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デトロイト・メタル・シティ

「デトロイト・メタル・シティ」というマンガを僕は世間で面白いと言われているほどに好きではなくて、だから映画にもさほどの興味がなかったが、ほとんど偶然に見に行ったところ、まったく想像を超えて非常に面白い部分があった。

この原作マンガを僕がさほど面白いと思わないのは、ギャグマンガとして、お話の中にあるギャグのリズムパターンが一定でありすぎるからだ。これはもう単純に好き嫌いの問題なのかもしれないけれど、まず「面白さ」の根源が常時、ズレたお笑いとして見た「デスメタルの凶暴性」と「渋谷系のオシャレさ」、そして何らかのマンガなどのパロディという要素に還元されてしまうところに、読んでいるうちに飽きを感じてしまう。ひとつひとつのネタが面白くないというわけではないのだけれど、冷静な見方をしてしまうと大きな笑いの要素としてはメタルとオシャレとパロディに絞られてしまう。しかも「エアレイプ」とか「ベルリンの金色の風」とか、作者が「面白い」と思いついたギャグのネタを定期的に紙面に差し挟むためだけに各話を構成しようとするところがあって、その意外性のない一定なリズム感は言ってみればこれは僕にとって、「カメレオン」などで人気を博した加瀬あつしの連続下ネタのワンパターンさと同じものだ。重ねて言うが一個ずつのネタが面白くないのではないけれど、同じ要素に収斂することができるネタが一定なリズム感で繰り返されていることに結局は飽きを感じてしまうのだ。

しかし、映画の方は原作とは違った面白さがあった。冒頭からカジヒデキが出てきて「ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME」を大熱唱していたり、着メロが「恋とマシンガン」だったり、タワーレコードで今さらカヒミ・カリィが大々的に売られているシーンがあるだけでわりと面白いのであるが、観客は特にそういうところは笑っていない。これは渋谷系というものを知っている人にだけ送られた目配せであって、それは鬼刃役でK DUB SHINEがDJ OASISと共に出演しているのと同じような小ネタである。しかし余談だがこういう映画にこういう役で平気で出たりするところがいかにもコッタ氏らしくて非常に笑えた。

しかしそんな小ネタはまさに小ネタであって、ギャグとしても物語の本筋としてもこの映画には実は全く関係がない。この映画は簡単に言えばどのように自己を実現するのかという物語であった。他人から認められたい、しかし他人は全く承認してくれない自分を追い求めること(自己承認欲求)を捨てて、本来自分が望んだ姿でなくとも、いま自分が他人に夢を与えることができている自分を肯定する、という話なのだ。自分が内発的に自覚する「個性」を認めさせようというのではなく、他人が発見してくれた自分の長所に自らを委ねて自分も他人も満たされる、という非常にゼロ年代的なテーマ性を持っている。

それだけでも宇野常寛が「ゼロ年代の想像力」で提示したポスト決断主義のモデルと比べて語ると面白そうな話だとでも言えそうなものだが、この映画はそれに加えて音楽というものに対する視線にも面白いものがあった。主人公もヒロインも、自分がオシャレな音楽に夢を抱くように、自分が不快感を感じるようなデスメタルのような音楽に夢を抱かされる他人がいる、ということにラストで気づく。面白いのは、ここで「あらゆる音楽が誰かに夢を与えうる」という題目の下に等価なものとして並べてしまわれることだ。タワーレコードが強力にバックアップしているせいかどうかしらないが、この映画は原作のマンガに比べて現代における音楽のあり方についてずっと自覚的だ。マンガでは現在のところ、デスメタルも渋谷系もズレたカッコ悪さを象徴するギャグのアイテムとしてしか扱われないし、肯定的な表現を模索しつつも、いまだ「音楽は人を殺れる」という言葉でその価値を訴えるにとどまっている。それはそれで悪いものではないが、そこに新味があるかといったらそうでもないのではなかろうか。しかし映画では、消費社会において際限なく等価にされてしまう音楽というものを自覚しつつ、しかしすべてが等価になった後でもなお、この膨大な消費材のそれぞれは誰かに「夢」を与えているかもしれないものだという他者に対する想像力の眼差しを喚起させようとする。そこでは既に、ジャンルによってマッピングしたり価値をランク付けしようとする意志もなく、ただ膨大な消費材の海に自分が愛する何かや他人が愛する何かがあるのだ、という形でのみ等価に位置づける。これはすごく今っぽいものの見方だと思う。

しかし皮肉なことなのかもしれないが、物語の最後にはディスクレイマーとして次のように表示される。

この物語はフィクションであり、物語を構成する一部の台詞・歌詞などを直接的に肯定するものではありません。

つまり「他者が夢を抱く」ことをキーワードにすべての価値観が等価であることを高らかに謳い上げる物語であってなお、この物語は「レイプ」だの「殺害」だのと連呼する曲の思想を肯定するわけではないとしつこく言い訳して回ねばならないのだ。何というか、エロゲーやロリマンガが優れた物語を描きながら、それでも「何だかんだ言ってポルノじゃないか」と言われたり、「この作品に登場するのは全員18歳以上」などと断り書きせねばならないようなものと似たものを感じて面白かった。

2008.08.31 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [映像] [マンガ] [音楽] [文章

文学環境論集 東浩紀コレクションL

東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。

僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味を感じている。

東浩紀はこの論考を、大塚英志の物語論を批判することから書き始めている。ここではごく簡単に説明するしかないが、それはつまりこういうことである。「物語消費論」を書いた93年頃までの大塚英志は、日本のフィクションが文学やマンガなどメディアを問わず結局は「現実は描けない」、逆に言えば物語しか書けないということを自らに認め、しかしその上でなお逆説的に現実を活写しようとするものだとしていた。そして、とりわけ困難な条件の下にその挑戦を続けるのがマンガやアニメのリアリズムであり、それは自然主義から連なる文学などのフィクションと同等に価値あるものであるとして説いていた。東浩紀はこの大塚英志の立場を「物語擁護」の姿勢であったとしている。しかし近年、具体的には2003年に「キャラクター小説の作り方」において、大塚英志は「ゲーム的な小説」について、テーブルトークRPGを例にしながら批判を行ったとされる。そこで語られる「ゲーム的な小説」とはまず次のようなものだ。

