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Aimee Mann「Save Me」

加護亜依に起こったことについて僕はもう何にも書けそうにないし、だったら何も書かないことが賢いことなんじゃないかと思った。そもそもこのブログの形式は一人のアイドルの現在進行形の騒動について何も書けない、などと書くのには適していないのだ。それに以前、これ以上彼女に何かを言うのはもうかわいそうでできないと僕は思ったのだ。その気持ちは今も変わらない。しかし何かキーを叩いて標準出力に吐き出された結果を残しておかなければいけないと思い直した。何か言わなければ、必ず何かが決定づけられる。僕の気持ちはそこになかったことになる。僕は別に賢しくありたいわけではない。

タイトルに掲げたエイミー・マンの曲は映画「マグノリア」の中で使われている。PVにも映像が使われている。この曲について必要な解説は、みんなこちらの20000320という文章でなされている。この解説は本当に素晴らしい。長いから引用はできない。だからぜひあなたに読んでほしい。加護亜依のことを考えて、僕はこの歌とあの映画とを思い出したのだ。この映画は「ジョジョの奇妙な冒険」でも何カ所か引用されているので、それだけの興味で見ていただいても構わない。

加護亜依は謝ったりする必要はない。リストカットがどうとか(本当に書くのも嫌だが)話す必要はない。何が梨元だ。どうしようもない。愚鈍としか言いようがない。梨元勝という芸能レポーターが下劣か否かとか、メディアとしてオーマイニュースの志は高いか低いかという話はしなくたっていい。そんなことより、しかし彼女は天才だったじゃないか。それは事実でしょう。そのことを知らない人もいるとは思う。最悪なことに、もはや彼女の近くにいる人間の誰一人もそのことを認めないのだ。だからああいう酷たらしいだけのアングルでインタビューは企画されそれだけの価値のものが公表される。しかし誰か、彼女の素晴らしさを知っていたでしょう。あんなにたくさん、彼女の天才を讃えた人がいたはずでしょう。みんなさっきまでの僕のように黙っているのかしら。誰かいませんか! 彼女に行われていることを悪意あるものとして批判せよとは思わない。あえて無視せよとも思わない。そういうレベルに堕している場合じゃない。たしかに誰にとっても価値がないと言ったら嘘になるのだ。しかし、価値と言えば僕はとにかくあのすごい天才を信じるよ。畜生。もうそんなものしか残っていやしない。そうすれば彼女を助けることができると確信できないのが悲しい。だけど僕は夜祈る。僕は信じるのだ。

2008.04.10 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [映像] [マンガ

ウルトラマンマックス第24話「狙われない街」

起きたらすごく頭が痛い。重くて痛い。肩も痛い。天候のせいかなと思っていたが、2時間くらいぼーっとしているうちに風邪が悪化しているのだと気付く。数日前から喉が痛かったのだ。まずい。変な時期にひいたものだ。頭がくらくらしてきた。薬を飲んだせいかもしれないけど、熱かな。ちょっと寝たほうがいいのかも。

突然見たくなったのでウルトラマンマックス第24話「狙われない街」を見る。この話はウルトラセブン第8話「狙われた街」へのオマージュであり、正統な続編であるということであまりにも有名だ。なにせ実相寺昭雄が監督をしているのだ。セブンによって倒されたはずのメトロン星人が実は地球に潜伏していた、という話。はっきり言えば、こんなものは最低でも30歳以上の大人が、自分のかつて好きだった一連の「ウルトラマン」シリーズへ郷愁を抱くためだけに用意されたエピソードだ。それ以外の視聴者にとっては本来そんな経緯などどうでもいい。「子供と親が一緒に楽しめる」ことを意図したのか、それとも今なおウルトラシリーズを愛する大人だけが楽しめればいいと思ったのか分からないが、いずれにせよこれは大人の視聴者に対するあけすけな目配せである。そうしてこの脚本は大人の郷愁にあぐらをかきながら、「昔は良かった」式のあまりに凡庸な社会批判を繰り広げる。それは中年層の視聴者の感動を手堅く誘おうというもので、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」と同種の奸計だ。「狙われない街」がいくぶん異なるかもしれないのは70年代直前に作られた「狙われた街」自体がいかにも懐かしい皮肉さの漂う語り口を持った社会批判だったために、単に過去を賛美するのではなく「現代はあの頃よりさらに悪化した状況にある」としている点だ。しかしいずれにせよ「狙われない街」は視聴者の大人たちの郷愁を巧みに利用して「昔の方がまだマシだった」と思わせているだけのものである。社会批判に限らず、受け手の郷愁を人質に語られる作品ではしばしば現在は最悪であり、過去はいつも美しい。

