまた、それらの物語を享受し、笑ったり泣いたりして毎日を送っている。

東浩紀はこのような物語のあり方を言葉の上で認めながら、しかしそれをウェルメイドな再生産を目指すものに過ぎないものとして扱っているというのは否定できないことだろう。ここで彼は、作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする。ポストモダンにおける定型の物語の再生の課程については単に近代的な創作の延長であるとして、注意は払われないのだ。そして彼が批評家として関心を寄せるのは、作家の採りうべきもう一つの態度として述べられるもの、すなわち、彼が舞城王太郎「九十九十九」や桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」に見出した、ゲーム的な物語がメタ的な視点によってポストモダン社会の「現実」の活写に到達するようなフィクションであるとされる。「メタリアル・フィクションの誕生」の結びとして彼は次のように書いている。

このような視点を手に入れたことで、私たちは今後、さまざまな作品にゲーム的リアリズムの可能性を発見することができるだろう。「ゲームのような小説」は、決して死を描けないわけではない。現実を否定するわけでもない。

彼が見出したゲーム的リアリズムは、確かにポストモダンにおけるフィクションの可能性の一つとしてあるし、一定の評価に値するものだろう。しかし、彼はついにフィクションは「現実」を描くものだという本来性を論拠にしながらその立場を確保している。ここで彼の批評は、現代に表出している作品群から批評に値するものとそうでないものを峻別し、その一方を捨てようとしているだけでなく、それは結局「人間が描けているか」などに代表される、文学論における純文学とエンタテインメントの峻別の構図に類似してしまっていないだろうか。

そこで我々は東浩紀の最初の疑問に立ち返らなければならない。いや、もっと言えば大塚英志の「ゲームのような小説」に対する批判へと戻らなくてはならない。

ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない

このような物語は、結果としていまフィクションの可能性を狭めているだろうか。それは単にウェルメイドな再生産としてのみ、単なる商品としてのみあるのだろうか。しばしばベストセラーとして登場するそれらを、ケータイ小説を、「らき☆すた」を、ウンコをしないアイドルへの絶対的な愛情を、奈須きのこを、武道館や紅白歌合戦という大時代的な成功を目指すPerfumeに抱かれる感動を、相対性理論やかつての□□□が見せた過去の作品のデータベースからの奔放な参照を、批評は語る必要がないのだろうか。レビューは、それを一笑に付すものだとすることができるだろうか。また僕らがインターネットで作品を語るときに、ある作品への評価を、単なるランキングやマッピングの素材として片付けるべきなのだろうか。

僕はそうは思わない。ポストモダンがあらゆる事物の相対化に達したならば、我々がその状況をいま受け入れて生活していくとするならば、その状況下で他者がさまざまな作品に対して愛情を投げかけているということを我々は肯定するべきである。そのための言葉を我々は模索しなければならない。他者の愛情をおおらかに肯定するために機能する言葉を探さねばならない。しかし、それが東浩紀に突きつけられるべき問題としてはないのも、またポストモダンにおける事実である。それは、我々の一人一人に与えられた課題であるはずだ。

最後に一つの例を挙げよう。「Fateは文学」という言葉がある。これをはてなダイアリーのキーワードは、単に熱烈なファンによる過剰評価として説明している。文学とそうでないものは、悪びれもせずにより分けられようとしている。そして誰かがそのような形で愛情を語ったときに、彼を擁護する言葉が何もないということを、我々は、そろそろ遅まきにも認識するべきだ。

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2008.06.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽] [マンガ] [アニメ] [ゲーム] [映像] [ガジェット

耳をすませば

最近TSUTAYA DISCASのレンタルDVDを借りているという話は何度か書いているが、見るヒマがないので取りあえずXvidにエンコードしてハードディスク内に保存している。だがしかし、動画ファイルになっていても、ヒマがなければ見られないものはやっぱり見られないのである。

仕方がないので風呂で見ることにした。最近はわざと自分で忙しくしているので、時間を有効に使おうという気持ちも大きくなってきている。それで、何でも風呂でやろうとしているのだと思う。昔ならこんなところで、さも時間が惜しいかのように映画を見るなんて、とても嫌だったはずだ。だが今の僕は「だったら見ない方がいい」という判断こそを消極的なものとして退けようとしているのだ。

こうして僕は、Xvidの動画ファイルを携帯動画変換君でMP4にエンコードして、ゲームボーイアドバンスSPに挿したPLAY-YAN microで見ることにしたのだ。風呂の中で。DVDを見るつもりで借りたのに、何だかずいぶん小さい画面になってしまった。しかし僕は「耳をすませば」をそうやって見たのだ。そして、そんな小さな画面で、風呂につかりながらであっても、この映画に感動して泣いたのだった。

