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ぼくはくま

今月の仕事をやりつつ自分の原稿を書いているところへ「来月の仕事モタモタすんなお前のせいで始められない」みたいなメールが来て、あれもこれも並行してやるお手玉状態だ。できるかバカ!無理!もう人間限界ですよ!これはゆゆしき事態ですよ!

僕は5年ほど前まで、自分はマルチタスクじゃないので3つ以上の仕事を同時にはできませんといろんな人に言っていた。しかし今では5つくらいならできるようになった気がする。つまりできる幅が3つも増えたのだ。いきなりできるようになったわけでもないし、だんだんできるようになったわけでもない。結局のところ、やるかどうかでしかないのだ。できるのではなく、やってるだけ。

そんなわけでほとんど一日仕事しているので自動的にここに書くことも全くないわけだがYouTubeで宇多田ヒカルの曲は見た。見て思ったのは「社会性というものが全くないな」ということだ。このクマはなんだかすごく自閉的だ。と思ってから、あとでこの歌で歌われているのは宇多田ヒカルが持ち歩いてスタッフ用のパスとかを作らせているでかいクマのぬいぐるみなのだというエピソードを教えられて、なるほどなと思った。この社会性のなさは宇多田ヒカルの曲に常に宿っているものだと考えるのが正しいだろう。彼女の「個性」は近年ますます孤独感の漂う内容になってきているが、ぬいぐるみのクマについて歌うという内容が功を奏したか裏目に出たかわからないが、ひどく他者を感じさせない内容になってしまった。普通の大人がこういうものを作ると、なんとなく広い世界の存在を当たり前にしたものを作っちゃうと思うんだよね。この歌はそうじゃなくて、クマと母親くらいの世界しか登場しない。つまりPVのとおり家の中で終われる、本当に子供の世界。歌詞について細かく指摘したいが、とにかく年末進行であり、そこまで時間がない。ああ、これが僕の限界なのか。やだ。もっとやってやる。というわけでわざわざここに書き込みまでしているわけである。

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2006.11.28 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

EZ助手席ナビ

先日バイク用のインカムセットを買ったが、マイクが必要ないときはアンプを使わなくてもいいようにした。本来ならヘッドフォンからアンプへ有線接続し、アンプの外部入力に携帯をつなぐところを、アンプを介さずヘッドフォンと携帯を直接つなぐわけだ。しかし面倒なのはヘッドフォンからのケーブルがモノラル2.5φオスなので、携帯電話の平型端子用アダプタのさらに前に3.5φオスに変換するアダプタを付ける必要があるということだ。アダプタばかりゴテゴテと付いて非常に不安定で使いにくいが、ジャマなアンプを一掃してオーディオ再生は快適にできるようになった。

さて今日はちょうど上野から明治神宮前(渋谷寄りの方)まで移動する用があったので「EZ助手席ナビ」を使うのにほどよい距離ではないかと思って使ってみた。インカムを買ったらこれを活用してみようと思っていたのだ。「助手席ナビ」というのは要するにナビなのだが、わざわざ「助手席」と書いてあるのは、運転中に携帯を操作すると違反になるので「助手席の人が使ってね」という意味である。しかし運転者であっても、音声ガイドをヘッドフォンで聞くことができるので、事実上使うことができる。地図を見たり操作したりするのはダメだが。

実際に使ってみると、お世辞にも賢いナビとは言えない。今回使った以外に、以前自宅近くで一方通行に入っていこうとしたので非常にイメージが悪かったのだが、やはりあまり賢くないようだ。ルートの選び方は、上野駅から中央通りを通って秋葉原を横断、靖国通りに出て、市ヶ谷まで行ったら外堀通り、赤坂御所の裏を通って国立競技場のあたり(SELANのあるとこ)から青山通り、表参道から明治神宮前駅前で明治通りに乗って目的地、という感じ。文字で書いてもサッパリ分からないが、要はやたらクネクネと曲がって遠回りしている。設定で右左折を減らすとかできないものかと思ったが、どうやらできないようだ。

また、音声ガイドのタイミングがおかしいことがある。1キロ先で右折とか言ってたくせに、その後900メートルぐらい走った後で「あと500メートル」とか言われて混乱する。「まもなく右折」というのも、要は「目の前の交差点で」ということである。ただ、僕はナビと言えばレンタカーにたまたま付いていたやつしかマトモに使ったことがないためあまり慣れておらず、よく分からない。ナビというのは元来こういうものなのかもしれない。

従って狭い範囲で細かい道をナビさせるのには向いていないような気がする。半面、高速道路では便利そうだ。バイクだと地図が見られないためどのへんを走ってどこから降りたらいいのか分かりにくいので。

こういうレポートっぽい文章は全然面白くないので頭に来た。読み返して「だから何だ」と思った。こういうものを書く手法が見つかっていない。

2006.11.23 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ガジェット

サイドプロテア「未来のエネルギー」

さすがに大変になってきた。年末っぽくなってきたといえばそれまでだが、ホントの年末進行は言ってみりゃどうとでもなるものなのでむしろ今月を切り抜けるのが最大の課題なわけで、大いに不安だ。
サイドプロテア「未来のエネルギー」を聴きながら移動。サイドプロテアは同人音楽だが、これは「インディーズ」ではなくて「同人音楽」と呼ぶのがまさしく正しい。「エレクトロ」と「渋谷系」と「アキバ系」をミックスさせたら面白いんじゃないの、というキーワード先行型の発想で企画され、そしてそれがたしかに各キーワードがミックスされているねという気持ちだけで聴くことができ、面白い/面白くないと評価されうるというのが非常にアキバ的。そこではもはやキーワードの集合であるなどということは何ら批判の対象とならない。ただ、そのかわり作者自身がこのスタイルにこそ愛着を感じてやっているという感じが全く漂ってこない。個々の要素に対する愛情はあるのだと思うんだけど、これらを組み合わせるに至った経緯が、まさに「組み合わせてみたら面白いと思いました」というものでしかない。だから聴く方も「ホントだ面白いね」という興奮しか抱けない。その興奮の度合いは決して小さくないからいいのだけれど、どこか空々しい気持ちになってしまう。歌詞で語られる「オーバーテクノロジーとしてのインターネット」などもいかにもキーワード的に提示されて、キーワードとして終わっていく。とてもコンセプチュアルで面白そうに見えるのに、いつまでもそこまでだ。

上記の文章で「アキバ的」っていう言い方がイヤで書きたくなかったんだけど、ほかに何と表現したらいいのか分からなかった。この極度にキーワード志向な感覚は他の言い方で説明がつかず、「渋谷系」と同様の他の言葉での説明のつかなさの結果としてこの言葉を使うに至ったんだが、世間的には別に「アキバ系」という言葉をそういう意味では使っていないよな。何と呼ぶのが正しいんだろう。

2006.11.23 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [文章

ダメイク

GyaOでFamily Guyを見てたら、おちまさとがプロデュース(という言い方で正確なのかよくわからないけど)している「ダメイク」の番宣が流れて面白そうだったので見る。女性が素顔から自分の化粧道具でメイクしていく姿を映し続け、最後に講評とリファインが行われる、という番組。女性の化粧する姿を見るのは嫌いではない。こう書いてみると何となくフェティシズムに近い感じがするが、化粧という一般的な男性にとって疎遠な、顔を作り替えていく技術そのものに面白さを感じているわけで、どちらかというとオタク的な興味に近い。実際、コスメやメイクというのはきわめてオタク的な世界で、そのような内容が特集された女性向けの雑誌などを読むと非常にコアな世界があって面白いものだ。そんなことは化粧好きの女性達には常識的なことで、僕が今さら指摘するまでもないことである。

この番組は、そのように化粧のことが分からない男性的な視点から作られていると思う。だから、講評を加えるメイクアップアーティストは著名な方だし的確だと思うが、アドバイス自体は女性雑誌を読めば書いてある内容であって、自分の化粧を極めていきたい女性にはさほど参考にはならないと思う。GyaOの画質も細かな発色の仕方を見るのには向いてはいない。この番組を参考にする女性がいないとはもちろん言えないが、いずれにせよこの番組を参考にしてテクニックを向上させようと思うくらいの人なら、既に雑誌などを見て研究を進めている人が多いのではないだろうか。

しかし前述したようにこの番組の視点は男性的なので、視聴者が男性的な見方で見れば十分面白いと思う。男性的な見方というのは、やっぱり「分からない世界」について物見遊山的な面白さを感じるという態度でいいのである。化粧のテクニックの数々を見て、「へーなるほど」とか思えば十分だ。実際、わざとやっているんだと思うが、メイク中におちまさとがするコメントは「わー、女の人ってこうやって自分を作り上げるんですか~?へーこれはたしかにエロくなるね」くらいの興味に沿ったものになっていて、これは視聴者に対するフォローになる、非常に正しいコメントの入れ方だと思う。具体的なテクニックについては何も言うことがないので、あとはファンデーションの塗り方が両手だとか片手だとかで無理に話をつないでいるが、それでいいのである。視聴者も、化粧しているのを見ながら「この女相当気が強いよコエー」とか「あーいるね読モとかこういう子」と言っていられて楽しい。そういうところが面白い番組である。

