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リアル鬼ごっこ

「リアル鬼ごっこ」という小説の評価は全くひどくて、それは知っていた。いわく、物語の筋が陳腐であり、かつ展開が矛盾したものであったり突飛であったりして、とても読むに耐えないのだという。こんなものが何万部も売れて、映画化まで決まるのはおかしいという。Amazonのレビューにはそういう罵詈雑言を書き連ねたレビューがどんどん掲載されている。それによると、そもそも文章が書けておらず、この本を罵倒するレビューを書いている者の方がよっぽど豊かな日本語能力があるのだという。

僕がただ不思議なのは、そんなにひどい本ならば、なぜ何万部も売れたのだろうかということだった。Amazonレビューの意見では、小説読者の質が下がっているから、こんなものが売れるのだということだった。実につまらない意見で、そんな老人の繰り言のようなことを書いていて楽しいのだろうかと思う(もちろん彼らは楽しいのである)。そういう意見は単に書き手自身が作品を否定しただけであって、結局この本が多くの人に支持された理由について何がしかの理解をもたらすわけではない。もちろん一般読者が、自分が何か有益な思いをできなかったことを理由にして、ひどい作品だと切って捨てることはあるだろう。しかしそれだけなのであれば、彼らがやっていることとは、この本に感動して「私は面白かったです」と舌足らずに述べる少数のレビューと変わらない。感動した者たちを馬鹿呼ばわりできるのには及ばない。それどころか「こんなものに泣ける奴は愚かだ」と言う人は、結局書物に泣くことを期待するという点には半ば同意してしまっている。そして、この本がなぜ支持されるのか、一体何を描いているのかという疑問はなお残るのだ。それで僕は、文庫をひとつ買い求めて、読んでみることにした。

たしかにひどい本である。この文庫の全く何がひどいと言って、とにかく解説がひどすぎる。解説によると、この本の作者は出版不況を変えるために自費出版から現れたヒーローなのだという。それどころか、どうやら自費出版を除く既存の出版システムでは、この不況を打破することはできないのだと言っているようだ。これにはたいへん驚いた。今どき、フィクションをめぐる状況において同人活動が無視できなくなっているというのなら、いささか見飽きた類の意見だが、まだ分かる。既存の作り手たちがマーケットの動向を読めなくなっているという意見だけなら、多くの人が首肯する類のものだろう。しかしこの解説が言っているのは同人シーンのことなんかではない。我々は自費出版に賭けるしかないのだという。自費出版については、どちらかというと様々な問題があると書かれたものを僕はよく見かけるから、これをそのまま認めるわけにはいかなかった。そもそも、その解説は新人発掘と流通の仕組みについての話であって、作品がどのように優れているかとか、何が書かれているのかということではないのだ。結びの部分で、ほとんど余談のように、命を賭けた鬼ごっこという非日常的な設定に現実世界と同じ不条理さがあるから読者の共感を得たのだ、みたいなことを書いているが、現代社会の不条理をフィクションから感じるという話を今さらしたいのであれば、20世紀にも不条理小説がいろいろあるから読めばいいのではないだろうか。結局この解説は、作品について大したことを理解させてはくれない。暴動のようにつまらないぞと叫び続けるレビューの方が、ただ惨状として残される。

この文庫のカバーに書かれた呼び込み文には、さりげなく「ベストセラーの〈改訂版〉」と書かれている。出版社におなじみのやり方だと、文庫で加筆があったりした日には大々的にそのことを報じてセールスにつなげようとするものだが、ここで〈改訂版〉の文字はたった一個所、本当にささやかにしか書かれていない。だからまあ、この「改訂」は誇るべき事ではなくて、文章としてまずいところを直したという意味なのかもしれない。実際、文庫の方はそこまでの悪文とも思わなかった。別段うまいわけではないが、もっとひどい文章ならインターネット上にもたくさんあるし、もちろん商業出版されたものにだってある。僕はひどいと言われる単行本のほうを読んではいないので、それが僕に与えられたこの本だった。しかしそもそも本当の理想を言うなら、小説の善し悪しについて文章能力を認められるかどうかで判断すべきではないのだろう。

