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文学環境論集 東浩紀コレクションL

東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。

僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味を感じている。

東浩紀はこの論考を、大塚英志の物語論を批判することから書き始めている。ここではごく簡単に説明するしかないが、それはつまりこういうことである。「物語消費論」を書いた93年頃までの大塚英志は、日本のフィクションが文学やマンガなどメディアを問わず結局は「現実は描けない」、逆に言えば物語しか書けないということを自らに認め、しかしその上でなお逆説的に現実を活写しようとするものだとしていた。そして、とりわけ困難な条件の下にその挑戦を続けるのがマンガやアニメのリアリズムであり、それは自然主義から連なる文学などのフィクションと同等に価値あるものであるとして説いていた。東浩紀はこの大塚英志の立場を「物語擁護」の姿勢であったとしている。しかし近年、具体的には2003年に「キャラクター小説の作り方」において、大塚英志は「ゲーム的な小説」について、テーブルトークRPGを例にしながら批判を行ったとされる。そこで語られる「ゲーム的な小説」とはまず次のようなものだ。

TRPGの物語は、特定の規則に則って有限の要素を組み合わせることで生まれる。したがって、そこで語られる物語は、装飾的な細部がいくら多様で複雑であろうとも、基本的には予想を超えることはない。主人公はヒロインを救い出すだろうし、強大な敵は打ち倒されるだろうし、世界の秘密は最後には明らかになるだろう。

上記の内容は大塚英志の言葉としてはこうある。「ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、ということを伝えておきたいのです」。つまり「ゲーム的な小説」は「物語の類型化」を招き、物語の想像力を衰退させるものだということだ。東浩紀はこの大塚英志の批判について、まず「物語の類型化」を、それが避けえないものとしていったん擁護する。「ゲーム的な小説」に限らず、神話から近代小説まで物語というものが煎じ詰めれば定型に収斂可能であることは自明のものとしてあることは広く理解されてきたからだ。その条件の下でなお「現実」を描く試みとしてあったとしてこそ、大塚英志は「物語擁護」を行っていたにもかかわらず、ゲームについてはその創造性を大塚英志は見出していないと東浩紀は書いている。すなわち彼の言葉では以下のようになる。

『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実にたどりつくことがない。

そこで、東浩紀は一つの疑問形から、彼の「ゲーム的リアリズム」への試みを開始する。

筆者の疑問は単純である。大塚はゲームの技法をTRPGで代表させ、類型化を免れえないものだと考え、そのライトノベルへの影響を否定的に捉えていた。しかしそれは正しいだろうか。

僕がいま問いたいのはこの一つの疑問である。東浩紀はそれにどのように答えていったか。まず彼は「ゲームという物語体験」の新しい形として、大塚英志の挙げたテーブルトークRPGではなく、ノベルゲームを例として提出する。そしてその構造分析をゲームというメディア全体に敷衍した形で次のように述べる。

ゲームにおける物語体験は、キャラクターが存在する物語世界(虚構)を充実させるだけでなく、プレイヤーが存在する世界(現実)を繰りこむことではじめて固有で単独的なものに変わる。

これはつまり、ゲームというものが物語と登場人物という虚構だけでなく、プレイヤーという物語外の存在の関与(ゲーム上での操作)、もしくは関与の不可能性(プレイヤーキャラクターを含む登場人物がときとしてプレイヤーの意志を離れて物語を進行させること)を内在させているという指摘である。すなわちゲームはあらかじめメタフィクションを誘発するような条件の下で成り立っているメディアであるとしたものである。「ONE」や「AIR」などの優れたノベルゲームが、彼にとってその具体例としてあるだろう。この指摘自体は全く間違いではない。しかし、このメタフィクション性の指摘のみをもって、東浩紀はつまりはゲームが「現実を描きうる」のだ、という言い方で当初の疑問に対する回答に代えてしまう。

