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CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ

たまたま津田大介さんに会う機会があって、持ってらした「CONTENT'S FUTURE」をいただいた。内容に興味があったのでありがたくいただいて、さて帰って読んでみたら思っていたような本とはちょっと違った。でも、思っていたものよりずっと面白かった。

この本はどういう本か。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのアイコンが付加されていたり、表紙に「ポストYouTube時代」などと書いてあったり、またNT2Xのシリーズであることから、僕は何となくこの本はインターネットにおける著作権がらみのことについて書いた本であるかのように想像していた。実際にはそのテーマからはけっこう遠いのである。もちろんそれと切り離して語ることは全く不可能なのだが、しかしそれよりもずっと現実的な問題を扱っている。つまり、これは今という時代に物づくりがいかに可能であるかということを語った本である。だからこれはコンピュータ関連書というよりも、メディアに興味のある人なら誰でも面白く読めるものだろうと思った。

コンピュータやネットワークの発達は従来のメディアの常識を覆して、その立場をしばしば危ういものにした。分かりやすい例がコピーの可能性であるし、またブログによって誰もがメディアを持てるようになったことだってそうだ。しかしこの本は、新しいメディアが招く危機について語ったり、またその是非を問うものではない。そのような手垢のついた語り口は今なお法制度や倫理について語る準備としてありうるが、しかし今まさに刻々と進行している物作りの現場にとって役立つ議論でないことはあきらかだ。この本の作り手はそのことを正確に理解して、だからコンピュータやネットワークが「可能にしてしまったこと」について今さらのように語り始めたりはしない。そんなことよりも、たった今、メディアの現場はどのようにそれを受容し、どう作品を作るのかを問題にしているのだ。だからこれは、ある意味では法制度がどうなるかという「先の話」よりもずっと読者にとって近くて重要なテーマだ。

気に入ったのは、この本が特に注目しているのがクリエイターではないということだ。登場するのは映像や音声番組のディレクターやプロデューサーなどが多い。インターネットがクリエイターと受け手を限りなく親密にさせ時には両者を融合するような時代には、むしろ彼らのような中間的な存在について考えることこそが次代のコンテンツにとって重要であるという主張を感じた。特に松岡正剛のインタビューの以下の部分がよかった。

津田 最近言われている「ウェブ2.0」についてですが、インターネットやPCが情報やコンテンツを作る現場に影響を与えて、「一億総クリエイター時代」なんて言われるようになりましたよね。誰しもがブログを作ってデジカメで写真撮って、誰もがクリエイターだよ、という時代になった。
 生み出されるコンテンツが、良い悪い関係なくとにかく増えて、それを享受する受け手も非常に増えているというのが今の時代ですよね。そういう状況下で、僕は、今一番足りなくなっているのは「エディター」だという問題意識を持っているんです。

松岡 足りないねえ。

津田 みんなが情報のパブリッシャーかつクリエイターになっているけど、エディターは本当にいなくなってる。

ここに書かれていることとか、またナラティビティが成り立ちにくいという話は、僕が普段感じていることに近くて興味深かった。ネットはプル型のメディアとしての側面が強いせいか、情報に対して個々のユーザーがいかに判断するかという話が多いが(みんなメディアリテラシーの話ばかりする)しかし情報の送り手についてや「エディター」だのなんて、それほどは問題にされない。文章なんて誰でも書けると思われているのだから当然である。僕には結局のところ、言葉の地位が下落したことに原因があるように思えてならない。

2007.09.18 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [映像

サウスパーク「Episode 1102 - Cartman Sucks」

サウスパークのシーズン11は今のところ「Cartman Sucks」が一番面白かった。最近は物語大がかりでキャラクターがあまり意味をもたない話が多かったのだが、シーズン11は馴染みのキャラクターの持ち味を生かした内容が多いようだ。話が派手なものでも「D-Yikes」の回などギャリソン先生や市長など古くから存在するキャラクターが多く登場して楽しませてくれるものが多い。なお「D-Yikes」の回は映画「300」のパロディになっていて、ポテチをかじったりコーヒーを入れたりキンタマを蹴るだけのシーンでやたらとスローモーションを使うのがくだらなくていい。今調べたらそれっぽいシーンだけを繋ぎ合わせて300のトレーラー風のMAD動画を作ってアップした人がいるようだ。

