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パンドラ Vol.3

漫画の話が続くが、講談社BOXの企画で漫画家の西島大介さんと一緒に、一年間の予定で「ひらめき☆マンガ学校」という「漫画の描き方講座」を行うことになった。今特設サイトで参加者を募っているので、基本的に抽選になるけど、ぜひいろいろな方にご応募いただければと思います(今月いっぱいで締め切りなので急いだ方がいいのかも)。去年の夏にやった一日漫画教室の拡張版というわけだが、実際にはこの企画は2年近くかけて西島君と一緒に考えたもので、それがいよいよスタートするという感じ。内容は一言で言うと「漫画の描き方」ではなく「漫画家になる方法」をやる、というものになるのかな。先日人に説明したときにも「参加したいけど絵が描けない」と言われたが、そういう人ですら漫画家になれてしまう、というコンセプトがある。むしろ「絵の描き方」のようなものは一切やらないはずだ。だから漫画家になりたい人はもちろん、漫画を読むのが好きだとか、漫画批評に興味があるとか、漫画じゃなくてもいいから何かしたいだけの人とか、幅広い方に参加していただけるはずです。

今の漫画業界は主に戦後からずっと続いてきたやり方で成り立っていて、原稿持ち込みをして、漫画賞を獲って、漫画家のアシスタントになって、編集者と共に企画を叩いて連載デビューする、というものになっていて、しかし最近ではその枠にとらわれないような「漫画家」が誕生している。また一方で「漫画の描き方」を扱う本は、ほぼ技術的に高度な絵の描き方に終始して、本当に漫画という読み物を作るためにどうやればいいのかは結局分からない。以上のことから、今日的なノウハウを「漫画教室」にできないだろうか、というのがこの企画である。中身については、去年の夏にやった一日版の全内容が「パンドラ Vol.3」に掲載されているので、見ればだいたいどういうことをやるのか分かります。興味のある方はぜひご覧ください。同じ講談社BOXの企画である東浩紀さんの「ゼロアカ道場」との差別化を意識するように「参加者全員が100%マンガ家になれる!!」という惹句がついているのだが、この文言は講義内容のヒントというか答えになっていてちょっと面白い。「パンドラ」には一日漫画教室に参加された今日マチ子さんを迎えての鼎談も掲載されているんだけど、そこで「漫画などの文系ジャンルの中には実は体育会系的なノリがあって、そういうものになじめず居場所がないと思っている人に勧められる教室だ」という話をしていただいていて、これはこの教室とか西島大介という作家のスタンスを的確に表している言葉だと思う。

ところでこの「パンドラ」は、今までの号とガラッと変わっていてちょっとびっくりした。表紙が吉原基貴さんの絵になっている。この人の絵はたとえて言うなら丸尾末広の漫画作品のようなハードな印象があり、そのためどことなく懐かしい90年代以前のサブカル誌のようなとんがったセンスの表紙になっている。今どきこういうのを、とくに若者向けの商業誌でやるのは嫌いじゃない。

内容にも変化があって、一言で言うと批評に関するものが多くなっている。批評に興味のある方が読むと楽しめるのではないか。巻頭の「ひぐらしのなく頃に」特集からして論考が中心で、藤田直哉さんなどが書かれているのが面白い。東浩紀さんのゼロアカ道場に関する考察もある。僕も「ゼロアカ道場」の第五回関門レポート記事を書かせていただいた。また宇野常寛さんの連載が始まっていて、今回の「ダークナイト」論については、「ゼロ年代の想像力」について僕が不満に思っていた点、例えば音楽についての考察が全く抜けている部分などをフォローしようという書き手の気概が感じられて面白く読めた。

しかしこの本でやけに面白かったのは編集後記として書かれた部分は野崎編集長が講談社BOX編集部員の立場から「ファウスト」「ライトノベル」そしてこれまでの「講談社BOX」を総括していて、これはけっこう刺激的な読み物だと思う。雑誌がこういう自己言及的な読み物を載せることにはいろいろな意見があるだろう。というか、これは編集者の所業としては読者を煽るようなものだから、これに対して読者からいろいろな意見が起きないのなら、編集者の目論見にとって残念なことではないかなと思う。個人的には、こういうのは時代の変化をどう捉えて舵を切っていこうという作り手の意志がはっきりと出る部分なので好きだ。

しかも「パンドラ」は編集長の交代制を標榜しているので、今号の作り方が必ずしも今後の同誌のカラーになっていくというわけでもないのだ。次はどうなるのか全く分からない。今どきこんなノリで雑誌を作ってしまうところがちょっとすごい本だなあと思う。