さて、話の筋に矛盾があるとか突飛であるとか、不合理な展開があるという向きに、僕はなぜそんなことを思うのか不思議である。この物語の最初のページ、「西暦3000年」という設定が述べられた時点で、読者はまあ、これがほとんど童話のような、ファンタジーノベルだと思ってもいいと思ったからだ。「西暦3000年に”佐藤”という性を持つ者が500万人を超えた」という導入部は荒唐無稽だと言ってもいい。しかしそこからはまず数字のインフレーション、過剰さを受け取るべきなのであって、これはハードSFが開始されるという合図ではないし、もちろんリアリズム小説を期待するべきでもない。

したがって、「西暦3000年なのに町並みの描写が現代と変わらないのがおかしい」などと言うのはこの冒頭を読み誤っている。そんなことが問題ではないのだ。このインフレーションについて通常ならざるものを感じるならば、それがリアリズムに則っていないという安易な指摘に留まってはいけない。それではこの作者の何が真に異常と呼べるのか分からなくなってしまう。また「佐藤探知機」などという機械が登場するからといって、それがすなわち失笑に値するわけではない。世の中には「警官殺し機」とか「心臓抜き」という道具が登場する小説だってあるだろう。

そう、たしかにこの作品には奇怪なところがある。不気味な色を湛えている。僕が本当にちょっと面白いなと思ったのはそこで、この作品には「西暦3000年」のような超然としたイメージと、「佐藤」という凡庸なイメージをこんなふうな乱暴なやり方で結びつけてしまうようなところが全編を通してある。そこではリアリズムの構築が放棄されているというよりも、従来的なリアリズムの感覚がこの作者にはないと言える。西暦3000年という漠然とした超未来と、「十三」などというひどく卑近な地名が混在したところで、この作品の気味の悪さは生まれてくる。

個人的に興味深かったのは舞台が「王国」であり、これがひどくステロタイプな絶対王政のイメージでもって描かれることだった。王は宮殿に住み、玉座に座り、クラシック音楽を聴き、ワインを飲んでいる。絶対王政どころではないかもしれない。時は西暦3000年であり、かつ現代日本的な日常を描きながらも、作者は権力というものをRPGによくあるような紋切り型のハイファンタジー的な意匠でもってイメージしてしまうのだ。日常が存続し、家庭があり、学校があり、会社組織がある一方で、権力は複雑なやり方で支配を維持しているとは考えず、いきなりRPGになってしまう。管理型の権力を想像するどころか、独裁者のようでありながらこれはビッグ・ブラザーとも違う。民衆と権力は関係づけられないまま、そこにはただ支配のイメージだけがある。こういう想像力は若い書き手と言っていい作者の現実認識がよく出ているようで面白かった。また規則的に挿入される「○月○日、○曜日、午後十一時、”リアル鬼ごっこ”○日目……スタート」などというフレーズもゲーム的なところからの借り物であり、律儀に繰り返されるその薄気味の悪さはちょっと見ものである。この作品はある倫理観に沿って書かれており、それはおそらく、リアル鬼ごっこというゲーム自体の存在をエンタテインメントの上で否定していないし、何万人が虐殺されようがかまわないようなものなのだ。そこに違和感を感じた人がこのような書き方を悪趣味だと言うならば、たしかにその人にとってそうだと言っていいだろう。しかし僕はこのように現実を認識して、こういう小説を書いてしまう若い書き手がいるということに、そして今やこれがアウトサイダーなものだと言うことすらできないかもしれない現実に、計り知れないものを見たという快感を感じてしまう。

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2009.04.02 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章] [ゲーム

ユリイカ 第41巻第4号―詩と批評 (41)

年明けから気にくわないことが多く、仕舞いには何だか気が滅入って寝込んだりしていたが、なぜか2月の末くらいから急に書くものが増えてそれどころではなくなった。毎日「リラックスしつつ昏睡するほど酒を飲みたい」と思いながら1カ月くらい仕事している。

寄稿して、近日発売されそうなものをまとめて書こうかと思ったけど、やめだ。そんな箇条書きのようなものはここに全くいらない。だからまず27日に発売の「ユリイカ」4月号でRPGについて書せていただいたことについて書く。ここで僕は何となくドラクエの話をしているようだが、実は原稿を書きながら山下章の「電脳遊技考」をずっと読んでいて、本当はドラクエ以前の8ビットパソコンにおけるRPGのことをずっと考えていた。この本はとてもいい本だが、同時に90年代初頭という時代にゲームというものがどういう進化を求められていたのか、その限界がよく現れている。しかし、それも含めていい本だ。愛すべき本だ。