TRPGの物語は、特定の規則に則って有限の要素を組み合わせることで生まれる。したがって、そこで語られる物語は、装飾的な細部がいくら多様で複雑であろうとも、基本的には予想を超えることはない。主人公はヒロインを救い出すだろうし、強大な敵は打ち倒されるだろうし、世界の秘密は最後には明らかになるだろう。

上記の内容は大塚英志の言葉としてはこうある。「ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、ということを伝えておきたいのです」。つまり「ゲーム的な小説」は「物語の類型化」を招き、物語の想像力を衰退させるものだということだ。東浩紀はこの大塚英志の批判について、まず「物語の類型化」を、それが避けえないものとしていったん擁護する。「ゲーム的な小説」に限らず、神話から近代小説まで物語というものが煎じ詰めれば定型に収斂可能であることは自明のものとしてあることは広く理解されてきたからだ。その条件の下でなお「現実」を描く試みとしてあったとしてこそ、大塚英志は「物語擁護」を行っていたにもかかわらず、ゲームについてはその創造性を大塚英志は見出していないと東浩紀は書いている。すなわち彼の言葉では以下のようになる。

『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実にたどりつくことがない。

そこで、東浩紀は一つの疑問形から、彼の「ゲーム的リアリズム」への試みを開始する。

筆者の疑問は単純である。大塚はゲームの技法をTRPGで代表させ、類型化を免れえないものだと考え、そのライトノベルへの影響を否定的に捉えていた。しかしそれは正しいだろうか。

僕がいま問いたいのはこの一つの疑問である。東浩紀はそれにどのように答えていったか。まず彼は「ゲームという物語体験」の新しい形として、大塚英志の挙げたテーブルトークRPGではなく、ノベルゲームを例として提出する。そしてその構造分析をゲームというメディア全体に敷衍した形で次のように述べる。

ゲームにおける物語体験は、キャラクターが存在する物語世界(虚構)を充実させるだけでなく、プレイヤーが存在する世界(現実)を繰りこむことではじめて固有で単独的なものに変わる。

これはつまり、ゲームというものが物語と登場人物という虚構だけでなく、プレイヤーという物語外の存在の関与(ゲーム上での操作)、もしくは関与の不可能性(プレイヤーキャラクターを含む登場人物がときとしてプレイヤーの意志を離れて物語を進行させること)を内在させているという指摘である。すなわちゲームはあらかじめメタフィクションを誘発するような条件の下で成り立っているメディアであるとしたものである。「ONE」や「AIR」などの優れたノベルゲームが、彼にとってその具体例としてあるだろう。この指摘自体は全く間違いではない。しかし、このメタフィクション性の指摘のみをもって、東浩紀はつまりはゲームが「現実を描きうる」のだ、という言い方で当初の疑問に対する回答に代えてしまう。

ここでようやく、今書いているこのブログの記事において僕が指摘したい点に到達する。すなわち、ここで東浩紀は結局、ゲームも含めてフィクションは、やはりおしなべて現実を表象するからこそ価値があるのだとしてしまうのである。この回答は、実はまだ半分であるように僕は思う。なぜなら、ここでは物語が類型化を免れえないという課題については、ゲーム的リアリズムがそのメタフィクション性によって、まさにその課題自体をメタ的に指摘しうるものだという主張によってのみ解決されてしまうのである。ところが東浩紀は、その上で、あらゆる物語が類型化を免れえないことが現前した時代に作家が選ぶことが可能な態度は二つあるとして、その一つとは、作家が自分の物語が定型的なものに過ぎないことを理解した上で、商品としての物語を再生産するという方向性だとするのだ。

ジャンルや世代を問わず、いまや多くの作家が無意識にその方向を選択していると言える。純文学作家は純文学のデータベースを用いて純文学のファンに向けて、ミステリ作家はミステリのデータベースを用いてミステリのファンに向けて、アニメ作家はアニメのデータベースを用いてアニメのファンに向けて、それぞれ商品価値が高い「小さな物語」を提供する。そして、ときどき、そのいくつかがベストセラーになる。それが現代の物語消費の風景である。本論はその風景を批判するものではない。筆者もまた、それらの物語を享受し、笑ったり泣いたりして毎日を送っている。

東浩紀はこのような物語のあり方を言葉の上で認めながら、しかしそれをウェルメイドな再生産を目指すものに過ぎないものとして扱っているというのは否定できないことだろう。ここで彼は、作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする。ポストモダンにおける定型の物語の再生の課程については単に近代的な創作の延長であるとして、注意は払われないのだ。そして彼が批評家として関心を寄せるのは、作家の採りうべきもう一つの態度として述べられるもの、すなわち、彼が舞城王太郎「九十九十九」や桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」に見出した、ゲーム的な物語がメタ的な視点によってポストモダン社会の「現実」の活写に到達するようなフィクションであるとされる。「メタリアル・フィクションの誕生」の結びとして彼は次のように書いている。

このような視点を手に入れたことで、私たちは今後、さまざまな作品にゲーム的リアリズムの可能性を発見することができるだろう。「ゲームのような小説」は、決して死を描けないわけではない。現実を否定するわけでもない。

彼が見出したゲーム的リアリズムは、確かにポストモダンにおけるフィクションの可能性の一つとしてあるし、一定の評価に値するものだろう。しかし、彼はついにフィクションは「現実」を描くものだという本来性を論拠にしながらその立場を確保している。ここで彼の批評は、現代に表出している作品群から批評に値するものとそうでないものを峻別し、その一方を捨てようとしているだけでなく、それは結局「人間が描けているか」などに代表される、文学論における純文学とエンタテインメントの峻別の構図に類似してしまっていないだろうか。