僕は風呂で泣くために結果としてこの作品を複製したのだ。そのためにCSSプロテクトを解除しているし、解像度をかなり下げているし、あまつさえゲームボーイアドバンス上で違和感なく映像を表示するために本来16:9の画面の左右を大きくトリミングしている。このコピーは全くオリジナルを傷つけたものだったが、しかし、そのことは僕の感動に何も関係ないと僕は泣きながら思った。しかしカジュアルコピーや著作権についての議論する人の中には、僕が正規のDVDを見ていたら、もっと深く感動しただろうと思う人もいるのである。そういう人は他人の感動がどうこうと言う以前に感受性がおかしくなっているのだと思う。

映画について話をすると、これは作家が誕生する瞬間についての物語だった。作品を生み出すということは、自分に何ができて、未だに何ができないのかをはっきりと自覚することなのだということが描かれている。老人に最初の読者になってもらい、しかし自分が全く思い通りに物語を作ることができなかったと自覚して、「あなたは素敵です」と言われる。そこがこの映画の最大の見せ場である。

どうして変わっちゃうんだろうね
私だって昔は、ずっと素直で優しい子だったのに
本を読んでもね、このごろ前みたいにワクワクしないんだ
こんなふうにさ、うまくいきっこないって
心の中ですぐ誰かが言うんだよね
かわいくないよね

上のセリフには「大人になってしまうことの悲しさ」のようなものが込められているように見える。思春期というテーマが巧みに重ねられているが、しかしこれが単なる青春ものや成長物語ではないのは、彼女がやがて忘れ去られる子供時代の象徴として提示されたはずの「物語」を捨てずに、自ら物語を作り出すことを選択するからだ。

彼女は結局のところ自分の人生が物語として開始されるのをいつまでも待ち続けていた人間で、不思議な猫をどこまでも追いかけたりするのも、それが物語の入り口かもしれないと期待しているからこそだったのだ。しかし当然だが彼女が物語に巻き込まれることはない。現実とは存在するだけで彼女を物語から引き離そうとする手強い相手である。作家になるということは、その劣勢から、彼女がついに自分で新しい物語を紡ぎ出すということなのだ。その瞬間こそが感動的なのである。

いくら本好きとはいえ、ボーイフレンドに触発されて物語の書き手を志すのは、筋の上ではいささか唐突なことにも見えるかもしれない。しかし彼女にはそうする理由があったのだ。彼女が語り出したときに、自分自身を物語の登場人物として夢想したのは当然である。彼女はずっと、自分を物語の中に置きたかったのだ。

この作家の誕生というテーマは、もはや青少年の成長物語という範疇に収まらないだろう。もちろん恋愛劇でもない。むしろそれらは彼女の成したことに比べれば「現実的」すぎるため、ごく曖昧にしか結論が示されない。ラストのプロポーズのやり取りが実に盛り上がりなく、おざなりに終わるのはそんなわけである。

2007.04.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [ガジェット

弾いて歌えるDSギター"M-06"

とっかえひっかえ、ゲームをやっていた。ハドソンの「SUDOKU2 Deluxe」をやってみたつもりだった。前作よりUIがよくなっているはずなのに全然変わらないなあと思ってよく見たら、前作だった。なにをやっているのか。こういうの多いなあ僕は。

「弾いて歌えるDSギター"M-06"」もプレイする。これはたいへん面白い。本当にギターを弾いているようだ。デジタル的な楽器といえば鍵盤の付いているもの、つまりMIDIインタフェース的なものを想像してしまうし、そういうものしか触ったことがなかったのだが、これは触ったら触ったとおりに音が出て、それきりなのだ。何を当たり前のことを書いているのかと思うかもしれないが、UIと音源が別になっている種類のデジタル楽器しか頭になかったせいで、こういう当たり前のことにバカバカしいほどに驚いてしまうのである。

操作がタッチペンだろうが何だろうが、それが単にMIDIインタフェースであれば別に驚いたりはしない。しかしこれはDSから鳴る音色はほぼ変えることができない、というところが本物のギターっぽいなと思った。音色を変えようと思ったらアンプやコンパクトエフェクターに通すことになる、という点こそが、これがMIDIインタフェース+ギター音色ではなく、「楽器」的だなあというわけだ。

ただ、自作してバンクしておけるコードは1曲につき16個で5曲分のみ、というのが残念だった。内部に20曲ぐらい入っている曲コード&歌詞を使って弾き語りをするだけの人には関係ないけど、楽器としてライブなどで使ってみたいという人には少なすぎると思う。この少なさだとコード感のある曲を多数演奏するのは難しい。DSを複数台用意すれば別だけど。ギターみたいにスタンドに置いておくとか?そうしない限りは、即興セッションとかDTMや宅録がメインの用途になってしまう。しかしそれなら「変わったMIDIインタフェース」とあんまり変わらないのだ。録音メインなら面白いデバイスを使って演奏する意味は少ない。これでしかできない面白い音が作れるなら別だけど。