ここでようやく、今書いているこのブログの記事において僕が指摘したい点に到達する。すなわち、ここで東浩紀は結局、ゲームも含めてフィクションは、やはりおしなべて現実を表象するからこそ価値があるのだとしてしまうのである。この回答は、実はまだ半分であるように僕は思う。なぜなら、ここでは物語が類型化を免れえないという課題については、ゲーム的リアリズムがそのメタフィクション性によって、まさにその課題自体をメタ的に指摘しうるものだという主張によってのみ解決されてしまうのである。ところが東浩紀は、その上で、あらゆる物語が類型化を免れえないことが現前した時代に作家が選ぶことが可能な態度は二つあるとして、その一つとは、作家が自分の物語が定型的なものに過ぎないことを理解した上で、商品としての物語を再生産するという方向性だとするのだ。

ジャンルや世代を問わず、いまや多くの作家が無意識にその方向を選択していると言える。純文学作家は純文学のデータベースを用いて純文学のファンに向けて、ミステリ作家はミステリのデータベースを用いてミステリのファンに向けて、アニメ作家はアニメのデータベースを用いてアニメのファンに向けて、それぞれ商品価値が高い「小さな物語」を提供する。そして、ときどき、そのいくつかがベストセラーになる。それが現代の物語消費の風景である。本論はその風景を批判するものではない。筆者もまた、それらの物語を享受し、笑ったり泣いたりして毎日を送っている。

東浩紀はこのような物語のあり方を言葉の上で認めながら、しかしそれをウェルメイドな再生産を目指すものに過ぎないものとして扱っているというのは否定できないことだろう。ここで彼は、作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする。ポストモダンにおける定型の物語の再生の課程については単に近代的な創作の延長であるとして、注意は払われないのだ。そして彼が批評家として関心を寄せるのは、作家の採りうべきもう一つの態度として述べられるもの、すなわち、彼が舞城王太郎「九十九十九」や桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」に見出した、ゲーム的な物語がメタ的な視点によってポストモダン社会の「現実」の活写に到達するようなフィクションであるとされる。「メタリアル・フィクションの誕生」の結びとして彼は次のように書いている。

このような視点を手に入れたことで、私たちは今後、さまざまな作品にゲーム的リアリズムの可能性を発見することができるだろう。「ゲームのような小説」は、決して死を描けないわけではない。現実を否定するわけでもない。

彼が見出したゲーム的リアリズムは、確かにポストモダンにおけるフィクションの可能性の一つとしてあるし、一定の評価に値するものだろう。しかし、彼はついにフィクションは「現実」を描くものだという本来性を論拠にしながらその立場を確保している。ここで彼の批評は、現代に表出している作品群から批評に値するものとそうでないものを峻別し、その一方を捨てようとしているだけでなく、それは結局「人間が描けているか」などに代表される、文学論における純文学とエンタテインメントの峻別の構図に類似してしまっていないだろうか。

そこで我々は東浩紀の最初の疑問に立ち返らなければならない。いや、もっと言えば大塚英志の「ゲームのような小説」に対する批判へと戻らなくてはならない。

ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない

このような物語は、結果としていまフィクションの可能性を狭めているだろうか。それは単にウェルメイドな再生産としてのみ、単なる商品としてのみあるのだろうか。しばしばベストセラーとして登場するそれらを、ケータイ小説を、「らき☆すた」を、ウンコをしないアイドルへの絶対的な愛情を、奈須きのこを、武道館や紅白歌合戦という大時代的な成功を目指すPerfumeに抱かれる感動を、相対性理論やかつての□□□が見せた過去の作品のデータベースからの奔放な参照を、批評は語る必要がないのだろうか。レビューは、それを一笑に付すものだとすることができるだろうか。また僕らがインターネットで作品を語るときに、ある作品への評価を、単なるランキングやマッピングの素材として片付けるべきなのだろうか。