そこで我々は東浩紀の最初の疑問に立ち返らなければならない。いや、もっと言えば大塚英志の「ゲームのような小説」に対する批判へと戻らなくてはならない。

ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない

このような物語は、結果としていまフィクションの可能性を狭めているだろうか。それは単にウェルメイドな再生産としてのみ、単なる商品としてのみあるのだろうか。しばしばベストセラーとして登場するそれらを、ケータイ小説を、「らき☆すた」を、ウンコをしないアイドルへの絶対的な愛情を、奈須きのこを、武道館や紅白歌合戦という大時代的な成功を目指すPerfumeに抱かれる感動を、相対性理論やかつての□□□が見せた過去の作品のデータベースからの奔放な参照を、批評は語る必要がないのだろうか。レビューは、それを一笑に付すものだとすることができるだろうか。また僕らがインターネットで作品を語るときに、ある作品への評価を、単なるランキングやマッピングの素材として片付けるべきなのだろうか。

僕はそうは思わない。ポストモダンがあらゆる事物の相対化に達したならば、我々がその状況をいま受け入れて生活していくとするならば、その状況下で他者がさまざまな作品に対して愛情を投げかけているということを我々は肯定するべきである。そのための言葉を我々は模索しなければならない。他者の愛情をおおらかに肯定するために機能する言葉を探さねばならない。しかし、それが東浩紀に突きつけられるべき問題としてはないのも、またポストモダンにおける事実である。それは、我々の一人一人に与えられた課題であるはずだ。

最後に一つの例を挙げよう。「Fateは文学」という言葉がある。これをはてなダイアリーのキーワードは、単に熱烈なファンによる過剰評価として説明している。文学とそうでないものは、悪びれもせずにより分けられようとしている。そして誰かがそのような形で愛情を語ったときに、彼を擁護する言葉が何もないということを、我々は、そろそろ遅まきにも認識するべきだ。

2008.06.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽] [マンガ] [アニメ] [ゲーム] [映像] [ガジェット

新現実 Vol.1

先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。

彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては

社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする

という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。

僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は、その決断主義も既にさらに越えられるべき段階にある、というものである)。しかし、彼の90年代からセカイ系を経て「決断主義」へ至るという主線をどう引くのか、その描き方には、今ひとつの説得力が欠けているように思った。「PLANETS」の4号においての対談で、東浩紀が彼にそれを指摘した部分がある。引用しよう。

東 (中略)例えばセカイ系の話と宮藤官九郎の話は、すごく素朴なレベルでは全然違うことだと思われるわけです。そもそも消費者層が違うからね。だから、「なんでテレビドラマの話題になってるの」みたいな反応はある意味では正しい。「セカイ系を宮藤官九郎が乗り越えた」みたいな話はそもそも存在しえない問いで、つまりそもそも見てる層が違うんだから、セカイ系が好きな連中が一方にいて、宮藤官九郎が好きな連中が一方にいるだけなんじゃないのと。それを「片方が片方を乗り越えた」という物語にするのはできないんじゃないのという反論はありうるわけだよね。むろん、宇野さんがそう考えていないのは分かるけれど、たとえそうだとしても、批評ではその反論を想定して潰すことができるようなロジックを作り上げないといけない。ところが、宇野さんの連載はそのあたりが平凡な発展史観になっていて、「セカイ系の時代→決断主義の時代→そしてセカイ系も決断主義も乗り越えられる時代へ」みたいな話になってしまっている。だからそのあたりのロジックが非常に弱い、というのは、これは単に批評の技術論として言える。「セカイ系の問題をクドカンが乗り越えた」って主張するためには、もう少し二段階か三段階のクッションがないといけない。

宇野 そんなの、そいつの視野が狭いだけじゃないですか。同じ政治状況の下にあって、同じテーマを孕んでいるのだから関連しないわけがない。こんな島宇宙化の世の中だからこそ、多様な島宇宙の並立を支えるインフラ的な空間は画一化されているわけです。

東 そうねえ。でもそれだったら、最初から島宇宙の話になってないからね。たとえばセカイ系が好きで、宇野さんとまったく問題意識が共有できない読者って、今でもおおぜいいるわけだよ。

宇野 それは単にゼロ年代に対応できていない連中なわけじゃないですか。「もうセカイ系なんていうのは九〇年代後半の残りカスなんだから、ゼロ年代には通用しない」というすごくオーソドックスなロジックで説明できますよ。

東 でもさ、「対応できていない」連中がいることもまたゼロ年代の現実なわけでしょう。「セカイ系が生き残って快調に喋っていた」ゼロ年代もあるわけじゃない。

宇野 それは「ファウスト」があって、東さんがいたからですよ。

さて、ここまでの引用で、僕が「ゼロ年代の想像力」について、この項で議論したいポイントと、また次回この連載について書くときに議論したいポイントはだいたい揃えられている。今述べたように、さしあたって、まず僕は具体的に宇野常寛の論を問う一環として、僕自身によって状況の整理を行う。それはやはり、「セカイ系とは何だったのか」という問題から始まるものだ。

この言葉について、Wikipediaに載っているような説明は、また宇野常寛の理解するそれも、以下のようなものである。

「社会」「歴史」といった中間項を抜きに「自己の内面」と「世界」が直結する「セカイ系」

この説明は、実のところ物語作法としてのセカイ系には全く注目していない。これは、このジャンルの作品が、多分に現実問題に対する批評的なアプローチから物語を成立させた面を持つからだと思われるが、そのためこれまでセカイ系についてなされた説明は、実際にはポストモダン的な時代状況およびセカイ系に類する作品群が、現在の我々にどう理解されたのか、あるいはどう支持されたのかについての説明ではあっても、なぜそれが作家に選ばれたかという明確な説明には達していない。このような説明では、作家が単に批評的な視座から判断してこのような物語を描くことにしたのだということのみを自動的に認めようとしていて、物語論としては十全とは言えない。僕がこのブログでプロフィールに「趣味はフィクションの観賞」と書いているのは、ここでは物語論的な語りを選びたいと思っているいるからだが、それゆえもあって、セカイ系が物語論の上でどのような立ち現れ方をしたのかは検証されるべきことだと感じる。そうすれば、そこから90年代と「決断主義」的なものは正しく接続可能だと思うし、同時に宇野常寛が行いたかったであろう東浩紀に対する批判も、正しい形に導けるはずだ。ざっくりと言えば、僕が今から書くのはそのような内容である。

