未来の想い出

「SF全短編」を読んだついでに藤子・F・不二雄「未来の思い出」を読むが、これは読んだことがあった。途中まで読んでやめていたような気がしていたのでやや積極的に「読まねば」と思って読んだわけだが、読み進めるうちにああこれは最後まで読んだことがあるなと気づいた。まあ、これも何かの縁なので読む。

冒頭には、奇しくもSF全短編で読んだ「SFというジャンルのアイディアは昨今ほとんど出尽した」と同じ話が書かれている。

そうだ!それを描いてみたら?若返って人生のやり直し……

若返りね。古いね。ファウスト以来、手あかのついた題材じゃないか。

題材なんて光の当てようで新しく装えるさ。それよりそんな夢みたいことを願うきみの切実な気持ち、その切実さをテーマにすれば……きっと読者にも通じると思うがね。


「題材なんて光の当てようで新しく装える」ということで、やっぱりSF的なモチーフを基に、「新しく装った題材」が描かれるということがここでは説明されている。では一体、「未来の想い出」は何を描いたのか。果たして「若返りを願う切実な気持ち」を描いた物語なのだろうか。

老いた漫画家である納戸理夫は、自分の人生が駆け出しの漫画家になったばかりの頃からゴルフコンペでホールインワンを出してショック死するまでの間でループしていることに気づき、ループからの脱出を試みる。しかし決められた流れを変えようとすると「警告」として「すっごい痛み」が訪れる。

「運命」という奴は、シナリオの書き替えをきらうらしい。ストーリーの流れが大きく外れそうになると、なんとかつじつまを合わせようとする。


「シナリオ」を作成した超越的な存在はこの作品には登場しないが、納戸が「奴」と呼んでいるもの、すなわち「運命(の神)」なのだろう。

さてこの運命のループは、「運命」が「つじつまを合わせようと」して、納戸の惚れた女性のマンションを火事にしたところで、次のセリフによって打ち破られる。

もうたくさんだ!!
焔の中で晶子と一緒に死んでやる!!
「納戸半世紀」のシナリオを大幅に改稿させてやるぞ!!
ざまあ見ろアハッハッハ
アハハハ……
晶子ーっ!!
結婚してくれえ!!


これはつまり自殺である。この自殺によって、納戸は再び駆け出しの漫画家に戻るかと思いきや、ゴルフコンペでホールインワンを出した直後の世界に飛ばされる。しかも、劇画ブームに流されることなく子供向け漫画を書き続けた、地位ある漫画家としての人生にカムバックする。また本来なら結ばれることのなかった晶子と自分は結婚しており、火事場に飛び込んで晶子を助けたことになっている。

しかしこれは「運命」による「つじつま合わせ」の一環だろう。おそらく火事の中で納戸は本当に死んだのではないかと思われる。なぜなら、仮にここで晶子を無事に救い出しても「ホールインワンによるショック死」まで反故にされる理由はないのである。当初、ループの流れを逸らしてうまく逃れ出ることを目論見ながら、最終的に納戸が選んだのはループ全体を破壊することだった。その最大の手段が自殺である。ループは破壊された時点で戻りようがなくなり、存在しなかったものになる。だから火に飛び込んだ時点ですべての人生が覆され、本来死ぬべきだったホールインワンの直後、すなわちループのある流れとは全くパラレルな位置にある人生へジャンプしたのだろう。いきなりジャンプしたせいで記憶喪失ぎみになったり、「記憶がドッとあふれて空白を満たした」という形で後から記憶が補填されるのも、この幸福な現実が「つじつま合わせ」によって作られたものに他ならないからだろう。

つまりこの漫画は、ループ内にいる納戸にとってはとても辛い、最終的に自殺を選ぶような現実なのだ。しかし納戸のモデルはもちろん藤本弘であり、彼の婦人が「正子」という名前であることからもわかるが、この作品はむしろ、現状に対する作者の途方もない幸福感を逆説的に描いていると言うべきである。この物語は自伝的に半生を語るものではなく、幸福な現在から「存在しなかった現実」を描写している。だからこの作品は明るい。

2006.12.30 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

Modjo「Modjo」

ゲームがやりたいんだけど、なんか落ち着いて座る感じじゃないのでやってない。昨日は昼過ぎに起きて、年末ということでスーパーに買い物に行った。帰宅後ビールを飲みながら白身魚フライにモルトビネガーをだばだばかけて食べる。うまい。そのあと夜まで寝て、年末の仕事で汚した部屋を片付ける。思ったより大変だった。一通り終わったので白身魚の続きを食べる。うまい。

ポピュラーな英国料理としてフィッシュ&チップスという最低な食べ物があることは有名だ。イギリスにくそまずい食べ物しかないということはかなり前にベストセラーとなった林望のエッセー集などでも紹介されていたと思うが、僕はこれが好きなのだ。日本だとあの天ぷらだかフライだか分からない妙なフライは味わえないが、細かい味はどうでもいい。どうせモルトビネガーと塩をかけて、あの、無骨なと言えば聞こえはいいが、要するに最悪な味にしてしまうのである。

さて携帯に入れる曲を変えたときにModjoのアルバムを入れたのだが、これがすごくかっこ悪い。一体何だろうコレ?と思いながら聞き続ける。ある意味日本的である。Kinki Kidsとかみたいだと思った曲があって気づいたのだが、そういえばどの曲もジャニーズ的であるような気がした。アメリカの音楽シーンに対する間違った理解が産んだかっこ悪さである。いや、間違いであるとは言えない。ローカライズした、と呼んでいいと思う。ヨーロッパの音楽について僕が好きなところは、アメリカの音楽にないどん臭さがあるからだ。田舎者っぽさがあればあるほど好きだ。アメリカにも田舎者はいるのだが、ヨーロッパの田舎者と何が違うか考えてみると、たぶんアメリカ人の方が楽天的なバカさがあって、それが音楽のライトさになって現れているんじゃないかなあ。ヨーロッパの田舎者はどん臭いバカで、だからかっこ悪いんじゃないだろうか。

