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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

さて、劇場で見てから一ヶ月以上経って、ようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について書くことができる。この一ヶ月の間に「破」については多くの意見が交換されたと思うが、僕は忙しくてあんまり見ていない。でも二次創作的だと言われているという意見をちらりと伝え聞いて、これはそんなに単純なものではないだろうと思った。では何なのか。それを、例によって今からこの文章を書きながら、考えてみたい。ただまあ、おそらく、僕の意見はこの作品を見た一ヶ月前から変わっていない。最初に僕が思ったのは鶴巻和哉がやってくれたんだということで、これは本当にすごい作品だ、ということだ。

「破」が二次創作的だという意見に対して、僕は「序」が既にそうだったというしかない。「rebuild」の「re」に込められていた反復の含意はそういうことである。旧エヴァという母体を王道の物語へと焼き直す態度はそうであった。さらに、もともと旧エヴァという作品自体が、ロボットアニメの、あるいはアニメそのものの二次創作しか描くことができないという断念からスタートしたものではなかったか。根底にアニメ的なものしか持たないモノが、それを際限なく過剰にしていくことで現実を突きつけようという作品だったのだ。だから、「破」こそは二次創作的であるという指摘はほとんど何も言っていないに等しい。ならばこの「破」とは、「re」などという反復で象徴できるようなものではないのではないのか。「破」の一字によって破壊、破綻、破産、破滅させられるものとは、やはりエヴァンゲリオンそのものなのだと思う。「序」において、しっかりとワンダバ式に盛り上げられていくヤシマ作戦や、前向きに生きるシンジの姿によって、我々は確かに王道の物語としてのエヴァンゲリオンの再話を見た。我々はそれを二次創作だと呼んでいい。「本来ありうべきだったエヴァンゲリオンを作っているのだからそうではない」というのなら、もちろん誤りである。

しかし、「破」は「序」を引き継いで同じ事をやっているとは全く言えない。むしろ、ドラマに着目すれば「序」「破」はたしかに同位相にあるのだと言っていい。だからこそ、この「破」が何かを壊したと感じさせるならば、それはドラマには全くないし、今そこを見続けてもしかたがないのである。シンジやアスカがゼロ年代的な主体性を見せているということは、むろんドラマにとって重要なことに違いない。それは疑う余地がないことだ。しかし、僕は言ってしまおう。「破」というフィルムにおいて、それはもう、物語がループを繰り返しているか否かとか、ゲンドウのセリフの元ネタがなんだとか、この物語を楽しむ上で皆が欠かすことのできない「謎解き」と同列になっていて、ともに「破」がいま何をやっているかということにとっては、あまり重要なことではない。

「序」の前口上として庵野秀明は、旧エヴァ以来、新しいアニメはなかったと述べたが、しかし後にエヴァが直面した二次創作しか描くことができないという断念を受け継いだ上でロボットアニメはなお前進してきたし、それはほかでもないガイナックスの「トップをねらえ2!」や「グレンラガン」において、輝かしい達成を見せている。だからこそ、「破」においては、旧エヴァが経験していないものがあからさまに作品に介入させられている。旧型プラグスーツの丸みを帯びたデザインや、対照的に鋭さを強調する仮設五号機のデザインは、あきらかに「旧エヴァ」より後の時代に我々が経験したガイナックスのロボットアニメ作品、たとえば「トップをねらえ2!」の系譜にあるものとして見ることができる。旧エヴァ視聴者にとって「新しいもの」として現れる「旧型」のプラグスーツは、エヴァが王道の物語として再話されることを示唆しながら、しかしそのデザインによって既に先行した存在があるということをも訴えている。アスカがテストプラグスーツを着ている瞬間に、ドラマの上でゼロ年代的な主体性を見せることなど、いわば当然のことなのである。

このように、「破」においては、とにかく視覚のうえでは至る所で旧エヴァを追い詰めようという策略が展開されている。たとえば「序」が忠実に繰り返した例の極太明朝のスーパーインポーズを取り払っていることにも「トップをねらえ!」に対した「トップをねらえ2!」に通ずるものを感じる。しかし、このスキームの頂点にいるのはやはり新キャラクターであるマリである。