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2009.05.14 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 下巻

ブログを更新できないのはとても辛い。毎日、辛い。辛い辛いと思いながら日々を過ごしている。

とどのつまり、僕の場合、ウェブサイトを運営することを生活と切り離すことができないのだろうか。そうではないものとして作りながら、しかしいつも、どうしてもそこから逃れることができない。

一般的に、そんなことは考えるべきことではないのかもしれない。それに、ウェブには素晴らしい書き手がひとりいて、その人は、ウェブに書くものは究極的には日記であって、だから終わりのないものだ、そのことに忠実であれ、まして結末など設けるべくもないものだ、というようなことを言っている。僕は、いいものを書くその人に敬意を払っている。しかし、それは僕のやり方とは違うとも思っている。僕がウェブで10年、やってきたことは、その人とは違うやり方だったように思うし、これからもそうだろうと思う。ウェブにものを書くとき、別段その人を意識して書いているわけではない。逆らわなければならないと思ったこともない。しかし、ウェブサイトの作り手として、僕の考え方というものがある。これは作品なのか。あるいはただ日々の営みの残滓なのか。いや、どちらでもなく、そのせめぎ合いの中にこそ僕がウェブで書くものはあるはずだと言いたい。そう書くと、あまりに自己弁護的なのだろうか。最近は、そういうことをよく考えるようになった。

書くたびに告知ばかりのようだが、告知がある。もう明日だが、蒲田で行われる「文学フリマ」においていずみのさんの「漫画をめくる冒険」の下巻が発売されて、僕はこの本に解説を書かせていただいた。これは本当にいい本で、文学フリマ以後にももちろん店舗やネット上で販売され続ける(サイトの記述によるとメロンブックスにはもう入荷しているようだ)から、ぜひ多くの人に読んでいただきたい。

僕がこの本を読んで思ったことは、これは必ずしも漫画に限った本ではないな、ということである。もちろん、そういう評価にいずみのさん自身がどう思われるかは分からないし、またいずみのさんはこの本で、漫画を解析するための理論を構築しているというのは間違いないことである。もっと言えば、次々に作品が作られ、どんどん消費されていく漫画というメディアに対して、どうやって豊かな読み方をするか、という理論を作られている。

しかし、僕が漫画に限らないと言うのは、この本が、例えば漫画が好きな人や、あるいは漫画読みと呼ばれるような人にだけ読まれてしまうのはもったいないように思うからだ。いずみのさんがここでやっていることは、漫画に限らず、我々が「作品」に対したときに、それをどうやって享受するのかということなのだ。

そして、その裏にあるのはやはりインターネットなどで一般ユーザーが「作品」について語る状況ではなかろうか。漫画理論の本だと言ってもいいが、しかしそれが使われる環境を思ってこそ、本書は書かれている。だから、漫画論だから、漫画に興味がない人は読む意味のないものだなどと思わなくていい。また、「漫画論にとって重要な本ができた」とばかり言わなくてもいいはずだ。いずみのさんは新しい漫画論の書き手として優れた人で、その分野で寄せられる期待は言うまでもないものだが、僕は、小説でも音楽でも映画でも絵画でもゲームでもアニメでも演劇でも、ひょっとして批評でもいいだろうが、誰かがアウトプットした何かを受容しようとしている人にとって価値のある本だと思う。いずみのさんは「作品」の成り立ちを作者だけに任せないし、かといって読者だけが作品の内実を弁別できるというような言い方もしない。作者と読者が行う活動の間から「作品」というものが生まれるという奇跡に、この本は敬意を払おうとしている。今は、広い読者がその姿勢について考えていい時期だと思う。

さて、このブログの話に戻るが、しばらく、いくつかの記事がそれなりに間をおかずアップされるだろう。僕にとってはうれしいことに、間違いなく、そうなる。なぜかというと、もう書いてあるから。

2009.05.09 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

デトロイト・メタル・シティ

「デトロイト・メタル・シティ」というマンガを僕は世間で面白いと言われているほどに好きではなくて、だから映画にもさほどの興味がなかったが、ほとんど偶然に見に行ったところ、まったく想像を超えて非常に面白い部分があった。