だが僕は、それも含めて「狙われない街」は面白いのだと思う。実相寺昭雄の監督した「ウルトラマンマックス」にはほかに「胡蝶の夢」があり、こちらは「ウルトラマンマックス」という虚構の世界を作るスタッフについて語るメタフィクショナルな内容を幻惑的な演出で見せるものだ。文明批判のメッセージがあまりにも色濃く、また単に郷愁を誘うかのような「狙われない街」は評価しないが実相寺昭雄の真骨頂のような「胡蝶の夢」は評価するという人や、また「胡蝶の夢」はやり過ぎだが「狙われない街」のノスタルジックさは好ましいとする人がいるが、どちらも少し残念な評価だと思う。作品に込められた自己言及的な批評性の高さで見ても「狙われない街」は相当に優れているからだ。実相寺昭雄は「狙われない街」において、郷愁や手垢の付いたような文明批判を排除せず、むしろ彼の映像の持ち味である「エキセントリック」で「アバンギャルド」なものに収めていく作品作りを意図した。歪んだ構図やデカダンな雰囲気に満ちたライティングなどの演出は今ではカギ括弧付きで表現可能な程度の「前衛的な」手法だ。しかしそれを活き活きと貫いたことによって、懐かしいモチーフと古めかしい文明批判がそれが存在した時代に似つかわしい手法によって語られることとなり、結果としてこの作品は一つのトータリティを持ったフィルムとして美しく結実している。かつての「狙われた街」では最後に次のようなナレーションが入る。

メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです。
人間同士の信頼感を利用するとは、恐るべき宇宙人です。
でもご安心ください。このお話は遠い遠い未来の物語なのです。
え? なぜですって?
我々人類は今、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから。

前述したように、このような皮肉さ自体が現在の我々にとっては懐かしいものであり、たとえ子供向け特撮アニメの中に紛れ込んでいたとしてもわざわざ新しさを感じるほどのものではない。しかしこの皮肉がある種の娯楽として享受できるものであるということは今でも変わらないし、むしろ今なら新旧を抜きにしてただ単に楽しめるはずなのだ。実相寺昭雄はそれを理解して、「狙われない街」においてこの前時代的な文明批判の語り口の肝を抜かず、そうあるべきものとして誠実に演出した。そうして作られたのが、以下の「狙われない街」のラストシーンである。

太陽が暑く照りつける屋上でカイト隊員は言う。頭上には一杯の青空。「あの人の言うとおりだ。奴は、この星に見切りを付けて故郷の星へ帰って行ったんだ……」
ミズキ隊員は振り向いて「でも……」と口ごもる。我々は一体、何と反論できるのだろうか。
唐突にピアノの不協和音。フィルムがブツッと千切れ、不意に物語は終わる。

こういう、わざとらしいほどいかにも外連味溢れる演出の懐かしいカッコよさというのは変わらない。僕は世代も違うし、セブンに郷愁など抱かない。だから郷愁を煽るだけの物語であれば見る価値はなかった。だがこのカッコよさが保証されているから、この作品は誰にだって楽しめるものだと思う。

2008.03.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [映像] [アニメ

劇場版「空の境界」 第二章「殺人考察(前)」

※末尾に追記があります

いやあ忙しい。忙しいばっかり言ってちゃダメだな。じゃあ忙しくありません。いや、それは嘘だ。とにかく忙しい。忙しい中で、劇場版「空の境界」の第2章を池袋に見に行く。もともとテアトル新宿でしか上映していなかったのが、好評に付き上映館が増え、モーニングやアンコール上映が増えている。おかげで今は2月9日の第3章公開を前にして、第1章と第2章の両方が見られる状態になっている。

朝10時の池袋テアトルダイヤは満席でびっくりした。平日の朝に、どこから来たのかというほど人が集まってアニメをみんなで見るというのは安穏とした空気が感ぜられて僕はけっこういいなと思った。きょうび、いっぱいになっている映画館で映画を見ることが少ない。いっぱい人が入っている作品もあるのかもしれないが、僕はこんなにたくさんの人と一緒に見たのは久々だ。上映館を絞ったおかげで、そういう思いができたことが、とてもよかった。大昔に大阪の、今はなきミュージアムスクエアで「唇からナイフ」などを見たころ、あそこはもちろん小さな映画館ではあったんだけど、席がいっぱいになっていて、若い僕は似たようなものを好むたくさんの人とフムフムって感じで映画を見た気がしてうれしかった。空の境界も、そのころの僕ぐらいの年齢の人にとってそういう映画だったらいいなあと思う。