僕はそうは思わない。ポストモダンがあらゆる事物の相対化に達したならば、我々がその状況をいま受け入れて生活していくとするならば、その状況下で他者がさまざまな作品に対して愛情を投げかけているということを我々は肯定するべきである。そのための言葉を我々は模索しなければならない。他者の愛情をおおらかに肯定するために機能する言葉を探さねばならない。しかし、それが東浩紀に突きつけられるべき問題としてはないのも、またポストモダンにおける事実である。それは、我々の一人一人に与えられた課題であるはずだ。

最後に一つの例を挙げよう。「Fateは文学」という言葉がある。これをはてなダイアリーのキーワードは、単に熱烈なファンによる過剰評価として説明している。文学とそうでないものは、悪びれもせずにより分けられようとしている。そして誰かがそのような形で愛情を語ったときに、彼を擁護する言葉が何もないということを、我々は、そろそろ遅まきにも認識するべきだ。

2008.06.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽] [マンガ] [アニメ] [ゲーム] [映像] [ガジェット

パンドラVol.1 SIDEーB

パンドラをフレッシュネスバーガーで6時間ぐらいかけて読んだ。SIDE-Aのときも思ったけど、雑多さがある。「ファウスト」は太田さんが「ひとり編集部」ということにこだわったせいかわからないけど、号を重ねるごとの変遷はあれども「太田さんはコレが見せたいのね」という統一感があった。しかしパンドラは分厚い中にいろんなものが入っているという印象。正直な話、なぜ載ってるのか僕には理解できないモノもある。だが、断じて言わねばならない。それは悪い意味ではないのである。僕は実際、雑誌としてはそういうものの方が好きなのだ。

個人誌に近いコンセプチュアルな雑誌は美しくて大好きだけど、雑誌というメディアを楽しむなら雑多すぎるほどに雑多な方が好きだ。誰か一人が凛として主張するのではなく、編集部全員が「世の中、いろいろと大変なことになってるんですよ!」と大騒ぎしているのが雑誌の醍醐味だと思う。だからパンドラは読んでいて楽しい。僕の好きなテキストが誰かにとって意味不明で、僕の引っかからなかったテキストが、誰かの熱狂を誘っているのだという想像力が持てる。思いも寄らなかった読み物に出くわすことも多い。吉田アミさんの小説もこういう本に「子供社会のルール策定者」みたいなことが書いてあると体がわりと自然に「ああ、ゲームものかな?」みたいに身構えてしまうんだけど、そうならないんだよね。そこが心地よい。「世の中いろいろすごいんです!すごいのがいろいろなんです!」という声に身を委ねられた気になる。

もともとファウストもパンドラも、あらゆる記事のサブタイトルが全部エクスクラメーションマーク付きみたいなところがあって、普通なら編集者はそういうセンスは避けなきゃって思い始めると思うんだけど、講談社BOXの人たちはますます熱にうかされたようにそれをやっていて、そこがホントにスゴいことだと思う。今、読者(評者)はそれを揶揄の対象にしようとしたりすると思うんだけど、でもそれにはあたらない。そういう読み方はいらない。いい大人が異常な熱意でそれをやっているのはすごいことだと僕は思う。むかし「ドラゴンボール」が毎週エクスクラメーションマークを増やしていったころ、僕はドキドキした。それと同じだ。やたらと「傑作」とか強い言葉が書いてある、その熱量を僕は感じたい。