この原作マンガを僕がさほど面白いと思わないのは、ギャグマンガとして、お話の中にあるギャグのリズムパターンが一定でありすぎるからだ。これはもう単純に好き嫌いの問題なのかもしれないけれど、まず「面白さ」の根源が常時、ズレたお笑いとして見た「デスメタルの凶暴性」と「渋谷系のオシャレさ」、そして何らかのマンガなどのパロディという要素に還元されてしまうところに、読んでいるうちに飽きを感じてしまう。ひとつひとつのネタが面白くないというわけではないのだけれど、冷静な見方をしてしまうと大きな笑いの要素としてはメタルとオシャレとパロディに絞られてしまう。しかも「エアレイプ」とか「ベルリンの金色の風」とか、作者が「面白い」と思いついたギャグのネタを定期的に紙面に差し挟むためだけに各話を構成しようとするところがあって、その意外性のない一定なリズム感は言ってみればこれは僕にとって、「カメレオン」などで人気を博した加瀬あつしの連続下ネタのワンパターンさと同じものだ。重ねて言うが一個ずつのネタが面白くないのではないけれど、同じ要素に収斂することができるネタが一定なリズム感で繰り返されていることに結局は飽きを感じてしまうのだ。

しかし、映画の方は原作とは違った面白さがあった。冒頭からカジヒデキが出てきて「ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME」を大熱唱していたり、着メロが「恋とマシンガン」だったり、タワーレコードで今さらカヒミ・カリィが大々的に売られているシーンがあるだけでわりと面白いのであるが、観客は特にそういうところは笑っていない。これは渋谷系というものを知っている人にだけ送られた目配せであって、それは鬼刃役でK DUB SHINEがDJ OASISと共に出演しているのと同じような小ネタである。しかし余談だがこういう映画にこういう役で平気で出たりするところがいかにもコッタ氏らしくて非常に笑えた。

しかしそんな小ネタはまさに小ネタであって、ギャグとしても物語の本筋としてもこの映画には実は全く関係がない。この映画は簡単に言えばどのように自己を実現するのかという物語であった。他人から認められたい、しかし他人は全く承認してくれない自分を追い求めること(自己承認欲求)を捨てて、本来自分が望んだ姿でなくとも、いま自分が他人に夢を与えることができている自分を肯定する、という話なのだ。自分が内発的に自覚する「個性」を認めさせようというのではなく、他人が発見してくれた自分の長所に自らを委ねて自分も他人も満たされる、という非常にゼロ年代的なテーマ性を持っている。

それだけでも宇野常寛が「ゼロ年代の想像力」で提示したポスト決断主義のモデルと比べて語ると面白そうな話だとでも言えそうなものだが、この映画はそれに加えて音楽というものに対する視線にも面白いものがあった。主人公もヒロインも、自分がオシャレな音楽に夢を抱くように、自分が不快感を感じるようなデスメタルのような音楽に夢を抱かされる他人がいる、ということにラストで気づく。面白いのは、ここで「あらゆる音楽が誰かに夢を与えうる」という題目の下に等価なものとして並べてしまわれることだ。タワーレコードが強力にバックアップしているせいかどうかしらないが、この映画は原作のマンガに比べて現代における音楽のあり方についてずっと自覚的だ。マンガでは現在のところ、デスメタルも渋谷系もズレたカッコ悪さを象徴するギャグのアイテムとしてしか扱われないし、肯定的な表現を模索しつつも、いまだ「音楽は人を殺れる」という言葉でその価値を訴えるにとどまっている。それはそれで悪いものではないが、そこに新味があるかといったらそうでもないのではなかろうか。しかし映画では、消費社会において際限なく等価にされてしまう音楽というものを自覚しつつ、しかしすべてが等価になった後でもなお、この膨大な消費材のそれぞれは誰かに「夢」を与えているかもしれないものだという他者に対する想像力の眼差しを喚起させようとする。そこでは既に、ジャンルによってマッピングしたり価値をランク付けしようとする意志もなく、ただ膨大な消費材の海に自分が愛する何かや他人が愛する何かがあるのだ、という形でのみ等価に位置づける。これはすごく今っぽいものの見方だと思う。

しかし皮肉なことなのかもしれないが、物語の最後にはディスクレイマーとして次のように表示される。

この物語はフィクションであり、物語を構成する一部の台詞・歌詞などを直接的に肯定するものではありません。

つまり「他者が夢を抱く」ことをキーワードにすべての価値観が等価であることを高らかに謳い上げる物語であってなお、この物語は「レイプ」だの「殺害」だのと連呼する曲の思想を肯定するわけではないとしつこく言い訳して回ねばならないのだ。何というか、エロゲーやロリマンガが優れた物語を描きながら、それでも「何だかんだ言ってポルノじゃないか」と言われたり、「この作品に登場するのは全員18歳以上」などと断り書きせねばならないようなものと似たものを感じて面白かった。