番組の後半では「今回のテクはこれだ!」みたいな感じで「モテギャオメイク!」などと煽っているが、実際にはその煽り方は言葉通りの意味では効果を上げていない。どうせこれは女の子が化粧をしてるの見るのが面白いという番組なのだから、それでいいのだ。間違ってはいけないのは、男性的な視点の番組とは言っても「男性が好む化粧はコレだ」ということが分かる番組である必要はない、ということだ。それは女性の視点だ。男性は「その化粧によって実現された女性の姿」にはすごく興味があっても、「自分が好む結果となった化粧そのもの」なんて二の次なのである。だからこの煽りがさほどの効果を上げないまま放置されているのはいいことだ。そもそも、もしここをもっとメインにしたいなら、番組は女の子が自分でメイクしているシーンに大幅な時間を割く理由がない。だから視聴者もまあオマケみたいなものだと思っておけばいいのである。このシーンはようするに「ヒッピーがヤッピーに変身」と同じで、顔が変わればオッケーなのだ。「かわいくなった」「エロくなった」と言えれば十分なのだ。そうでない何かを視聴者に与えるには、この番組はもっと「ビューティーコロシアム」や「ビフォーアフター」にしなければならないと思うが、僕はそんな必要はないと思う。「建もの探訪」の方が僕は面白い。

2006.11.22 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [映像

「映画秘宝の歴史」

町山智浩が映画秘宝のサイトでやっているポッドキャスト配信町山智浩のアメリカ映画特電の第四回を聴く。この回は「映画秘宝の歴史」というタイトルなのだが、映画秘宝そのものは全く登場せず、いかにして町山智浩が特に嫌いじゃなかった蓮實重彦を嫌いになったか、そして「リュミエール」がいかに嫌いだったかが映画「スカーフェイス」にまつわる話として語られていて大変に面白い。「ブッ殺す!ブッ殺す!」と何度も叫んでいてゲラゲラ笑ってしまった。町山智浩が映画批評というものをどう考えているか、ということが熱く語られているのもよい。なんていうか、みんな映画が好きなんだなあ、という、非常に無難そうな感想を持ってしまったがしかし、僕は町山智浩も蓮實重彦もどちらも批評家として間違っていない主張をしているのだ、と思う。だから町山智浩が「スカーフェイス」を評価しない蓮實重彦を「ひどい!」と思うのは非常に正しいことであるし、同時に彼がリュミエールには蓮實重彦の退屈な模倣者ばかりが載っていてあんな雑誌はクソだと思った、というのも実に正しい。結局そこまで話が至ってないけど、おそらくその想いが「映画秘宝」創刊へつながるってことなんだろうね。これ。

以下は直接は関係ない話。個人的にポッドキャストは世間の熱の下がり方と反比例して面白いメディアになってきているような気がする。ラジオのような既存の音声メディアがまじめに手を出してくれたのがいい。このくらい盛り上がってくれれば、下火になっても形を変えてこういうメディアは受け継がれてくれそうでうれしい。ただ、聴くのにある程度時間がかかってしまうのがネック。システム的にユーザーの「ながら再生」を誘発して生活に割り込ませることはできないだろうか。それがポッドキャストとiPodの連携なのだよと言われるかも知れないが、iPodを持っていて通勤通学に時間がかかる人じゃないと意味がないようなメディアなんてずいぶんニッチだなと思う。下火になる前に早くVistaが発売、普及してRSSなどの情報配信がもっと受け取りやすくなり、コンテンツ配信者のやる気が持続されればいいな。

ともあれ僕もRSSを更新チェックに使ってみることにした。しかし結局はfubのRSSバーというプラグイン使って(これも初めて手を出したのだが)、はてなで作った適当なアンテナのRSSを読み込ませている。つまり本当に更新をチェックして「未読を全て開く」のにしか使っていない。fubの作者さんも似たような使い方をなさっていた気がするな。RSSってもっとなんだかいろいろなことができるのかもしれないが、別にこれでいいじゃんと思ってしまう。未読ページを1つずつ選んで読んでいきたい人には、ほかの使い方があるのかもね。でも複雑な読み方をするにはRSSリーダーというソフトウェアは不完全だと思う。それはそもそもRSSという形式の不完全さに理由があると思う。なんとなくそんなようなことを思った。

2006.11.22 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [映像] [文章

Robot Chicken「Grand Theft Mario」

「アダルトスイム」はアメリカのアニメ専門チャンネル「カトゥーンネットワーク」内の大人向けのアニメ枠だ。視聴率算出においては既に独立していて、日本の大人向けアニメが多く放映されるため日本でも頻繁に話題にされている。今ではコメディセントラルの「サウスパーク」以上の人気と言われる「Family Guy」もこの枠だ。もっとも、僕の好みで言うとサウスパークは異常に好きで、Family Guyは、最近GyaOで放送されているが、さほど好きではない。と思ったけど今見たらすげー笑ってしまった。

さて今日この動画を見たのだが、これもアダルトスイムのクレイアニメ番組「Robot Chicken」で放送されたもののようだ。

このように「健全なイメージのキャラクターに悪いことをさせる」というパロディものを見ると、僕はいかにもアメリカ的なブラックジョークだと考え、同時にほとんどそのパターン化された発想に退屈さすら感じる。

しかしこのパターン化された発想が何度でも繰り返されることが可能なのはアメリカがパロディに寛容だからであって、日本においては繰り返される以前にこの種の笑いは封じられている、ということなのかもしれない。この笑いが「いかにもアメリカ的」であるならば、これが成り立たないことが「いかにも日本的」と言ってもいいということだ。

もっとも、以上は単に僕の誤解であってアメリカ人がこの種の笑いを求めていることが前提としてあり、それゆえにパロディに対して寛容な姿勢も生まれているだけかもしれない。そのへんは気になるところだが、僕はアメリカ人ではないしアメリカ文化にも詳しくないのでよく分からない。

しかしこの姿勢によって生み出されているのは、キャラクター達が別の世界(虚構)をクロスオーバーしていく事態である。ちなみに言うまでもないことだが、この動画に出てくるVICE CITYはGTA、最後に出てくるRACCOON CITYはバイオハザードに登場する街だ。それぞれの虚構は平行世界のように成り立っており、パロディとしての効果を生むためにお互いに接触するというのはアメリカの物語では、特にテレビのコメディでは多いと思う。昨日も書いた話に近いような気がするが、日本ではこのようなパターンの虚構は現在のところ同人の世界でしか成り立たない。しかし僕は、同人の世界でなら何の理由もなくそれが成り立ってかまわないという曖昧さが嫌いだ。

2006.11.21 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [映像] [ゲーム

だんデらいよん

Platine Dispositifの新作「だんデらいよん」の動作確認版が配布されているのでダウンロードしてプレイしてみた。弾幕を囲んで固めて敵にぶつける、というようなゲーム。囲むゲームというと僕はすぐリブルラブルを思い出してしまうが、もちろん全く違うゲームだ。どちらかというとNintendoDSのタッチペンを使ったゲームに似た感覚。しかし、これはひょっとしてやはり実力勝負っぽいゲームなので自分には無理だなあとか既にサジを投げかけている。太陽系とハレー彗星を下敷きにした物語はとても魅力的なのだけれど。

しかし新作まで登場しているのだし、いい加減「チェルのブ」はクリアしなきゃという気になる。まだしていなかったのだ。バニーさんまでは自力で到達していたのだが、もう面倒なのでろくに探していなかったライフアップとエリクサーを3つくらい集めてひたすらゴリ押ししたらすぐクリアできた。やり込み要素を極める腕などないので、これでこのゲームはおしまいだ。ああ面白いゲームだったなあ。

「だんデらいよん」はチュートリアルがあるせいもあって、キャラクターが虚構に対して自覚的だ。「チェルのブ」は、個々のキャラクター(というかバニーさんとチェルシーさん)が虚構に対して批評的な眼差しを向けたりはしないけれど、かわりにめいめい勝手な世界に属しているというような感じだった。僕はどちらかというとチェルのブのような作品の方が好きだ。同人作品に頻繁に見られる(もちろん商業作品にだってないわけではないが)、虚構としての世界にひどく自覚的なことばかり言うキャラクターはさほど好きではないのである。「だんデらいよん」は全然ましというか話の流れで引き合いに出されてしまったのが申し訳ないほどしっかりしたものだが、ひどいものになると楽屋落ちばかりがだらだらと続くテキストを読まされることになり退屈なことこの上ない。ああいうものを見るたびに、これを面白いと思わなきゃこういう人の仲間に入れてもらえないのかなあとか思う。

2006.11.20 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム

闇金ウシジマくん

「闇金ウシジマくん」はスピリッツの中では非常に好きなマンガ。端的に言ってしまうと「ナニワ金融道」や「カバチタレ!」のような「おカネ裏職業モノ」のマンガであると言える。「職業モノ」が現在のマンガの大きなジャンルの1つになっていることは今さら言うのもバカバカしいことだが、基本的にこれらのマンガはすべて同じで、だいたい2つのパターンしかない。その1つが「業界の常識」をもって読者の常識を裏切りながら「社会の裏側」みたいなものを描き、「へぇ~自分の知ってる社会の裏でこういうことが行われているんですね~」とか読者に思わせ、最終的には「そんな場所で人を動かすのはやはり心であった……」みたいな終わり方をすればよいというようなやつである。この「……」というのは何かと問われれば、要は「……(いい話です)」とかなのだが、ここには「……(現実って怖いね)」とか「……(空しい世の中だ)」とか「……(働くって大変だ)」とかが来たっていい。要はにじまされている感情を汲み取りなさいよということである。そのための「……」なわけだ。