彼女はその運動のすべてが旧エヴァ以降のもので、フィルムにおいてほとんど別レイヤ上の存在のようにすら見える。旧エヴァを破綻させるために彼女がやるべきなのは、ただその場で動くだけでいい。彼女が口の端をよく動かして嘲笑うさまは、旧エヴァで「チャーンス」と笑ったアスカと全く別の位相で響く。マリの豊満な胸の運動はこのくらいのアニメ的な想像力に導かれており、旧エヴァ第壱話からあれほど視聴者が注意喚起を促されたミサトの胸を生身の女性のそれに引きずり下ろす。ゼロ年代アニメの存在である彼女が動き、話すたびに、アニメであることを突き詰めていたはずの旧エヴァの登場人物はどんどん過剰さを失い、反面にスキニーな実体らしさまでもを露呈してしまうのだ。カヲルは「序」に引き続き今作でも物語の外部を暗示するようなセリフをいくつか述べたが、しかしマリの登場によって彼の危うさは相対的に失われていく。カヲルのメタフィクション性は観客にとってそれ自体がフィクション内部の娯楽装置として受け入れられてしまう段階にある。言うなればカヲルは作品が虚構であることを観客に強く意識させようとなどしないのである。ここでメタフィクションは既にフィクションを食い破ってなどいない。カヲルは言葉によってメタフィクションを暗示し、それ故にドラマの上でしかメタ的でない存在だが、しかしマリはセリフの上では何一つ暗示せずに、しかし物語全体を嘲笑う、真の意味で物語の外部に立つ存在なのだ。

ほかに。旧エヴァに存在したカットが、構図を複製され、しかし描き改められ、その上で全く別の文脈でドラマに挿入させられていることに注目したい。例えばシンジが屋上で上を見上げるシーンや、レイが特攻するシーンにおいて、フィルムが伝えようとした状況、そして重要なのはエモーションが完全に別のものに置き換えられている。ここで行われているのはもはや単なる二次創作ではない。月並みな言葉になってしまうが、MAD的なものが働いている。しかしそれ以上であるようだ。シーンを作り直すだけならば「序」のようにしてやればいいのだ。みんなの知っているあのシーンの絵を描き改めましたというだけならばリメイク(re)作品だと自然に言うことができる。しかし「破」は、旧エヴァのすべて、テレビも映画もゲームもパチンコも、そのすべてを使用可能なリソースとして認識し、自由に要素を抜き出して思うままに旧作の中に忍び込ませながら、エヴァという歴史を捏造している。旧作の設定に依拠しながら別の物語を組み上げる二次創作とは違うし、旧作から映像や音声を抜き出して文脈を成立させるMADとも違うことをやっているようだ。しかもオフィシャルな作り手にしかできないそれを、意図的にやっている。

僕が唐突に思い出したのは三国志のことだった。三国志は、三国志演義がたいへん有名であり定本のように扱われているが、しかし実際のところ何が正史なのかははっきりしない。そして、今や夥しい数の三国志が、勝手気ままに創造されている。しかしそれらを見て、我々は「三国志の二次創作だ」などと考えたりはしない。三国志の一次創作物が何なのかということ、さらにいえば史実がどうであったかということすら、我々には何の関係も持たない。「破」によってエヴァにもたらされたのは、おそらくそのような事態だ。その意味で、「破」もマリも、エヴァを簒奪しようと目論んでなどはいない。「正史」は単に消滅する。そして、新劇場版の描く「偽史」が幕を閉じるころ、我々の時間は劇中と同じ2015年に追いつくだろう。これはうまくできている。

ところで、しかし、むろんこのフィルムに庵野秀明の「らしさ」はあまり感じなくて、次には彼が、本当に破綻させるということはどういうことなのか教えてくれるのかもしれない。僕はそれを待っているだろうか。僕は「破」に満足しているので、分からない。しかし、それでも、次にも何かのショッキングなものを期待してしまう。今回の劇中曲のような、あの狂った気恥ずかしいスタイルでしか味わえないものは、確かにあるのだ。

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2009.08.05 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [映像