さて「Cartman Sucks」の回は、ここで見られる。字幕がどこにあるのかはよくわからない。サウスパークは最近、ニコニコ動画で最新エピソードまで字幕付きで見られるらしいので、ニコニコ動画にあるのだろう。もっとも僕はニコニコ動画のアカウントを持っていないのでよくは知らない。この回は学校を中心としたひたすらバカバカしい内容だ。同じく主に学校の話である「Lice Capades」の回もよかったが、最悪なカートマンと馬鹿なバターズが話の中心であるせいかこちらの方がずっと面白い。

話としては、バターズがバイキュリアス(同性愛に興味を持つ者)を異質なものとして排除するのではなく、受け入れることが重要であると説いて物語に現代アメリカのテレビドラマ的な格好を付けつつも、実はバターズはバイキュリアスとは何なのか最後まで全く理解していないという点でまず皮肉な面白さを持っていると言えるだろう。バターズの言葉がどれだけ正しそうであっても、バターズ自身がその内容を理解していなければこの物語全体が空虚なのである。

ところが、このような冷笑的でおさまりのいいオチはサウスパークではほとんど意味を持たない。なぜなら、上記の物語と同時進行するカートマンの物語は「チンポをくわえた奴はすなわちゲイである」という最も単純化された同性愛差別が存在することが前提となっており、しかも登場人物の誰もそれを疑わずに話が進行するからである。こうして、カートマン側の物語が存在するだけで、バターズの物語が持っていたメッセージ性はそれが成立する上で抱えた空虚さまでひっくるめて無効化される。バターズ側の物語は、皮肉も含めて同性愛を理解し現実として受け入れるべきだと主張していたが、その正義は同性愛は差別しうるものであり実際に差別されているのだというごくシリアスな現実の提示によって裏切られるのだ。

マイノリティへの差別問題を考える際に、彼らを理解するだけでなく彼らを差別しうる自分たちを直視すべきだというのはアメリカでもしばしば議論されうる内容だと思うが、このアニメは論点を理解し、コンパクトにまとめた上で茶化しているのがいいと思う。

以下は蛇足になるが、サウスパークの動画を貼っていて思い出した。YouTubeには「NARUTO -ナルト-」のキャラクターをサウスパークの切り絵風アニメーションで表現した自作動画がいくつかアップされている。内容が面白いかどうかはともかく、サウスパーク風の画風による切り絵アニメだと既存のキャラを手軽に二次創作の映像作品にするための技術的な障害を大幅に減らせるわけだ。海外でNARUTOが大人気になっていることは今さら説明するまでもないことだが、そこで二次創作の映像作品を作ろうと思い立ったファンにサウスパークの手法を使う発想が出てくるのは実に日本的ではないようで、面白く感じた。

2007.05.14 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [映像

犬神家の一族

近くのドトールで本を読んでいたら20時過ぎには店を閉めるという。持っていた本をあと3分の1くらいで読み終わるところだったので何だかしゃくに障り、遠くにあるスターバックスまで走って行って、そこで読み終えた。

読んでいたのは「犬神家の一族」である。この本はずいぶん前に電車で読むために買ったが、最初の数ページしか読まないうちに電車に乗らないようになってしまい、以来読んでいなかった。この有名な金田一耕助のシリーズを僕は全く読んだことがない。そもそも僕は松本清張と横溝正史の区別も付かないほどミステリのことを知らない。金田一についても、今回読み直すことにしてようやく「そういえば最近、映画化されたんだっけ」と気づくといった調子で、ともかくお話にならない。この本を本棚から引き抜いたのだって、つまり全く気まぐれだった。

