スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | |

ユリイカ 第41巻第4号―詩と批評 (41)

年明けから気にくわないことが多く、仕舞いには何だか気が滅入って寝込んだりしていたが、なぜか2月の末くらいから急に書くものが増えてそれどころではなくなった。毎日「リラックスしつつ昏睡するほど酒を飲みたい」と思いながら1カ月くらい仕事している。

寄稿して、近日発売されそうなものをまとめて書こうかと思ったけど、やめだ。そんな箇条書きのようなものはここに全くいらない。だからまず27日に発売の「ユリイカ」4月号でRPGについて書せていただいたことについて書く。ここで僕は何となくドラクエの話をしているようだが、実は原稿を書きながら山下章の「電脳遊技考」をずっと読んでいて、本当はドラクエ以前の8ビットパソコンにおけるRPGのことをずっと考えていた。この本はとてもいい本だが、同時に90年代初頭という時代にゲームというものがどういう進化を求められていたのか、その限界がよく現れている。しかし、それも含めていい本だ。愛すべき本だ。

限界というのは強く物語を求めるようになったということで、原稿でも触れたけど、そのことは日本のRPGの方向性を決めた。

仕事の合間に、「ユリイカ」の掲載誌をちょっとめくりながら、ぼんやりと考えた。もちろん僕は、中田健太郎さんの書かれている、「ゲーム性」を旗印にしてゲームにおける物語性を批判する向きについて念頭におきながら原稿を書いたわけだ。そしてアンディー・メンテの泉和良さんも書いてらっしゃるゲームファンたちの不毛な覇権争いのことも。それで僕は、そうか、自分はインターネットの言説のありように批判的なのだなと思った。

思えば「ユリイカ」では2月号にも寄稿させていただいた。それは水村美苗「日本語が亡びるとき」についての文章で、やっぱり僕は同じだ。僕が書いたのはインターネットなどの言説をまず見聞して、それにあるていど横槍を入れるようなことを謀っているのだ。結局はそうか。そうやって、知らず僕は広くない読者を選んでしまっているかもしれない。これはけっこうへこむ。

それはともかくとして、もちろん、ネットの気持ちをあおり立てるような、ネット批判のような文章を書いたわけではない。

いや、そもそも今の書き方が誤った。媒体としてネットを批判するなどということ自体がおかしい。

インターネットはシステム上で人々をいったん横並びにする。ときどきそれは美点であると言われる。しかし、その美点を賞賛する人が「だからインターネットには従来のメディアよりもずっと優れて価値があるのだ」みたいなことを言ったりする。

まず僕が言いたいのは、そうではないだろう、ということだ。ネットに書かれたものに、ほかの媒体に持ち出せない価値があるのは当たり前で、ネットに書くということを意識する書き手ならば、そのことを最大限に利用するべきですらある。しかし、ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことだ。

横並びのシステムに乗っていて、今や等価にものを見られるようになったと言いながら、そのシステム自体は特権化できるという。そうして、やっていることは既存の価値を再強化したり、糾弾するようなことなのだ。どうしても不思議に感じる。僕がおかしいのだろうか。

あるいはメディアリテラシーということを言う人がいて、マスメディアについて批判的な読解を試みることだと解釈をしている。これは何というか、まあ、僕のちっぽけなリテラシーを最大限に働かせて言えば、いろんな意味でアメリカの思潮の流れがあって生まれてきているなと思わせるのだが、しかしこの思想に本当に深く感じ入ったなら、我々はマスメディアにも、インターネットにも、それぞれ価値を見い出して、両方を乗りこなすべきだろう。だいたい、その方がカッコいい。

ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことなのだ。ネットにだけ価値を見いだすのは楽ではある。

断っておくと、既存のメディアが滅びようとしているからそういう危機感で、ネット警戒論を述べているわけではない。だいたいそういう危機感は、ネットが覇権を握る時代が来るのだ、という考え方にやはり感化されている。既存のメディアは、(超長期的にはともかくだけど)衰退はしても滅びたりはしないだろう。