君が忘れていった水槽

アンディー・メンテのジスカルドこと泉和良さんについては、今号の「スタジオ・ボイス」誌にてインタビューさせていただいた。

そういえば、引きこもっていたせいで全く書けずにいたが、この前の号の「スタジオ・ボイス」で僕は宇野常寛「ゼロ年代の想像力」についての書評を書いている。興味がある方はバックナンバーなどで読んでいただければ幸いです。この本についてはもうずいぶんいろいろなところで書いているので特に今言うことはないが、「小説TRIPPER」の今号での東浩紀と宇野常寛の対談は、僕がWEBスナイパーの書評(前編後編)において書かせていただいた同書への疑問点とかなり近い部分を東さんが宇野さんに対して尋ねられていらっしゃるという興味深い内容なので同書に興味のある方は必読かと思う。

さて話は「スタジオ・ボイス」に戻るが、今号の特集は「ゲームを作ろう!-非ゲーム・クリエイターのための入門講座」というものであり、なかなか濃い内容の特集になっている。誌面からどこか懐かしい90年代のサブカルの香りがするのは、ゲームというメディアがまだその空気を残しているということなのだろうか。ちなみに僕の行った泉さんのインタビューの前ページには、ばるぼらさんによる神奈川電子技術研究所のインタビュー記事が掲載されていたりもする。

泉和良さんにも、今回は小説ではなくやはりアンディー・メンテについてを中心に、彼の「フリーウェアゲームスピリット」について語っていただいている。小学生の頃からMSXでゲームを作成し、地方の草の根BBSに毎日アップしていたというエピソードや、彼があの「MSX・FAN」の読者であり、そしてもちろんBio_100%やイタチョコシステムから大きな影響を受けた結果として今の活動があるというお話は、「マルチメディア」という言葉がまだ目新しかった90年代のゲームやコンピュータ文化、さらにはベーマガやMAX・FAN、POPCOMなどのような80年代の投稿ゲーム文化と今を繋ぐものとして読める、面白いものになったと思う。今号で僕は泉さんだけでなく「桃鉄」のさくまあきらさんにもインタビューを試みているのだが、こちらでも個人によるインディペンデントな活動としてのゲーム制作について興味深いお話をいただき、全体として才能を持った人物がアイデア一発で面白いことができてしまうパンク/ニューウェーブの精神が感じられる創作の可能性がまだゲームというフィールドにはあるという誌面になったように思えた。

それにしても泉和良さん、あるいはアンディー・メンテというサークルの立場を正しく説明するのはとても重要なことだろう。彼の活動は2000年以降の「いつものところ」や「TYPE-MOON」のような「同人ゲーム」、あるいはノベルゲームの盛況とはいささか趣を異にするものとして語られなければならず、またそうしなければ小説作家としての泉和良という人物が何をやろうとしているのかも分かりにくくなるはずだ。アンディー・メンテが今年発表した作品である「君が忘れていった水槽」はウィンドウを水槽に見立てて、そこで勝手に増殖や分裂、闘争を繰り返して成長や滅亡を繰り返すデジタルな生物の様子を眺めるというものだが、内容はもちろん、この作品は音楽がとにかく素晴らしい。ゲーム中では常時BGMが流れているのではなく、何かのタイミングで不意に一曲流れてはまた静寂が訪れる。そのふっと鳴り、ふっと終わるというどこか寂寞感の残る使われ方が非常に素晴らしいわけだが、しかしこの10曲を越えるエレクトロ/アンビエントの楽曲の数々は、今年僕が聴いたすべての音楽の中でも指折りの名曲ばかりだ。明らかにゲームミュージックという範疇を超えていて、どちらかというとゲーム好きはもちろんだが、音楽好きの人や、ゲームに興味のない人にこそ聴いていただき、その質の高さに驚いてほしいものだ。そうして、泉和良という作家の驚異的な才能に興味を持っていただきたい。全くジャンルの垣根を越えて、こんなところで質の高いものを作っている人がいるということをぜひ知っていただきたい。

アンディー・メンテの楽曲や映像作品はYouTubeなどでも、たとえば「うんぽこ」「メリークリスマス アンディーメンテ」、聴くとものすごくやけっぱちで悲しい気持ちになる「あんこくねこぐんだん」、あるいは「キューティーライダー」などを楽しむことができる。「キューティーライダー」の「さよならスウィーティー」の回などはむやみに燃えるいいムービーだ。余談だが「うんぽこ」のムービーは流水大賞の優秀賞授賞式において滝本竜彦の手によって講談社の偉い人が集まる前で流されたという噂であり、だとすればなかなか抱腹絶倒なエピソードではある。