さて、上記の引用からも読み取れるかと思うが、宇野常寛は、90年代の「引きこもり」的な想像力は「セカイ系を擁護する」東浩紀と初期の「ファウスト」によって延命されたとしている。そして「ファウスト」は3号の「新伝綺」特集によって「決断主義」的な作品の支持へ転向したとする。

あるいは東浩紀も「ファウスト」の転向については認め、そこに雑誌の姿勢として大きな切断があったはずだと両者は認識しているかもしれない。だが、僕の理解はやや異なる。まず、しごく単純な話では、奈須きのこはファウストの第一号から取り上げられている。現在公開されている劇場版「空の境界」第四章のパンフレットで僕は「ファウスト」の太田克史編集長に対してインタビューを試みているのだが、そのことはそこでも語られている。これは単に太田編集長が誌面に対して雑多に流行りのものを並べたのだと思いたい者がいれば、そうしていればいいとだけ思うが、しかし少なくとも、「セカイ系のころ」の「ファウスト」と奈須きのこは時代として切断されず同じ場所に並べられたことが当時のフィクションの状況としてあったのは間違いないのである。また宇野常寛は「ゼロ年代の想像力」の第一回において、オタク系の文化の流れが決断主義に後れを取っていたことの説明として

一九九九年放映の『無限のリヴァイアス』などのヒットこそあったものの、二〇〇四年のTYPE-MOONの台頭まで、オタク系文化の主流がこの変化に対応することはなかった。

としているが、控えめに言ってもTYPE-MOONが「台頭」したのは「月姫」(2000年)によってであるのは間違いないことで、そのことを半ば意図的にか述べていない。あるいは、「月姫」は「決断主義」的な要素を持っていないはずで「セカイ系」に連なるものだから言葉を割くまでもないということなのかもしれない。

だがこれもまた、東浩紀も宇野常寛と似た認識であるかもしれない。なぜそう考えられるか。寄る辺となるのは「新現実 Vol.1」での、大塚英志と東浩紀の対談である。この本は2002年に出版されたものだが、今回読むべきなのは136ページからの大塚英志の言葉である。

大塚 もう少し、新しい小説はどうなるのかという話をしたいんだけど、僕がそういうことを意識したのは、一つは新海に対する評価で、もう一つはTVドラマの『木更津キャッツアイ』だったのね。ぼくはけっこうはまっていたんだけど、何が面白かったかというと『木更津キャッツアイ』はその前にやっていた堤幸彦の『池袋ウエストゲートパーク』で脚本を書いていた宮藤官九郎と、メイン以外の助監督たちがメインに移行して作ったタイトルなのね。堤幸彦は『ケイゾク』とか『トリック』なんかを作って、ここのところのTV業界では先端的なことをやっている人であるわけだけど、彼が抜けた瞬間に若いスタッフたちが作品の中に、前向きで健全な主題を持ち込んできたことが面白かった。細かな断片を積み上げていって世界を構築していくのは同じ手法なんだけど、一個一個のディティールなりエピソードがきちんと主題に結びついているという作り方がしてあって、データベース的な見方をすれば、ああ、あれはあれだよね、で終わってしまうわけだけど、逆に知らないで見た場合には、きちんと意味が構成されるようになっている。ぼくが新海を褒めたのも、実に健全なプロットであり、テーマをおそれないというところが面白いと思ったからなんだよね。

僕の引用が下手で文脈を読み取っていただけるかどうか不明だが、彼は「ほしのこえ」と「木更津キャッツアイ」の両方に、テーマを恐れない、健全さを感じたという話をしているのである。多く物語論に忠実な語り口を選ぶ大塚英志によって、ここで既に「セカイ系の話と宮藤官九郎の話は、すごく素朴なレベルでは全然違うことだと思われる」という東浩紀の推測は裏切ることができる。また同時に、宇野常寛によれば「ほしのこえ」に代表されるようなセカイ系の物語とは相反するはずの「木更津キャッツアイ」は、物語論のレベルで同列に並べることができている。大塚英志がここで行っていることはそれだけではない。彼はエヴァ的な90年代の作品をも、物語論によって正確に解説している。彼の発言の続きにこう書かれている。

あさりよしとおがまんが版の解説で、「エヴァ」はビルドゥングスロマンとしてよいのではないかと書いていて、僕もある時点ではそうだと思っていたわけ。ところがある瞬間に庵野は自分の中に主題が発生してしまったことに対して、驚いたのか怯えたのかわからないけど、主題に必死に抵抗していった。それでひたすら破綻していって、ぼくが映画版の最後をあきれながらだけど評価するのは、結局最後までシンジはエヴァに乗らないわけだよね。ロボットに乗って、責任を引き受けるという少年の成長の結末を庵野は身体を張って拒否した。その主題からの身体を張った逃亡ぶりは「エヴァ」の真の主題だと思う。