そう言うと、僕はたまたま紙媒体の仕事をしているからそういう楽観主義に胡座をかいていると思われるかもしれない。そうではない。違うのだ。もう、そういうことではないのだ。むしろ、滅びた方が、根絶やしになって全員が一箇所に流れられた方が、どれほどに話は簡単だろうか。ネットの横並びのシステムは、たしかにそういうあらゆるものが横並びになる時代を象徴しているのだ。だからこそ、ネットがすべてのメディアに取って代わることはなくなってしまったのかもしれない。覇権を争うのではない価値観は、たしかに必要とされている。

「日本語が亡びるとき」について文章を書きながら、僕は自分の文章が少なくとも水村美苗には届かないと自覚して悲しかった。どれほどネット的な文章が、あるいはネットが、あるいは携帯小説が、あるいは最近の小説が、優れている、価値があるといったって、日本語は亡びたりしないと叫んだって、言葉というのはそもそも変わっていくものなのだという話をしたって、だめなのである。言葉が届かない。どうしたらその価値観を横並びの中で共有できるのだろうか。自分だから無理なのだろうか。

だがそんなことを書き続けるのだ。

2009.03.27 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

428 ~封鎖された渋谷で~

すっかり遅くなったが、おかげさまでミニコミ「Hang Reviewers High」は文学フリマにおいて完売しました。ありがとうございます。さらに、更新しないでいるうちにLilmagさんで通販が始まったりサクッと売り切れたり再入荷したりまた売り切れたりしています。どうやら全部で200冊くらいお買い上げ頂いたのだろうか。ありがたいことです。再版の予定はないそうで、しかももう売り切れ寸前です。興味のある方はよかったらお早めに。

さてLilmag blogによるとこのブログは「忙しい」ばっかり書いているとの評判だが、僕もミニコミを読んでやはりそう思った。あとどうも西島大介君と酒を飲んでばかりいるようだ。が、しかし、言わせてもらうと今まさに今年最大の忙しさを迎えている。本当に忙しい。

忙しい中で428をプレイしていた。ほとんど徹夜のようにして一気にやり終えた。僕はこのゲームの発売こそを、10年間待っていたのだと言っていいだろう。このゲームは全く「街」の正当な後継作としてふさわしい。双生児、渋谷署の刑事、ダイエットなど「街」を連想させるに十分な要素がちりばめられているし、大沢シナリオのデカダンな雰囲気の演出だって前作の「シュレディンガーの手」を思わせるものだ。さらにTIPSの中には「街」のオマージュがこれでもかというほど盛り込まれている。権利の関係なのか何なのか、今作のプロモーションで「街」というタイトルは全く隠されているようだが、しかし作中では十分なファンサービスが行われている。これは素直にうれしい。

また「街」からゲームシステムがほとんど変更されていないことが喜ばしい。より分かりやすくするために「ザッピング」という言葉を「ジャンプ」と言い換えたりしてはいるものの、チュンソフトはついに「街」のゲームシステムを否定しなかった。彼らは10年を経て、この面白いシステムそのものに間違いはなかったのだということを確認し、自信を持って再度リリースした。これはうつくしいことだ。

彼らはシステムを改変するのではなく、その運用を変えたと言うべきだろう。例えばあるキャラクターの物語が進行停止して、別のキャラクターの物語を進行させねばならないという状況は前作にも見られたが、今作ではそれに「KEEP OUT」という分かりやすい名称が付加され、ゲームの進行において鍵となる要素として強く打ち出されている。この変更は、単に前作にもあった要素に名前が付けられたというだけにとどまらない。「KEEP OUT」は、前作以上に、複数の物語をどの順序で読み進めるのかをプレイヤーに強制するように働いていると見るべきである。それは前作と今作が、システムが同じでありながら、全く違った考え方で作られているということに関連している。