しかし「君が忘れていった水槽」に付けられた楽曲は上記にあげた動画とはまた一線を画するもので、僕はこちらの方がずっと好きだ。配布されているゲームのアーカイブを解凍すれば音声ファイルがWAVE形式で収められているので、これをiTunesなどに突っ込んで好きなときに楽しんでもいいと思う。僕はそうしている。本当に流していて気持ちのいい音楽なのだ。

2008.10.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [映像] [文章

デトロイト・メタル・シティ

「デトロイト・メタル・シティ」というマンガを僕は世間で面白いと言われているほどに好きではなくて、だから映画にもさほどの興味がなかったが、ほとんど偶然に見に行ったところ、まったく想像を超えて非常に面白い部分があった。

この原作マンガを僕がさほど面白いと思わないのは、ギャグマンガとして、お話の中にあるギャグのリズムパターンが一定でありすぎるからだ。これはもう単純に好き嫌いの問題なのかもしれないけれど、まず「面白さ」の根源が常時、ズレたお笑いとして見た「デスメタルの凶暴性」と「渋谷系のオシャレさ」、そして何らかのマンガなどのパロディという要素に還元されてしまうところに、読んでいるうちに飽きを感じてしまう。ひとつひとつのネタが面白くないというわけではないのだけれど、冷静な見方をしてしまうと大きな笑いの要素としてはメタルとオシャレとパロディに絞られてしまう。しかも「エアレイプ」とか「ベルリンの金色の風」とか、作者が「面白い」と思いついたギャグのネタを定期的に紙面に差し挟むためだけに各話を構成しようとするところがあって、その意外性のない一定なリズム感は言ってみればこれは僕にとって、「カメレオン」などで人気を博した加瀬あつしの連続下ネタのワンパターンさと同じものだ。重ねて言うが一個ずつのネタが面白くないのではないけれど、同じ要素に収斂することができるネタが一定なリズム感で繰り返されていることに結局は飽きを感じてしまうのだ。

しかし、映画の方は原作とは違った面白さがあった。冒頭からカジヒデキが出てきて「ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME」を大熱唱していたり、着メロが「恋とマシンガン」だったり、タワーレコードで今さらカヒミ・カリィが大々的に売られているシーンがあるだけでわりと面白いのであるが、観客は特にそういうところは笑っていない。これは渋谷系というものを知っている人にだけ送られた目配せであって、それは鬼刃役でK DUB SHINEがDJ OASISと共に出演しているのと同じような小ネタである。しかし余談だがこういう映画にこういう役で平気で出たりするところがいかにもコッタ氏らしくて非常に笑えた。

しかしそんな小ネタはまさに小ネタであって、ギャグとしても物語の本筋としてもこの映画には実は全く関係がない。この映画は簡単に言えばどのように自己を実現するのかという物語であった。他人から認められたい、しかし他人は全く承認してくれない自分を追い求めること(自己承認欲求)を捨てて、本来自分が望んだ姿でなくとも、いま自分が他人に夢を与えることができている自分を肯定する、という話なのだ。自分が内発的に自覚する「個性」を認めさせようというのではなく、他人が発見してくれた自分の長所に自らを委ねて自分も他人も満たされる、という非常にゼロ年代的なテーマ性を持っている。

それだけでも宇野常寛が「ゼロ年代の想像力」で提示したポスト決断主義のモデルと比べて語ると面白そうな話だとでも言えそうなものだが、この映画はそれに加えて音楽というものに対する視線にも面白いものがあった。主人公もヒロインも、自分がオシャレな音楽に夢を抱くように、自分が不快感を感じるようなデスメタルのような音楽に夢を抱かされる他人がいる、ということにラストで気づく。面白いのは、ここで「あらゆる音楽が誰かに夢を与えうる」という題目の下に等価なものとして並べてしまわれることだ。タワーレコードが強力にバックアップしているせいかどうかしらないが、この映画は原作のマンガに比べて現代における音楽のあり方についてずっと自覚的だ。マンガでは現在のところ、デスメタルも渋谷系もズレたカッコ悪さを象徴するギャグのアイテムとしてしか扱われないし、肯定的な表現を模索しつつも、いまだ「音楽は人を殺れる」という言葉でその価値を訴えるにとどまっている。それはそれで悪いものではないが、そこに新味があるかといったらそうでもないのではなかろうか。しかし映画では、消費社会において際限なく等価にされてしまう音楽というものを自覚しつつ、しかしすべてが等価になった後でもなお、この膨大な消費材のそれぞれは誰かに「夢」を与えているかもしれないものだという他者に対する想像力の眼差しを喚起させようとする。そこでは既に、ジャンルによってマッピングしたり価値をランク付けしようとする意志もなく、ただ膨大な消費材の海に自分が愛する何かや他人が愛する何かがあるのだ、という形でのみ等価に位置づける。これはすごく今っぽいものの見方だと思う。