この理解は、先日ブログ「灰かぶり姫の灰皿」の長岡さんが、ご自身が執筆なさっているエヴァ論の一部として紹介していた内容によって裏付けられる部分がある。僭越ながら手前勝手に論旨から読ませていただけば、長岡さんは「ガンダムの第一話にエヴァの第一話は勝てなかった」という庵野秀明の有名な言葉を引用しながら、エヴァは「少年がロボットに乗って敵と戦う」というロボットアニメの、ひいては物語というものの定型を強引な形で実現させるしかなかったとしている。これは、先だって発売された岡田斗司夫「『世界征服』は可能か?」において、庵野秀明が「ふしぎの海のナディア」を製作していた頃に言ったという「ところで、このガーゴイルって秘密結社は、なんで世界征服なんかしたいんでしょうね?」という言葉にも対応するもので、庵野秀明は少なくともエヴァを始める時点までには既に、現代に確固たるリアリズムを与えられたものとして、言い換えれば根拠を持った、定型の「お約束」に基づいた物語を描くことができないことを実感していたはずなのである。その実感とはまさに、歴史的な価値が成立不可能になったポストモダンにおいて物語が到達したものだ。ロボットアニメという、最も定型的に作られるべくあった物語の裏側にある根拠のなさは、従ってエヴァにおいては「逃げちゃダメだ」という、半ば作家自らに向けられた台詞によって解消させながらロボットアニメを成立させる必要があった、と長岡さんは述べている。しかし言うまでもないことだが、そのようにして成立させられた物語は、単に定型の物語を実現することとは違った。長岡さんも大塚英志も指摘するようにそれは反物語的な物語への導入であり、結果的には97年に、エヴァは定型の物語の根拠のなさを浮き彫りにする反物語としてのみ完結した。そして、大塚英志は、それに対するものとしてセカイ系や「木更津キャッツアイ」を語るのである。

ところが、新海にしても『木更津キャッツアイ』にしても、作品の中にテーマがあることになんら拒否反応を起こしていなくて、実に健全な作品を作るわけです。そのことがぼくは面白いと思っているんだけど、はたして彼らはそれをどこまで自覚的にやっているのかとも思う。つまり、それさえもデータベース的な展開の所産の一つであり、そこに引っかかるのはぼくみたいな古い世代だけなのかと思うんだよね。

これに対して、このとき東浩紀は次のように話している。

東 確かにその種の健全さは最近の傾向ですが、しかし、一般的に、感動させたいとか主題を入れたいと思うのはごく普通のことですからね。僕は逆に、大塚さんたちの世代がそれを執拗に避けていたということこそが、奇妙に思えるんですけど。

大塚 データベースということで言ったら、堤幸彦にしろ宮藤官九郎にしろ新海誠にしろブロッコリーにしろ使っているわけだよね。でも、そこで主題の有無という歴然とした差異が発生しているのは何故なんだろうか。

東 そこで主題の有無がそれほど重要かなあ。

大塚 主題というよりももう少し大きい意味とか、構造と言ってもいいと思うけど、意味が発生することへのおそれの有無ということは、けっこう大きな問題だと思うんだけど。たとえば、アンダーセルの大塚ギチは新海とかと同じ年代だけど、彼が書くものには意味が発生することに怯えている印象がある。新海たちは作品に意味を普通に発生させていくわけだよね。

当時の東浩紀に見落としがあったとすれば、それはおそらくここであったと僕は思う。いずれにしても、宇野常寛のやり方では、ポストモダニストである東浩紀への批判はパフォーマンスとしての意味以外では体をなせないはずだ。東浩紀はポストモダンにおける実存のあり方について注目してはいたが、ここで物語論的なレベルで考察する余地を棄却するか、あるいはそのような読みを行わない。

東 それは単に意味を発生させられない人間が下手だということではないですか? さきほども述べたように、いまの文化世界はデータベースの層とスペクタクル(=シミュラークル)の層の二層構造で作られているけれど、スペクタクルのレベルでは単に通りのよい話の方がいい。新海さんもその部分はしっかり踏まえたわけだけど、逆に、主題を恐れないことにそこまで拘る大塚さんの方が捻れている感じがする。

大塚 とすると、結局、データベース的な環境の上で、すべてがシミュラークルになってしまっているということ?でも、批評としてそう語ることと作品がそうなることは別だし、逆に完全なシミュラークル化した作品なんて存在しないんじゃない? AIでも使って創作させない限り。

東 それは八〇年代も同じですよね。だからこそ大塚さんたちの世代は意味なんて格好悪いと言ってきたわけでしょう。ただ、いまや、あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった。それだけの話じゃないですか。

ここで「主題を恐れる」という問題がなぜ生じたかということに対して、それが「大塚さんたちの世代が」「80年代」といって世代論的に終わりにした東浩紀の評価は安易に過ぎたのではないか。単純に言っても大塚英志が述べたように新海誠と大塚ギチは同年代だ。まして、ポストモダンにおいて創作の現場では、「大きな物語」の喪失という言葉はそのままリアリズムや主題を持って物語ることができないという危機に直面したということを東浩紀が知らないはずはない。例えばミニマリズム文学の活況などもその流れにあり、もっと遡っても、ボルヘス「伝奇集」でもバース「尽きの文学」でもエーコ「文体練習」でも蓮實重彦「小説から遠く離れて」でも、ポストモダンに物語が駆動力を失っていく課程はやはりあったのだ。そして、それがついにアニメにまで到達したのがエヴァという反物語だったと僕は思う。東浩紀が、社会を成り立たせていた価値が崩壊し、何も選ぶことができない状況から生まれた物語としてのエヴァを認めていたならば、当時セカイ系や「木更津キャッツアイ」のように「最近の傾向」としてあったような「健全さ」を持つことができない物語を単に「下手」と言ってしまうことには自己撞着がないと言えるだろうか。