限界というのは強く物語を求めるようになったということで、原稿でも触れたけど、そのことは日本のRPGの方向性を決めた。

仕事の合間に、「ユリイカ」の掲載誌をちょっとめくりながら、ぼんやりと考えた。もちろん僕は、中田健太郎さんの書かれている、「ゲーム性」を旗印にしてゲームにおける物語性を批判する向きについて念頭におきながら原稿を書いたわけだ。そしてアンディー・メンテの泉和良さんも書いてらっしゃるゲームファンたちの不毛な覇権争いのことも。それで僕は、そうか、自分はインターネットの言説のありように批判的なのだなと思った。

思えば「ユリイカ」では2月号にも寄稿させていただいた。それは水村美苗「日本語が亡びるとき」についての文章で、やっぱり僕は同じだ。僕が書いたのはインターネットなどの言説をまず見聞して、それにあるていど横槍を入れるようなことを謀っているのだ。結局はそうか。そうやって、知らず僕は広くない読者を選んでしまっているかもしれない。これはけっこうへこむ。

それはともかくとして、もちろん、ネットの気持ちをあおり立てるような、ネット批判のような文章を書いたわけではない。

いや、そもそも今の書き方が誤った。媒体としてネットを批判するなどということ自体がおかしい。

インターネットはシステム上で人々をいったん横並びにする。ときどきそれは美点であると言われる。しかし、その美点を賞賛する人が「だからインターネットには従来のメディアよりもずっと優れて価値があるのだ」みたいなことを言ったりする。

まず僕が言いたいのは、そうではないだろう、ということだ。ネットに書かれたものに、ほかの媒体に持ち出せない価値があるのは当たり前で、ネットに書くということを意識する書き手ならば、そのことを最大限に利用するべきですらある。しかし、ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことだ。

横並びのシステムに乗っていて、今や等価にものを見られるようになったと言いながら、そのシステム自体は特権化できるという。そうして、やっていることは既存の価値を再強化したり、糾弾するようなことなのだ。どうしても不思議に感じる。僕がおかしいのだろうか。

あるいはメディアリテラシーということを言う人がいて、マスメディアについて批判的な読解を試みることだと解釈をしている。これは何というか、まあ、僕のちっぽけなリテラシーを最大限に働かせて言えば、いろんな意味でアメリカの思潮の流れがあって生まれてきているなと思わせるのだが、しかしこの思想に本当に深く感じ入ったなら、我々はマスメディアにも、インターネットにも、それぞれ価値を見い出して、両方を乗りこなすべきだろう。だいたい、その方がカッコいい。

ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことなのだ。ネットにだけ価値を見いだすのは楽ではある。

断っておくと、既存のメディアが滅びようとしているからそういう危機感で、ネット警戒論を述べているわけではない。だいたいそういう危機感は、ネットが覇権を握る時代が来るのだ、という考え方にやはり感化されている。既存のメディアは、(超長期的にはともかくだけど)衰退はしても滅びたりはしないだろう。

そう言うと、僕はたまたま紙媒体の仕事をしているからそういう楽観主義に胡座をかいていると思われるかもしれない。そうではない。違うのだ。もう、そういうことではないのだ。むしろ、滅びた方が、根絶やしになって全員が一箇所に流れられた方が、どれほどに話は簡単だろうか。ネットの横並びのシステムは、たしかにそういうあらゆるものが横並びになる時代を象徴しているのだ。だからこそ、ネットがすべてのメディアに取って代わることはなくなってしまったのかもしれない。覇権を争うのではない価値観は、たしかに必要とされている。

「日本語が亡びるとき」について文章を書きながら、僕は自分の文章が少なくとも水村美苗には届かないと自覚して悲しかった。どれほどネット的な文章が、あるいはネットが、あるいは携帯小説が、あるいは最近の小説が、優れている、価値があるといったって、日本語は亡びたりしないと叫んだって、言葉というのはそもそも変わっていくものなのだという話をしたって、だめなのである。言葉が届かない。どうしたらその価値観を横並びの中で共有できるのだろうか。自分だから無理なのだろうか。