しかし皮肉なことなのかもしれないが、物語の最後にはディスクレイマーとして次のように表示される。

この物語はフィクションであり、物語を構成する一部の台詞・歌詞などを直接的に肯定するものではありません。

つまり「他者が夢を抱く」ことをキーワードにすべての価値観が等価であることを高らかに謳い上げる物語であってなお、この物語は「レイプ」だの「殺害」だのと連呼する曲の思想を肯定するわけではないとしつこく言い訳して回ねばならないのだ。何というか、エロゲーやロリマンガが優れた物語を描きながら、それでも「何だかんだ言ってポルノじゃないか」と言われたり、「この作品に登場するのは全員18歳以上」などと断り書きせねばならないようなものと似たものを感じて面白かった。

2008.08.31 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [映像] [マンガ] [音楽] [文章

残酷な神が支配する

先日「シベリア少女鉄道の再放送」を見に行って、それが大変面白かったのでそのことを書きたい。

もともと僕はこのブログでは、演劇や音楽イベントなど、ライブパフォーマンスに類するものはなるべく扱わないことにしている。単に収拾が付かなくなってしまうというのがその最も大きな理由で、それをやり出すと、たとえば僕はカポエイラの見せる虚構の素晴らしさについてなど、熱心に語り出したくなってしまう。ぜひそうしてしまいたくなるだろう。しかし、やはり調子に乗って何でもかんでも語ることなく、このブログはあるべきだろう。ということから、演劇のようなライブ性の高いものは扱っていない。だが「シベリア少女鉄道の再放送」はビデオ上演だったこともあるから、それを言い訳に、せっかく興味深い内容だったのでここに紹介したい。どこまでうまくこの演劇について語れるかは不明だが、やってみたいと思う。

僕がこれを見たのは先日、西島大介君に会ったときに僕が「こういう小説が書いてみたい」と話したところ、「それが描こうとしているものはシベリア少女鉄道に少し似ているかもしれない」と教えてもらい、並々ならぬ興味を持ったからだ。実際、僕が西島君に語った内容と符合する部分もあれば、そうでない部分もあったが、しかし仕掛けとして持っていたものは確かに酷似していた。今回、僕が見たのは「残酷な神が支配する」だ。この作品はミステリである。小説としてのミステリの用語に沿った言い方をすれば、これは演劇として叙述トリック行ったものであると言っていいだろう。しかしこれは、観客から隠された要素を持つようなもの、たとえば登場人物たちにとって自明である人間関係が最後の瞬間まで説明されないことによってトリックを成り立たせるようなものとは異なる。なぜなら、そのようなものはまさに叙述によるトリック、つまり結局は小説というメディアによってもまた可能なものだ。それをそのまま台本に書くことは不可能ではないし、またそれを演じることは不可能ではないが、ただ読者としてその台本を読んでも同じトリックを体験可能ならば、「演劇として叙述トリックである」とは呼べないだろう。

「残酷な神が支配する」は演劇において叙述としてあるもの、物語の進行を担う部分をトリックとして採用した。それはつまり舞台装置であり、演劇の場面転換そのものである。この劇は回転するラウンドテーブルを三カ所に仕切った舞台で演じられる。仕切られた場所のそれぞれが二面を壁として持つ扇型の舞台になっており、場面転換はこのラウンドテーブルが回転することによって行われる。それぞれの場面はいずれも大学の中の一部屋という設定になっていて、一カ所は部室、一カ所はカフェテリア、そしていま一つはシステム管理室という具合だ。それぞれの部屋の両壁には扉が付けられており、それは部室においては片方が「入り口」、もう一方は「ロッカーの扉」ということになっている。同じくカフェテリアでは扉は「入り口」と「トイレへの扉」として、そしてシステム管理室では、「入り口」と「奥の部屋への扉」としてある。僕の拙い説明ではだいぶ理解していただけるか怪しくなってきたので、仕方なく図版を示すことにする(本当は図版を作ることの方がずっと不得手なので、できれば描きたくなかったのだが)。その舞台とはこういうものである。