しかし「闇金ウシジマくん」がこのような従来の職業マンガの常識を覆す、全く異なったものであるかといったら、果たしてそうではない。同じである。「世の中は奪い合いだ」とか「お前に(弱者からカネを取り立てる)罪悪感があるなら、なぜ日常では感じない?豚を殺す罪悪感もなくコマ切れ肉を食い、自然を壊す罪悪感もなくモノをゴミにする」「みんな独りだ。死ぬときは独りぼっちだ」などのひどくとってつけたように感傷的なセリフは、非常に職業マンガとしてありがちである。何だかすっかりケナしているようだが、しかし僕はこのマンガが好きだ。この人のマンガはクイックジャパンに載ってたやつから読んでいるはずだが、これ以前の作風はもっとずっと感傷的なマンガを描く人だった。絵やセリフのハードさがありながらも話がファンタジックすぎるという、「ある種の(僕があまり興味を持たない)ステロタイプなカルト作家的な作風」だったと思う。それがわざわざ「職業もの」であり「金融もの」、つまり「カネの話」をやるという、ひどく下世話でキヨスク的にポピュラーなモチーフを選んだことで、この人の持つポップさは本来の意味、すなわちポップの持つ真の毒として機能していると思う。「闇金ウシジマくん」というロゴも装丁もそれを分かりやすく補強している。

「絵やセリフのハードさ」についても同様で、今作では多重債務者やヤンキーのほとんど精神的に破綻しているかのような描写において功を奏している。過去の作品では世界はどこか作者が作り出した感傷的なものとしてしか成り立っていなかったため、そこでの暴力やアノミーは身体性のない、ひどく抽象的な存在でしかなかった。現実的な対象を持たない観念としての暴力なんて全く怖くない。前述した、「ある種の(僕があまり興味を持たない)ステロタイプなカルト作家的な作風」というのはそういうものである。しかし今作ではアノミーは、闇金というアンダーグラウンドな業界話に「リアリティ」を与える仕掛けとして機能している。要は「……(現実って怖いね)」というやつである。初期の挿話においてはそれを前面に出して使おうとした節があり、だから第一話から第三話くらいに出てくる債務者は精神的な破綻を必要以上に絵で強調されている。

そして、作者は感傷的なストーリーもちゃんと並行して描いていて、前述したような感傷的なセリフが「……」の別の部分をちゃんと担当している。かくしてこのマンガが正しく職業マンガとして成立せしめられているわけだが、それはやはり主人公クラスのキャラがほとんど登場せず、職業ネタも全然出てこない「ゲイくん」に集約されていると思った。この話のラストで丑島が言っている「人それぞれだろ?」というのは第一話で言っていた「こんな生き方もアリじゃねェの?」と同じで、これはつまり債務者の人生を全く否定しないということだ。これらのセリフは「世の中は奪い合いだ」とか「日常にも罪悪感を感じろ」のような、ほかの職業マンガでも見かけるような、職業を通じて「真の現実」を知っている主人公が、現実に甘い素人を嗤うというものではない。債務者の人生を否定しないということは、主人公の人生が肯定されるわけでも、読者の人生が肯定されるわけでもないということであり、その結果、職業マンガとして読者の常識を否定するのではなく、常識の存在自体が否定されてしまう。「裏社会」とは実際には「裏」とか「表」と分けられず、ただ読者にとっての社会と同じ場所に混在しているだけになる。こういうセリフはほかの職業マンガには出てこない。「へぇ~自分の知ってる社会の裏でこういうことが行われているんですね~」というインパクトをわざわざ否定しているからである。

このマンガに出てくる人々はいずれも、むろん丑島も、まっとうな社会に居場所がない人間ばかりだが、作者はそれを「裏」として描きたいのではない。「僕らはもっと嬉しくなるものいっぱい集めようね。可愛いものいっぱいいっぱい集めようね……」と語る「ゲイくん」は、しかし自分がダメな人間で、その人生に先がなく、この先ずっとこのままであると知っている。作者はその存在自体をただ認めている。この作者は「裏」を強調してリアリティを得たいのではなく、そういう現実はただそこにあるとしているのである。これは彼のアノミーの描き方と同じだと思った。

それにしてもこの人のマンガは目が怖いのがいいなあ。どの目も怖い。

2006.11.20 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

工藤静香「MUGO・ん…色っぽい」

工藤静香を聴きながら「闇金ウシジマくん」のコミックスをまとめて読んでいたら、偶然作中に「MUGO・ん…色っぽい」の歌詞が出てきたので非常に驚いた。しかも特にここで出す必要があるのかどうかよくわからんシーンだ。いいんだけど。

工藤静香を聴いていて思ったのは、「この姉ちゃん、なんでそんなに怒ってるんだろうなあ」ということだ。むろん工藤静香の歌唱法のことを言っているのだが。それと、工藤静香は一体いつから「アーティスト」になったのだろうか、ということを思った。デコトラに工藤静香の絵が描かれた写真を僕もウェブなどで見たことがあるが、あれをやっている人たちは「好きなアイドル」としてそれをやっているわけではなく、「アーティスト」の絵を描いているということだ。間違っても「おニャン子大好きでした!!」という人ではない。ハロプロのコンサートにいる特攻服を着た人たちと、工藤静香の絵をトラックに描く人はよく似ているが、それらは違う層なのだ。姿が似ているものがバラバラな場所に存在して、ずいぶんややこしい時代だ、という話。そういえば全く関係ないが、以前山田(和正)さんに「オタクとビジュアル系、ひいてはヤンキー文化ってすごい親和性が高いですよね」という話をちらっとしたら即座に否定された。この話は僕の中ではどう考えても正しいのだが、なかなか賛同者がいない。しばさんくらいか。

あと聴いた音楽のことをここに書き始めて気づいたのだが、僕は最近邦楽ばかり聴いているようだ。気づかなかった。なぜなんだろう。何かありそうだ。

ここを書いていて気づいたことはもう1つあって、こういうふうに作品について書いているサイトには、「この本を読みました。こういう展開でした。面白いところはここです。ここがこれに似てます。今後こうなると面白そう」とか「今日のオススメの本を紹介します」というだけの読み物があまりにも多いということだ。それは半ば予期していたことだが、自分が似たようなことをやり始めると、自分が考えていることとの違いで、よけいにそういうサイトが目に付くようになった。奴らを高く吊せ。

2006.11.19 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [マンガ

CON10PO

スチャダラパーの新しいアルバム「CON10PO」を聴く。先日シングルについて書いたが、やはりそのとき受けた印象に沿った内容であり、全く彼らはすぐれたヒップホップグループであって、「ライブを見たいな」と思わせた。だが、特に気になったのは先日書いた内容の中でも以下の部分だった。

ただ、近作においてはそれがますます判じ絵のような形でしか示されないようになってきているのが個人的には残念である。


「判じ絵のような形」と僕は書いていて、今聴いた新しいアルバムもまた、スチャダラパーのリスナーにとっての判じ絵のようなものだと思う。僕は取扱説明書にありがちな文句を並べた歌詞をひどく面白いと思えるし、それを楽しみ、そしてそれがアルバムの最初のナンバーになっているということをも喜べる。しかし、これはそのようなものを楽しむリスナーのための音楽である。

「今夜はブギーバック」の後にリリースしたのが「ドゥビドゥWhat?」であったときに、たしかヤン富田だったと思うんだけど(藤原ヒロシだったかもしれない。掲載誌はJAPANだったと思う。どちらも失念)、そのことを「理解できない」と言って、それに対して高木完が「いや、それこそコアなヒップホップリスナーのためのメッセージなのだ」というような返答をしたことがあった。そのとき僕は「理解できない」という意見は全くまっとうなものだが、しかし自分たちがセルアウトしていないというアピールがあることこそがヒップホップであるという高木完の主張は正しいと思った。その後のスチャダラパーは、そういう態度を通してヒップホップの矜持をリスナーに伝え、また、いくつかのパーティラップも含めて身近な音楽としてヒップホップの楽しさをも伝えたと思う。だが、ヒットチャートにヒップホップが普通に登場する昨今に、スチャダラパーは自分たちの意味を考えている。その答えが「CON10PO」である。

流行っているから、だから多数の中の1つとしてわーっと騒がないのが彼らである。しかし僕はそれは「セルアウトしているか否か」という議論と同一には感じない。「アレはほかの人がやってるから、俺らがやらなくてもいいや」というのは、「他とは違う」ことを意識しすぎた結果として吐かれる傲慢な嘘である。なぜならそれは、最終的に「他と同じ」結論が出るかもしれない可能性をあらかじめ否定しているからだ。今のヒップホップの世界は、多かれ少なかれ彼らが「他と違う」ものを広めた努力の結果としてある世界であり、これだけ自分たちを受容する環境ができあがっているのに、今度はそこから離れようとしてしまう。それはオトナらしからぬ照れなのだろうか?