もっとも、こういう「音の出るオモチャ」が好きな人にはいい遊び道具だし、そういう人は、どんなものだろうがいじり回し、使えれば使える形で使う、という人に違いない。だからバンクできるの何曲分だろうが、ソフトの細かな仕様なんてどうだっていいことかもしれない。そもそも「ギターの代替品であり、楽器である」という主張を持った製品ではないのだから、そんなことは言うだけ野暮である。

2007.01.07 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [ガジェット

EZ助手席ナビ

先日バイク用のインカムセットを買ったが、マイクが必要ないときはアンプを使わなくてもいいようにした。本来ならヘッドフォンからアンプへ有線接続し、アンプの外部入力に携帯をつなぐところを、アンプを介さずヘッドフォンと携帯を直接つなぐわけだ。しかし面倒なのはヘッドフォンからのケーブルがモノラル2.5φオスなので、携帯電話の平型端子用アダプタのさらに前に3.5φオスに変換するアダプタを付ける必要があるということだ。アダプタばかりゴテゴテと付いて非常に不安定で使いにくいが、ジャマなアンプを一掃してオーディオ再生は快適にできるようになった。

さて今日はちょうど上野から明治神宮前(渋谷寄りの方)まで移動する用があったので「EZ助手席ナビ」を使うのにほどよい距離ではないかと思って使ってみた。インカムを買ったらこれを活用してみようと思っていたのだ。「助手席ナビ」というのは要するにナビなのだが、わざわざ「助手席」と書いてあるのは、運転中に携帯を操作すると違反になるので「助手席の人が使ってね」という意味である。しかし運転者であっても、音声ガイドをヘッドフォンで聞くことができるので、事実上使うことができる。地図を見たり操作したりするのはダメだが。

実際に使ってみると、お世辞にも賢いナビとは言えない。今回使った以外に、以前自宅近くで一方通行に入っていこうとしたので非常にイメージが悪かったのだが、やはりあまり賢くないようだ。ルートの選び方は、上野駅から中央通りを通って秋葉原を横断、靖国通りに出て、市ヶ谷まで行ったら外堀通り、赤坂御所の裏を通って国立競技場のあたり(SELANのあるとこ)から青山通り、表参道から明治神宮前駅前で明治通りに乗って目的地、という感じ。文字で書いてもサッパリ分からないが、要はやたらクネクネと曲がって遠回りしている。設定で右左折を減らすとかできないものかと思ったが、どうやらできないようだ。

また、音声ガイドのタイミングがおかしいことがある。1キロ先で右折とか言ってたくせに、その後900メートルぐらい走った後で「あと500メートル」とか言われて混乱する。「まもなく右折」というのも、要は「目の前の交差点で」ということである。ただ、僕はナビと言えばレンタカーにたまたま付いていたやつしかマトモに使ったことがないためあまり慣れておらず、よく分からない。ナビというのは元来こういうものなのかもしれない。

従って狭い範囲で細かい道をナビさせるのには向いていないような気がする。半面、高速道路では便利そうだ。バイクだと地図が見られないためどのへんを走ってどこから降りたらいいのか分かりにくいので。

こういうレポートっぽい文章は全然面白くないので頭に来た。読み返して「だから何だ」と思った。こういうものを書く手法が見つかっていない。

2006.11.23 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ガジェット

チェルシーさんは7の魔神をブッ殺さねばならない。

ずーっと「チェルシーさんは7の魔神をブッ殺さねばならない。」をやっている。すげー面白い。やってるうちに迷宮探索ゲー、もっと言うとガリウスの迷宮がやりたくなってくるが、手軽に動かす環境がないのでプレイするに至っていない。つーか、最近はエミュレータはもっぱらマジコン上のPocketNESであってオールドゲームは携帯ゲーム機でやるに限ると思ったのでなるべくならPC上で動かしたくないのだ。fMSXDSってどのくらいちゃんと動くのかな?MSXって当時自分で持ってなかったので何となく手が出ず、今までろくにエミュレータを触ったことがない。

で「チェルのブ」であるが、今ようやく主人公編でラスボス第三形態まで来た。相変わらずゲームが下手なので時間がすげーかかっている。つーかバニーさん編の方でラスボスのティルナノーグが越えられなくて100回ぐらい死んだような気がする。おかげでバニーさん編のラスボス戦がすごくうまくなった。それにしてもPlatineDispositifのゲームはどれも面白いなあ。

2006.11.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [ガジェット

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