僕は奈須きのこについて、語り尽くされていると思っていない。それで残念に思っている。彼はギャルゲーにおいてもライトノベルにおいても、そこでの評者が論じたかったものとは違うものを作ったのかもしれない。だから彼にはたくさんの熱心の読者がいるのに、なかなか目立った評論が現れないのかもしれない。ひょっとしたら優れた論評があるのかもしれないけど、そうならちゃんと紙でいっぱい流通してほしい。読み手の世代が違うと言うこともできるのかもしれないけど、そんな言い方でよい作品が語られないのはおかしいのだと思う。なぜなら、奈須きのこはやはり時代にとって重要な作品を書いていると僕には読めるからだ。彼については当の読者ですら、信者がどうしたとか言っちゃうところがあって、なんだか悲しい。

ufotableは敷居の高い「空の境界」を敷居が高いままに作っていて、そこがとてもいい。残虐なシーンを残虐に描くのと同じく、衒学的な部分をそのまま描いている。カッコいい映画だなと思う。昔、強度のある作品というのはそうだった。なんとなく、懐かしいサブカルの感じがすると思った。作り手が何でも説明なんてしてくれなくって、受け手がついていかなきゃいけない。限られた場所でしかやっていない不思議な映画をみんなで見て、それぞれ語ったり考えたりするという密やかな楽しみがある。あのころはそこに鼻につく権威が乗っけられて、それが廃れたからゼロ年代はオタクの時代になったんだけど、だけど今はもうそれも変わってきていていいと思う。そういう気分になる映画だ。

だからこの作品に、奈須きのこのファンたちが控えめに「信者しか見られない」とか「小説を読んでることが前提で」なんて言ったりするのを見たんだけど、そんなことを気にする必要はない。オタク業界に位置するアニメプロダクションとしてはちょっとズレたufotableが作るだけのことはある。吉田アミさんが賞賛するだけのことはあるのである。視聴者に勝負を挑むのにいささかも手を抜いていない。そういう作品を7回も見に来いと言うのだ。

そうでありながら、エンタテインメントとして成り立っているのである。これはすごいな、面白いと思った。もう、第3章の予告を見たときから、見たくて見たくてたまらないのである。実際、第3章は全章を通して最も王道のエンタテインメントとして作ってある話だから、ufotableも原作に忠実にそうしている。先が非常に楽しみだ。ところで僕はこの映画のパンフレットで奈須さんとゲストの方に毎回(映画を7回やるのでパンフレットも7冊ある)インタビューをしています。このパンフレットは、ufotableの近藤社長が「最近のパンフレットは読み応えがなくて嫌だ」と言って、ものすごい文字量を詰め込むことになったとちらっと聞いた。だから奈須さんは毎回各章について5000字以上、全7回とすると40000字近くも語ってくださる予定です。だいたい映画が1000円でパンフが900円というのがちょっとすごいと思う。「どんだけ高いのよ」と思う人はいると思うんだけど、そうじゃなくって「そのくらい価値があるのかも」と思ってくれたらいいなあ。読んだ方には好評みたいで、いずみのさんも書いてくださったし、それから斜壊塵さんが熱心に読んでくださってとてもうれしかった。インタビュー中心の内容ながら何とかして作品について突っ込んだ考察が作れたらと思っているところなのだが、やはりそれについて期待されているようで、やっぱそうだよねみたいに思う。このパンフレットの企画に声を掛けていただくきっかけになった「ユリイカ」の奈須きのこさんのインタビューも、もうすぐ掲載されるはずです。そっちはもう少しだけ、作品についての考察が多いものになるはずなので、そちらもよかったら読んでほしいな!でも今のパンフレットですら奈須きのこや空の境界について十分に考え始められるものにはなっているとは思う。希少感を煽ってもしかたがないんだけど、全く映画館でしか手に入らないのがすごく惜しい本だなあと見るたびに思う。

※以下は追記です

【“劇場版「空の境界」 第二章「殺人考察(前)」”の追記を読む】

2008.02.02 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [アニメ] [映像] [文章

恋空

こないだの座談会で吉田大助さんに会ったときに、新垣結衣について熱く語ってらしたのがずいぶん気にかかっている。僕はもう最近はすっかり「恋空」をいかにして読むかということを考えているのだ。そう思ってるくせに、たった今までどんな話かもよく知らなかった。だからこの姿勢は全く誉められないことだと思う。しかしケータイ小説は、今一番ひどい扱いをしてもいいと思われているフィクションの1つだ。たくさんの人が熱っぽく支持していて、しかし明らかに軽んじていいとされている。それは僕にとってギャルゲーやライトノベルが通過した状況と同じに見えるのだけれど、そういうふうに考えて、それらの作品を読み正して(まさに読み正すのだ)みようじゃないかという人はあまり見かけない。結局だれも、自分の好きな物だけが好きなのだから当然だ。僕はしかし、昔から何が好きというよりも、狭い場所でひどく支持を集めていて、他からは顧みられないものが好きだったと思う。そこで何が起きているのかを見聞せずにいられない。そこで何かがなぜ面白がられているのか知って、そのことをこそ面白がりたい。昔はインターネットもその1つだった。