読むと実際、全く僕が言うまでもないことだが、たいへん面白い。話の筋はあまりに有名だし、仕掛けの明かな伏線がずいぶんと持って回った言い回しで語られる。どうかするとこの物語について「ありきたりなものだ」と言う人がいてもいいと思う。だが、それをおいても松子という女がすごく悪くて怖くて、小説の登場人物として実にカッコよく書けていると思う。特筆すべきなのは三姉妹が青沼菊乃をリンチするシーンで、作者はこの残虐な描写を延々と松子の口から語らせる。この文章には変態的な執着が感じられて一字一句引用したいぐらいに素晴らしい。これに比べれば惨殺された死体の描写などさっぱりしたものだと思う。個人的には女三人が猟奇趣味などみじんも感じさせず、ひとえに悪意だけで女一人を責めているところが今どきにすればむしろ新鮮でよかった。

最初の方で作者は「この物語の主人公は珠世である」みたいなことを書いていたが、悪意に満ちた三姉妹に比べれば珠世なんてちっとも面白くない人物だ。面白くないだけでなく、実質彼女は主人公とは言えない。作者は最初、彼女に美しさだけでなく神秘的なものをちらつかせていて、金田一はずいぶん翻弄されるし、彼の推理が至らない部分に対して珠世は軽蔑の眼差しすら投げかける。たしかに、この物語全体を眺めているかのごとき態度からしても彼女は物語の鍵になっているとは言えるのだ。ところが物語の最後の最後で、結局のところ彼女が見せていた輝きは佐清に対する愛情から発せられるものだったという実につまらない種明かしがされてしまう。しかも愛情は、それが向かう先である佐清自身によって裏切られるのである。

作者は珠世の神秘などつまり張り子の虎であるということをほとんど計画的に描いているのではないかと思わせる。例えば、物語の冒頭で超然としていたはずの珠世は、徐々にただの古風な小説に出てくる美しい乙女にされてしまうのだ。ついには佐智に拐かされ、クロロホルムみたいなものをかがされて「あ、あ、あああああ……」とか何とか、実にステロタイプに気を失ってしまうのである。これでは主人公どころか、誘拐されるヒロインとして典型的である。金田一耕助が主人公ではないことは全く明らかであるが、だからといって珠世もまた主人公ではないのだ。

それにしても佐清である。彼だって全く主人公ではないが、しかしこの物語の意味は彼に表れている。この話が何であったかというと、つまり佐清だけは意識の上でずっと戦中を引きずっていたという話なのだ。彼は「誇りと責任感」というものをずっと信じていた。戦中の「誇りと責任感」というのは、要するに家族から国家までをすべてひとつなぎにしたうえで、自分が帰属するその団体の一員として責任を持つべきだ、というようなものである。それを信じるゆえに、彼は戦場で犯した失敗に罪の意識を感じながら復員したが、戦後においてはもはや彼の失敗など罪でも何でもなかった。しかし彼にはそれが分からないから、復員しても家の名誉を守るためであれば人殺しの後始末だってするし、愛する女の首でも絞めるのである。

珠世が全く呑気なのはここで、家を守るために自分の首に手をかけたような奴と結婚するなどと言い出すのである。本来、遺言状が効力を持つ以前からすべては彼女に委ねられていて、どのように物語を選ぶことも可能だったのだ。にもかかわらず彼女は、男がもはや存在しない「戦中」を守ろうとして右往左往したさまを十分に見た上でも、「ふつつかものでございますけれど……」などと言ってその伴侶になると言うのである。金田一は佐清に

あなたはあるひとをかばうために、珠世さんの魂を殺そうとしたも同然ですよ。よく考えなければいけませんね。

と言うが、本当によく考えるべきなのは珠世の方である。

しかしそれでも珠世が佐清を愛するならば、ついに珠世はその美と共に神秘的な力を発揮していたわけではなく、佐清を愛するだけの女である。家のために自分を利用した男に失望する女性だって世の中にはもちろんいるが、ここで描かれるのは自分の愛情を貫く女性であった。それは松子とも一致する。彼女は、息子が戦場で犯した罪を聞き、それが重大なものではないとわかってにっこりと笑う。彼女は悪く醜いが、息子の無事をいつでも願い続けている姿は強く美しい。僕には、ひょっとすると最初から、戦中からだって、二人の女性には「誇りと責任感」なんてどうでもよかったかもしれないとすら思えた。彼女たちはいつだって佐清に最大限の愛情を注ぐことができた。長年をかけて「誇りと責任感」にこだわっていたのは男ばかりなのだ。作者はそのこだわりを「純情」と呼んで讃えるが、しかし作者自身が指摘するように、その純情こそがこの事件のろくでもない引き金になっている。