「街」は複数主人公による並列した物語がごく些細なポイントでのみ繋がりあっているという物語だった。そして、あのゲームは各主人公同士が没交渉であることに徹底的に拘っていた。その頑なさはほとんどパラノイアックと言ってもいいもので、そういう偶然の連鎖に感じられる面白さをこのシステムによって表現しようとしていた。しかし428は複数の主人公が複数の物語を語るのではなく、1つの物語を複数の人物の視点から読むことのできるゲームだ。言ってみれば従来的な視点切り替え型ノベルゲームの仕様に近い。しかしチュンソフトが自信を持って変更を加えなかったマルチフラグ/ザッピングシステムの上で繰り広げられる視点斬り合え型ノベルはやけに面白い。ここには、こんなによくできたシステムなのだから、それをそのまま使ってウェルメイドなサスペンス劇をやろうという強い意志が感じられる。メジャー感のある物語をそのまま乗せてしまうということに、チュンソフトとセガは腐心している。立派なことだと思う。

そしてボーナスシナリオを奈須きのこが書いている。「弟切草」から始まったサウンドノベルが「雫」によってビジュアルノベルへと派生し、そして今1つの作品の上で再び出会っているのだから、これは単純に言って歴史的なことである。しかしそれ以上に注目すべきだと思うのはこのシナリオの作風だ。奈須きのこはアウェイ感に流されてお茶を濁すようなものを書いたりしなかった。彼ならではの、絶対にチュンソフトのサウンドノベルではあり得ない熱いバトルものを書いているのだ。ビジュアルノベルとTYPE-MOONを背負って矜持を貫く姿勢が本当にカッコいい。そして、質を異にしてありながらも本編とボーナスシナリオの両方においてメジャー感を目指す意志は共有されているのだ。ゲームにはこれだけの物語が描けるのだということを、妥協なしに主張している。素晴らしい。

2008.12.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

ミニコミ「Hang Reviewers High」

このブログ「Hang Reviewers High」の記事を一部抽出してまとめたミニコミ誌をばるぼらさんが作ってくださった。

今後どのような流通に乗って販売されるのか全く知らないが、さしあたって11月9日の文学フリマで売られることになった。いずみのさんの「ピアノ・ファイア・パブリッシング」のブースにて委託販売させていただきます。ブースの位置はB-33。ちなみにいずみのさんは「漫画をめくる冒険」の別冊を出される予定で、これは表紙を西島大介君が描いている。

さてミニコミ「Hang Reviewers High」だが、詳細は以下のようなものらしい。

書名:『Hang Reviewers High』
著者:ソメル
デザイン:戸塚泰雄(nu)
その他全部:ばるぼら
サイズ:A5 x 72p
価格:500円
売り場:文学フリマ会場二階 B-33

ばるぼらさんが編集してくださって、しかもミニコミ誌「nu」の発行・編集、あるいは「エクス・ポ」「フリーターズ・フリー」などのデザインでおなじみの戸塚泰雄さんがデザインしてくださるというのはすごいことだ。とてもありがたいことで、お二方に感謝するのはもちろんだが、しかしこの本が面白いのは、僕がこのお二人とともに積極的に本作りを行ったわけではないところだ。とか書くと何かずいぶん尊大な著者みたいだな。でもようするに、このミニコミはちょっとだけ変わった経緯で作られている。

ばるぼらさんから、このブログの内容をミニコミにしたいというメールをもらったのはちょうど1年ほど前、2007年の10月末のことだった。メールの内容はネットの文章を本にする小部数のミニコミレーベルを作りたい、その第一弾として僕のブログを選びたい、ということだった。そして、そのミニコミは以下のような条件のもとで作りたい、という。

・収録する原稿の選定・並び、デザインなどはすべてばるぼらさんが行い、原則として著者は意見しない
・文章内容は極力ウェブのままで収録する
・印税なし。著者には刷り部数の10%を現物支給する

これはすごく面白い企画だと思った。要するに彼は、ネット上のテキストを、書いた僕の意向を極力排除して、乱暴な言い方をすれば僕の書いた文章を「勝手に使って」本を作ろうというのだ。その姿勢は、スクレイピングだのマッシュアップだのといった言葉によって、何だか今やすっかりネットのお家芸であるかのように言われている種類のもので、つまり彼がやろうとしていることはネットにとって「素材」としてしか見なされていない紙メディアの側から、逆にネットを「素材」として扱ってみせたものを作る試みであると言うこともできる。