頭の中で、そんなふうに簡単にまとめてしまいながら、バイクに乗っていた。ともかく僕はヨーロッパの音楽はそういうところばかりが好きなような気がする。フィッシュ&チップスもそうだが、僕はヨーロッパについては現代的な洗練のなさに魅力を感じるのだろう。それなら伝統的な洗練が存在することに魅力を感じているのかと言われると、不思議とそっちはどうでもいい。ひたすら現代的な洗練のなさだけに興味を覚える。でもこれ、ほんとかっこ悪いなあ。これを「わかってやってるはず」と言ってしまうと、逆にほんとにかっこ悪くなってしまうんで、これはかっこ悪いものとして最大限に評価するのがいいと思う。

2006.12.29 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [音楽

藤子不二雄SF全短篇

仕事が片付いたので「藤子不二雄SF全短篇」全3巻を読む。藤子でSFであるからもちろんFであるが、僕の読んだのは古い版なのでFとは書いていなかった。各巻1000ページ近い大変なボリュームなので思った以上に読むのに時間がかかった。

もちろん収められている短編の量も多く、それだけにアイデアの重複する作品がいくつかあるのが意外と言えば意外だった。神になるとか、超人的な肉体・精神力のような「万能の力を手に入れる話」など。しかしこれは筒井康隆が解説で語っている、以下のようなことに関連しているのだろう。

SFというジャンルのアイディアは昨今ほとんど出尽した観がある。誰が書いたSF作品を読んでも、過去にそれと類似のアイディアがなかったためしはない。したがって最近では、といっても二十数年前からであるが、おれが一SFファンであったあの過熱気味の揺籃期みたいに「これはあの作品の二番煎じだ」「これはだれそれがすでに書いている」といって論争するようなことはまったくなくなってしまった。そうしたアイディアはすべてSFにとって日常のものとなり、そのアイディアによっていかに現代を照射するか、いかに問題を際立たせるかが現代SFの課題となっている。


以上のことは、SFだけでなく僕の周囲では目下のところまったく無意味な倦怠を迎えているように思われる「作品について語ること」全体について言えることであるのは間違いない。20年も昔にこんなことが言われているのに、うかうかしているヒマなどあるだろうか。

それはともかく、なんだか解説のことばかりになってしまうが、この解説の結びには以下のように書かれている。

公害、老人、土地、女性、サラリーマン、生き甲斐、不倫、ストレス、食料等、多くの問題が失われた機能にかわるものとしてとりあげられている藤子不二雄のこれら諸短編は、深い幻滅に結びついたポスト・モダン状況の中で今こそ軽やかに読み返されなければならないだろう。

たしかにこれは80年代が迎えた物語の状況を説明しており、当時の読者に語りかける言葉として正しい。しかし00年代の読者である僕がこの本を読むと、作者はまず「ドラえもんではないもの」という意図でもって、これらの社会的なテーマを選んでいるように思われた。最終的に物語のテーマとして社会問題について語ろうとしているだけで、根っこの部分ではこれらの短編は「ドラえもん」と変わらない。「まえがき」で藤子不二雄自身が

「オバQ」「ドラえもん」と根は一つなのです。


と書いているのは全く正確なのである。

その「根」というのは、例えば「神になったらどうする・どうなる」というような、SF的な「もしも」なのだろう。それによって何を見せるのか、というときにこの全集の作品群では、ドラえもんのような「明るい楽天的な生活ギャグマンガ」ではないものとして、筒井康隆の言う「いかに現代を照射するか」を選んでいるわけである。

そして、この全集にはどう読んでも「明るい楽天的な生活ギャグ」と寸分違わぬストーリー展開を持ち、それでいて社会的なテーマを見事に描ききった作品まである。「なるほど、藤子不二雄のSF短編とは要するにSF的なモチーフと社会問題というテーマの合わせ技なのだな」と勝手な理解をして読んでいたが、もちろん両義的に成り立っていることだってあるのだ。「社会的なテーマがあるから大人のものだ」とか「ひみつ道具を使ったギャグだから子供のものだ」という読み方を僕はしなかったし、今さらそんな読者がいるかどうか分からないが、これにはけっこう驚いた。それはやはり、うっかり「ドラえもん」ではなく「SF短編」なのだ、と思って読んでしまったから、冷や水を浴びせられたわけである。しかし、ではこれらが「SF短編」として「ドラえもん」と切り離された全集に収められるなら、SFって一体何なんだろうと、本当に今さらボンヤリしてしまう。ボンヤリしながら、そうか、これが「すこし・ふしぎ」なんだろうか、と思った。

「エスパー魔美」の原型であるか、もしくは同じモチーフを描いた「アン子大いに怒る」「中年スーパーマン左江内氏」や、ヨドバ氏のカメラのシリーズ(月曜ドラマランド「藤子不二雄の夢カメラ」で有名だが、ドラマの方は内容が全く異なるらしい)などはそういうものが高い完成度で結実したものだと思う。特に僕はヨドバ氏が好きだ。「ドラえもんではないもの」として「社会問題」を選んだ藤子不二雄が、最終的に「笑ゥせぇるすまん」とは違うものを作り上げたところがとても好きだ。

2006.12.27 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

ユリイカ2007年1月号「特集*松本大洋」

「さやわか」という筆名で、12月27日発売の「ユリイカ」に拙文を寄稿させていただきました。それはこういう内容です。

特集*松本大洋  
【Walk on the wild side...】
ハードボイルドまんが道をゆく / 松本大洋+高野文子


【少年たちの風景】
松本大洋という深い海 / 松本隆
僕の中の『鉄コン筋クリート』 / 奈良美智
余白、想像について / 後藤正文


【タイヨウの軌道を追って】
男の都 / 三田格
拳と花 松本大洋 『ZERO』 について / 石岡良治
追想の捕球法 『花男』 論 / 細馬宏通
パラダイスなんて存在しないし、ヒーローもいない / 仲俣暁生
ユートピアを開く力学 / 中田健太郎
ペコの左手アクマの右手 松本大洋 『ピンポン』 における超越と内在 / 高橋明彦
『日本の兄弟』をめぐるノート、もしくは架空の短篇作品「泄(こぼれ)」のために / 前田塁
ノスタルジアというモンスター 『GOGOモンスター』 試論 / 目黒強
獣と鎖 『ナンバーファイブ』 の終わらない完結について / 大鋸一正