2008.08.31 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [映像] [マンガ] [音楽] [文章

サイコスタッフ

最近はやけにマンガについて考えている。正確には、水上悟志について考えている。僕は去年の暮れ、もしくは今年の頭に「2008年に重要なマンガ家は福満しげゆきと水上悟志だ」とこのブログに書いたと思う。もちろんその気持ちは今でも変わらない。しかし、そのころ僕は、同時に水上悟志「惑星のさみだれ」についてはまだ言葉にできないでいる、と書いたと思う。だが、どうやら最近、僕の頭の中でこのマンガについてずいぶんまとまってきたのだ。だからそろそろこのブログにも書くことができるかもしれないのだが、しかしちょっと5巻まで読み直すヒマがなくて書けないでいる。

仕方ないのでまず今日は、「惑星のさみだれ」を語る前段として必ずあるべき水上悟志のそれまでのすべての作品、とりわけ「サイコスタッフ」のことを書こうと思う。

マンガの話なので、ちょっと告知をさせてください。来る8月22日に、東京・中野ブロードウェイにある講談社BOXさんの運営するカフェ「KOBO CAFE」にて、マンガ家の西島大介君「夏休み!西島大介の一日漫画教室」をやります。僕は当日アシスタントとして、まあ要するに西島君のお話を伺う役および雑用係として出演しますので、お暇な方はぜひよかったらご応募ください。内容について詳しく書くと面白くないので秘密ですが、あえてちょっとだけ書きます。このイベントは「漫画教室」だけあって、単なるファンイベントやトークイベントではなく、あくまでマンガ家になりたいとか、マンガというものにかかわってみたいという方のためのものです。だから参加者の方に絵を描くためのペンを持って来ていただいて、実際にマンガを描いていただくことになります。しかし、例えば人物像をどう描くか、みたいな絵のレッスンをやるわけではありません。実はこのワークショップは「今現在、マンガというメディアを成立させる条件って何だろう」ということと「今現在、マンガ家というものになるってどういうことだろう」という内容になります。ちょっとひねった表現論的的な手法を使いながら「マンガを作り出す」手ほどきをしつつ、マンガを取り巻く今の状況みたいなものも語る、という感じでしょうか。まあ、西島君や僕をご存じの方にはお分りいただけるのではないかと思いますが、我々二人が揃って喋るということは、明らかに脱線を目指しつつ、しかもいかにして従来の価値観を無効化するかというような内容を目論むと思いますので、そういうところから「マンガとは」「マンガ家になるとは」ということについて考えてみたいという方はぜひご応募ください。応募にはアンケートに答えていただく必要があるので、詳しくはKOBO CAFEさんの告知をご覧ください。応募は18日まで、定員15名ですが定員以上になったら抽選になるみたいです。

さて話を戻して「サイコスタッフ」。まずこの作品は水上悟志の十八番的な導入に実に美しく則って始まる。その十八番とはこんな具合だ。まず最初の1ページ目をめくった瞬間、いきなり完全に非日常的なことが起こり、読者があっけにとられる。そして、主人公はそれを平然と受け流す。この作品に沿って説明するならば、すなわち「ラブレターをもらったと思って喜んで放課後に体育館の裏に行ってみた」というベタな日常の描かれる1ページ目から、次のページをめくった瞬間、自分を呼び出した女の子が「Bクラスサイキッカー柊光一くん あなたを惑星ルルイエ宇宙軍超能力部隊にスカウトに来ました」というベタな非日常を話し始める。そして、主人公は即座に「答え! 宇宙より大学に行きたいので! それじゃ!帰って勉強しなきゃ」と言って、そのスカウトを断る。

この、非日常が容赦なく日常に介入してきてしまい、主人公がそれを否定する、という定型は、もっとも初期の短編集「げこげこ」からずっと水上悟志の作品に受け継がれているものだ。ここで重要なのは、主人公は非日常の存在自体を否定するのではなく、それを自分の日常に含めてしまうと社会生活が成り立たないので形式的に否定せざるを得ない、という否定のされ方が取られるところである。例えば「サイコスタッフ」では、実は主人公は単に非日常を拒絶してスカウトを断ったのではなく、実際には自分の超能力に気づいていて、使いこなすことができる。しかし、そんな力を持っていても社会生活にとって何の役にも立たない、むしろ邪魔になる、と言って「普通の受験生」という自分を目指すのだ。この「非日常をいかにして受け入れるのか」というテーマは「惑星のさみだれ」にも全く受け継がれているものだし、水上悟志のこれまでの作品にとって最大のテーマでもある。これは「フィクションをいかに語るか」という問題に大きくかかわるもので、今この作家が注目されてしかるべきであると僕が思う最大のポイントはここにある。