さてこの舞台において、扉はお互いに反対側から見れば、別の場面における「別の意味を持った扉」である。つまり部室において「入り口」であるものは、システム管理室から見れば「奥の部屋への扉」である。そしてまたシステム管理室の「入り口」は、カフェテリアにとっての「トイレへの扉」である。以下、同様にカフェテリアの「入り口」は、部室では「ロッカーの扉」としてある。役者たちは、このルールに沿って舞台に現れ、また捌けていくのだが、このミステリの「犯人」はその扉のルール自体をトリックとして使ってしまう。「ロッカーの中に人質を閉じこめるためには大学構内を移動して部室に行かなければならない」というお約束を無視して、「カフェテリアの入り口」を「ロッカーの扉」として使ってしまうのである。

ところが登場人物たちがそのトリックに気づく頃、事態はさらに混乱してしまう。「数時間前の回想シーン」が突発的に行われることで危機を脱したり、突如として舞台の外部にアントニオ猪木が映し出されたビデオスクリーンが登場し、猪木の挙動に合わせて(物語の進行を離れて)ラウンドテーブルが左右に回転してしまう。しかもそのスクリーンにうっかり接触することによって物語のキーとなるアイテムを「舞台の外部」へと取り落としてしまったりと、面倒なことが次々に起こるのだ。ここで役者が状況としておかれるメタフィクションは、すべてを喜劇へと導いてしまう。最後にはラウンドテーブルが回転を止めなくなり、役者たちはそれでも舞台の上で定型的な物語としてのミステリの台詞をしゃべり続けるために、仕方なく、まるでレコードの上の針のようにその場で行進しながら話し始める。人々はゾロゾロと、本来は別々の場所としてあるはずの部屋から部屋へ移動しながら(むしろ移動しているのは部屋の方だが)演技を続けなければならなくなるのだ。「残酷な神」としての舞台装置が「演劇」の進行を支配する中で、もはや全く「物語」の進行は成り立たなくなる。

メタフィクションが演劇に見られるのは必ずしも珍しいことではない。「第四の壁を破る」というような言葉は僕でも知っているし、「観客に見られている」ことに登場人物が気づく作品も多々ある。従ってメタフィクションという手法自体は演劇において、ありふれたものだと言ってもいいだろう。登場人物が物語を進行させようとする努力がついに失敗に終わるという点でも、それはまたメタフィクションにとって典型的なものである。しかし「残酷な神が支配する」がほかの作品と異なるのは、作品がそのメタフィクションによって演劇とは何か、現実とは何かという批評性を発現させないように働くことだと僕は思う。メタフィクションとは観客に対して、自分が演劇を見ているのだということを強く意識させる。それゆえ、たとえばこの演劇は、それが描く世界が実は外部的な「演出」によって成り立っているということをもとに「何一つ自分の思い通りには進行しないという現実」を描くという結構の付け方もできた。しかしこの作品のメタフィクション性は、メタ的な演劇がそのような形で批評的に語られうるということ自体も織り込み済みにして、雪崩式に演劇のすべてを破壊し、物語でも演劇でもないものにしてしまい、舞台の上はまさにグダグダになってしまう。最後にミステリの台詞を一通り語り終わり、役者が「もう何も言うことないわ」と言っても、なおラウンドテーブルは回り続けてしまう。この神はそこまで残酷である。せめて、この演劇のメタフィクションを批評的に語るとすれば次のようにしか言いようがないだろう。すなわち、現実なんてグダグダなものだ。それはつまり、現実とは「何一つ自分の思い通りには進行しない」ということもまた必ずしも言えないものだということである。だからこの演劇は、その「現実」をアイロニーやペシミズムには向かわせない。そこに生きる人々の焦燥と混乱を、ただ愛情深く笑い飛ばそうとする。