【アニメ映画 『鉄コン筋クリート』 をめぐって】
アニメは宝町を疾走する / マイケル・アリアス+五十嵐大介


【変化し退化し進化するマンガ】
「愛の風景」の回復のために / 斎藤環
寓話とアニメーションの間で 映画 『鉄コン筋クリート』 はなぜ分かりやすいのか / さやわか
少年マンガは終らない 『ドラゴンボール』 を副読本に 『ピンポン』 を読む / 金田淳子


【松本ワールド讃】
トリビュート・トゥー・ナンバーファイブ / 小林エリカ


【資料】
松本大洋全著作解題 / 斎藤宣彦+横井周子



もちろん僕が書いたのなんてちょこっとだけなわけだが、そのわりに出しゃばって鉄コン筋クリート論だの松本大洋論みたいなものを書き出しそうになるのを、あくまで映画についてで終わる話を書くのだという自分なりの舵取りをした結果、映画についても作品・作家についてもどっちつかずな内容を書いてしまったように思い、大変へこんでいた。その上、この映画最近コマーシャルがいろいろ始まり、上々の評判を目にする機会が増えてきた。そのたびにへこんでいたのである。あとで人に「あなたのそういうおもねるような配慮は実にくだらない。誰もあなたにそんな文章は望んでいない」と大変怒られた。そうかなあ僕のキャラの1つではあると思うんだけど。あのコマーシャルやあちこちの雑誌に平然としていられる、優勝できなかったスポーツマンみたいに小っちゃな根性身につけたいところだ。

でも今読みかえしてみると、文章は雑でひどいが考えていることは自分の考えてたことに近い。自分が書いたのだから当たり前だ。だから、本が発売になったらあまりに映画を離れてしまうとか、こんなこと書くのはどうだろと思って書かなかった部分を、このブログに書こうと思う。326の話とかも書くのかも。

ともあれ、僕の書いたところはともかく他の方の記事はたいへん面白そうだというのは誰の目にも明らかだ。だから、よかったら書店で手にとってくださいと僕が書く必要もないというかおこがましいわけですが、ぜひどうぞ。

2006.12.25 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

岡村靖幸「家庭教師」

ここにものを書くぐらいには落ち着いてきたが、依然として年末進行であり予断はならない。ただ、僕の場合は「25日くらいにすべてを片付けなさいね」という立場なので、明後日には長い休暇が始まる(だろう)。年末進行が年明けまでエンドレスに続いてしまう人に比べればずっとマシだ。

今月はずいぶんバイクに乗って行ったり来たりした。人を乗せたり、物を乗せたり。師走に引っかけているわけでもないのに走り通しであった。全く関係ないが昨日、秋葉原を通ったらメイド服の女が走っていた。通りを挟んで向かいのコンビニに入るために車道を横断してとしていただけだが、思わず「メイドも走る師走!師走だから!忙しいから!」と一人でウキウキしてしまった。

さてバイクに乗りすぎたので携帯の中に入っている音楽に飽きがきてしまい、いくつか取り替えた。メモリカードをもっと大容量のやつにすりゃよかったんだが、まあともかく歌が下手なアイドルどもを消した。代わりに4枚くらいアルバムを入れたのだが、最初に鳴ったのが岡村靖幸「家庭教師」である。この大変によくできたアルバムを、バイクの運転時に聴く音楽として僕は嫌いではない。最近分かったのだが、家で聴いて好きなものでも、運転中に聴くのにはあまり適さないものがあるようだ。そういうものなのだろうか。車に乗らないからカーステとか使わないし、知らなかった。

しかし岡村靖幸はとてもいいと思う。ただひとつ、たったひとつ難点があるとすればこの恐るべきアルバムの恐るべきタイトル曲である「家庭教師」における岡村靖幸のあえぎ声が気持ち悪いことだが、それは家で聴いても気持ち悪いのでしかたのないことだ。この声を聴いて気持ち悪いと思うたびに「俺はこういうものを気持ち悪いと思うからホモではないのだろうかな、いやホモってもいろいろあるからそうとも言えんのかな」などと、別に考えなくていいようなことを考えてしまう。この嫌悪感はタブーに対する興味の裏返しなのだろうかと自分で自分をむりやり勘ぐってみるが、この否定的感情の大本はこういう種類の男のナルシスティックな感性にブキミなものを感じているということのような気がするので、ホモ云々とは無関係なのかもしれない。

しかしこの曲はやはり傑作である。この曲にはもう1つ思うことがあって、それは要するにこの曲はエロいということなのだが、そのエロさはエロスとか芸術、はたまた「大人の魅力」などという題目を唱えることでエロを恥ずかしげなく表現しようとするような愚かなものではなく、ただただエロく、エロいのであるから下品で邪悪ですらある、ということだ。エロいからエロくて何が悪いんだというようなエロである。この曲を聴くと、誰もが口をつぐんでしまうような悲しい、痛々しいことをやってしまい、やってしまうぞ、やったらどうする、と言わんばかりな岡村靖幸の孤独でシャープな魅力についてよく考える。

「電話なんかやめてさ、六本木で会おうよ」という「カルアミルク」のように、どことなく懐かしさを感じさせる曲も収められているこのアルバムは平成元年にリリースされている。しかし収録曲である「家庭教師」は、おそらく女子高生と思われる女性にエロいことをするという歌なのだが、15年以上経つ今でも全く古さを感じさせず、今なおエロいままだ。

今聞いてもちゃんと破廉恥なのだから、当時はもっと破廉恥だとリスナーに受け止められただろうか。そうでないとすればエロについての世の感覚は今と15年前でさほど変わっていないということになるだろうが、そういうことってあるんだろうか。例えば平成元年すなわち1990年と1975年だったら間違いなくエロ感覚に変化はあったと思うんだけど、1990年と2006年では違いがないのだろうか。1975年と1990年と2006年では、何が変わって、何が変わらなかったのだろう。ただ一つ言えるのは、アルバムの中で一人芝居をしながら自分のあえぎ声を延々と聴かせた歌手は、日本ではおそらく30年を通してこの人しかいなかった、ということである。