主人公は「なにが巨大な才能だ 努力に勝る才能なんてない」と言って、自分の超能力を否定する。彼には実は、幼少の頃に母親の病死に際して自分の超能力が何の救いももたらさなかったという経験があるのだ。つまり彼は、非日常によって成し遂げられることなど、日常を満たすものではない、というのだ。それは物語であり、現実とは違う。非現実によって満たされる現実など、克己的でない、甘えたものだ。

この問題を「サイコスタッフ」では、どう語っているか。まず「能力は適所で使ってこそ、その意味がある」「誰にも認められない努力なんか無意味だ」と言って主人公をスカウトしたヒロインこそが実は最も軍人として努力してきた人物であることが明らかにされる。「努力の人」である彼女が天才や超能力者という圧倒的な「非日常」を認めなければならない葛藤を抱きながら生きてきたという事実が示されて、主人公はそのひたむきさを好ましく思う。二人は心を通わせ、主人公は最後に、自分の持つ非日常の力によって「巨大隕石の落下から地球を守る」という非日常でしか解決し得ない問題へ正面から向き合う。成功率5%の、宇宙空間で繰り広げられる非日常的な作戦に際し、主人公はついに「がんばって」と言われて「がんばる」と答えるのだ。

やがて終盤で主人公は超能力を失い、スカウトという目的を失ったヒロインは再会を約束しながらも地球から去ってしまう。しかし彼らが「がんばった」日々は残り、二人はお互いのひとときの関係を頼りに、いつか会える日までの「地道な努力」を続けていこうとする。このラストは非常に爽やかで、そして希望に満ちたものだ。

宇宙人に惚れた男…
なんて66億人に1人
くらいなもん
だろう

超能力なんか
なくても

いつだっておれは
おれってだけで
特別な気分に
なれた

この自己肯定は超能力の有無にこだわらず、愛を捧げるたった一人の相手を受け入れることで自分を認めることができるという素晴らしいものだ。しかも宇宙人の女の子という「非日常」によって「日常」が満たされている、ということができる。これはすてきなことだ。

しかしさらに翻して考えると、「作品世界」という大きな「非日常」が単に満たされた、という言い方もできてしまう。従って「非日常をいかにして受け入れるか」という問題自体は、実は続行可能ではある。そして、その問題に再び挑み、おそらくその問題自体を内側から食い破ろうとしているのが「惑星のさみだれ」という大変な傑作なのだろう。しかし、それについては機会を改めて書こうと思う。

2008.08.11 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ

ファウスト Vol.7 (2008 SUMMER)

ここ最近、このブログはメタ批評的にありすぎて、それは僕自身気に入っていない傾向だったのだけれど、仕事のせいもあって、またいろいろ考えるところがあって、意図的にそっちに傾倒していた。しかしあれこれと書評なんかを書いて(まだ上梓されていないけど)だいたい一区切りがついたので、ようやく作品論に戻っていくことができる。ところが、そういうものをどんどん書いているうちに、今度は作品を享受する時間が取れなくなっている。これはゆゆしき問題だ。「崖の上のポニョ」も見ていないというのはおかしなことではないか。そうかとしているうちに「ファウスト」の新号がついに出てしまい、これはもう間違いなく読まねばならないのだけれど、雑誌なのに1240ページもあるのだ。読み切れない。中にも書かれているけど、これはもはや凶器である。鈍器である。読み切れないから、もう、ここにまず書いてしまう。このブログで第一に大切なのはスピードと量なのだ。

とりあえず、筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」だけは読んだ。中学生のころ筒井康隆の愛読者であった僕として、「ファウスト」に筒井康隆が、しかもいとうのいぢの絵で載るなら読まずにおられようか。だからこれだけはまず、読むのだ。全部は読めなくても、佐藤友哉特集にはまだ手が付けられなくても。