しかし上記のような説明ではまだ、ばるぼらさんの意図を正確に伝えているとは言い難い。彼の意図は、もっと視野の広いことだと思う。彼はおそらく、このように自由な意志で素材を寄せ集めて一つの作品を作る手法は、別段ネットに特有のものなんかではない、ということを示そうとする意味もあってこのミニコミを企画しているはずだ。

昨今、我々が例えばYouTubeやニコニコ動画などでMAD動画を見て、素材を自由に利用して作られたコンテンツの面白さを感じるとき、「このような面白さはインターネットという場所、あるいは情報技術の活用ないしはデジタルメディアであることを条件に成り立っている」と勘違いしてしまうことがままあるだろう。しかしそれは間違っている。そのような考え方は、単にネットというメディア自体が面白いのだという短絡によって、我々がそこで何を面白いと感じているのかを見落とすことにつながっている。

では、そこで我々が感じている面白さとは何か。もちろんそれは、編集した者が素材に意味を与え、一つの文脈を立ち上がらせるということの面白さだ。「膨大な素材が他人によって選出され、制作者の意図を離れて編集される」ということ自体が面白いのだ。ヒップホップ以降に台頭したサンプリングミュージックが面白いように、またバロウズが実践したカットアップによる文学が面白いように、まさにそのようにMAD動画は面白いのである。そしてまた雑誌も、同様に面白いのである。むしろ雑誌やミニコミなどはそのような面白さを持ったメディアの最たるものとしてある。たしかに、ネットやデジタルメディアはそのような面白い作品を一般人が手軽に作ることを可能にしたが、そのことに拘泥してしまうと、紙メディアに同じことが可能であるということ、我々が愛するのはその思想と手法でありメディアの形態ではないのだということ、そしてまたネットと紙ではその「面白さ」のあり方がどう違うのかということが、安易に見落とされるはずだ。

そして僕は、メディアを問わず、そういうやり方で作られたモノが大好きだ。サンプリングとか剽窃とかマッシュアップとかミクスチャーなどという考え方そのものをほとんど偏愛している。そういうモノが大好きだ。だから僕は、即座にばるぼらさんの申し出に快諾して、あとは制作について一切口を挾まなかったのである。好き勝手に、自由に、僕の意志なんて介在しないように、作ってほしかったのである。そういうことがしたいという思想に共感したのである。

ではミニコミ「Hang Reviewers High」において、そのような編集の力による「面白さ」はどのように出ているだろうか。ばるぼらさんからメールをいただいたとき、彼が「こういう内容にしたい」という目次を見せてくれた。それは当然のことながら、このブログから記事を抽出して並び替えたもので、つまりすべて僕が書いたテキストなのだが、それを見て僕は唸った。やられたなあと思った。その目次は、それ自体がばるぼらさんの編集力の高さを伺わせるもので、一つの本としてはっきりとした主題の提示を持ったものになっていたのだ。

主題。メインテーマ。たびたび書いていることだが、僕はこのブログ「Hang Reviewers High」にトータルとして一つの意味を持たせようとしている。一つ一つの記事が単に個別の作品のレビューのようになってしまうブログという場所で、それでも一つの主題を持ったひとつなぎの読み物を作ろうと躍起になっているのだ。「Hang Reviewers High」というタイトルそのものや、「イカれたDJどもを縛り首にしろ 連中がタレ流している音楽なんて ぼくの人生に何の関係もない」という文句も、その主題というか含意というかメタメッセージのようなものを象徴している。しかしブログという形式は、今書いたように一つ一つの記事が個別のものとなってしまいやすいので、そのような背景にあるメッセージが届きにくい。だから、このブログではその主題にかかわるものは個別に見ると曖昧で謎めいて見えるようになっているし、だからこそこのブログの最後に書かれるテキストではそれを謎解きのようにメタ的に解説して終わる予定である。