2006.12.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

不思議のダンジョン 風来のシレンDS

仕事がますます忙しくなってきているのに新井英樹「ワールド・イズ・マイン」を不眠不休で読んでしまう。俺はバカか。当然、この壮大なマンガについてちゃんとしたことを書く時間がない。困る。

映画秘宝のポッドキャストを聴いていたら町山智浩がこのマンガの話をしていたので読み返したのだ。この本は連載時に読んでいて、当時1巻を買ったものの、続刊を購入することはなかった。いつか通して読まねばと思っていたのであるが、改めて読んでみると全くすごい傑作である。新井英樹は間違いなく天才だと思うが、このクソ忙しい時期にこれについて書くのはあまりにもったいないと思うので、それはヒマになってからに譲ることにして別のことを書く。

風来のシレンDSだが、電源入れてだーっと最初からプレイして山頂の村まで来てそこで間違えて食料を持たずに出発して(すぐしまったと思った)餓死したので取りあえずそこまででやめた。僕はホントにこのゲーム向いてない。なぜ向いていないかというと、性格が雑だからだ。プレイが大雑把すぎる。このゲームはある程度強くなって「適当で何とかなったりするだろう」と高をくくっていてもいきなり死んだりするのが面白いゲームで、用心に用心を重ねても死ぬわけである。だが僕は最初っから適当なので、いきなり高をくくっていきなり死ぬ。クリアは毎回完全にバクチである。すごく好きなゲームなんだけど。

さてシレンを久々にやってみて、救済措置がいっぱい用意してあるGBAのトルネコとかってすごくヌルいよなあと思いつつ、スーパーファミコンのシレンを忠実に移植することが求められ、開発者もそれを理解して作られたDSのシレンは、新しいプレイヤーを獲得できるのかしら、と思った。「DSでスーファミのシレンがやりたい」という人以外を最初から頭数に入れていないならいいけど、僕はそれをさみしいと思ってしまう。しかし開発者の「それでいいんだろうか」という葛藤も感じられるのだ。ベタ移植が望まれるし、この素晴らしいゲームのバランスを崩したくないと考えながら、ゲームとして新しいユーザーを獲得するための何かが欲しいとは思っているのである。その「何か」は前作をやったことがない人が分からないような細かなルール変更でないことは言うまでもない。で、まあWifiとかタッチペンのUIが登場するわけだけど、Wifiはともかくとして、タッチペンはハッキリ言って不要だ。何のためにこんなものを付けたのか分からない。結局、元のゲームを壊さないように新しい要素を追加するには、あってもなくても意味のないものを付けるしかなかったのかなあ。僕はしかし、こういうあってもなくても意味のないようなものにこそイライラするタイプなので、けっこうイライラした。

2006.12.18 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [マンガ

サウスパーク「Episode 1009 - The Mystery of the Urinal Deuce」

サウスパーク第10シーズンの「The Mystery of the Urinal Deuce」が非常に面白い。このへんで見られる。スクリプトはここ。しかし話が複雑なので物語を読み解くためのメモを作成してみた。サウスパークではもう1つ喋るタオルのタオリーが初登場する「Towelie」の回も一度ちゃんと見直したいと思っている。関係ないけど。さて以下が僕が作成したメモだが、物語の大筋と無関係なシーンを省いてあると同時に、ただ筋と笑いどころが指示してあるような文章が嫌いなので僕の考えなどを付け加えて書いてある。だから映像を見たままでは全くないし、あらすじとしても正確ではない。

学校のトイレで小便器に1の代わりに2をした奴がいる。すなわち小便(1)ではなくウンコ(2)した奴がいる。校内カウンセラーのマッケイさんは許せないということで犯人探しを始める。

ジミーは誰がそんな意味のないことをするのか?と疑問を呈する。カートマンはこれは911のように何かの陰謀だと言い出す。

911(アメリカ同時多発テロ事件)が陰謀であるとするアメリカ国民の主張の多くは、陰謀の首謀者は米国政府そのものであり、政府はテロをでっちあげて世論を煽り、中東派兵を正当化する口実を作ったのだ、というものらしい。一部の世論調査では、このような陰謀説を支持するものが全回答者の1/3にまでなっているという。

マッケイさんは警察を呼び、小便器にウンコをしたのには何らかの理由があるに違いないとするが、警官は「しかし小便器にウンコして誰が何の得をするのか分からない。この謎は自分には大きすぎる。ハーディーボーイズを呼んではどうか」と言う。

ということで「ハーディーボーイズ・小便器にウンコの謎」の巻となり、ハーディーボーイズが呼ばれる。二人が謎に対して何ら具体性もなく「clue」(手がかり)という言葉を口にし、「手がかりを見つけた」とか「手がかりを見つけそうだ」「その手がかりを追うぞ!」などとひどくチンケというか薄っぺらいというか子供だましなことを言うのがここは面白いんだと思う。ハーディーボーイズを僕は読んだことがないので正しいかどうか分からないが、たぶんそんな感じ。ハーディーボーイズは少年少女向けの探偵小説で、詳しくはここ

一方カートマンはカイルと口論。911陰謀説はデタラメだと言うカイルに対し、アメリカ人の1/4が911を陰謀だと思っている、アメリカ人の1/4がバカだというのかと言う。カイルはそうだと答える。スタン、カイル、カートマン、ケニーのメインキャラ4人のうちカートマンだけがバカだから、1/4で合っていると。

カートマンの主張は911はユダヤ人に牛耳られている政府や企業の陰謀であるということ。「貿易センタービルのタワーは2つ、つまり1と1で11。貿易センタービルのオーナーであるシルバースタイン不動産(ユダヤ系)の理事会は9人構成、すなわち911」。そして「11に1を足すと12であり、12には1と2がある。誰かが1用便器で2をしたように。911に1と2を足すと914で、そこから4を引くと91。それは911事件の12日後にカイルが取ったテストの点数だ。従って911の首謀者はカイルで、小便器にウンコをしたのもカイルだ」とする。

要するにこの911陰謀説とは「MMR マガジンミステリー調査班」的なオカルトである。だがみんなはカートマンの言うことを信じてカイルに近寄らなくなる。それをカイルから聞いたカイルの母親は、子供が911で精神的に混乱しているため学校がなんとかすべきだと訴え出る。ところが保護者の中にも陰謀説を信じているものがいて足並みが揃わない。マッケイさんはそんなことどうでもいい、小便器にウンコした奴は誰なんだと言うが、全然聞いてもらえない。