最高に面白い。これはまずい。エロ過ぎる。微エロはない。エロい。いとうのいぢのキャラが手コキするなんて、もう角川的な、またラノベ的な判断からしてありえない。しかし筒井康隆は「ライトノベル」というものについて、つまりは「中高生が性的な興味を抱くところから物語を読み始める作品群」としてあっていいということを全面的に認めて、元祖インモラル、元祖アンチタブー全開な作家として、若い書き手になど「おれ」が負けるわけない、というヒップホップ的な、空気などあえて読まない自負によってこのハードコアな小説を作り上げた。そういう意味では、この作品は「時をかける少女」のような、かつて彼が書いていたSFジュヴナイルの作品たちと比較しても、もちろん全く違う意味を持たされている。「時かけ」が美しい友情物語としてアニメ映画化され、中高年のアニメファンなどにも賞賛されている今、しかし筒井康隆という作家は、それはそれとして、ならば今の中高生を対象にしたものを書くならば、彼らと同世代の登場人物を主人公とした強烈なエロがいいだろう、という正しい時代認識を持っている。まさに読むにあたってすっかり中学生の頃の筒井康隆読者に戻っていた僕にとっても「頭がフットーしそうだよおっっ」というわけで、すぎ恵美子以降の価値観を持った小説を赤塚不二夫よりも一つ年上の作家が決然として書くのだ。かつ、同時に「時かけ」にも符合させる、学校の理科実験室、二人のタイプの違う少年、未来人、という余裕綽々とした目配せ。これはすごすぎる。

ところがこれ、終わっていない。続きがものすごく気になるところで読者に対しては手コキが寸止めなのである。「To Be Continued NEXT FAUST!」という、冗談のようなハートマークが付けられている。そうか、分かりました、つまり続きはまた二年半後ってことですね……などといくわけはないのだ。逆に言えば、そんなことになれば太田編集長は筒井康隆という大作家に対してとんでもなく礼を欠くことになるはずで、それは避けねばならない、と太田編集長自身が自覚している……はずである……たぶん。そうであってほしい! だから1136ページの「Thank you all readers! 『ファウスト』Vol.8は2008年末刊行予定です。」という、衝撃的な文句もまた、本当なのである……はずである……たぶん。

自分のことに触れさせていただくと、実は僕はこの「ファウスト」の中で、東浩紀さんにインタビューをさせていただいた。この分厚い本は東浩紀特集も備えているのであって、そこは批評の読者にもちょっと注目していただきたいあたりだ。これは「動物化するポストモダン」が三カ国語で翻訳されたということについての内容で、僕のインタビューのみについていえばもうちょっと紙幅が欲しいというか、僕の仕事の限界ギリギリの強度を読者に、そしてもちろん太田編集長や東浩紀さんにお伝えすることができなかったかもしれないが、しかし今一番語られねばならない状況論はこのインタビューで確実に東浩紀自身の口から述べていただき、紙上に封じ込めることができたという自負がある。だから今の批評について何か考えたいと思っている方には、とにかくぜひ読んでいただきたい。

佐藤友哉特集もまだ読んでいないが非常に楽しみにしている。取りあえず「佐藤友哉の人生・相談」だけ最初に読んで泣きそうになった。次に僕が読むのは、当然、鏡家シリーズの最新作にして入門編である「青酸クリームソーダ」に決まっている。ページをめくるのがもったいなくて、まだ最初の1ページしか読んでいない。どんなミステリになるのか。とてもドキドキする。あと西島大介君の漫画こそ、一番最初に読んだ。読みながらニヤニヤし、やがて爆笑していたら家人に不審がられた。

それにしてもVol.8は、本当にすぐに出るのだろうか。もはや「2008年末」というのは最初っから信じられない僕だが(佐藤友哉が書いているとおり、Vol.6にだって「Vol.7は半年後に出る」と予告されていたのだ)、それでも延びた結果として来年の春くらいに出てくれるのなら、本当にうれしい。楽しみだ。「ビアンカ・オーバースタディ」の続きだって気になるし、第一、僕は「ファウスト」が帰ってくるのをずっと待っていたんだ。本当は僕も明日までの仕事があって、やらなくちゃいけないんだけど、でもさあ、いま再び「ファウスト」の新しい1ページを読むことができるなんて、本当に幸せで、楽しくって、やめられない。そしてこの1240ページをすべて読み尽くしてしまっても、またきっと新しい1ページを届けてくれると約束してくれているのだ。「ファウスト」が続いていく世界。本当かなあ。僕は信じちゃうよ。

2008.08.10 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [アニメ

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