その結果、スチャダラパーの「他とは違うということに敏感である」という姿勢をあらかじめ理解するリスナーだけが「なるほどな」と思える世界に達してしまっている。このアルバムは「ヒップホップってこういうのもあるんですよ」「こういうの好きな人もいるでしょ」という、おそらく彼らが期待しているであろう消極的な主張にすらなれず、単に彼らを知らない者には「理解できない」曲の数々としてある。ようするに、自分たちに対する理解を前提にしてしまっている。かつては「コアなヒップホップリスナーのためのメッセージ」としてあったリリースが、「コアなスチャダラパーのリスナーに向けてのメッセージ」にしかなれない。「スチャダラパーのリスナーにとっての」判じ絵であるとはそういうことである。僕が「ライブが見たい」と思うのも、ライブパフォーマンス自体は「盛り上げる」ことが第一義だから、そういうことを感じずに楽しめるからなのかもしれない。

2006.11.19 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

映画「鉄コン筋クリート」試写

何度も行けなかった試写会にやっと行く。相変わらず混んでいるのでいい席を探していたら西島君に声をかけられる。彼も今日来ていたのだ。五十嵐大介さんにも偶然に会ったという。挨拶して、並んだ席にかけて映画を見る。そのあと五十嵐さんと大介くん、安島さんと4人で食事。

映画は、原作を細にわたって読み込んで作ったことがよく分かる、非常に原作に忠実な内容。象が実体化してしまうくだり、ネズミと別れる時のビル描写など。「たからちょう」ではなく「たからまち」と読みを変更した理由がよく分からなかった。最初、実在する同名の街に対する配慮かと思ったが「たからまち」という街も存在するようだ。単に発音の問題だろうか。ただ、原作の「たからちょう」と映画の「たからまち」は似て非なる街だと思った。しかしそれでも僕がこの映画を「原作に忠実である」と思うのは、結局「鉄コン筋クリート」の世界をそのまま実体化することは、たとえアニメであっても不可能で、そして映像として同一でなくてもこの物語に忠実にすることが可能であった、ということである。もちろん、完全に絵の通りに作れば完全な映像化はたぶん不可能ではないが、何が何だか分からないものになるし、そんなものは映画ともアニメとも呼べない。スタジオ4℃が選んだのは、画面上では原作の世界をエッセンスとして継承し、物語のメッセージ性は原作通りに貫くということだったようだ。ゆえに、わざわざ引き合いに出すのははばかられるが、この映画の「カッコよさ」「分からなさ」のバランスは「AKIRA」のそれに似ている。

もっとも僕はこの作品のアニメ史的な位置づけにほとんど興味がなかった。ほか、松本大洋におけるメッセージの素朴さとノスタルジーの問題、それに関連し、冒頭から頻発するひどく分かりやすい比喩の話、「ここではないどこかという楽園」とあらかじめ「住めない」ことを決定付けられた都市についての話、ラッセンと326の話、そしてそのメッセージの現実に対する有効性、90年代と「アニメを見る層」の話、オタクと「時かけ」の話、映画というエンタテインメントに求められているものについて、そしてシロとイタチについては最終的に説明が不足してしまうことなど、いろいろ考える糸口を発見したが、結局それらは松本大洋の作品に元来備わっているものだった。だから、この作品はひどく原作に忠実だと言えるのだ。

2006.11.19 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [映像

「三島由紀夫」とはなにものだったのか

ABC六本木店で買ったのは2冊の本だった。1冊を読むために袋から出す。ABCのチラシが入っていて、今度渋谷HMVの上に支店がオープンしたようだ。これは喜ばしいことと思う。そのほかには、「ほぼ日ブックスフェア」という、全く不要と思われるチラシのみ入っていた。

ABC六本木店には、なぜか三島由紀夫関連の文庫が什器ひと幅分のスペースで展開されていた。没後35年は去年であるから全く関係ないだろう。別に見るつもりはなかったが、中に橋本治「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」があるのが見え、運命的なものを感じて購入する。

僕が橋本治を読んでいたのは中学生のころだ。たぶん最初に読んだのは「革命的半ズボン主義宣言」だと思う。やがて僕は自分のことで忙しくなり読まなくなった。僕は彼の著作をよく理解したと感じていたので、我がことで忙しくなった自分が彼を読まなくなったことは彼の著作に照らし合わせても全く正しいことだったと後に思った。今でもそう思っている。そう思うこと自体が彼から影響を受けていると思う。

表紙が三島由紀夫の新潮文庫のあのデザインのパロディになっているこの本は、第一回小林秀雄賞を受賞した本だ。それは何となく知っていた。橋本治が小林秀雄賞を獲ったというのを聞いて、なんてうってつけの人がうってつけの賞を獲ったものだと思ったのを覚えている。この本はタイトル通り「戦後日本において三島由紀夫がなにものだったのか」についての本だが、同時に「私にとって三島由紀夫がなにものだったのか」という内容そのものである。この本には常に「三島由紀夫ってのはこういうことを考える奴で、でもそんなこと言われても私はこうだもんね」ということしか書いてない。橋本治の本はすべて「対象が自分にとってどうであるか」ということしか書かれていない。しかし、それを追求して、いささかも手を抜かない。自分一人のために全力で一冊の本を書けるから、「きみだけに贈るつもりの89」だって書けるのが彼である。

僕はどんなウェブサイトを作っても、どんな原稿を書いても、ますます「それが自分にとってどうであるか」ということばかりを書かねばならないと考えるようになった。僕は世界のすべてを知らないし、知るためにできることはあまりにも多いが、それをすなわちアカシックレコードを手に入れる作業だと考えてはいけない。「世界のすべて」とは僕にとって自分の見聞きしたものであり、それがすべてだと思ったからである。

「自分」がいて、その周りには、膨大な数の「自分ではない他人」がいる。「自分」がその「他人」の中で生きている以上、「自分」と「他人」の間には、相互に「影響力」が生まれる。世界は人同士の「影響力」に満ち満ちて、その中でいろいろなものが形成されて行く。それでいいではないかと、私は思うのである。仏教の唯識論が「阿頼耶識」なるものをどう言っているかは知らない。しかし三島由紀夫は、「末耶識なる」ものを≪これは自我、個人的自我の意識のすべてを含むと考へてよからう≫と規定している。だったら「阿頼耶識」を「他人への影響力と考へてよからう」と言ってもいいのである。三島由紀夫がなぜそう言わなかったのか、私には不思議である。
「阿頼耶識」は、「他人への影響力」と考えるべきである。そう考えなかったら、危険なことになる。世界はがらん洞で、自分は独りでいて、その周りに「阿頼耶識」という正体不明のものが充満していることになる。それを三島由紀夫風に言うと、≪世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。世界はどうあつても存在しなければならないからだ!≫になる。


アカシックレコードはすべての人にとって、到達できないことにその意味があるがしかし、世界の限界が僕なら、僕が日々見聞きしたすべてが自分にとってどうであるかを、できる限り言語化することが可能かもしれない。それを追求していささかも手を抜いてはいけないだろう。僕には知識も文章力も理論も全く足りないし、日々の中で書く時間すら足りない。だが書いたものがその時点での僕にとっての「それ」なので、僕としては自分にとって最善と思われるよう手を尽くしてそれを言語化するだけである。どこまで手を入れられるかは分からないが、最終的に成った形が僕にとっては「それ」であり、世界そのものとして残される。たくさんの時間がないとか文章が拙いという理由でうまく書けないとか、うまく書けないと思うと余計に書くことができないとかではなく、世界に関与するにはやるかやらないかがすべてなのだ。僕はそれを実践できなくてはならない。僕が新しくサイトを作るまでの間に書くものとしてこのブログを選んだのはそういうわけである。

彼が読者を信用する作家だったら、自分の書く作品が「読者にとっての阿頼耶識」となりうるなどということは、簡単に考えついただろう。そして、つまらない死に方などする必要はなかった。


そうそう、書くの忘れてた。上記のように言いつつさあ、そろそろ仕事が忙しくなってくるのでもうすぐしばらく休みにすると思う。

2006.11.18 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

Theピーズ「Theピーズ」

昨日の移動中はTheピーズ「とどめをハデにくれ」「Theピーズ」を聴いていた。どちらもピーズにおいて欠かすことのできない重要なアルバムだが、ではピーズにおいてさほど重要でないアルバムがあるのかと言われると、そんなものはない。なぜなら、どのアルバムも基本的には変わらぬ熱を持っているからである。だから、どのアルバムを携帯プレイヤーに入れておくかというのは非常に難しい問題なのだ。

「ピーズ、すなわち大木温之」は、歌詞の良さについて言及されることが多い。ミュージックマシーンのインタビューはそれをふまえて、あえて音楽性について語らせていたが、このタクヤさんの配慮はたしかに必要なものだと言える。なぜならピーズはやはりバンドとして存在することが前提としてあり、大木温之こそがすなわちバンドそのものではないからだ。したがって「ピーズ、すなわち大木温之」という考え方は間違っているのである。