このへんから911事件とウンコの事件がストーリー上で混乱させられてしまい、大変面白い。カートマンが言った陰謀説を発端に、いつの間にかウンコ事件の犯人ではなく「911を裏で操作しているのは誰か」がメインの謎とされてしまう。刑事(名前忘れた)が「この謎は自分には大きすぎる。ハーディーボーイズを呼んではどうか」と言って、再びハーディーボーイズが呼ばれる。「ハーディーボーイズ・貿易センタービル陰謀事件」の巻。ここで謎はさらに「ここに2つあったタワーが消えた。一体誰がやったのか?」に置き換えられてしまう。ハーディーボーイズは「ビルが消えて誰が得をするのか?手がかりが見つかったぞ!」などと話すし、この謎が、陰謀があることを前提に「誰が得をするのか?」という発想で手がかり探しを行う少年向け推理小説のフォーマットにキレイに落とし込まれていることが分かる。

一方、スタンがカイルの元に来る。「カイルが911と無関係である」という証拠を持った組織をネットで見つけたと言い、二人でそのサイト制作者に会いに行く。しかし彼は911Truth.orgの人で、カイルはむろん無関係であり、つまり911の真実は政府の陰謀なのだと話し始める。要するに自分のせいにされていないだけで、カートマンとは別の陰謀論者なのでカイルはガッカリ。

そこへ警察が押し入り、カイル、スタン、911Truth.orgの男の3人はホワイトハウスに連れて行かれる。大統領は高圧的な口調で話し始める。なんと911はやはりイラク侵略による利益を狙った政府の陰謀だったのだ。秘密を知ったものとして911Truth.orgの男は銃殺される。カイルとスタンも殺されそうになるが、ホワイトハウスから脱出する。「帰ったらみんなに真実を話そうぜ」とするスタンに対し、カイルはやけに簡単にホワイトハウスから逃げられたことをいぶかしむ。そこで何と死んだはずの911Truth.orgの男と鉢合わせる。彼は逃げだし、追い詰めると「言われたとおりにしただけだ」と言うが、突然現れた老人に銃殺される。老人はスタンとカイルに着いてくるように言う。

老人の家に二人は連れて行かれる。自分を探偵であると言い、スタンとカイルは裏切られたのだと告げる。そこへハーディーボーイズが現れる。老人はハーディーボーイズの父だった。ハーディーボーイズは誰が小便器にウンコをしたのか調べていて手がかりを発見した。その手がかりから911の陰謀者へと導かれ、さらにそこで手がかりを得た。それらの手がかりは911の陰謀説を科学的に否定するものだった。ここでも「手がかり」という言葉が漠然と示され続けるのが面白い。

真相は、911陰謀説のサイト運営者が政府である、つまり「911陰謀説が政府の陰謀だ」というものだった。アメリカ政府は自分たちが世界のすべてを支配していると国民に思わせたいのだ。企業やメディアを操って、「政府が911をテロに見せかけている」ように信じさせ、国民に政府を恐怖させたいのだ。

そこへホワイトハウスで会った大統領以下政府高官が現れる。カイルがなぜ本当のことを言わないのかと問うと、大統領は「言ったけど、国民の1/4はバカだから信じない。彼らは911が陰謀であり、自分たちが政府にコントロールされていると思いたいんだ。だったらそれを利用するよ」と言う。

そこでふとハーディーボーイズの父が気づき、なぜここに自分たちがいると知ったのかを大統領に尋ねる。するとスタンがカイルに銃を向ける。スタンは政府のスパイだったのだ。「おとなしく家に帰るべきだったなdude」。スタンはすべては計画だったのだという。カイルは驚いて、一体なぜスタンはこんなことをしたのか聞く。スタンは「おれだからだ。小便器にウンコしたの」と言う。

ここで911事件に大きく傾いていた物語はいきなりウンコ事件に戻され、再び混乱する。つまりウンコ事件が911事件と関わりのある陰謀であるとカートマンのような奴に信じ込ませることで、ウンコ事件の真犯人であるスタンは別に犯人がいると思わせることができ、また政府は911陰謀説をさらに広めることができる。ふたつの事件でハーディーボーイズが述べていた「誰が得をするのか?」の答えがこれである。カイルは「ちょっと待って、じゃあ911事件は誰がやったの?」と言う。スタンは「何言ってんだ、超怒ったイスラム連中だろ」と答える。ハーディーボーイズもスタンに同意し、カイルに「何だお前パーか?」と言って政府高官を含む一同大爆笑。おわり。


全体を通して見るとジミーが最初に言ったウンコ事件に「意味がない」ということが、911陰謀説の「意味のなさ」と対になっているようだ。逆に言うと911事件自体にはごくシンプルな意味だけがあり、「誰かが得をする」なんていう「陰謀」つまり隠された意味など入る余地はない(それが最後のオチだ)。「それで誰が得をするの?」という子供だましの問いは、それによって誰が得をするのか分かりづらいもの、すなわちウンコ事件や911陰謀説に対しての方が、少なくとも911事件自体に対する陰謀説よりは、まだ成り立ちやすいということである。

あと要するにスタンはカイルに罪を着せてたわけで、これはけっこうひどい奴だ。カートマンはいつも通り無知で恥知らず。バターズはバカ。

2006.12.16 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ

ミオ&マオ

そういえば先日、仕事が一段落したところで小休止として新宿でホテルに泊まったのだが、深夜に眠れなくてカトゥーンネットワークでアニメを見たのを思い出したので書いておく。

中でも最も面白かったのがイタリアのクレイアニメ「ミオ&マオ」だった。僕は実写アニメに全然詳しくないのだが、これは素晴らしい作品だった。2匹の猫が主人公なのだが、どたんばたん走って遊び回ると、形が猫じゃなく、球体になったり棒になったり、自由自在に変形するのだ。それがとても面白くかわいらしい。動物の子供ってこういうふうに走ったりするだろうという動きでもあるし、また素早く移動するときのびょーんと伸びるコミック的な描写も大変見事だ。しかも主題歌が秀逸で、70年代の作品というだけあってイタリアの古きサントラ音楽らしいオシャレでキュートかつマヌケなものであり、素晴らしいデキである。いま検索したら曲がここにあったというかこないだ僕が見た蟻塚の話などもYouTubeにアップされていた。便利だな、インターネットは。