今号で最も素晴らしいのは、何と言ってもアンディー・メンテのじすさんが流水大賞で優秀賞を取った作品が載っていることだ。同人ゲームのテキストは2000年以降に注目され、メディアは奈須きのこや竜騎士07など、主にノベルゲームの作家の素晴らしさを正しく世に広めたと思うんだけど、それって同人ゲーム全体の面白さが必ずしも広められたわけではないと僕は思うし、そう思っている同人ゲームのプレイヤーはいるのではないだろうか。もっと破壊的で、軽くて、感傷的で、強い、同人ゲームのあの感じ。でも、これって新しいもののように思われるのかもしれないけど、実はもっとずっと古くからあった感覚だ。だからアンディー・メンテやこの小説を同人ゲーム界のニューウェーブであるかのように紹介するのは正確ではないだろう。アンディー・メンテの良さは必ずしも奈須きのこなどのノベルゲームに連なるものじゃない。それはもっと古いものだ。例えば僕はアンディー・メンテをプレイするときにBio_100%で味わいたかったものとおなじものを感じるし、そこが好きだった。もっと昔、たいにゃんのゲームなどにだって、同じモノを感じていたと思う。それはずっと、なぜだか同人ゲームにしか見られないよさで、昔から、そして今も、そういうものを受け継いでいる同人ゲームは脈々と続いている。しかし、たとえたまごっちが爆発的に売れても、ドワンゴが今やなんだか超すごいIT企業になっても、それはなぜだか世に出なかった。だから、ずっと僕の好きだったそれが、やっぱり誰にとってもいいものなんだということをパンドラはちゃんと言ってくれたから、僕は本当にうれしかった。

それに、この素敵さは僕の好きだったインターネットの良さにも通じているのだ。それが受け継がれているものがちゃんと世に出てうれしい。

僕の好きだった、あの、インターネット。

2008.04.08 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [ゲーム

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day

FC2は1カ月更新しないと広告が出るようになったのか。何考えてるんだ。僕はこういうのすげー嫌いだ。超嫌いだ。今すぐここからいなくなりたい。すげームカついた!!やろうやろうと思っていることをやらないことによって何らかのペナルティを受ける、みたいなのが苦手です。ゴロゴロしながら「今やろうと思ってるのに」と言っているのでてんでダメ人間なわけだが、なんかさーメールで通知が来るとかさーそのくらいのソフトさが欲しいわけ!!!

で、僕は何をしていたかというとニンテンドーDS用の推理ゲームをいろいろやっていた。「DS西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ 京都・熱海・絶海の孤島 殺意の罠」が意外に面白くて、例えばこのラテ欄的な長いタイトルであるとか、「提供 TECMO」の文字とか、場面転換時にCM前アイキャッチみたなものが入るなどの小ネタ、そしてユルい「逆転裁判」という程度に簡単でありながら文章は意外なほどしっかりとしたシナリオ、またユルい「レイトン教授」という程度に簡単な推理パズルなど小粒な面白さが満載で「おお、これは面白い面白い」と言いながら、このゲームのいかなる面白さを私が見つけまして楽しみましたみたいな話を書こうとか思っていたのだ。

しかし、そんな折に乙一の「The Book」を買って読んだら、もうそんなささやかな面白さのことなんて消し飛んでしまった。「面白いっていうのはこのくらい面白くないとだめだよね」と言われているようだ。DS西村も面白いんだけど、バカみたいに持ち上げて面白い面白いと言おうと思っていた僕が恥ずかしくなるほど「The Book」は面白かったのだ。1ページ目を開いてから、一度も本を閉じずに一晩で読み通してしまった。乙一らしい叙述トリックとか、ジョジョらしい人間賛歌とか、美麗というだけではすまない見事な装丁(表紙の革のあの感じを見たまえ)とか、いろいろと内容について触れることは可能だけれど、この本にはそれすら必要ないと思う。ただ面白いなんて、すごい。たった一つ言うことがあるとすれば、ここまでの面白さを自作に要求した乙一は執筆に5年を費やさざるを得なかったということだ。そのプライドは素晴らしいものだと思うし、実際に完成したものはまさに珠玉の名作といったものだが、甚大な時間やお金を費やして完成した大作こそが素晴らしくなりうると僕は思いたくないので、それだけは一言差し挟む余地があると思う。「DS西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ 京都・熱海・絶海の孤島 殺意の罠」 だって面白いよ。どうぞよろしく。