ピーズをして大木温之の世界しかないと言い切ってしまうことはたやすいが、ピーズの実際とは全く異なる。大木温之は自分をバンドの中心的なメンバーとして認めながら、同時にバンドメンバーとしてしか扱っていない。ピーズに対する捉え方が「自分」ではなく「自分のバンド」なのだ。それは結局、歌詞においても顕著であって、大木温之はピーズとして、あるロックの熱量を伝えられれば歌詞なんて何でもいいと考えている。大木温之が歌の中で辛い生活や人との軋轢、自分の内面を描いても、それ自体はバンドとして伝えたいメッセージなどではない。「グライダー」という歌と「アンチグライダー」という歌が同時に成り立つのはそのためである。その二曲において、大木温之は心境の変化を伝えたいのではない。こういうこと言ってたらカッコいいし、でもそうじゃないことだってできるんだぜ! ということなのだ。ここにこの音が乗っていたらカッコいいねというのとさほど変わらない。ロックとしてのバンドのカッコよさが第一であり、歌詞自体が持つメッセージ性など二の次なのだ。当然、大木温之としての感情や心情はあるが、それはバンドの伝えることとは無関係だ。ピーズはロックがやりたいのだ。だからピーズのロックをジャマするようなどうにも感情的なものは、「めんどくさいのはイヤだ、捨て鉢でいい」という態度で、ひどくムリヤリにしか処理されない。彼からすれば、その態度こそをひどく感傷的にホメられても、まあうれしくはないだろう。

2006.11.17 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

ニッポンのマンガ―AERA COMIC

ABC六本木店で本を探しながら適当に立ち読みする。読みたかった「えの素トリビュート」があったので読む。各作家の描いているのが2ページ程度ずつということで、思ったより内容が薄いのではと最初は思ったが、よく考えればこれだけの内容にしてあるだけでも大変な労作だと思い直した。萩尾望都があの下品なえの素の登場人物を描き、しかもちゃんと内容がSFなのでニコニコした。メビウスが長い文章でわりと平凡なことを書いていたのも面白かった。ページ数的にはえの素本編の再録が大部分を占めるわけだが、それでも改めて面白いマンガだなと思った。僕は「ムーたち」があまり好きではないのだが、えの素をふまえてやろうとしていることがある程度伝わってくるだけに歯がゆい感じだ。

漫☆画太郎「まんカス」もちょっとだけ読む。すごい表紙とタイトルだ。しかも、オビをよく見ると「こ」の字が見えるのだ。すげえひどさだ。中身はクイックジャパンの連載をまとめたもの。僕は漫☆画太郎のマンガを、面白いなと思いながらあまり爆笑したりはしないが、この連載には僕が漫☆画太郎を読んで2番目にゲラゲラ笑ったマンガ(のシーン)が載っている。あと巻末に「つっぱり桃太郎」の最終話が収録されているので感激して読むが、案の定、物語的には読んでも読まなくてもいいような終わり方なので実に面白かった。

それから「ニッポンのマンガ―AERA COMIC」という本も読む。手塚治虫文化賞10周年企画ということで手塚治虫文化賞大賞の受賞作家を朝日新聞社が引っ張ってきてあれこれ語らせたりマンガをかかせるという、僕からすればタイトルも含めて失望感を味わう要素の大きそうな本だが、高野文子の新作とインタビューが載っているようなのでこれはと思って読む。インタビューには僕が見たことのなかった高野文子の写真も掲載されていた。

内容は存外ショッキングなものだった。受賞作前後から登場人物への感情移入によって船酔いのような状態になるなどフィクションを描くのがつらくなり、「黄色い本」は、マンガを描き始めた発端を描き、それをほとんど最後の作品にするようなつもりで描いたようだ。また、受賞後の読書傾向もフィクション以外のものに興味が湧き、今後のマンガでも世界の歴史とか、そういったものが描けたらいいみたいなことを言っていた。

今回の新作「おりがみでツルを折ろう」はハウツーものをやってみたかったということであるが、描いているうちに主人公(というか折り紙を折っている女の子)の意識がだんだん感じられたことに辟易したようだ。僕はもちろんその女の子の感情や意識を描く高野文子が好きなのだが、実際、読んでみると作者の意図とは裏腹に女の子のキャラクターが感じられてとてもよかった。高野文子は「読めばちゃんとツルが折れること」を意識したようだが、僕はあのマンガでツルを折ることはできない。だって、マンガとしての素晴らしさのせいで、手元で手順の通りそれを折ることなんてすぐに忘れてしまうはずだから。「火打ち箱」のように、高野文子が自分のマンガに可能性を感じている部分が僕と異なりつつも、それなりに僕を満足させてしまう。作者としてはそれは悲しいことなのだろうか?

2006.11.16 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ

ribbon「Delicious」

携帯の音楽プレイヤーを全曲再生することを覚えたので、今日はCoCoの次ということでribbonの「Delicious」(廃盤)が流れた。そんなに乙女塾が好きだったのか俺はと呆れた。それにしてもさすがにここまで来るとハッキリと歌が下手だ。それでもまだ維持できているというか、CoCoからribbon、そしてQlairと美しいグラデーションのように歌が下手になっていく。ただ、レコーディングというのはある程度どうとでもなるので、CoCoだって相当下手なのをエンジニアリングでなんとかしているような気もする。つまりお金がかかっているのではないか、ということだ。

さてそれでもribbonの「あのコによろしく」とかを聴くととてもいいなと思ってしまう。ひどく自我のはっきりした少女の歌を、無自覚ゆえに「歌わされている」感たっぷりに歌い、同時に、身体的には歌詞に歌われている年頃の只中にある、というこの虚構と現実が複雑な形でないまぜになった感覚は、まさに90年代のアイドルの持つアイドル性そのものだと思う。個人的に好きなのは「それらをすべてふまえた上ですべてを見透かしている(かもしれないと思わせる)」タイプの超人的アイドルなのだが、そうでなくても、この歌わされている感は何かを思わせずにいられない。

蛇足だが、「それらをすべてふまえた上ですべてを見透かしている(かもしれないと思わせる)」というのは、「かもしれない」ことこそが重要であって、アイドルというものが何か理解していますという主張がかいま見えるようなアイドルは全然好きではない。

自分の書いている文章は蛇足ばっかりだ、と今思った。

2006.11.16 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

風に吹かれて豆腐屋ジョニー 実録男前豆腐店ストーリー

先日混んでいて見られなかった試写会に、六本木へ行く。そしたら今日じゃなかった。何をやっているのだろうか。どうしようもないマヌケだ。受付の人が呆れていた。仕方がないのでラピロス内のあおい書店へ行く。たまたま置いてあった「風に吹かれて豆腐屋ジョニー 実録男前豆腐店ストーリー」を立ち読みする。流し読みでざっと読破したが意外にも面白い。豆腐の「キャラ立ち」について、具体的にいかなる試行錯誤が行われていたかが詳細に記されていてとても興味深かった。昨今のマンガ評論で見かけそうなテーマに近いものを感じながら読んだ。ここの豆腐は食べたことがあるが、読んだらちゃんと食べたくなったので、それだけでもいい本だと思う。社長である著者の文章は簡単に言えば現代的だが、生の言葉という感じで相応の読み応えはある。ブログかなにかをまとめた本なのかな?と思ったが、よく分からなかった。あと、文中に「豆腐がブログで話題になって」という話が何度も出てくるのが印象に残った。

その後、買いたい本を探したのだが、なぜか欲しいものだけが見つからない。それにしてもこの本屋はけっこうな規模なわけだが、なんだか本がすごく探しにくい。ジャンルの分け方も雑で、変に感じた。だんだん店のあちこちが気に入らなくなって、あちこち見て回る(嫌な客だ)。「きっこの日記」が「フリークス」という棚に並んでいるので吹き出しそうになった。それから宗教とか心理学とか、神秘主義の本がやたらと多いのだが、これはそれだけ需要があるってことなのだろうか?心理学なんてもちろん神秘主義だろと断じて深く追求しないが、それを除いたって宗教だのの本がやけに並んでいるのだ。フリークスの何倍も。また、「世田谷一家殺人事件」のパネルがあるのに、そこから既に本が移動されているとか、なんというか、やりっ放しが多いのである。コミックの棚も、変わった本が置いてあったりもするが、読みたいものは見つからない。うんざりしているうちに、なぜ自分はこんなところでしつこく本を探しているのだろうか、すぐそこに青山ブックセンターがあるのに、と気づいて、雨の中を歩いて100メートルほど先のABC六本木店にサッサと移動したのだった。歩きながら、そもそもフリークスなどというジャンル分類をすること自体が挑戦的すぎるなと思った。

2006.11.16 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

大人の常識力トレーニングDS

ちょっとだけ「怒首領蜂」をプレイする。アーケード版なのでエミュレータだ。元来あまりにお粗末な腕前なので、最終面で大佐に「帰ってよし」的なことを言われて終了してしまう。情けないことこの上ない。今のゲームって、この頃に比べれば僕のようなダメなプレイヤーにも優しいよな、とか思ってしまう。

大人の常識力トレーニングDS」も3日くらいやった。法律のこととかを聞かれると「興味ねえなあ」とかイライラしてしまう。しかし、これはそういう態度でやるべきゲームではないのだ。僕のようなワガママかつ尊大で「常識とかどうでもいいです」と思っている人間には向いてないわけである。