ただし、逆に言えばここで東浩紀は彼の展開するポストモダンの論理に基づいて正確に「健全さ」について述べているとも言えなくはない。「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉は、今このゼロ年代末の説明としてむしろ正しいと僕は思うのだ。それは「シンジではキラを止められないから」という流れとして宇野常寛によって解説される決断主義への筋道よりも、少なくとも僕には説得力のあるものに感じられる。それについてはまた述べるが、ともかく当時の東浩紀は、自身のこの言葉にあまり意味を感じなかったはずだ。だからこそ彼はこの対談の中で「ほしのこえ」についてあくまで「個人がアニメを作る」ということに注目しているし、また「月姫」についても同様に、同人ゲームから商業タイトルを越えたヒットを飛ばしたという点にのみ注目する。創作の主客が逆転する、もしくは、受け手が自給自足的に物語を再生産し続ける状況については彼は現在に至るまで鋭い考察を続けているが、そこで人々が定型の物語を尊んでいたことについてはあまり注目していないし、彼はまたそのような作品に対して、例えば「Fate/stay night」の主人公について「内面がないし、葛藤がない」という「脳天気さ」を指摘したりする。念のために記せば、ここで僕は、東浩紀はそのように物語を定型的だからと退けるべきではない、彼がこれを楽しめないのは間違っている、彼も楽しめ、というのではない。ただ、その移り変わりがポストモダン的なものに起因するとたぶん彼は気付きながら(むしろ彼は「動物化するポストモダン」の中でそこまで言及できている)、それをいわゆるポストモダン文学の潮流と照らし合わせて接続させてよかったはずだということである。

西尾維新はセカイ系のブームについて、次のように述べている

「僕にとっては、世界=物語で、身近で閉じた世界が物語そのもの。『セカイ系』と言うが、逆に、そうでない問題って小説になるの? と聞きたいくらい」

作家の立場からの発言として、彼の指摘は極めて鋭い。近代社会を成す価値の崩壊は現実を書き写す作法としてのリアリズムの手足を封じ込め、ポストモダン文学は袋小路へ至ったが、しかしこの西尾維新の言葉はリアリズムとは本来リアルではないということを把握して、さらにリアリズム小説だけがフィクションではないことを熟知して、そのことを述べている。そして、彼の言葉から敷衍するならば、セカイ系の物語とは、エヴァという反物語からの反動と捻れから極端に批評的な形で生まれようとした、必ずしもリアリズムに基づかない定型の物語への憧憬であったのではないか。

「ファウスト」もまたそうだったはずだ。太田編集長は、おそらく結果論として、新しい時代の作家をミステリから招いた。ミステリはつまり殺人が起きて、犯人がいて、解決される。その図式はまさに定型のものである。とりわけ本格ミステリは、さらに新本格ミステリは、リアリズムを越えてリアルでない「定型の物語」を描く。定型でないミステリ、例えばメタミステリ、例えば犯人がいない小説、例えばフレドリック・ブラウン「うしろを見るな」(もっとも僕はミステリをよく知らないので例として挙げるならコルタサル「続いている公園」の方がしっくりくるが)の被害者は読者だ。しかしそのようなミステリは定型の裏返しでしかない。ともかく、佐藤友哉はそれをパロディ的に自分の中に落とし込んだ。だから彼は、後に90年代以前のJ文学や日本のポストモダンや私小説のパロディを行うことだって可能で、それで彼は文学賞を取れる。舞城王太郎は常軌を逸したトリックなどを使ってリアリズム的なミステリの道具立てに全く意味がないことをことさらのように示すことで定型の物語のエモーショナルな部分の美しさを陰画のように浮き彫りにして描いたが、やがて作品を減らしていった(その姿はまるで小沢健二の辿った隘路のようだ)。対して西尾維新はデビューしてから1年もすれば定型の物語に戻っていった。彼は「クビツリハイスクール」で、ミステリが重要なのではない、つまりは定型の物語が重要なのだと理解し、そしてミステリを取り外したのだ。また奈須きのこ「空の境界」はしばしば「月姫」のプロトタイプとしてのみ語られるが、物語の原型としてだけでなく、同時に作者が「月姫」を書くための試行錯誤の課程としてあった。だからこの小説は随所で型を壊そうとして描かれており、複雑で読者に読みにくさを強いる。しかしその奥にあるものはやはり奈須きのこが「王道」と呼んで愛するもので、これを書き終える頃、奈須きのこは自らがそこに本腰を据えることを認めた。それは98年のことで、だから彼は誰よりも早く、停滞を迎えようとしていた美少女ゲームのエポックメイキングとなるエンタテインメント作「月姫」を作ることができたし、多くのユーザーがその面白さに熱狂したのだ。

こうして作家たちは、また我々は、もう一度物語を物語ることと物語を享受することを等しく目指していた。そこで「エヴァ」も「ファウスト」も、それからセカイ系である「ほしのこえ」も、また「木更津キャッツアイ」も、一つの流れに共に並びうる。そこに切断などない。何かが何かの否定としてなど、生まれていない。むしろこれは、我々すべてが目指した回復の過程だった。そしておそらく、この流れとは、東浩紀の述べた「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉から読まれるべきものだ。

これが、僕が「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて読んだときに抱いたまず1つ目の感想であり、僕自身が示したい、現状への理解の一部である。

2008.06.05 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ] [音楽

相対性理論「シフォン主義」

「オルタナティブ」「ミクスチャー」「アブストラクト」などの言葉を「ジャンル」として認めたときから、音楽の世界では既にすべてのジャンルが相対化されていた。もっと前、その前から、DJではない、単なるリスナーが、そしてミュージシャンが、レコード箱を漁って音楽のシーケンシャルな進化を退けたときから、そうなっていた。「レア」とか「グルーヴ」という言葉で価値は順位づけられていたが、「オルタナティブ」や「ミクスチャー」以降の世界では、それすら意味を持たなくなった。サブカルチャーの分野では、おそらく、音楽には最も速く、早く、すべては相対化された。ファッションは、長きにわたって音楽の動きを観察し、それをモードとして採り入れ続けたが、やがてそれがすべてが等価になるということを意味するのだということがはっきりする頃から、それをやめたのだ。

相対性理論がなぜよいのか、ということについてずっと考えている。相対性理論は、僕にとってそこまで心が躍らされるバンドじゃないかもしれない。しかし耳に残って、気になって、耳を傾け続けている。みんなも「これに何かあるんじゃないか」という顔をしている。