ううん、でも、やっぱり「The Book」の方が面白いや。悔しいほどに。

2008.03.09 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [ゲーム

ダンジョンメーカー 魔法のシャベルと小さな勇者

ここ2カ月ほどはゲームばかりやっていた。その前は少しもゲームをする気にはならなかったのだが、どうも小説を読まないときはゲームをやっているようだ。いろいろやっているのだが、いま一番熱心にやっているのは「ダンジョンメーカー 魔法のシャベルと小さな勇者」だ。このゲームはPSPの「クロニクルオブダンジョンメーカー」をDS用に作り替えたもので、元とは全然違うゲームになっている。どうやら対象とするプレイヤーがかなり低年齢層らしく、ゲーム自体もそれなりに簡単だ。そのせいかどうかはPSP版をやったことがないので分からないが、しかし「呈示される条件通りのダンジョンを作ってモンスターを呼び込み、内部を探検する」という楽しみ方はあんまりできないんじゃないかと思う。僕は最初「自分でダンジョンを作る」と言われて漠然と「ローグ」とか「不思議のダンジョン」みたいなものを想像していたのだが、結局このゲームは、なるべく効率よくダンジョンを歩き回れるように部屋を並べて宝や食べ物を集めていけばいいわけで、必然的にどのダンジョンも似たような部屋の配置になる。具体的には三方向に部屋のあるブロックを並べた、まるでマンションのように整理された構造を持ったダンジョンを作るのが一番やりやすいのだ。故に探検するためのダンジョンというよりは、効率の良い屠殺場を作っているような気分になる。だからといってこのゲームが面白くないわけでは全くない。むしろ面白い。難易度の低さも相まって、ダンジョンの構築作業は「作業」に近いのだが、その作業の微々たる面倒さがヒマつぶしにちょうどよいと思う。

もっとも、このゲームは初心者向けでありながら、魔法の選択画面で呪文の名前が出ないとか、ワープの魔法がシステムウインドウで開いたときとフィールドで使用するときで上下ボタンの役割が逆になっておりわかりにくいとか、商店で誰がどの武器を持てるか視認できないとか、メニューのページ移動がLRボタンで可能だったりできなかったりする等々、なぜだかシステム面で不親切な面がいっぱいあるのが不思議だ。また、当初、もう少し難しくなる予定だったのではないかと思わせる節もある。手に入れたアイテムを店に売れば無限に増殖可能だとか、とりわけゲーム序盤には有り余るほど手に入るとか、そのせいで倉庫の意味が実質失われているとか、死ぬことによるペナルティが全くないとか、バランス調整に苦労するまでもなく制作者の胸先三寸でどうとでも改変だったであろう部分が妙に簡単すぎるようにできているのだ。「ここがこうだったらほどよい難しさだっただろうなあ」と思うことが多すぎる。だからひょっとしたら最終的な段階で「やっぱ子供向けのゲームにするというのがPSP版との違いなわけだから、簡単すぎるくらいにしよう」という判断があったのかなあなどと思うわけである。しかしそのように不自然な簡単さはあっても、後半になると部屋の値段が高くなって金欠気味になり、ダンジョン作りの作業の面倒さがいくぶん増していくという微妙なバランス調整はいい感じで効いていると思う。また後半に行くにつれてパラメータを強化するための食材集めが面倒になるのもいい。