だがそんなことを書き続けるのだ。

2009.03.27 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

428 ~封鎖された渋谷で~

すっかり遅くなったが、おかげさまでミニコミ「Hang Reviewers High」は文学フリマにおいて完売しました。ありがとうございます。さらに、更新しないでいるうちにLilmagさんで通販が始まったりサクッと売り切れたり再入荷したりまた売り切れたりしています。どうやら全部で200冊くらいお買い上げ頂いたのだろうか。ありがたいことです。再版の予定はないそうで、しかももう売り切れ寸前です。興味のある方はよかったらお早めに。

さてLilmag blogによるとこのブログは「忙しい」ばっかり書いているとの評判だが、僕もミニコミを読んでやはりそう思った。あとどうも西島大介君と酒を飲んでばかりいるようだ。が、しかし、言わせてもらうと今まさに今年最大の忙しさを迎えている。本当に忙しい。

忙しい中で428をプレイしていた。ほとんど徹夜のようにして一気にやり終えた。僕はこのゲームの発売こそを、10年間待っていたのだと言っていいだろう。このゲームは全く「街」の正当な後継作としてふさわしい。双生児、渋谷署の刑事、ダイエットなど「街」を連想させるに十分な要素がちりばめられているし、大沢シナリオのデカダンな雰囲気の演出だって前作の「シュレディンガーの手」を思わせるものだ。さらにTIPSの中には「街」のオマージュがこれでもかというほど盛り込まれている。権利の関係なのか何なのか、今作のプロモーションで「街」というタイトルは全く隠されているようだが、しかし作中では十分なファンサービスが行われている。これは素直にうれしい。

また「街」からゲームシステムがほとんど変更されていないことが喜ばしい。より分かりやすくするために「ザッピング」という言葉を「ジャンプ」と言い換えたりしてはいるものの、チュンソフトはついに「街」のゲームシステムを否定しなかった。彼らは10年を経て、この面白いシステムそのものに間違いはなかったのだということを確認し、自信を持って再度リリースした。これはうつくしいことだ。

彼らはシステムを改変するのではなく、その運用を変えたと言うべきだろう。例えばあるキャラクターの物語が進行停止して、別のキャラクターの物語を進行させねばならないという状況は前作にも見られたが、今作ではそれに「KEEP OUT」という分かりやすい名称が付加され、ゲームの進行において鍵となる要素として強く打ち出されている。この変更は、単に前作にもあった要素に名前が付けられたというだけにとどまらない。「KEEP OUT」は、前作以上に、複数の物語をどの順序で読み進めるのかをプレイヤーに強制するように働いていると見るべきである。それは前作と今作が、システムが同じでありながら、全く違った考え方で作られているということに関連している。

「街」は複数主人公による並列した物語がごく些細なポイントでのみ繋がりあっているという物語だった。そして、あのゲームは各主人公同士が没交渉であることに徹底的に拘っていた。その頑なさはほとんどパラノイアックと言ってもいいもので、そういう偶然の連鎖に感じられる面白さをこのシステムによって表現しようとしていた。しかし428は複数の主人公が複数の物語を語るのではなく、1つの物語を複数の人物の視点から読むことのできるゲームだ。言ってみれば従来的な視点切り替え型ノベルゲームの仕様に近い。しかしチュンソフトが自信を持って変更を加えなかったマルチフラグ/ザッピングシステムの上で繰り広げられる視点斬り合え型ノベルはやけに面白い。ここには、こんなによくできたシステムなのだから、それをそのまま使ってウェルメイドなサスペンス劇をやろうという強い意志が感じられる。メジャー感のある物語をそのまま乗せてしまうということに、チュンソフトとセガは腐心している。立派なことだと思う。

そしてボーナスシナリオを奈須きのこが書いている。「弟切草」から始まったサウンドノベルが「雫」によってビジュアルノベルへと派生し、そして今1つの作品の上で再び出会っているのだから、これは単純に言って歴史的なことである。しかしそれ以上に注目すべきだと思うのはこのシナリオの作風だ。奈須きのこはアウェイ感に流されてお茶を濁すようなものを書いたりしなかった。彼ならではの、絶対にチュンソフトのサウンドノベルではあり得ない熱いバトルものを書いているのだ。ビジュアルノベルとTYPE-MOONを背負って矜持を貫く姿勢が本当にカッコいい。そして、質を異にしてありながらも本編とボーナスシナリオの両方においてメジャー感を目指す意志は共有されているのだ。ゲームにはこれだけの物語が描けるのだということを、妥協なしに主張している。素晴らしい。