僕の考えでは、「みんながこれに何かあるんじゃないか」という顔をするというときには、少なくとも、これがたとえ「誰もが絶賛すべき何か」じゃなかったとしても、「みんながこれに何かあるんじゃないかという顔をする」という理由が何かあると思っている。そこには何かあるはずで、僕はいつもそういうものが知りたい。だから考えている。でも難しい。しかしようやく「シフォン主義」を聴いたので、何か書けねばならない。

例えばこれはジャンルを違えた形であったら「ファンファーレ」のころのロロロのようである、という言い方ができる。音楽というものは、今や、そういう言い方ができてしまう。二つのバンドは、参照されているデータベースの項が違うだけだと言ってもいいかもしれない。しかしどうやら、データベースが参照されている目的が全く違う。今、価値のすべてが相対化した中にあって、我々に残されているものとして僕が注視すべきのは、データベースが参照される態度なのではないだろうか。最近、何度も思う。

話が逸れた。逸れてはいないが、相対性理論を離れてしまった。

このバンドは「あれのようだ」「これのようだ」「何かに似ている」と思いながら聴いているうちに、最後に尾ひれのようにオリジナリティを囁こうとしているバンドのようだ。例えばそれは「LOVEずっきゅん」というフレーズの連呼であったり、あるいは「夏の黄金比」における男声コーラスのようなものだ。何かの集合体のような、何かからの剽窃で作ったふうなものを、さりげなく、無意識を装いながら作り上げて、最後にひどく素朴な要素を紛れ込ませることで別のものにしようとしている。音楽的にはそのようなものだと思う。しかしそういう意味では「テレ東」は逆の作り方がしてあるようだ。

音楽が難しいのはそれだけでは話が終わらないところで、このバンドが最も面白いのは、歌詞だ。凛としてかわいらしい不思議少女チックな女の子ボーカルが木訥としてマンガそのもののような遠未来サイキック少女ものストーリーを歌い上げる。「四月革命」「スマトラ警備隊」の歌詞に顕著だ。

やってきた恐竜 街破壊
迎え撃つ私 サイキック
更新世到来 冬長い
朝は弱い私 欠伸をしてたの

太平洋 大西洋 ここ一体何平洋よ
盗んだわたしの記憶をかえして
CIA KGB FBIに共産党の陰謀よ
誰か私を逃して

飛んでったボイジャー 惑星破壊
なすすべないあなた サイコパス
環状線渋滞 先長い
待つのつらい私 ゲームボーイしてたの

北極星 超新星 流星群にお願いよ
誰か止めて あの子のスーサイド
新幹線 連絡船 運命線よおしえて
私明日は どこでどうしてるの

思わず全文を引用してしまった。これでは引用の条件を満たせないかもしれない。しかしやはり、本当にこれは詩がいいのだな。このバンドは。「凛としてかわいらしい不思議少女チックな女の子ボーカルが木訥としてマンガそのもののような遠未来サイキック少女ものストーリーを歌い上げる」ということ自体、何かの引用から、何かと何かのミックスからモザイクから成り立ったような概念でありながら、それを措いてなお、この文字の並びはとても素敵だと僕は思う。だから僕はこのバンドのここが好きなんだと思う。

でも、このバンドが、最も、本当に、まさしく、僕が「ここが面白い」と思うところは、この詩を書いているのがこの歌を僕らが切ながるような有様で歌ってくれるボーカルの女の子じゃなくて、全然そうじゃなくて、ベースの男の子なんだ、というところだ。女の子はその歌詞を受け取って、彼女なりにあれこれ考えながら歌っている。彼らはそれを何となく作って何となく歌って何となく演奏している。でも拗ねたりしていなくて、ちっとも嫌いなそぶりはない。だけど、何となく愛する音楽を、溜め息でも吐き出すように、彼らはやってそうに見える。そしてそこが、「ファンファーレ」のころのロロロに感じたものとの違いでもある。

だからライブはきっとあんまり面白くないのじゃないかって僕は思うんだけど、これで実は女の子がすっごくお客さんを煽りまくったりしたら本当に面白いんだけど、そういうことはないバンドだと思う。それでも毎日、バイクに乗りながら口ずさんでいるのだ。なぜなんだろう。でも何度も口ずさむと楽しくなる歌なのだ。

コントレックス箱買い
コントレックス箱箱箱買い

2008.05.31 | | コメント(7) | トラックバック(0) | [音楽] [文章

Perfume「GAME」

Perfume「GAME」は素晴らしいアルバムだと思う。これをCDトレイに載せるときに、僕の手は震えた。心臓が早鐘のように鳴った。ずっとずっと前から、彼女たちがどうやったら、彼女たちの望む場所に行くことができるのだろうかと僕は考えていた。それについてはもう何度もここに書いたし、ほかのところでも書いた。「安全なアキバ系」として一定のキャラクター性を与えられれば彼女たちは勝ちなのだという考え方は間違っているとも書いた。だからといって、彼女たちを単にいわゆるアイドルとしても、いわゆるアーティストとしても見ることは間違いだとも思った。だからこそ、Perfumeは難しい存在だったのだ。だから7年間の下積みを経たアイドルが、ついにオリコンでアルバムが1位になって、武道館でライブをやって、ゴールしたね、Perfumeってそういう「いい話」を楽しむグループなんだね、というふうに消費されるのも、やっぱりイヤだったのだ。それは果たして僕が天の邪鬼なのだと言えるだろうか。しかし、たしかにPerfumeとは切っても切り離せないことなのかもしれないけど、でもそんなストーリーのおかげでCDが売れたって、それはPerfumeの作品とは関係ないじゃないか。そう思っていた。彼女たちが自分たちについて、その物語の登場人物としての存在であると思っているのであれば、このアルバムで何も変えないだろう。ここで何も賭けないという勝ち方もあるはずなのだ。僕はそんなのイヤだった。だから僕の手は本当に震えた。