というわけで今ウェブで「恋空」の最初の方を読んでみたんだけど、これが意外に面白い。意外にと言うと他ならぬ自分がケータイ小説を軽んじているように思われるかもしれないが、しかし本当に思っていなかった部分に面白さを感じたのだ。話がどうとかじゃなくて、単に文体がキレてていい。キレてるというのは、中高生の文章としてのリアルさがある。いわばそのままなんだから当然だと言われたら困るんだけど、模倣ですらないというのはすごいことなのだ。女子高生の間で流行っているフォークロアを本人たちから聞いているように読める。前々から思っていたのだが、いい年をした職業作家が整った文体で、例えば「現代社会における女子高生の性と現実」だのを描いたとき、それを読むのが女子高生自身であることは、そしてそれに彼女たちが共感することは、とっくの昔に少なくなってしまっている。それはナイフを持った少年だろうが何でもそうで、結局のところ作家や読者は若者たちに託して自分たちの問題を読みたがっているだけである。

中高生はこういう物語をリアルだと感じて、中高生ではない人々はそこに奇妙を感じている。それは当然のことだと思う。「恋空」が持っているリアルさとは、設定や筋や人物像が現実と照らし合わせて確からしいかということとは関係ないからだ。このリアルさは、とりわけこの物語が熱心に流通させられる場所において宿るものなのではないだろうか。そこでは一般社会から明確に切り離された別の価値観やルールが動いている。「フォークロアを本人たちから聞いている」ような読み方をした僕はそのリアルさの片鱗を味わえたように感じて、だから楽しかった。

2007.11.24 | | コメント(9) | トラックバック(1) | [文章] [映像] [ゲーム

Perfume「ポリリズム」

Perfumeって一体何なのだろう? 僕が彼女たちに望んでいる場所って何なんだろう? どうやったら僕らは物語と正しく向きあえるだろう? この半月以上、僕がずっと考えていたことはそれだった。考えに考えすぎて、最後にはもう、一番最初に確信めいて捉えていた結論すら、投げ出してしまうかもしれなかったと思う。しかしようやく、「ポリリズム」まで戻って来ることができた。だから今日はまずこの曲について書こうと思う。

ニコニコ動画でのPerfumeをフィーチャーした動画を僕は全面的に支持する。最も圧巻だったのはこの「エレクトロ・ワールド」だ。オリジナル曲を耳コピしてカラオケを作り、ボーカルをVOCALOID2「初音ミク」に歌わせ、映像を「THE iDOLM@STER」に差し替えたこの動画がどれだけ刺激的なものか。ここではアイドルを成立させていた要素の全てが差し替えられ、オリジナルにあったものが何一つない。ここで、我々はオリジナルの不要性を声高に叫び始めたりはしなくていい。逆にオリジナルがコピーより上位に立つのだと嘯く必要もない。

なぜなら、僕がまた、「ポリリズム」のPVを全面的に支持するからこそなのだ。この素晴らしいPVをぜひ見てほしい。冒頭で四小節ずつ三人が歌うのに合わせて、映像はそれぞれの顔を順に映し出す。この一連のカットが意図に富んだものであることは明らかだ。曲のハイライトであるポリリズムの後にブレイクが入り、三人がイントロと同じく、今度は八小節ずつ歌うときにも同様のカットは繰り返されるのだ。この反復は何を仄めかすものか。すべてが代替可能な状況へ効果的に投げ込まれた三人の身体が、むしろ無機質さの演出のようにしか我々が捉えなかったボコーダー音声(正しくはAuto-Tuneなんだそうだが、僕はもちろんそんな話をしているつもりはない)の中に三人それぞれの個性を立ち上らせるということである。この表現は、三人の肉体と息遣いを最も生々しく我々に意識させる、極めて優れたものなのだ。あ~ちゃんは柔らかく、かしゆかは高く、のっちはクールに。その肉感は断じてオリジナルの優位性に起因するものではない。あくまで代替可能性が氾濫してあるからこそ三人の身体性に焦点がもたらされ強調される例なのである。ごく現代的なやり方で肉体を再発見させていると言っていいだろう。それは、Perfumeの世界に漂うエモーションとおそらく同系にある。

さらに言えることは、これらの例においてPerfumeは実体を待たずに事象として、事件として存在してしまっているということだ。その中心には誰もいない。三人の少女も、中田ヤスタカも、アミューズも、徳間も、もちろん初音ミクもアイマスも特権的にはあれない。一切が代替可能性に晒されるとき、そこにはPerfumeだけが残っている。そして三人が現れたときには三人の物語が起動するのだ。僕はこれこそアイドルだと思う。Perfumeが今実現しているアイドル性って究極なのではないかとさえ真剣に考えるのだ。アイドルって、なんてカッコいいんだろう!

2007.09.25 | | コメント(0) | トラックバック(3) | [音楽] [映像

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