でもね、気づいたんだけど他人と競ったり、結果について話したりするとすごく楽しいんだ。それに気づいてみると、このゲームには他人と比較するための仕掛けがさりげない形でいっぱいあった。つまりコミュニケーションの契機としての占いみたいなものだと思う。任天堂は携帯電話の位置にゲーム機を置くことを真剣に考え、とりあえずは十分なレベルでそれに成功しているということだ。なるほど振り返ってみれば、「常識」という題材自体が、あたかも実体として存在しているかのように思われていて、でもそれぞれに異なっているものの権化みたいなものだ。意地の悪い僕は、そこで思わず嫌な笑い方をしてしまった。全く、まさに、占いみたいなものなのだ。だけれど、だからこそこのゲームを楽しめたことは、とても幸福なことなのだ。

2006.11.16 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム

恐山のストゥージス狂

ほかに移動中で聴く音楽を探していたはずだが、いつの間にかBOREDOMS「恐山のストゥージス狂」を聴いていた。なぜだ。頭がおかしい。

今、リンクしようと思ってAmazonのページを見たら、こんなレビューが書いてあった。

マニア向け?, 2004/11/5
レビュアー: カスタマー
えんえんとゲップが続く曲があったりして、気持ち悪かったです。
星一つにしようかと思ったのですが、珍しさという意味で、一つ増やして、星二つ。


「9 人中、0人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。」とのことである。「このレビューは参考になりましたか?」と書いてあったので、とりあえず僕もパンキッシュな感性に導かれるままに「いいえ」を押しておいた。その上にあったこの人のレビューを全部見たら、たいへん面白かった。

2006.11.15 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

CoCo単曲全集

今日出かけるときにはじめてPerfumeでないものを聴いた。「CoCo単曲全集」。単曲全集ってのは要はシングルコレクションで、アジアで勝手に売られている海賊版である。と以前聞いた。

それはどうでもいいのだが、CoCoを聴きながら思ったのは「CoCoは聴けるが、Qlairは聞くに堪えないなあ」ということだった。しかし子供の頃に、テレビで歌う松田聖子を見て、僕は「歌が下手だなあ」と思ったのを何となく覚えている。しかし今、松田聖子の曲を聴くと、むしろ上手いなあと思ってしまう。これは僕の耳が劣化したのか、むしろ肥えたのか。分からない。「昔のアイドルは歌が上手かった。今は総じて下手なのである」とは一概には言えない。だって郷ひろみなんてどう考えても下手だったじゃないか。その後彼は努力を重ねて上手になったのだが。

しかしCoCoの中でも、これはきついなあという曲がないわけではない。しかしそこには、90年代の半ばまでは通用した、上手い下手を超越したアイドルのアイドル性がある。90年代半ばまでは、アイドルは一生懸命、下手な歌を下手に歌っているのがかわいい、という評価しかほぼなかった。つまりQlairにはそれしかないわけではあるが。下手でもよかったというよりは、アイドルなんだから歌なんて下手で当然だった。

90年代後半になると、アイドルには「歌手以上に歌って踊れる本格派」であることが求められ、アーティスト性が前面に出されて売り出されるようになった。「一生懸命」までは一緒だが、それによって「結果を出すことがキャラクター性の一部になる」という、これまでとは違うアイドル性が作られた。90年代後半というのは、もちろんハロプロ以降のことである。だからハロプロ的なアイドルのファンには、売り上げについての一喜一憂が常に存在する。インディーズ系アイドルのファンは、昔と変わらず下手な歌を一生懸命歌う姿を応援する者も多いが、しかし昔と違うのは、ハロプロのおかげで「アイドルだって歌が下手とは限らない」ということになったので、下手な人は単に「下手だ」と言われてしまうことの多い状況になっているということじゃないかなあ。

2006.11.14 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [音楽

蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1

蓮實重彦って僕は好きなんだ。この鼻につく言い方といったらなんだ。この人はいつも真顔で意地悪なことを考えて、どうすればなるべく相手が二の句を継げなくなるだろうかと考えながら喋っているのではなかろうか。実にスガスガしい。

これって映画の話なんだけど、映画に限らず「作品について語る」ことをめぐる現在の問題をそのまま語っているのがよい。つまり、こういう文章を、「蓮實重彦なので映画の話をしていますね」といういう読み方をしてしまうのが、まさに文中で語られている以下のような人なのだと僕は思う。

蓮實:そうでしょうね。映画批評家とそうでないひとの違いは何かというと、そうでないひとたちはそういうことばっかり憶えていて、クイズでもやったら彼らのほうが絶対に強い。フランスにもどこにでもいますよ、あの場面で誰がどうしたっていうのを全部憶えているひとたちが。でも、彼らはその存在を映画に快く保護されているいわば好事家ですね。骨董品のあそこが欠けているのがいいというのとほとんど同じことです。でも、骨董品ではなくてそれは茶碗なんだから、それで茶を飲めば美味いじゃないかというふうにはなかなかいかない。つまり、好事家には映画を存在させようという意志が皆無です。映画の存在は、彼らにとって自明のことなのです。批評家たちは、何歳になっても映画はそのつど驚きの対象であり、決して自明の事態ではありません。

──フィルム・スタディーズの領域でも似たようなことがいえるのではないでしょうか。重箱の隅からなにから、満遍なくあらゆるものを見たとはいうけれども、ただ映画の現在とは決定的に切り離されてしまっている場合が多いと思います。

蓮實:フィルム・スタディーズにはふたつあるような気がする。アメリカのフィルム・スタディーズは、研究者たちがお互いに評価されればそれでいい。それが社会に踏み出して映画を擁護しようなどと金輪際考えていないひとたちが書いている。

──引用された回数や、図書館に購入されることにこだわるようなレベルに留まってということですね。


これは映画の話なんだけど、断じて映画に限った話なんかじゃない。冒頭から語られている「DVDで何でも見られる時代」についても、僕はGoogleとInternet Archive、そしてPingサーバさえあればこの世界の全てを読むことができるという幻想について考えていた。蓮實重彦はこの時代状況を、「結局、現在は、自分がまだ何を知らないかということを知らないまま生きてしまうことが可能な時代」であり、「いま起こりつつあることへの視点が希薄になる」としている。その上で、作品に対する語り手達に以下のように求めている。

たとえばの話ですけれど、「ガス・ヴァン・サントとマイケル・マンと、どっちがいいのか」という問いを立てたとします。両方いいといったんじゃ批評にならないし、無理に選択することの批評性というものがあるのです。


ここは映画作家の話が具体的に出てくるため、映画に興味のない人が読み落としてしまいそうで実に心配だ。ここがもっとも大切なところなのだ。だがしかし、その下の方に、ここに引用するのにぴったりの文句があったので引用しておこう。

あなたがたのサイトに期待したいのはそういうことなんです。「僕はこれを断固支持する、支持するからには最後までそれに付き合う」、そして「それは他の監督をほめるより重要なことだ」という、依怙贔屓でもいいから、その付き合いをなんとか言葉にする。


蓮實重彦はこんなに身近で深刻な問題について語っているのだ。これを見逃して、インタビュー内の個々の映画についてのみや、さらにはたった一言だけ彼が「アニメ」だの「コンテンツ産業」だのと口にしているのを指摘するのが、「クイズでもやったら強い」ような彼らなのだろうと思う。連中がタレ流している音楽なんて、僕の人生に何の関係もない。

2006.11.14 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章

PS版の「街」をやっていた。先月からちょっとずつプレイしているので全然進まず、まだ全員1日目。急ぐつもりがないので思い出したときに少しずつプレイしようと思う。本棚から久々に取り出した小説をパラパラめくるような感じだな。

このゲームのシナリオは本当に素晴らしい。大変よく練られ、推敲されて、豊かな文章表現力で書かれたものだ。小説としていいのかというとよくわからないが(なぜならこれは小説じゃなくてゲームだからだ)、少なくともゲーム上に表示される文章としては文句なく最高峰のものだ。僕は文章にこだわったゲームをやるのがそれなりに好きだが、これ以上に文章完成度の高いゲームは、まず見たことがない。

ほかに、ノベルタイプのゲームで、これは文章がしっかりしているなと思ったことがあるのは「CLANNAD」かな。でもこれも含めて、ギャルゲーとかエロゲーってどうしてひどい誤字脱字が目に付くんだろう。そういうのが目に入るということは、目に付かないレベルではもっとたくさんのミスがあるんだと思うし。僕はわりとシナリオで評価されるようなギャルゲーの校正ミスに厳しく、なぜならシナリオをウリにしてみせるくらいなら当然その程度のミスがあってはならないと考えるからだ。のちのちのバージョンで直せばいいとかいう問題ではなく、カッコ悪いじゃないか。「しょせんその程度」みたいに思われたら。そして作っている者も、そう考えながら作っていると思われたら。「街」にも誤字脱字や文法的におかしなところはあるが、まったく見逃していいほどに目立たない。この素晴らしいシナリオは、ちゃんとそういうところも当たり前のこととしてできているのである。

間違ってはいけないのは、校正作業ですべての間違いを消すことはできないし、突き詰めると正しい表現というものはどこにもないということだ。しかし誰もが突っかからずに読める、シンタックス・エラーを指摘されない状態にすることはできる。そして、それがシナリオにこだわったエンタテインメント作品なのだとしたらそんなの大前提だと思う。僕は、それがロリペド陵辱ゲームだろうとウンコの大冒険であろうと、そうあるべきだと思う。文章に対して自負するのだとしたら当然じゃないか。Keyはそれを理解しているから、ギャルゲーのシナリオにしては相当洗練された文章にはなっているが、個人的にはあともう少しだけ研ぎ澄ませてくれたら気持ちいいんだけどなあと思う。

街の面白さについて書こうと思ったんだけど、なんか違う話になった。

2006.11.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

ビッグ・コミック・スピリッツ50号

スピリッツを読んだついでに、僕はやっぱり「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のことをどこかに書いておかなきゃいけないような気がする。新展開が始まってまだ10週にもみたないはずなので、時間が過ぎてしまう前に、このマンガの第一の山場であった、あの「現実」についてやっぱり僕は思ったことを書いておくべきなのだ!