2007.05.05 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章] [映像

m-flo loves Crystal Kay「Love Don't Cry」

このブログで使っているリンク先のポップアップを表示するサービス、Snap Preview AnywhereがSnap Shotsと名を変え、機能も増えたようだ。YouTubeの動画やFlickrのアルバムにリンクするとポップアップ内でそれらを操作できるようだ。また、MP3にリンクするとプレイヤーが表示されて再生操作を行えるらしいが、サーバに直置きのMP3を再生させるのはずいぶん重そうである。それに、ポップアップからフォーカスを外すと再生が止まってしまうのは使いにくいような気もする。

なぜこんなことを書いているかというと、今からYouTubeにリンクしようとして気づいたからだ。リンクするのはm-floである。彼らは、僕の興味の範疇に入って来にくい人達だった。いわゆるヒップホップカルチャーという文脈だけで音楽を聴いていると、彼らの音楽はラップミュージックだが、ジャンルのメインストリームとして考えられるようなものじゃない。大昔に「THE SOURCE」の読者投稿欄にあった言葉がいまだに思い出される。「ラップミュージックとヒップホップは別々のものだ。一方は商売で、もう一方は芸術だ」

しかしヒップホップの世界では成功者の証としての「メイクマネー」だって立派なこととして奨励されている。インディペンデントなシーンで認められ、成り上がってトップスターになり、「しかし浮ついたショービジネスの世界でも昔の心意気を捨てていない」ということが、称えられるヒップホッパーの条件としてはある。自分の出自や生活の背景として、ヒップホップは欠かせないものとして位置づけられていなくてはならない。そうでないヒップホップは、まがい物として嫌われるのだ。

もっとも、こういう考え方というのはもうずいぶん古くなった。現在では、いちいちその枠に拘らないアーティストがいて当たり前である。しかしそれでも僕はこの古い価値観が好きだ。ヒップホップの様式美はプロレスの世界のそれと似たところがあって、どちらも同じような意味で好きである。僕はどうかするとマチズモすら漂わせながら頑なに守られ続ける世界に、自分にはないものとしての力強さを感じるのだ。

m-floのやり方はヒップホップの様式美を全く受け入れない。スタイルとしてのみすら、受け入れないかもしれない。彼らはショービジネスとして、軽薄でハイプできらびやかな存在であろうとしている。ピチカートファイヴがそうであったのにもどこか似ている。m-floがクリスタル・ケイとコラボレートした「Love Don't Cry」は、K DUB SHINEとDJ OASISのユニットRadio Aktive Projectが「そりゃあないよ」で彼らを揶揄した内容に対するアンサーだとも言われる。具体的にR.A.Pに言及しているわけではないため、これがアンサーであると考えるのは僕には言い過ぎにも思える。しかし少なくとも、ヒップホップシーンから彼らへの批判についてリリックの中で言及しているのは間違いない。

My chain hang low, check the bankroll
証明できたかthat's how it's going DOWN. I'm the maaaan
もう一度言うぜ、you're the MAAAAAAN
超すげーよ なのに hater 誰がリアルとか言い合って~る
グチなら書き込め 2チャンネ~ル
リアルじゃない 俺たちゃ surREAL
メチャ out THERE、異*次*元
時間 マイ PAGE on my ぴげ~
オーデマ~ we from MARS
なんでもかんでもsuper size
コネも種も仕掛けも親の七光りもなしで
差してる 後光
絶叫 までカウント 3... 2... 1...