だがこのゲームを熱心に僕が続けた最大の理由は、とにかくテキストが面白いからだ。難易度を易しめにしてあるからといって、このゲームにはいい加減な物語が載せられていない。たしかに物語はライトなタッチで面白おかしく進行するが、書き手が非常に丁寧である。メモを取っていなかったので正確に書けないが、物語の核であるはずのシャベルが「アレがアレだな!」と言ってマトモに会話を行わなかったり、ボス戦では必ずどこかに隠れてしまったり、手に入れたアイテムが以後は勝手に商店で売られはじめることについて「大人の事情だ」と言ったりするようなギャグは、単に大人が子供向けに書いているという感じではなく、コミカルなテキストとして誰でも楽しんで読めるものになっている。個人的には苦労してようやくボスを倒したときに「一回り大きくなったな!(持ち物を入れる袋が)」みたいなことを言うのが面白かった。ヒロインであるメイミのツンデレぶりもよい感じだし、ぼーっとしているだけだった主人公が次第に勇者という職業について考えていく心理描写も巧みで、成長物語として十分楽しめると思う。この手のゲームにおけるライトな文章というのは、子供向けだから易しい内容にしようとしたあげくに単に子供だましにして手を抜いたり(全く子供をバカにしていると思う)、そうでなくても読み手を楽しませるということを誤解してゲーム好きやオタク向けの内輪ネタみたいなことを延々と書くものが多くて僕は好きではないのだが、このゲームは万人に受け入れられる今風のテキストを非常にまじめに書いていて好感が持てる。このようなライトユーザー向けのリメイク作が丁寧にライトなテキストを書いているというのは、本来そうであってはいけないことなのだが、全く意外なことだった。こういう文章のほうが単に重苦しいばかりのものを書くよりもずっと難しいことだと思う。

2008.01.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

恋空

こないだの座談会で吉田大助さんに会ったときに、新垣結衣について熱く語ってらしたのがずいぶん気にかかっている。僕はもう最近はすっかり「恋空」をいかにして読むかということを考えているのだ。そう思ってるくせに、たった今までどんな話かもよく知らなかった。だからこの姿勢は全く誉められないことだと思う。しかしケータイ小説は、今一番ひどい扱いをしてもいいと思われているフィクションの1つだ。たくさんの人が熱っぽく支持していて、しかし明らかに軽んじていいとされている。それは僕にとってギャルゲーやライトノベルが通過した状況と同じに見えるのだけれど、そういうふうに考えて、それらの作品を読み正して(まさに読み正すのだ)みようじゃないかという人はあまり見かけない。結局だれも、自分の好きな物だけが好きなのだから当然だ。僕はしかし、昔から何が好きというよりも、狭い場所でひどく支持を集めていて、他からは顧みられないものが好きだったと思う。そこで何が起きているのかを見聞せずにいられない。そこで何かがなぜ面白がられているのか知って、そのことをこそ面白がりたい。昔はインターネットもその1つだった。

というわけで今ウェブで「恋空」の最初の方を読んでみたんだけど、これが意外に面白い。意外にと言うと他ならぬ自分がケータイ小説を軽んじているように思われるかもしれないが、しかし本当に思っていなかった部分に面白さを感じたのだ。話がどうとかじゃなくて、単に文体がキレてていい。キレてるというのは、中高生の文章としてのリアルさがある。いわばそのままなんだから当然だと言われたら困るんだけど、模倣ですらないというのはすごいことなのだ。女子高生の間で流行っているフォークロアを本人たちから聞いているように読める。前々から思っていたのだが、いい年をした職業作家が整った文体で、例えば「現代社会における女子高生の性と現実」だのを描いたとき、それを読むのが女子高生自身であることは、そしてそれに彼女たちが共感することは、とっくの昔に少なくなってしまっている。それはナイフを持った少年だろうが何でもそうで、結局のところ作家や読者は若者たちに託して自分たちの問題を読みたがっているだけである。

中高生はこういう物語をリアルだと感じて、中高生ではない人々はそこに奇妙を感じている。それは当然のことだと思う。「恋空」が持っているリアルさとは、設定や筋や人物像が現実と照らし合わせて確からしいかということとは関係ないからだ。このリアルさは、とりわけこの物語が熱心に流通させられる場所において宿るものなのではないだろうか。そこでは一般社会から明確に切り離された別の価値観やルールが動いている。「フォークロアを本人たちから聞いている」ような読み方をした僕はそのリアルさの片鱗を味わえたように感じて、だから楽しかった。

2007.11.24 | | コメント(9) | トラックバック(1) | [文章] [映像] [ゲーム

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