「笑って別れようと思った女がやっぱり恋敵のことを忘れず考えていた」というあの展開を読んだ瞬間、僕は「ああ、これで彼の現実は終わってしまった。だからここからは非現実が始まるのだろう」と思った。間違いなくあそこまでで作品は「第一部・完」であり、物語世界は大きくその質を変えていくだろう。

第一部における現実、すなわち、好きな女子社員に告白できず、誤解に基づいて破局し、寝取られ、避妊手術に立ち会い、恋敵とケンカして負けるという展開が一体何であったかというと、あれこそは「現実」を描いたものだった。田西が見舞われていく不幸の1つ1つはすべて「現実的な」もので、しかしそれぞれの瞬間において絶え間なく、「愛だけを信じていればいつか必ず奇跡の逆転勝利が訪れる」のような非現実的な希望がマンガ的に期待され続ける。第一部はずっと、最初からその終わりにいたるまで、その非現実が最後に用意されていることだけを期待し、それにハッパをかけられながら展開し、そしてついにそれが満たされないまま現実が破綻するという物語なのである。この作品にとってのリアリズムとは、ついにそれであった。

現実は厳しい。主人公はスーパーマンなどではないのである。一週間訓練したって、格闘技の達人には勝てない。「タクシードライバー」やブルース・リーなどの非現実は、どんなに恋いこがれても現実を変えてはくれない。ケンカに赴くときにモヒカン刈りにするというというのは「髪型を変えれば何かが変わる」という、まさに非現実的な発想によって現実社会から限りなく逸脱してしまったことを意味している。青山の「うすっぺらなんだよ、あんた」というセリフは、田西が非現実をよりどころにして自分の勝利を信じているという意味なのだ。「自分のためにケンカをした」という美しいセリフすら嘘で、ケンカに勝てば彼女の心が手に入るとか、彼女が自分を本当は応援しているのではないかという考えが砕かれたからこそ、田西は彼女が泣くような口汚いセリフを吐くに至ったのだ。第一部の最後のセリフ「くそったれ」とは、ふがいない自分にではなく、もちろん自分に救いをもたらさなかった彼女にでもなく、非現実がついに訪れないことが暴露され、すべてが淡々と終わってしまう「現実」そのものに対して向けられている。カプセルトイ会社の社員たる主人公が、商品である「非現実」たちのまさに非現実的な成功とは、かけ離れそして断絶された場所にいることを示すことで、作者は主人公のいる空間がリアルであると主張しているのである。

僕は第一部を読み終えて、ここまではそういう物語であったのだなと感じた。そして、何となく直感的に「だから来週からは、おそらく180度物事は変わり、非現実が始まるのだろう」と思った。ここからは、おそらくマンガが始まるのだ。始まらざるを得ない。このマンガにおいては、まだ「マンガは」始まっていないということなのだから。180度すべてが変化しないのであれば、伏線として何度もボクシングや金髪少女が出てくる必要自体ないのである。実際、第二部からは韓国で偶然に、かつて一度試合を見たボクサーに出会い、何となく彼のジムを訪れ、突然現れたおっさんに「ボクシングしたいのか」などと尋ねられる、というのが今回までだ。僕は毎週「ほら見ろ」と思っているのだ。非現実的である。まるでマンガなのだ。第一部の、あの毎回はりつめたような空気はもうない。作者がどのような形で田西にボクシングをやらせるのか知らないが、これは現実が終わった後に訪れた、夢の物語なのである。ここから始まる非現実が、田西の現実を回復させるものであるならこの物語はとても美しいと思うが、それは本来第一部において作者が否定したリアリティなのだ。だから、それはやらずに「現実的な非現実」としての「普通のマンガ世界」に主人公を住まわせるのではないか、と想像しているのだけれど、どうなるかしら。「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は、最初「ルサンチマン」と全く違った物語を描くのだと僕は思ったが、なんとなくそうではないのかもなあと思い始めている。

なお、蛇足だがちはるの気持ちを常に田西とは全く別に存在させ、その振る舞いも含めてひどく「現実的」に描写しつつ、主人公の「現実」とは全く無関係なので、最後まで深くは触れないままに退場させたのがこの作者の巧みなところである。

2006.11.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

Perfume~Complete Best~

なんか一個前の記事が二重投稿になってたので直した。

会社に来てみたんだけど自宅のサーバが落ちてる?ぽい。外から使えるようにしているサービスが軒並み使えない。先日ルータのパケットフィルタリングをいじったのでその影響なのか、単に機械のトラブルなのか判別できない。帰って調べよう。

移動中はなんだかPerfumeのアルバムばっかり聴いている。ほかに聴くものがないなあ。一応ピーズとかいっぱい携帯に入れてみてるんだけど、どのアルバムを聴くか迷うので聴けない。ランダム再生というのがきらいな人間なので困る。iPodのシャッフル再生とかみんな喜んで使っているけど、何でなんだろうな。

早めに切り上げて映画の試写会に行こうと思ったのだが打ち合わせが長引いて行けず。仕事自体はある程度まとまったと思うので水曜日に行くことにする。なんか早めに行かないと座れないみたいなのが困りもの。

2006.11.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

MAN HERE PLAYS MEAN PIANO

SUEMITSU & THE SUEMITHを聴いていた。アルバムに入ってないけど「Astaire」はなんだかマッシュアップの元ネタにされそうな曲だ。それはそうとピアノが完成された楽器だというのはよく言われることで、たまにピアノがフィーチャーされたバンドの楽曲を聴くと流れるような旋律の美しさに感動するんだけど、その期間はかなり短期に終わり、すぐに鍵盤をメインに据えているバンドはどれも同じに聞こえだして、またかなり長期にわたって聴くのをやめてしまう。なぜだろう。完成された楽器故に新しい個性的なアレンジが成り立ちにくいからなのだろうか?わからない。あーでもタッカーは別だよ!だってあれはエレクトーンじゃないか。だからいいんだ。ピアノは燃やすと怒られそうだし(知らないけど)。

2006.11.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

鉄コン筋クリート

鉄コン筋クリート」を三冊急いで読んで疲れた。

個々のキャラクターはもちろんその関係からストーリー全体に至るまで、基本線は極端に単純化して作ってありながら、時折ひどく複雑な部分を、たぶんわざと挿入しているのが妙。

特に絵に関しては、各コマに描かれる対象や構図が綿密な計算に基づいて決められている。これは絵が上手いとかそういう話とは別の問題で、注意してみると不自然に感じるほど比喩的な表現ばかりが使われているということである。絵がそうなのであるから、ストーリーやセリフが複雑に見える部分も、複雑なんじゃなくて謎めかせているとかフィーリング的に表現しているだけなのかもしれない。少なくとも絵に関しては、すべて何らかの説明が付くように描きつつ、セリフやストーリー展開がそれを裏切っていくというような印象。

これをさらに発展させて分かりやすくしたのが「ピンポン」なんだと勝手に理解しているが、ピンポンはもうちょっと後で読む予定なのでその予想が正しいかどうかはよく分かんない。

2006.11.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

ミッションちゃんの大冒険

たまたまりみくすで「ねぎ姉さん」のトピックを見たら「ミッションちゃん」のことが書いてあって思い出した。とても好きなマンガだが、自分はこういう強い表現に対する評価がとても苦手だと思う。作品に死のイメージがあるから、穏やかならざる題材について描かれているから、それだけを自分は面白いと感じているならそれはなんだかつまらない。つまらないというか、本意じゃない。この作品にはきっとそれ以上のものがあるはずだと信じたい。というところから作品に対する評価がスタートしてしまうので、要は後ろめたいのか。エロゲーやエロビデオの中に面白いものを見つけて、「『エロだけど』面白いんです!!」みたいなことをあえて言ってしまう奴は間違っていると信じているので、自分がそのような恥ずかしい立場から作品を評価してはいまいかと不安なのだ。んなことをあれこれ考えずに「エロいから面白い」とか「死体が出てくるから好きです」とか言えるのが一番立派な態度だとは思うのだが。