クレイアニメのことを知らないので、ほんとはみんなこういうものなのかもしれない。昔見たクレイアニメにもたぶん変形するものがあったと思うんだけど、でもこれはなぜか違う印象だったのだ。「不定形の生き物が鍵の形になって扉を開けられる」みたいな、バーバパパ的な変形の面白さじゃなくて、動きそのものであろうとする感じが面白いなと思った。僕だったら、粘土で作った人形をコマ撮りでちょっとずつ動かすことしか考えないだろう。大胆に変形させることで動きを表現するなんて考えなかったと思う。粘土であるというのは、駒を作るための素材で、形として固定したものは、そういう駒として動かすのが正しいのだと思ったと思う。でもこれは、不定形の生き物を表現しているのではないにもかかわらず、粘土として変形することに確かな意味があるのだ。

その日はちなみに、その後「あしたのジョー」を放映されてしまい一気に気持ちがドヤ街のシリアスな現実へ向かった上に重厚な映画的演出を多用され、ミオ&マオとのあまりのギャップに「日本のアニメはスゲエなあ」とか思っていたのであるが、やがて疲れが出て「死闘カーロス対矢吹丈」の回の途中で寝てしまった。これはこれでラストを見届けたかったので大いに残念であった。まあでも、もしあれを最後まで見てても1のラストだから真っ白に燃え尽きないんだ。

2006.12.15 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ

フリクリ

「フリクリ」の5〜6話を見返したのは、先日アニメージュを読んだからじゃなくて、「Qコちゃん」のことを考えよう、と思ったからだった。でも結局僕はフリクリのあまりの面白さにとりつかれて、ウエダハジメのことをすっかり忘れてしまった。フリクリについては以前文章を書いたことがあるので、ここで同じことをまた書こうかどうしようか迷ったが、今はやめておこうと思った。だから今、特に書くことがない。それでも見てしまった以上簡単に書いておくと、この作品は本当に素晴らしい。そして面白い。それから、あらゆる要素が極めて明快であり、この作品を難解だと言う人を僕は分からない(それは前にも書いた)。「ギブソンEB0!61年型!」とか、ほんとにデタラメなんだ。とてもカッコいい。素晴らしすぎる。こんなにいい作品がエヴァほどに見られてもおらず、しかも7年近く経った今、世人がこれやトップ2について語らないのはともかく、それを差し置いてどうでもいいような対象不在の空談が繰り広げられることが許されているなんてのは、ほとんど理解できない。

中身については今は書かないことを選んだが、前に書いた文章を深めてみたくなったときに、いつかまた書いてみたいと思った。

2006.12.15 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [マンガ

男の勲章 ―復活―

「男の勲章 ―復活―」を聴きながら高野悦子のことを考えていたら何だか悲しくなった。僕は右翼だの左翼だの言って楽しんでいる人たちが好きではないので、もちろん学生運動の話とかにもほとんど興味がない。日本のサブカルチャーの話ではいつもその話を始める人がいてずいぶん面倒に感じている。それがなんでそんなことを考えていたかというと山本直樹「レッド」のことを考えていたからだ。ともかく、なんだかめちゃくちゃな取り合わせのようだが、「男の勲章 ―復活―」は高野悦子の日記にとてもよくマッチしていた。

しかし「男の勲章」に感じ入った割に、この歌の歌詞を見ると拍子抜けしてしまう。

泣きたくなるような つらい時もあるけど
いつも俺達がんばってきた
時の重さに 流されそうになった時でも
歯をくいしばり たえてきた

ガキのころ 路地裏で見た 夜空にキラめいた
流れる星を見て 誓った思いを忘れちゃいないぜ

つっぱることが男のたった一つの勲章だって
この胸に信じて生きてきた

氷のように冷たい 世間の壁が
いつもさえぎる 俺達の前を
胸にえがいた この夢は ハンパじゃないから
かじかむこの手 にぎりしめ

ガキのころ 赤トンボ追いかけてた時の
燃えてた瞳は 今でも俺達忘れちゃいないぜ


以上がこの歌の歌詞のほぼすべてで、あとはリフレインしかない。ここには具体的な話は何もない。「つっぱる」「ハンパじゃない」などの言葉で、ヤンキー文化のようなものをギリギリ感じさせるだけだ。これは「大人の勲章」でも変わりはないようだ。つまりこの歌は、似通ったものであるはずの横浜銀蠅やダウンタウン・ブギウギバンドとは違い、メッセージ性のほとんどを目と耳に訴える部分に持っていたのである。だから言葉だけを取り出すと以上のようにひどく平凡で、あまりに平凡すぎてほとんど抽象的ですらある。これでは「負けないで」という応援ソングと変わりない。

ここにあるのは対象のない曖昧な反骨心である(なのであろう)。だからこそ僕には高野悦子にマッチして聞こえたのだと思う。高野悦子は、この歌詞のような、ほとんどポーズとしてしか存在していないアジテーションにせき立てられて死んだように、僕には感じられたから。そういうものに追い詰められて命を絶ってしまうことが、僕は悲しかったに違いない。

2006.12.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [文章] [マンガ

テヅカ・イズ・デッド

この話は変だと思う。松永さんは意図的にかなにか分からないけど、「萌え」ということをつまりは高いレベルの「感情移入」であり「同一視」のようなものなのだ、と説明してしまっている。いくつかの話の展開を重ねることで(グインサーガから銀英伝に至る流れで)話をずいぶんと単純化させてしまっている。「物語派(グループ派)→キャラ萌え(押しメン)→属性萌えと並べると、順にマニア度・ヲタク度が高くなるような気がする」なんて言っちゃうのは、本当に言い過ぎだ。このモデルは誰かにとって面白いのかもしれないけれど、ずいぶんと話をジャンプさせすぎだろう。面白いモデルというのは、いつも正しいわけじゃないし、時として上手いことを言えてすらいない。「こういうふうに言ったら面白い」というだけのことが、今のインターネットではいつの間にか「上手いことを言っている」ようになってしまうのが助長されるみたいで、僕は好きじゃないな。