VERBALは自分たちがヒップホップの様式美の上での「リアル」になんて全く拘っていないということを言う。彼には彼の人生経験があり、そこには確かにヒップホップがまさに彼のリアルとしてあったにもかかわらず、彼はそれをあえて排した音楽を作り、ショウビジネスとして人々に愛されることを考え、成功を収めている。だからといってリアルを捨てているなんて言われるのはくだらない。いい音楽はそんなこととは無関係に成り立てると、彼はその音楽とテクニックをもって体現しているのである。そうなのだ。VERBALはここで、まずラップがうまいのだ。嫌味なぐらいにうまい。そうして彼は、商売か芸術か、リアルかリアルじゃないかなんていう二元論でしか音楽を語れない人達にとってみれば、自分たちなどそりゃあシュールレアリスティックな異次元の存在なんだろうねと言って馬鹿にしているのだ。しかもそういう曲をアルバムの頭に持って来ているのである。すごい。これは圧倒的な力を持ったハイプのプライドなのだ。成功した人にこういう出方をされると、そりゃあそこいらのラッパーではなかなか口答えができない。お前等は俺と同じ場所にはいないんだぜという意味なのだ。僕はヒップホップの様式美も大好きだが、成功を収めている人が、誰も敵わないような立場から力を見せつけるのを見るのも好きである。やっぱりそれにも、自分にはないものとしての力強さを感じるからなのだ。

態度でかい君らと対極
タイトに決めてくwe m-flo

m-floはヒップホップシーンへのアンサーとして「自分たちだってヒップホップとしてリアルである」とは語らなかった。かつての様式美があるヒップホップとは「対極」で「異次元」の存在であるとして、同じ立場には立たなかったのである。罵倒に対してアンサーを返して対立姿勢をあらわにすること自体がヒップホップのフィールドに立っての行動だとも言えるが、しかしそれは「リアルか否か」のような判断基準だけに拘るヒップホップを考え方の一つとしてのみ認めながら、さりとてそれを目指したりはしないと言い切るものだった。これは、全くそれを認めないよりもずっと残酷なことだ。彼らは特定の価値観には縛られないという態度しか取らないことで、あらゆる価値観が絶対的には成り立たないことを示してしまったのである。もちろん、これからも日本のヒップホップにはシーンがあり、その立場からm-floを否定することも可能だ。しかしDJ OASISのリリックにあるように

臭せえよ どうなんだ数年後
うぜえよ 業界にとっちゃ不健康

と言ったとしても、彼らの「数年後」や「業界」とm-floのそれが全く別個に成り立って、どちらが「本物」とも言えなくなるのであれば、この言葉は上滑りしていくばかりである。m-floのセールスが好調だろうが落ち込んで消えていこうが、彼らの「真のヒップホップ」とは無関係になりつつあるのだ。どちらも並び立つことが許される状況では、彼らはもう自分たちが非難する「敵」と、ポーズの上でしか対峙できない。現実にはせいぜい、好き嫌いの問題としてしか処理できなくなるだろう。ついに休刊したBLASTの最終号を読みながら、そんなことをぼんやり考えた。

2007.04.18 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [音楽] [映像

宇多田ヒカル「Utada Hikaru in Budokan 2004"ヒカルの5"」

どうにも忙しいのが終わらない。このままゴールデンウィーク進行に突入して忙殺されてはかなわないので、週末はゆっくり休む予定。

忙しいので東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」すら読み進まない。平易な本なのだがとにかく読書時間が細切れになってしまいイライラする。本は一気に読みたい性分なのだ。なにせ集中力も記憶力も足りていないので、中断してしまうと前に何が書いてあったのかサッパリ思い出せなくなる。仕方がないので昨日風呂に持って入り、ようやく一章を読み終えた。ここまでで、もう十分にすべての理屈は提示されていると思う。だからこのブログに何かを書き付けてもいいのだが、せっかく鋭いことが書いてある本なので最後まで付き合ってからにしたい。

しかし、そう考えるのが間違いなのだ。そこに僕の身勝手がある。おかげで、「作品について語ること」はいつまでたっても思い通りにならない。僕が求めているのはスピードと量なのだ。作品に出会うことは生活の中にあるのだから、それを語ることも生活の中に置かなきゃいけない。僕の考えが整理されていまいが、作品と出会ったときに僕が正面から向き合ったという記録でありたい。