で、ミッションちゃんだがぴろぴと氏の一連の「かわいい」作品において「かわいさ」は作品を見た人にある種の感情を喚起させるために選ばれた手段であったが、ミッションちゃんに至ってはそういったことは全くないのが面白いなあと思った。

それとはまったく関係ないが形式としてこういう作品を読める場所というのはインターネット以前には全くなかったなあと思った。

2006.11.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

DISCO SYSTEM

ニューアルバムがそろそろ出るという時期になってスチャダラパー「DISCO SYSTEM」をようやく聴いた。

近作におけるスチャダラパーのエレクトロ的な音作りは流行りモノとしてのそれという流れには全く乗っておらず、むしろオールドスクール礼賛という意味合いが強いと思う。本人達もそれを意図的に強調した音作りをすることで「流行りモノ」との差別化を図っているきらいがあったのではなかろうか。このタイトル曲にもやはりそういう印象を持った。

スチャダラパーはその長いキャリアにおいて「ハードコア」とか「日本語ラップ」など日本のヒップホップを取り巻くイデオロギー論争に積極的に与したことはほぼない。しかし彼らが自分たちをもって「ヒップホップではない」などと考えていないのはあきらかで、むしろというか当然というか、ヒップホップを作る人間なら誰しもが思うように、自分たちこそがヒップホップであると信じているだろう。「DISCO SYSTEM」は現在日本のヒットチャートでも普通に見かけるようになった「ラップ」の曲ではないが、ヒップホップが起源的にエレクトロファンクでもあったことに考えが至らなくとも、この曲を聴いたときに受けるダークなファンクネスはまさにヒップホップそのものである。

スチャダラパーが昨今に見かけるような「ラップ」音楽からかけ離れた作品を作っているのは、「最もホンモノっぽい奴がエライ」「最も自分らしい奴がエライ」という一見すると相反するように見える2つの考え方をカッコ良さの基準として同時に、しかも本来的に持つヒップホップという世界において、自分たちこそがまさにもっとも優れているとする彼らの自負故であるのは言うまでもない。この姿勢は今に始まったわけではなく、むしろ彼らは市井のヒップホップシーンや論争に対して常に作品を通してほとんど過激とも言うべきアプローチを行っている。ただ、近作においてはそれがますます判じ絵のような形でしか示されないようになってきているのが個人的には残念である。残念であるがしかし、彼らはそれによってますます自分たちのヒップホップに対する考え方を押し進め、当然と言うべきであるがそれに比例してライブパフォーマンスは素晴らしくなったと思う。というわけで今では僕にとってスチャダラパーは常にライブを見たいと思うグループで、ミュージシャンとしての、ヒップホッパーとしての彼らはとても正しい成果を収めていると思う。でもCDを聴くとライブ見たさで何とも言えない不満が募るんだよなあ。それは、いかにもフロア向けなテクノを聴く時以上だ。

2006.11.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

BSマンガ夜話

BSマンガ夜話「花男」の回を見直す。ついでに「バタアシ金魚」の回もパラパラと飛ばしながら見る。暴力でぶこと大月隆寛が松本大洋における民俗学的なテーマの存在を指摘していたが、ちょうど先日「鉄コン筋クリート」について同じことを言ったばかりだったので全く正しいなあ(俺が)と思った。夏目房之介は「そうかなあ?」という反応だったが、彼が指摘していた作品内のユートピア/ディストピアまたはドラッグによるトリップ感のような風景描写というのも結局は同じことを指摘しているように感じた。バタアシ金魚については今考えたいテーマでもなかったので特に感じず。その後民俗学について考えようかと思うが、全く知識がないため民話や神話の機能という基本的なところから考え始めねばならず大変面倒になり、やめた。

それにしてもこの番組で大月隆寛を見るたびに「暴力でぶだ、ICレコーダーにフォークの人だ」とムリヤリ感じようとしてしまうな。

その後Berryz工房「ピリリと行こう」(シングルV)など見る。

2006.11.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ] [映像] [音楽

パラパラMAX

先月は仕事しながらなぜか「パラパラMAX」の2~4を聴いていた。もちろんパラパラは好きではなく、こういったオタクの人がクスッとおもしろがりそうだけどハタから見りゃ面白くも何ともないアニメタル的商品も好きではないのだが、このシリーズは選曲とアレンジがなんだか妙に凝っていて面白い。歌っているのが石田燿子というのも嫌いじゃない。で、おお、と思って原曲を聴いてみても別にそんなに良く感じなかったりするのもかえってイイと思う。でも5はいかにもこういうのって玄人好みでしょという狙いすぎな選曲がイヤ(ようするにコウガマンとか入れるのがイヤ)で聴いてないし、1はアニメの人って何でこういうの名曲とか言って聴いてんの?という曲ばっかりなので聴いてない。どっちも別に聴く必要もないかなあと思う。

しかし、先月以来さっぱり聴いてないな。その後はGSとか聴いてた。テンプターズとかスパイダースとか。ほんとは「なればいい」が聴きたいんだけど持ってない。これに入ってるんだけど。

2006.11.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [マンガ] [アニメ

北斗の拳

先月までは80年代のマンガについて考えていたのだが、いろんな事情が重なって90年代、とくに90年代前半のマンガ全体について考える必要を感じたので、80年代はいったん放り出して90年代のマンガについてちょいと頭を巡らせたが、それを自分で考え出すとすごく面倒な作業になるなとすぐに気づいたので今はそういうアプローチでモノを考えるのは止めにした。しかし、タイミング的にはベストのだと思うのでいつかゆっくり考えてみたいな。80年代について考えるのが終わるころには。

で、話は前後するが80年代についてはずいぶん長きにわたって考えていたのだが、さしあたって先月から今月にかけて読んでいたのは北斗の拳だった。僕が80年代の、特にジャンプのマンガについて読む際にはもっぱら「戦う理由」ばかりを注視している。今さら言うまでもないが、それは90年代にまでずっと連なり、ついには9.11以降などと呼ばれる現在において「物語」が直面してしまった大きなテーマだと考えている。そんな理由で80年代のマンガを読む意味があるのかどうかはよく分からないが、気になるので読んでいる。

北斗の拳は原作付きだからかどうか知らないが、話の構成がきわめてしっかりしている。最もしっかりとしているのはシンが死ぬまでの1~10話で、「核戦争後の地球において、今日を生きる」とかケンシロウのユリア探しとかいかにも作品として読ませたいテーマが登場する。おそらくここまでのプロットは連載前から存在し、ここで大団円としても原作者としてはよかったのではないか。もちろん連載は続行され、ケンシロウは戦い続ける。

だからシンが死んだ後のケンシロウは、いきなり戦う理由を喪失している。新展開は「砂漠の中に突然出現した町………この町はケンにとって安住の地となりうるか……」というナレーションと共に開始するが、あまりにとってつけたようである上に前回との関連のなさが余計に際だっている。取りあえずケンシロウは、ならず者をばったばったと殺していくわけだが、そこには「ユリアを探しながら旅を続け、今日を生きる人々を支援する」みたいなわかりやすい行動の原動力は感じられない。おかげでケンシロウは余計に殺人マシーンとして無口で感情のないキャラクターに変貌していく。この状態はレイやマミヤが登場しても変わらない。マミヤはユリアに似た女性として謎めいた描かれ方をするが、ホントにただ似てるだけなので全然盛り上がらない。なんとなく利用価値がありそうな人物なので死兆星を見てすらも生き残った彼女だが、結局この物語においてさしたる重要性を与えられずに消えていく。

ケンシロウが新たに戦う目的を見いだすのはもちろん北斗の4兄弟、そして拳王ことラオウの話においてであるが、ケンシロウもこの物語自体も全く不幸としか言いようがないのは、ラオウの死後もなおやっぱりダラダラとケンシロウは戦い続けなければならなかった点である。新展開を迎えるたびに物語はとりとめなくなり、各展開がバラバラに寸断されたブロックとしてしか存在せず、すなわち大筋を失って、ついには尻切れトンボに終わってしまう。

全体として北斗の拳は「キン肉マン」を読んだときに感じた「特に理由もなく戦い続ける」物語の1つなのだが、その中でも最もよくプロットが練られ、成熟したものだと思う。結局ケンシロウには最初から戦う理由などなく、その理由の提示ばかりによって物語は維持され、そしてその理由自体が物語そのものにすり替わってしまう。言うまでもないことだがこのとき虚構においての問題として生まれた「物語の不在性」は、90年代に現実社会において顕在化し、さらに2000年以降には虚構と現実、そしてリアリズムの関係の崩壊に人々がひどく惑ってしまったため、今では奇形としての物語が溢れんばかりに吐き出され続けている。この流れはもう少し続くのかもしれないが、僕は物語の回復の兆しを信じているので北斗の拳を読んであれこれ考えているのだ。

余談であるが、第一話のケンシロウのみ若干それ以後と性格が異なるのも面白い。けっこうアホ面を下げたりニコニコ笑ったりしている。それから初期のリンは非常にロリロリしている。原哲夫というのは野郎の世界ばっかり描いているような気がしがちだが、どちらかというと彼にはいろんな素質があった中で、北斗の拳の特に後半において確立されてしまった「漢」なフレイヴァに自分がすっかり染まってしまい、作家性になってしまったというのが正しいような気がする。

2006.11.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

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