話は戻るが、そりゃシャアに同一視する人はアムロが憎いんじゃないですか。彼(彼女)はシャアなんだから。そういう人はシャアとして物語を経験するんだから、そうかもしれない。でも物語のキャラクターに「萌え」と言ってる人って、そういう人ばっかりじゃないというのはすぐ分かることだ。「アンジェリーク」をプレイしている女子は全員あのヤオイっぽい男性キャラそのものになってしまいたいわけではないだろう。むしろ、そういう人は少ないだろう。でないと世の中ボク女ばっかりだぜ。同一視の例じゃなくても、いつもナントカ派とナントカ派がしのぎを削っているわけでもないし、曖昧に幅広くいろんなキャラに萌えてる人だっているのだ。萌えというのは別に、イチオシを作ることじゃないしね。

例が古いかなあ。僕は実際、「キャラ萌え」の人じゃないんだ。だからうまい例がすぐに出てこないや。僕は正直グインサーガも銀英伝もちっとも好きじゃないんだよ。なぜなら、あえて言えばああいうのって「キャラ萌え」な物語だからなんだ。それから、キャラクターに対して殊のほか思い入れて、ふたつの陣営に分かれてしまうようなファン心理も、全く理解できない。昔から、ああいうものを見るたびに「ああ自分はこの人達の仲間にはなれないんだ」とうすら寂しかった。今でもそう思う。だから「キャラ萌え派」として彼らを擁護しているわけじゃない。でも松永さんの言ってることが変だってことは分かるよ。

変なのは、おそらく松永さんがかつて見聞した「熱狂的なファン心理」みたいなものをイコール「萌え」であると語ってしまっていることに一因があるんだと思うんだけれど、件のブログで語られている「萌え」はそういうものじゃない。じゃあどういうものかというと、もちろん「テヅカ・イズ・デッド」で説明されているようなものだろう。でも松永さんはそれには言及しないで、本書の内容からずれたところからキャラ萌えを語っている。

実際のところ、マンガを「読む」際、完全にキャラクターだけを見つめる「読み」があるとも考えにくく、逆にキャラクターの魅力をまったく無視したストーリーテリングもまた非現実的であろう。だからそうではなく、同じ読者の一回の「読み」の内部においても、複数のレヴェルの快楽が同時に駆動していると考えたほうが合理的だ。

以上がこの本から松永さんが引用している部分で、松永さんはこれを分かりやすくした(とする)件のブログの文章に対して

「キャラ萌えは作品を読む上での重要な要素」と主張しているのだが、それは肯定できない。なぜなら、「物語読み」の人たちは決して「キャラクターへの感情移入をしない」のではないからである。キャラクターへの感情移入なくして、作品にのめり込むことはありえない。したがって、「物語読み」の人たちがいつも冷めた冷静な目で見ているかのような見方は誤りである。



と述べているのであるが、伊藤剛の本は別に「キャラ萌えは作品を読む上での重要な要素」としているのではないだろう。この本はキャラ萌えを伴いながら作品が読まれ、評価され、支持され、その方法論に従って物語が作られるというのがどういうことなのかが語られているのである。それにはキャラ萌えしながら「覚めた冷静な目で(作品を)見ている」という読み方すらも含んでいる、という話だ。「複数のレヴェルの快楽」とはそういうことである。ここにはおそらく大泉実成のような読み手が含まれるのだろう。

というわけで物語派の人は批評的な視点を導入していて、キャラ萌えの人はそうじゃないんですという単純な話でもなければ、現代的な物語の読みにキャラ萌えは不可欠のものだみたいなことを言ってるわけでもない。だから、この本で(そして件のブログで)前時代的な物語や読みが否定されているわけじゃない。強いて言うなら別種のものとして語られている。

もっとも、松永さんが伊藤剛を読んだ上で以上のように語られているのかどうかは分からなかった。しかしいずれにせよ松永さんの主張は伊藤剛の本に対する反論になるべきものであるはずである。しかしそうだとすると、そもそも「テヅカ・イズ・デッド」は、ちょうど松永さんが述べているような、「キャラ萌え的な物語の活況に対する前世代的な読み手にとっての無理解」を問題視するところから始まっている本なのだ。伊藤剛は、それらに対する十把一絡げな否定、あるいは誤解、あるいは黙殺、あるいは(これが最も問題だと思うのだが)無関心を論じることから出発して、「キャラ萌え」というものがどういうものかを分析的に語っているのだ。上記の引用部分だって、その一部なのだ。だから、松永さんの主張は本書の第一章に絡め取られてしまって、肝心のキャラ萌えの分析まで到達していない。「読んだけど、これには異論がある」って感じの文章じゃない。というわけでこれは変だろう、と思った次第。

ただ、僕が一番不思議なのは、一体松永さんはなぜこんな奇妙なことをわざわざ書いて、みんなにわざわざ(本当にわざわざ)見せたりするのだろう、ってことなんだけどね。キャラ萌えについてそんなに問題意識を持っているのだろうか?分からない。どちらかというと、松永さんのような読み手には必要のない本だし、議論と思うのだが。まあしかし、僕はそんなちっぽけな疑問はすぐにすっかり忘れてしまうね。そして僕が今から何をするかというと、もちろん「テヅカ・イズ・デッド」の続きを読むのさ。なぜなら、こんなふうに人がやっていることをあれこれ書くよりも、自分にとって興味深い本を読む方がずっと楽しいって、僕は知ってるからね。

2006.12.14 | | コメント(3) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

アニメージュ2000年2月号

会社に行ったらなぜか「アニメージュ」の2000年2、4、5月号が捨ててあったので拾う。まったく乞食である。特に2月号が気になった。2月号ということはおそらく2000年の1月売りの号なわけで、90年代のアニメについての年表や総括的テキストがよくまとめられている。これはいいものを手に入れた。普段古本屋巡りなどをしていればこの手のモノはすぐに見つかるのであろうが、どうも最近は足が遠のいているためこのような偶然がなければ手に入れることもない。