最初に聴いてみて、挑戦的なアルバムだと思った。彼女たちに人々がある種の画一的なイメージを想定している今だからこそ、あえてこれを出してきたのだと思った。まずそのことを喜ばしく思った。しかし、その考え方も間違っていたのだ。そもそも、彼女たちはそんなお仕着せのストーリーのことなんて頓着していなかった。彼女たちは最初からそんなものを自分たちのよりどころにするつもりはなかった。人々が今、自分たちを見ている。そのことだけを理解して、ずっと前から、最初からやりたかったことをやった。そこには、僕みたいな人間が、きっと彼女たちがするに違いないと思ってしまうようなどんな計算もなかった。中田ヤスタカもそうだった。そういう意味では、これは挑戦的なアルバムですらないのだ。だからこそ、このアルバムはものすごく強い。僕は聴く前に、本当にうっかり、それぞれの曲が「僕にとって今までのPerfumeっぽいかどうか」を聴こうとしていたのかもしれない。そうではなかったとしても、「うるさがたを満足させられる音になっているだろうか」くらいのことを考えたかもしれない。でも、その考え方はどっちもPerfumeが本当に考えていたこととは何の関係もない、ずっと保守的な見方で、僕はだから全く裏切られた。彼女たちの、ものを作ることに賭ける態度を、僕はきっと甘く見ていたはずなのだ。何度も何度もヘッドホンでこのCDを聴きながら、そういうことをクイック・ジャパンの77号に書かせていただいた。

サウンドについては誰かが何かを言うだろう。しかしこのアルバムは歌詞が素晴らしい。僕はフリッパーズ・ギターのことを考えた。これを何度も読んで、僕は「ここにおいて90年代はもう絶対に終わっている」と思った。個人的な感情なのか、世代なのか、何なのか分からないけれど、僕と近い意識を持って時代を眺めていた人には、ひょっとしたら分かるかもしれない。でもあの90年代の不安は、寂しさは一体いつ終わるんだろう、本当に終わったんだろうか、僕はずっとそう思っていた。怯えていたのかどうかはよくわからないけど。「だろうだろうはもういいだろう」というのはエレクトリック・グラス・バルーンの杉浦英治の言葉だったと記憶しているが、彼がそう言っても、しかしあのころなぜみんなが「だろう」を必要としたかはこれまであまり考えられずにきたように思う。僕もフリッパーズ・ギター・コンコーダンスを初めて見た当時、すぐに「だろう」を検索したものだが、しかしその言葉が何を意味するのかはよく分かっていなかった。もちろん、あの「だろう」という言葉は決定された未来に対する諦観だったかもしれない。「君がわかってくれたらいいのに」という叶えられない望みを抱えて、存在しない「ほんとのこと」へと船を漕ぎ出してしまえば、やがて波打ち際で女の子の首を絞めるシーンで終劇となるのだ。そこからやがてセカイ系を通過して到達した先にいるPerfumeは、「たぶん」という、「だろう」と似て非なる言葉によって、ついに世界や他者の謎を解こうとしない。永遠に接触できない他者とただ世界に存在しようとするだけの力の美しさを、彼らは表現している。

最後のときが
いつかくるならば
それまでずっと
キミを守りたい

これは90年代に描かれた絶望を、明確に過去のものとして区別している。90年代が描いた他者と、このアルバムの描く他者を並べたときに、僕はようやく90年代から現在までのパースペクティブを見た気がした。そして、このタイミングで90年代が明らかになったからこそ、今や終わりを迎えているこの21世紀の最初の10年について、僕はまとめ始められるように感じた。

そんなような、僕がこのアルバムについて感じたこととか、そもそも僕がPerfumeをどう考えているかというようなことは、もうずいぶんまとまった量のテキストになってしまった。雑誌に書いたのもあるし、ここに書いたのもあるし、ずっと前にほかのサイトに書いたのもある。それから実は今、クイック・ジャパンのブログでは藤井編集長とライターの吉田大助さんと僕が74号から77号までのPerfume特集について話した座談会の連載があって(1 2 3 4 5 6)、僕はそこで上記に書いた90年代の話とか、「Butterfly」がエロいとか、そういうことについて頼まれもしないのにずいぶん触れている。ブログに書こうとしたことだけど、ここであらかた話してしまおうと思ったのだ。そういう多分にイカれた文章を載せるメディアというのはあんまり今ないと思うんだけど、QJ編集部の皆さんはすごく熱心に更新してくださっていて、だからどうかよかったら、長いですけど、ぜひ読んでいただけるとうれしいです。

それにしても、今や「Perfumeはなぜ売れたのか」とか言う人だっているんだ。そうしてニコニコ動画だ木村カエラだエレポップだなどと言っているんだ。今さらで、笑ってしまうんだ。それに、いまだに、そんな話し方がPerfumeを語る上で面白いものだと考える人もいるってことなのだ。あいにく、そんなことはどうだっていいんだという話ですら、とっくに終わらせてある。だから僕らはそんな言説を見ても、彼らに対してにっこりしておいてあげればいい。まあ、せめて今現在にとって意味がある問いを立てるつもりであるなら、「Perfumeはなぜ今に至るまで売れなかったのか」を考えた方がいいのにとは思う。その答えには、今という時代や、そこで僕らが陥っている問題のすべてが集約されているに決まっているのだから。でも、そんなこと考えなくたっていい。「GAME」を聴いて、よかったらPerfumeの(あの、素晴らしい)ライブを見に行ってほしい。彼女たちはここまでやったんだ。本当によかった。彼女たちはようやくスタート地点に立ったのだ。すごいよね。これからどうなるだろう。彼女たち自身も、中田ヤスタカも、ファンも、レコード会社も、誰も予期していないPerfumeは、まだ、今なお、いつもとまったく同じように継続している。疑う余地はない。それでもなお、最後の時はいつか来るだろう。しかし、だったら何だというのだ?

だからどうか皆さん、よいPerfumeを。

2008.04.29 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [音楽

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