ところがばるぼらさんの作った目次は、このブログの主題を完璧に理解した上で、それを軽々とまとめ直してみせたものだった。これには驚いた。膨大なバラバラのテキストを一つの主題に基づいてまとめ、かつ読むに耐えさせること。紙メディアがネットに対して持つ最大の優位とはそれであり、それが編集という仕事の最も面白い部分だ。逆に言えばネットはその点において紙よりも圧倒的に劣っている。レビュー主体のブログに主題を持たせるために苦心しなければならないということ自体が、まさにそれを証明している。ばるぼらさんはその点を十分に理解して、このブログの文章を一冊の本にまとめるということをやってみせたのだ。紙メディアは、一つの読み物としてのトータリティや主題だのを、ブログよりも明快に、強固に作り出すことができる。彼がまとめた本の通りに読めば、間違いなくこのブログの主題がみるみる浮き上がってくるはずだ。自分の書いたテキストなのに、他人にまとめられてから「面白い」とか思ってしまった。ネットでのオリジナルの書き手としてこれは少し悔しい。しかしもちろん、すごくうれしい。僕がこのブログでやろうとしたことを彼は理解して、それに対する批評としてミニコミの目次は成り立っていたのだ。

逆に言えば、このブログの主題がなんなのか、このミニコミを読めば一発で分かる気がする。というか、ばるぼらさんがブログに揚げている「前文」の内容もかなりネタバレっぽいというか、別に隠している訳じゃないが、とにかくこれを読めばなぜ僕がこんなレビュー形式のブログをやっているのか、それにどういうメタメッセージを込めようとしているのか、ということは分かりそうだし、どんなミニコミなのかという内容も分かりそうに思う。このばるぼらさんの文章もすごくって、「爆撃」と書かれているのが素晴らしい。この言葉は、このブログを僕が書くに際して「大量の弾を撃ちまくることが必要だ」と決めたのと呼応している。すべてをここに書くことはまだないが、ものすごく簡単に言えば、このブログは、この本は、「今という時代に、主にネットで、作品について意見を述べるということ」についての内容になっているはずだ。もちろん僕は「勝手に作られた」著者なので、ほんとにそんな本になっているのか、全く知らない。デザインも見ていないしゲラのチェックなんて当然していない。ばるぼらさんのところにある画像が表紙なのだろうか。分からない。しかし分からないのがいい。僕が知っているのは目次だけで、ひょっとすれば後からばるぼらさんが目次を作り替えた可能性すらあるけれど、しかしそれすら分からない。だが、少なくとも僕が見た目次では、僕がここで書きたかったことが書かれた本みたいだ(自分で書いたんだから当たり前だけど)。たぶん読むと、僕が早くここに現出させたい「主題」が感じられるはずだ。そんなことが書いてある本、読んでみたい。そんな本、面白そうだもん。自分が。ようするにこの本は、著者ではなくただ読者として、すごく楽しみだ。

というわけで編集とか紙とネットとかいうことも考えられる面白い本である上に、全く盛況を極めているかのような批評とか評論とかレビューとかいうものが退屈でしかたがないということを(もちろん)ザ・スミスばりに標榜しているはずの本なので、僕が言うのもホントに変な話だが、おすすめです。11月9日の秋葉原、文学フリマでぜひお買い上げください。僕も当日行かないと完成した本を見ることすらかなわないので、必ず行きます。72ページ1冊500円は「安い」といずみのさんに書いていただいているが、僕はミニコミの値段の相場とかをよく知らないし自分で作っていないので安いかどうかも分からないけど、安いと言っていただいているのでそのへんもバリューとして付け加えておこう。疎くて分からないが、安いほうがいいものなのだろうか?あとオマケだが、一応僕は「あとがき」を書いているが、書いた内容はこのミニコミに対する想像に基づいたレビューのようなもの、ようするに上記に書いたようなこととあまり変わらないので、そんな「書き下ろしのテキスト」を期待して対価を払う必要はない。「ネットでも読めるもの」が編集された姿を、ばるぼらさんと戸塚さんの仕事を、ぜひお買い求めください。あと、最後になったけど、同じくいずみのさんのブースで吉田アミさんが配布されるフリーペーパーに、僕が「ニーツオルグ」というサイトをやっていたときに書いた「めぞん一刻」についてのテキストを掲載していただくそうです。どんなのが載るかを見せていただいたんだけど、自分が書いたものながら、かなり読みにくかった。こんな文章をアップするなんて迷惑な奴だなと思った。さやわかめ。あとついでにもうひとつオマケだが、ばるぼらさんによると