ともかく、忙しくなってくると音楽や映像が便利になる。これらは紙メディアに比べて消費するのにかかる時間が圧倒的に短いからだ。いわばプッシュ型であり、しかも生活時間を独占させなくても享受しうる。そんなに積極的に音楽を聴いているつもりはないのだが、このブログのカテゴリーに音楽についての記述が多いかのように見えるのは、音楽というものが簡単に生活に侵入しているからなのかもしれない。

ブログを個々の記事としてのみ読んで、これを個々の作品に対するレビューだとしか思っていない人々には、たぶん永遠に分からないことだろう。

昨日は夕飯を食べて、何か気分を変えてみたくて動画を見ることにした。僕は宇多田ヒカル「Utada Hikaru in Budokan 2004"ヒカルの5"」を発売当時から見たいと思っていたが、結局見ていなかった。TSUTAYA DISCASのサービスに加入したおかげで借りることができた。しかし見始めてわずか3曲目で耐えられなくなり、席を立った。この人は一体どうしたらいいのだろう。宇多田ヒカルを取り巻く状況は常に孤独と誤解で成り立っている。こんなにたくさんのファンが訪れ、彼女が何かを言ってくれるのを笑顔で待ちかまえているのに、彼女はちっとも楽しそうではない。一曲目を歌い終えたときの苦悶の表情が目に焼き付いていて、とても忘れられない。ステージ上でこんなに孤独な人物は岡村靖幸くらいしか見たことがない。彼女は自分はひとりぼっちで寂しいという実感すら得ることができない。寂しいと思えるのは寂しくなかった経験を知る者だけなのである。彼女はそれを知識としてしか知らない。

彼女は歌の上で、感情をぶつけることしかしない。だからあの歌は恐ろしい。山口百恵が「あなたに女の子の一番大切な物をあげるわ」と歌うときと同じように、こんなに純粋にぶつけられる感情に、自分が誠実に対応しきれるかどうかが心配になる。これはメロディや歌詞に感情を乗せるのが上手いのではなく、ただ下手なだけなのである。彼女はほかのやり方を知らないだけだ。最大限の力を出すしかないから、出している。安全弁の使い方は、よく分かっていない。そんな具合だ。

しかし彼女は、自分がぶつけた感情を他人がほぼ全く理解しないということまで知っている。もう期待とか諦めすらなく、「そういうものだ」という理解のみがある。彼女はほかの状況を知らずに「他人とのコミュニケーションってこういうものかな?」という不思議な顔をして超満員の武道館で観客に呼びかける。

ここからずっと送ってる暗号を君はまだ解読できてない

観客は応える。彼女はコミュニケーションが成功しなかったことだけを確認して、次のフレーズを歌い続ける。これは見過ごしてはならないことだ。それなのに、たぶん「繊細な」人たちが、彼女をヒットチャートの常連であり、セレブリティだとか理由を付けてまともに聴こうともせず遠ざけるとすれば全くおめでたいことである。作品が描いていることなんて、何も気にしちゃいない。

僕は彼女を、固唾を呑んで見守ることしかできない。彼女はあまりにも遠すぎる。僕を超えすぎていて、無力感しか味わえない。彼女は誰かがどうにかできるレベルを超えている。岡村靖幸に対して誰も何もできないように。彼女を一生懸命理解しようとしても、「お気持ちはありがたいけど、無理したあげく生半可に理解されても」という顔をしている。そこまでは、わかった。そこまでは結構わかられているんだぜと、誰もがもっと彼女に言ってあげれば少しは喜ぶのだろうか? それすら分からないのだ。

僕は再生を止めてしまった。作品に向き合うのは本当に大変なことなのである。だが僕は尋常ならざる力をもってリリースされた何かに対して、できる限りの言葉を尽くさずに寝て過ごす気はない。

2007.04.06 | | コメント(12) | トラックバック(0) | [音楽] [映像

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