2008.07.03 | | コメント(1) | トラックバック(0) | [映像] [文章

文学環境論集 東浩紀コレクションL

東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。

僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味を感じている。

東浩紀はこの論考を、大塚英志の物語論を批判することから書き始めている。ここではごく簡単に説明するしかないが、それはつまりこういうことである。「物語消費論」を書いた93年頃までの大塚英志は、日本のフィクションが文学やマンガなどメディアを問わず結局は「現実は描けない」、逆に言えば物語しか書けないということを自らに認め、しかしその上でなお逆説的に現実を活写しようとするものだとしていた。そして、とりわけ困難な条件の下にその挑戦を続けるのがマンガやアニメのリアリズムであり、それは自然主義から連なる文学などのフィクションと同等に価値あるものであるとして説いていた。東浩紀はこの大塚英志の立場を「物語擁護」の姿勢であったとしている。しかし近年、具体的には2003年に「キャラクター小説の作り方」において、大塚英志は「ゲーム的な小説」について、テーブルトークRPGを例にしながら批判を行ったとされる。そこで語られる「ゲーム的な小説」とはまず次のようなものだ。

TRPGの物語は、特定の規則に則って有限の要素を組み合わせることで生まれる。したがって、そこで語られる物語は、装飾的な細部がいくら多様で複雑であろうとも、基本的には予想を超えることはない。主人公はヒロインを救い出すだろうし、強大な敵は打ち倒されるだろうし、世界の秘密は最後には明らかになるだろう。

上記の内容は大塚英志の言葉としてはこうある。「ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、ということを伝えておきたいのです」。つまり「ゲーム的な小説」は「物語の類型化」を招き、物語の想像力を衰退させるものだということだ。東浩紀はこの大塚英志の批判について、まず「物語の類型化」を、それが避けえないものとしていったん擁護する。「ゲーム的な小説」に限らず、神話から近代小説まで物語というものが煎じ詰めれば定型に収斂可能であることは自明のものとしてあることは広く理解されてきたからだ。その条件の下でなお「現実」を描く試みとしてあったとしてこそ、大塚英志は「物語擁護」を行っていたにもかかわらず、ゲームについてはその創造性を大塚英志は見出していないと東浩紀は書いている。すなわち彼の言葉では以下のようになる。

『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実にたどりつくことがない。

そこで、東浩紀は一つの疑問形から、彼の「ゲーム的リアリズム」への試みを開始する。

筆者の疑問は単純である。大塚はゲームの技法をTRPGで代表させ、類型化を免れえないものだと考え、そのライトノベルへの影響を否定的に捉えていた。しかしそれは正しいだろうか。

僕がいま問いたいのはこの一つの疑問である。東浩紀はそれにどのように答えていったか。まず彼は「ゲームという物語体験」の新しい形として、大塚英志の挙げたテーブルトークRPGではなく、ノベルゲームを例として提出する。そしてその構造分析をゲームというメディア全体に敷衍した形で次のように述べる。

ゲームにおける物語体験は、キャラクターが存在する物語世界(虚構)を充実させるだけでなく、プレイヤーが存在する世界(現実)を繰りこむことではじめて固有で単独的なものに変わる。

これはつまり、ゲームというものが物語と登場人物という虚構だけでなく、プレイヤーという物語外の存在の関与(ゲーム上での操作)、もしくは関与の不可能性(プレイヤーキャラクターを含む登場人物がときとしてプレイヤーの意志を離れて物語を進行させること)を内在させているという指摘である。すなわちゲームはあらかじめメタフィクションを誘発するような条件の下で成り立っているメディアであるとしたものである。「ONE」や「AIR」などの優れたノベルゲームが、彼にとってその具体例としてあるだろう。この指摘自体は全く間違いではない。しかし、このメタフィクション性の指摘のみをもって、東浩紀はつまりはゲームが「現実を描きうる」のだ、という言い方で当初の疑問に対する回答に代えてしまう。

ここでようやく、今書いているこのブログの記事において僕が指摘したい点に到達する。すなわち、ここで東浩紀は結局、ゲームも含めてフィクションは、やはりおしなべて現実を表象するからこそ価値があるのだとしてしまうのである。この回答は、実はまだ半分であるように僕は思う。なぜなら、ここでは物語が類型化を免れえないという課題については、ゲーム的リアリズムがそのメタフィクション性によって、まさにその課題自体をメタ的に指摘しうるものだという主張によってのみ解決されてしまうのである。ところが東浩紀は、その上で、あらゆる物語が類型化を免れえないことが現前した時代に作家が選ぶことが可能な態度は二つあるとして、その一つとは、作家が自分の物語が定型的なものに過ぎないことを理解した上で、商品としての物語を再生産するという方向性だとするのだ。