ちなみに本はソメル名義になっています。
さやわかのさの字もありません。

とのことである。それでいい! と思った。たしかに、ネット上で、このブログで、書かれたものなので、ぜひそうあってほしい。

2008.11.04 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章

君が忘れていった水槽

アンディー・メンテのジスカルドこと泉和良さんについては、今号の「スタジオ・ボイス」誌にてインタビューさせていただいた。

そういえば、引きこもっていたせいで全く書けずにいたが、この前の号の「スタジオ・ボイス」で僕は宇野常寛「ゼロ年代の想像力」についての書評を書いている。興味がある方はバックナンバーなどで読んでいただければ幸いです。この本についてはもうずいぶんいろいろなところで書いているので特に今言うことはないが、「小説TRIPPER」の今号での東浩紀と宇野常寛の対談は、僕がWEBスナイパーの書評(前編後編)において書かせていただいた同書への疑問点とかなり近い部分を東さんが宇野さんに対して尋ねられていらっしゃるという興味深い内容なので同書に興味のある方は必読かと思う。

さて話は「スタジオ・ボイス」に戻るが、今号の特集は「ゲームを作ろう!-非ゲーム・クリエイターのための入門講座」というものであり、なかなか濃い内容の特集になっている。誌面からどこか懐かしい90年代のサブカルの香りがするのは、ゲームというメディアがまだその空気を残しているということなのだろうか。ちなみに僕の行った泉さんのインタビューの前ページには、ばるぼらさんによる神奈川電子技術研究所のインタビュー記事が掲載されていたりもする。

泉和良さんにも、今回は小説ではなくやはりアンディー・メンテについてを中心に、彼の「フリーウェアゲームスピリット」について語っていただいている。小学生の頃からMSXでゲームを作成し、地方の草の根BBSに毎日アップしていたというエピソードや、彼があの「MSX・FAN」の読者であり、そしてもちろんBio_100%やイタチョコシステムから大きな影響を受けた結果として今の活動があるというお話は、「マルチメディア」という言葉がまだ目新しかった90年代のゲームやコンピュータ文化、さらにはベーマガやMAX・FAN、POPCOMなどのような80年代の投稿ゲーム文化と今を繋ぐものとして読める、面白いものになったと思う。今号で僕は泉さんだけでなく「桃鉄」のさくまあきらさんにもインタビューを試みているのだが、こちらでも個人によるインディペンデントな活動としてのゲーム制作について興味深いお話をいただき、全体として才能を持った人物がアイデア一発で面白いことができてしまうパンク/ニューウェーブの精神が感じられる創作の可能性がまだゲームというフィールドにはあるという誌面になったように思えた。

それにしても泉和良さん、あるいはアンディー・メンテというサークルの立場を正しく説明するのはとても重要なことだろう。彼の活動は2000年以降の「いつものところ」や「TYPE-MOON」のような「同人ゲーム」、あるいはノベルゲームの盛況とはいささか趣を異にするものとして語られなければならず、またそうしなければ小説作家としての泉和良という人物が何をやろうとしているのかも分かりにくくなるはずだ。アンディー・メンテが今年発表した作品である「君が忘れていった水槽」はウィンドウを水槽に見立てて、そこで勝手に増殖や分裂、闘争を繰り返して成長や滅亡を繰り返すデジタルな生物の様子を眺めるというものだが、内容はもちろん、この作品は音楽がとにかく素晴らしい。ゲーム中では常時BGMが流れているのではなく、何かのタイミングで不意に一曲流れてはまた静寂が訪れる。そのふっと鳴り、ふっと終わるというどこか寂寞感の残る使われ方が非常に素晴らしいわけだが、しかしこの10曲を越えるエレクトロ/アンビエントの楽曲の数々は、今年僕が聴いたすべての音楽の中でも指折りの名曲ばかりだ。明らかにゲームミュージックという範疇を超えていて、どちらかというとゲーム好きはもちろんだが、音楽好きの人や、ゲームに興味のない人にこそ聴いていただき、その質の高さに驚いてほしいものだ。そうして、泉和良という作家の驚異的な才能に興味を持っていただきたい。全くジャンルの垣根を越えて、こんなところで質の高いものを作っている人がいるということをぜひ知っていただきたい。