2008.12.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

君が忘れていった水槽

アンディー・メンテのジスカルドこと泉和良さんについては、今号の「スタジオ・ボイス」誌にてインタビューさせていただいた。

そういえば、引きこもっていたせいで全く書けずにいたが、この前の号の「スタジオ・ボイス」で僕は宇野常寛「ゼロ年代の想像力」についての書評を書いている。興味がある方はバックナンバーなどで読んでいただければ幸いです。この本についてはもうずいぶんいろいろなところで書いているので特に今言うことはないが、「小説TRIPPER」の今号での東浩紀と宇野常寛の対談は、僕がWEBスナイパーの書評(前編後編)において書かせていただいた同書への疑問点とかなり近い部分を東さんが宇野さんに対して尋ねられていらっしゃるという興味深い内容なので同書に興味のある方は必読かと思う。

さて話は「スタジオ・ボイス」に戻るが、今号の特集は「ゲームを作ろう!-非ゲーム・クリエイターのための入門講座」というものであり、なかなか濃い内容の特集になっている。誌面からどこか懐かしい90年代のサブカルの香りがするのは、ゲームというメディアがまだその空気を残しているということなのだろうか。ちなみに僕の行った泉さんのインタビューの前ページには、ばるぼらさんによる神奈川電子技術研究所のインタビュー記事が掲載されていたりもする。

泉和良さんにも、今回は小説ではなくやはりアンディー・メンテについてを中心に、彼の「フリーウェアゲームスピリット」について語っていただいている。小学生の頃からMSXでゲームを作成し、地方の草の根BBSに毎日アップしていたというエピソードや、彼があの「MSX・FAN」の読者であり、そしてもちろんBio_100%やイタチョコシステムから大きな影響を受けた結果として今の活動があるというお話は、「マルチメディア」という言葉がまだ目新しかった90年代のゲームやコンピュータ文化、さらにはベーマガやMAX・FAN、POPCOMなどのような80年代の投稿ゲーム文化と今を繋ぐものとして読める、面白いものになったと思う。今号で僕は泉さんだけでなく「桃鉄」のさくまあきらさんにもインタビューを試みているのだが、こちらでも個人によるインディペンデントな活動としてのゲーム制作について興味深いお話をいただき、全体として才能を持った人物がアイデア一発で面白いことができてしまうパンク/ニューウェーブの精神が感じられる創作の可能性がまだゲームというフィールドにはあるという誌面になったように思えた。

それにしても泉和良さん、あるいはアンディー・メンテというサークルの立場を正しく説明するのはとても重要なことだろう。彼の活動は2000年以降の「いつものところ」や「TYPE-MOON」のような「同人ゲーム」、あるいはノベルゲームの盛況とはいささか趣を異にするものとして語られなければならず、またそうしなければ小説作家としての泉和良という人物が何をやろうとしているのかも分かりにくくなるはずだ。アンディー・メンテが今年発表した作品である「君が忘れていった水槽」はウィンドウを水槽に見立てて、そこで勝手に増殖や分裂、闘争を繰り返して成長や滅亡を繰り返すデジタルな生物の様子を眺めるというものだが、内容はもちろん、この作品は音楽がとにかく素晴らしい。ゲーム中では常時BGMが流れているのではなく、何かのタイミングで不意に一曲流れてはまた静寂が訪れる。そのふっと鳴り、ふっと終わるというどこか寂寞感の残る使われ方が非常に素晴らしいわけだが、しかしこの10曲を越えるエレクトロ/アンビエントの楽曲の数々は、今年僕が聴いたすべての音楽の中でも指折りの名曲ばかりだ。明らかにゲームミュージックという範疇を超えていて、どちらかというとゲーム好きはもちろんだが、音楽好きの人や、ゲームに興味のない人にこそ聴いていただき、その質の高さに驚いてほしいものだ。そうして、泉和良という作家の驚異的な才能に興味を持っていただきたい。全くジャンルの垣根を越えて、こんなところで質の高いものを作っている人がいるということをぜひ知っていただきたい。

アンディー・メンテの楽曲や映像作品はYouTubeなどでも、たとえば「うんぽこ」「メリークリスマス アンディーメンテ」、聴くとものすごくやけっぱちで悲しい気持ちになる「あんこくねこぐんだん」、あるいは「キューティーライダー」などを楽しむことができる。「キューティーライダー」の「さよならスウィーティー」の回などはむやみに燃えるいいムービーだ。余談だが「うんぽこ」のムービーは流水大賞の優秀賞授賞式において滝本竜彦の手によって講談社の偉い人が集まる前で流されたという噂であり、だとすればなかなか抱腹絶倒なエピソードではある。