ジャンルや世代を問わず、いまや多くの作家が無意識にその方向を選択していると言える。純文学作家は純文学のデータベースを用いて純文学のファンに向けて、ミステリ作家はミステリのデータベースを用いてミステリのファンに向けて、アニメ作家はアニメのデータベースを用いてアニメのファンに向けて、それぞれ商品価値が高い「小さな物語」を提供する。そして、ときどき、そのいくつかがベストセラーになる。それが現代の物語消費の風景である。本論はその風景を批判するものではない。筆者もまた、それらの物語を享受し、笑ったり泣いたりして毎日を送っている。

東浩紀はこのような物語のあり方を言葉の上で認めながら、しかしそれをウェルメイドな再生産を目指すものに過ぎないものとして扱っているというのは否定できないことだろう。ここで彼は、作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする。ポストモダンにおける定型の物語の再生の課程については単に近代的な創作の延長であるとして、注意は払われないのだ。そして彼が批評家として関心を寄せるのは、作家の採りうべきもう一つの態度として述べられるもの、すなわち、彼が舞城王太郎「九十九十九」や桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」に見出した、ゲーム的な物語がメタ的な視点によってポストモダン社会の「現実」の活写に到達するようなフィクションであるとされる。「メタリアル・フィクションの誕生」の結びとして彼は次のように書いている。

このような視点を手に入れたことで、私たちは今後、さまざまな作品にゲーム的リアリズムの可能性を発見することができるだろう。「ゲームのような小説」は、決して死を描けないわけではない。現実を否定するわけでもない。

彼が見出したゲーム的リアリズムは、確かにポストモダンにおけるフィクションの可能性の一つとしてあるし、一定の評価に値するものだろう。しかし、彼はついにフィクションは「現実」を描くものだという本来性を論拠にしながらその立場を確保している。ここで彼の批評は、現代に表出している作品群から批評に値するものとそうでないものを峻別し、その一方を捨てようとしているだけでなく、それは結局「人間が描けているか」などに代表される、文学論における純文学とエンタテインメントの峻別の構図に類似してしまっていないだろうか。

そこで我々は東浩紀の最初の疑問に立ち返らなければならない。いや、もっと言えば大塚英志の「ゲームのような小説」に対する批判へと戻らなくてはならない。

ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない

このような物語は、結果としていまフィクションの可能性を狭めているだろうか。それは単にウェルメイドな再生産としてのみ、単なる商品としてのみあるのだろうか。しばしばベストセラーとして登場するそれらを、ケータイ小説を、「らき☆すた」を、ウンコをしないアイドルへの絶対的な愛情を、奈須きのこを、武道館や紅白歌合戦という大時代的な成功を目指すPerfumeに抱かれる感動を、相対性理論やかつての□□□が見せた過去の作品のデータベースからの奔放な参照を、批評は語る必要がないのだろうか。レビューは、それを一笑に付すものだとすることができるだろうか。また僕らがインターネットで作品を語るときに、ある作品への評価を、単なるランキングやマッピングの素材として片付けるべきなのだろうか。

僕はそうは思わない。ポストモダンがあらゆる事物の相対化に達したならば、我々がその状況をいま受け入れて生活していくとするならば、その状況下で他者がさまざまな作品に対して愛情を投げかけているということを我々は肯定するべきである。そのための言葉を我々は模索しなければならない。他者の愛情をおおらかに肯定するために機能する言葉を探さねばならない。しかし、それが東浩紀に突きつけられるべき問題としてはないのも、またポストモダンにおける事実である。それは、我々の一人一人に与えられた課題であるはずだ。

最後に一つの例を挙げよう。「Fateは文学」という言葉がある。これをはてなダイアリーのキーワードは、単に熱烈なファンによる過剰評価として説明している。文学とそうでないものは、悪びれもせずにより分けられようとしている。そして誰かがそのような形で愛情を語ったときに、彼を擁護する言葉が何もないということを、我々は、そろそろ遅まきにも認識するべきだ。

2008.06.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽] [マンガ] [アニメ] [ゲーム] [映像] [ガジェット

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