アンディー・メンテの楽曲や映像作品はYouTubeなどでも、たとえば「うんぽこ」「メリークリスマス アンディーメンテ」、聴くとものすごくやけっぱちで悲しい気持ちになる「あんこくねこぐんだん」、あるいは「キューティーライダー」などを楽しむことができる。「キューティーライダー」の「さよならスウィーティー」の回などはむやみに燃えるいいムービーだ。余談だが「うんぽこ」のムービーは流水大賞の優秀賞授賞式において滝本竜彦の手によって講談社の偉い人が集まる前で流されたという噂であり、だとすればなかなか抱腹絶倒なエピソードではある。

しかし「君が忘れていった水槽」に付けられた楽曲は上記にあげた動画とはまた一線を画するもので、僕はこちらの方がずっと好きだ。配布されているゲームのアーカイブを解凍すれば音声ファイルがWAVE形式で収められているので、これをiTunesなどに突っ込んで好きなときに楽しんでもいいと思う。僕はそうしている。本当に流していて気持ちのいい音楽なのだ。

2008.10.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [映像] [文章

パンドラ Vol.2 SIDE-A(2008AUTUMN)

あんまり体調がよくなくて、このブログの更新を1カ月ほど行うことが出来ないでいた。仕方がないので引きこもり気分で小説やら評論やらゲームやらアニメやら映画やらドラマやら、とにかく手当たり次第に手を付けていた1カ月であった。その末に自分の中で猛烈な勢いで90年代後半からゼロ年代前半のブームが来てしまい、西尾維新や佐藤友哉や滝本竜彦や上遠野浩平の古い作品を読み返したり、「ガンパレード・マーチ」にハマってみたりして、この10年についてや次の10年についてじっと考えていた。これはとても楽しい作業で、かなりいろいろなことに見通しが立てられた気がする。その内容は、このブログにも反映させていこうと思う。出力するばかりでなく、再読によってここまでの状況を見直すことはとても大切なことだった。引きこもるのもたまにはいいものだ。

さて、まだ全部読んでいない本について書くのは忍びないのだが、僕がそんなことをしているうちに「パンドラ」の最新号が出た。僕はこの中で「東浩紀のゼロアカ道場」のレポート記事を書かせていただいている。ゼロアカ道場についてこのブログに書いたことはないと思うが、実は僕はこの批評家発掘イベントの第二回と第三回を一見学者として拝見させていただいた。はじめに見に行ったときは、西島大介君とやる漫画教室イベントの参考になればよいと思っていたのだが、ゼロアカ道場自体がとにかく非常に面白く、また拝見していていろいろと思うところが多くあったので、今回レポート記事を書かせていただけたことはとてもありがたいことだ。

レポートの内容は、いやしくも批評をテーマとするイベントに対して、単に「現場はこんな感じでした」というだけのものを書いてもつまらないので、ゼロアカ道場というもの自体に批評的な視線を加えて、東浩紀や講談社BOXが何をやろうとしているのか、また参加者たちの行動が今の若い批評の現場に何をもたらそうとしているのかということを論じようとしている。そうするために、見学の折に参加者たちとお話しさせていただく機会があったり、あるいはウェブ上でゼロアカ道場に言及できるタイミングがあったときにも、この企画自体にはなるべく多く言葉を挟まず、あくまで第三者的に、観察者として振る舞うようにしてきた。おかげで記事の内容は、いかにも提灯記事というものではなく、内輪ノリなものでもなく、ゼロアカ道場というものを正しく突き放して書いたものにできたと思う。