しかし「君が忘れていった水槽」に付けられた楽曲は上記にあげた動画とはまた一線を画するもので、僕はこちらの方がずっと好きだ。配布されているゲームのアーカイブを解凍すれば音声ファイルがWAVE形式で収められているので、これをiTunesなどに突っ込んで好きなときに楽しんでもいいと思う。僕はそうしている。本当に流していて気持ちのいい音楽なのだ。

2008.10.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [映像] [文章

ゼロ年代の想像力

夏風邪をひいた。ひどい熱と腹痛と下痢で、何というかもう、最悪だ。ここ数日、自宅でうずくまって「痛い」とか「熱い」ばかり言っている。起きている間ずっと腹が痛く、しかも晩になると必ず熱が上がり、変な汗がどばっと出たり、急に寒くなってガタガタ震えだしたりする。とにかく仕事にならないので弱った。「SMスナイパー」のウェブサイト「WEBスナイパー」にて、書評を執筆させていただくという名誉な仕事を承ったのだが、おかげで進んでいない。とても申し訳ない。でも取りあえず宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の書評はアップしていただいた。この本は連載時の内容に大きく加筆されており、加筆の中でも時代にとって非常に重要と思われる問題提起を行っているためこのブログで取り扱う必要を感じていた。書評をご依頼いただいたことから、字数の指定がなかったのでブログに書こうと思ったことを全部組み込もうとして調子に乗って書いたらずいぶんと長くなり、ついに二回に分けて掲載していただくことになった(前編後編)。WEBスナイパーさんには大変ご面倒をおかけしてしまった。しかしおかげで、僕が本書について思ったことの大半はこの書評に収めることができたし、本書の全体像についてもそれなりにまとめることができたように思う。だから、興味のある方はぜひご覧ください。今週はばるぼらさんの青山正明についての連載がおやすみなので、その代わりとしてしかたなく読んでいただいても結構です。

内容としては、まあいろんな話をしているが、前編は主に本書の議論をまとめて、90年代の「ひきこもり」からゼロ年代の「決断主義」までについて言わば文化社会学的な態度を取っているのに対し、「ゼロ年代の想像力」が本当に提示したいはずのポスト決断主義的なものについては残念ながら理想論を語るレベルにとどまってしまっているようだ、という話。そして後編のほうは、この本は80年代以前の批評を無理やりに引き剥がして断絶を作るような書かれ方をしていて、それは批評として閉じているのかいないのか、それを著者はどう意識し処理したのか、みたいなことを考えつつ読むと、いつの間にかネットは従来の言説空間からずいぶん遠くに来てしまっている、ということを意識できるので面白い、という話になるだろうか。

読んでいて一番感じたのはやっぱり、書評にも書いたが、この本はとても啓蒙主義的な態度で書かれているなあということだ。ひょっとすると全編を単なる物語論として展開し、90年代の作品はこうで、ゼロ年代前半の作品はこうで、そしてゼロ年代後半の作品としてこのような移り変わりが見られる、とだけ述べる格好のつけかたもあるかもしれないのだけれど、しかし宇野常寛は90年代の「引きこもり」やゼロ年代の「決断主義」について批判しつつ、彼自身の理想とする倫理観へ人を導こうという意識が強いので、そのような本にはならない。実に啓蒙主義的な態度で本書の議論を運んでいて、結局この本は純粋な物語論の本としては成立していない。もちろんそれを目指してもいないのだろう。逆に言えば、理想論にとどまっているように見えてしまう理由もそこにある。

だが、理想を語ること自体は必ずしも間違いとは思わない。僕も彼と同じように、作品から僕個人が理想として考える社会を人に話すことはあるからだ。それに、ものすごく簡単な言い方をしてしまうと宇野常寛が読者に対して説いているのは宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」に対して「終わりのある日常を生きろ」ということなのだが、それをポスト決断主義として考えたいということを、僕は別段否定しないのだ。確かに最近のフィクションに見られる風潮として考えていくに値することだと思うし、例えば若年層のコミュニケーション研究事例などをちゃんと挟めば、実社会における風潮とも同期する動きであるとして説得力を持たせることが可能かもしれないと思う。

しかし、本書におけるその理想の語られ方にはどうしても違和感が残る。彼は本書の前半で、小さな物語の乱立する状況にあって、「真正な物語」を探すことは無意味で、むしろ今後は人は物語をいかにして受容していくのか、「物語との付き合い方」「読み方」こそが考えられるべきだという素晴らしい主張を行っていた。ところが結局この本は「90年代の引きこもりモードの作品やゼロ年代の決断主義に沿った作品には欠陥があるから、ポスト決断主義の考え方に沿った読み方ができる物語こそを人は読むべきだ」としてしまう。つまりここで宇野常寛もまた「真正な物語」探しに荷担して、彼自身が述べた「決断主義」の1プレイヤーとしての立場に自分を置いて動員ゲームを働かせようとする。たぶん彼はそのことも分かっていて「あえて」やっているのだと思うが、しかし結果としてそのやり方は「物語との付き合い方を考える」というような、例えば新しい受容理論の可能性を伺わせるようなものではなく、「これが次代の作品だ、他のはダメだ」と言って作品を示すばかりになってしまった。これは非常に残念である。

真正な物語を探すよりも「読み方」こそが今問われるべきだという主張は全くその通りだと言いたい。それは僕がこのブログでずっと考えていることでもある。僕はもう、たぶん宇野常寛には賛同してもらえないことだが、究極的には、例えば「AIR」が彼の言うように本当に「レイプ・ファンタジー」だったとしても「別にレイプ・ファンタジーでいいじゃん。ファンタジーなら」といかにして言うかということばかり考えている。それこそ僕の理想論で言わせてもらうと、それがマチズモだろうがエログロだろうが、今はまずいったん各人の物語の受容を否定しないことからすべてが開始されるべきではないかと思う。

もちろん、他人の愛する物語に不快感を覚える人はいるだろうし、僕だってこれは嫌だなと思う物語はある。だが、僕はそこで「寛容さ」みたいなものをうまく働かせるような批評はありえないのだろうかと思っている。宇野常寛は小さな物語の乱立にあって「各人の愛する物語をそれぞれに愛する」ということが排他性に直結するのものだということを疑わないし、インターネットが排他的な暴力を生むということを不可避であるとして疑わない。しかし僕はそれでも、まさに今ここで、他者への承認ばかりを蔓延させられないか、ということを考えている。他者に対する想像力を伸ばす。他者が自分と同じ人間だと考える。自分の愛する物語があるように、他者が愛する物語もある。それは自分にとって相容れない物語かもしれないが、しかし他者も自分と同じように何かを愛しているということを認める。そういう想像力を伸ばす訓練としての「物語の読み方」を考える。そのための「批評」というものを模索する。そのために効果的に働く言葉を作る。そうすれば、小さな物語同士の真正さを競う悲惨な闘争は越えられるのではないか。この本の主張を受けて僕個人がどう思うかを考えると、そういうことである。

あと書評に書かなかったこととして気になるのは、「Fate/stay night」の評価についてだ。このゲームに対する本書の評価は単に「決断主義的なもの」というもので、それは90年代の「引きこもり」的な物語がゼロ年代において失効しているという例としてしか挙げられていない。だが「Fate/stay night」という物語は、本当にただ決断主義的なものだっただろうか。むしろ僕は、この作品の最終シナリオは決断主義がその限界において顕してしまう暴力性をはっきりとユーザーに突きつけるもので、そこには考える余地があると思う。簡単に言えばこのゲームは全体として見ると実は、決断主義を貫いてゲームをクリアするにはセイバーという最もユーザーが愛するであろうキャラを刺し殺す選択をしなければならない残酷な構成を持ったものなのだ。さらに続編に当たるファンディスク「Fate/hollow ataraxia」は、ゲームというメディアの条件に自覚的になりながら、決断主義を踏まえた後での物語との付き合い方を扱った作品である。奈須きのこはユーザーが没入できるウェルメイドなエンタテインメントを作りつつ、同時にそれを外部から眺める視点を提供し、批評に耐えうる作品を結実させていたはずなのだ。これらの件については、ぜひなんとか一度このブログで文章にまとめてみようと思っている。

2008.08.17 | | コメント(0) | トラックバック(2) | [文章] [ゲーム

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