しかしそれと同時に、記事においては「批評」という取っつきにくそうなものに似つかわしいような堅めの文体を用いるのではなく、バトル漫画の「解説キャラ」のような立ち位置に自分をおくようにしてみた。ゼロアカ道場とは「新しい批評家を発掘する」というものだが、それは一種のリアリティショーとして成り立っており、現場はまるで「批評家バトルもの」というジャンルの漫画のような演出が加えられ、またそれが見事に成功している。だから僕はその場において「魁!!男塾」の登場人物が「も 桃ーっ」とか叫びつつ説明口調でバトルで繰り広げられる技に解説を加えるような役割を自分に与えてみたわけだ。文体は「カイジ」と「バキ」と「MMR」を寄せ集めたようなものにしてあり、ご一読いただけば、どことなくバトル漫画的な説明口調をもって、ゼロアカ道場というものがどういうふうに盛り上がっているのか、またそれに今どんな意味があるのか、そして今後の課題として考えられるものは何なのかをご理解いただけるというちょっと変わったものになっている。こういう伸び伸びとした文章を印刷媒体に書くのが久しぶりな僕としては、書いていてとても楽しかった。しかもこのゼロアカ特集は「パンドラ」の巻頭特集であり、かつ結果的に僕の文章が事実上の冒頭を飾る文章となったようだ。大変な僥倖である。今回の「パンドラ」にはなんと目次が付いていて(「ファウスト」や「パンドラ」を知る人にとってはこれはわりあいに驚くべきことなのである)、その目次の先頭に「さやわか」という僕の筆名を載せていただいていて驚愕した。せっかくですからよかったらぜひ載せられた記事をご覧ください。ゼロアカ道場については、11月9日の文学フリマにて同人誌の販売部数を競うという第四回関門が行われる予定で、僕もまた同人誌を買いに走りたいと思っている。とにかくはじめは一見学者であったはずが、今や先がどうなるのかすっかり目が離せなくなってしまった。文学フリマはまだ一度も言ったことがないのだが、今から楽しみだ。

さてこの「パンドラ」だが、先ほども書いたように、残念ながらまだゼロアカ道場の特集以外のすべてのページに目を通すことはできていない。だから細かなことをここに書くことができない。しかし、編集長が今号から変わったことによる変化ははっきりと出ているように感じた。前号までとは誌面のイメージが大きく変わったように思う。ページ数の多い漫画が多くあるのと、新人作家が多く書いているせいか、ポップでフレッシュな印象の誌面になったようだ。また前号まではおもちゃ箱のような、良い意味で雑多な印象の雑誌だったが、今号は整った編集方針が感じられるように思う。

個人的には小柳粒男、泉和良、針谷卓史という講談社BOXが推している「危険な新人」の三作を最近すべて読んでいろいろと思うところがあったので、彼ら三人の新作をまずは読んでしまいたいところだ。アンディー・メンテのジスカルドこと泉和良についてはもちろんだが、小柳粒男についても「くうそうノンフィク日和」「りべんじゃー小戦争~まち封鎖」をとても興味深く読んでおり、このブログにおいて後で記事にしてみる必要を感じているため、今号の作品を読むのも楽しみにしている。「くうそうノンフィク日和」の表紙には「さあ叩け!」という煽り文句が付けられているわけだが、騙されてはいけない。この言葉によって作品は明らかに読み解かれるのを待っているのだ。このような挑発には、我々は断固として乗るべきなのである。

「ファウスト」と「パンドラ」のカラーの違いも今号ではより明確に出ているように思う。蓋し、今号においてよりはっきりとなった編集方針とは、当初から「パンドラ」が目的の一つとしていたであろう、今後の講談社BOXを担う新人育成の場としての雑誌であろうとするというところではないだろうか。「新しい小説」「新しいライトノベル」「新しい批評」「新しい漫画」という、いわばマーケットにおける「新しい商品」を準備しようというのではなく、「新しい人」を見出すという目的で、まずは今回の「パンドラ」は舵を切り始めたように僕には思われた。

2008.10.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

«  | INDEX |  »


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。