この本は表紙が「フリクリ」のマミ美で、鶴巻和哉と貞本義行の対談が載っている。第一巻が3月末日2800円で「いよいよOVAリリーススタート!」とあり、つまりこの対談は発売前に行われたものだ。

鶴巻 ちなみに!僕は、21世紀派ですから。なのでミレニアムとか、今さら騒がれても…ねぇ。僕は21世紀は2001年からって昔から言ってたほうだし。
貞本 わ、いやな子供。昔から変わってないんだ(笑)。
鶴巻 そうス(笑)。でも、21世紀になったら、ガラッと変わると思う。
貞本 「フリクリ」はそのための。
鶴巻 そうそう、20世紀最後の。


などの記述が大変に感慨深い。そうかーフリクリは20世紀の最後を象徴した作品なのだなあ。たしかに21世紀に状況はガラッと変わったのだろう。むしろ変わらないわけがないんだが、やはりその変化とは、この本で語られている90年代を総括した文章に既に兆しが現れているものばかりだろう。ネットが普及したおかげで視聴者の基本スタンスが「語る」というものになったとか、「アニメの供給過剰」は「ガンドレス」などの形で既に破綻を迎えているとか、2006年の現在において重要と思える考察が多い。90年代に芽生えた問題が00年代に引き継がれているわけで、まあ当たり前なんだけれど。

違和感を感じた部分は「90年代は80年代末期の停滞が終わって訪れた、ヤマトやガンダム以来のアニメブームだった(そしてそれは再び停滞期に入るだろう)」それから「90年代は声優ブームだった(そしてそれは終わった)」という内容だ。どちらについても、00年代においてはそのブームがさらに拡大もしくは拡散してしまう状況を予測できていないのだろう。たぶん、その拡散の原因として、さっきの「オタクが語る」とか「供給過剰」の話題がクローズアップされてくるのが00年代なのだろう。

ただ、現在を正確に予知できていないからこの本は正しくないなんて話ではない。そういう見方は間違っている。むしろこの本は90年代のアニメ周辺の人たちの意識を知る上でとても役に立つ。たとえばこの本には「アニメファンのための作品」という言葉がよく出てくるのが面白い。今は作り手も視聴者もいろんな作品に拡散してしまって、それから「アニメファンのための」という言葉の意味も多様化してしまって、結果としてもう「アニメファンのための作品」という言い方は成り立たないだろう。90年代においてはまだそういう言い方ができるような状況があったんだろう。それからこの本は00年代を「供給過剰によってヒット作が減り、結果として停滞する」と予測している。その見方は、予測の建て方として間違っていないと思う。2006年の現在においてなお、そういうことを言いたがる人は多そうである。しかし現状として00年代は供給過剰が維持され、同時に視聴者は「アニメファンのための作品」であるかどうかを問わずに「語る」ようになったのだ。彼らはその大きなコミュニティを維持し、作品の質だけでシーン全体の停滞を語ることはできなくなった。少なくとも今は、停滞も飽和も1つの状況として捉えられるほどにコミュニティは安定し、成熟しており、そういう意味でアニメを取り巻く状況は00年代に停滞せず、むしろ拡大している。そういう中でどういう作品がヒットするようになったかについては、別の話なのでタイトルは出さないでおこう。

それから「声優ブーム」についてだけれど、僕はこれを読みながら、以前加野瀬さんとばるぼらさんがネットラジオで「オタクとサブカル」について話していたのを思い出した。このラジオの話はたぶんユリイカの増刊にあった「オタクvsサブカル!」に繋がっていくんだけど、そこにたまたま僕もいたのだ。で、そのときに加野瀬さんはオタク的なモノについて「机の上で完結する」という定義をされていて、そこで僕は「イベントに行ってオタ芸を打つような声優オタクとかアイドルオタクはその定義に含まれないのではないか?」という疑問をちょっとだけ述べたんだけど、あまり明快な回答はもらえなかった。今加野瀬さんがどう捉えられているか分からないけど、そのときは「アイドルオタクはサブカル(中森明夫的)なものであって、声優オタクもその流れにある」という説明だった。それはそれでなかなか筋の通った説明だと思うんだけど、でもやっぱり引っかかる。だってアイドルオタクだって「オタク」ってわざわざ名前に付いてるし、「あれは何か」と問われたら、一般的にはやっぱり「オタク」なのだ。「オタク」と名に冠されているのに、加野瀬さんが彼らをそのとき省かざるを得なかったことについて、実は僕はずっと考えていたんだ(1年以上もの間)。

で、最近思うのはたぶん「アイドルオタク」や「声優オタク」は90年代的な「オタク」の範疇から外れているのだろうということだ。だからユリイカの増刊で90年代カルチャーを語るキーワードとして提示されているような「オタク」にはマッチしないのだ。ということで、この本で語られている三石琴乃、宮村優子、林原めぐみを頂点とする「声優ブーム」も同様である。重要な媒体としてラジオのみが取り上げられており、既にそれなりの影響力を持っていたはずの声優によるコンサート活動などについては全く触れられていない。この本で同様にさほどの重要さをもって捉えられていない、「ライトノベル」や「ギャルゲー」と、そしてこの本ではまだキーワードとして成立していない「萌え」と同様なのである。それらは90年代の尺度で語り得るものではなく、つまり00年代的なものであり、「ガラッと変わった21世紀」に直結するものだったのだろう。だから00年以降を考える上では常に頭の隅に入れておきたいことだと個人的には思う。

2006.12.13 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [文章

日経トレンディ11月号

カドゥケウスばっかりやっていたんだけど、そろそろ部屋を片付けなきゃ。年末のせいかもうずいぶん汚くなってきた。

「日経トレンディ」の11月号をなぜか今さら読んだ。この雑誌は初めて読んだ。正直言って全く自分では読もうと思わない本だと思う。読んだ理由の大半は表紙にデカデカと

そんなに凄いか?Web2.0
次の「Web3.0」こそ本命だ


と書いてあるからである。これは読むだろう。読まずにいられようか。つまり半笑いで馬鹿な雑誌だねと言いたいがために読みたいわけだが、しかし最初からそういう態度であるのもよくない。僕はこの本と、この本を小馬鹿にして全く読む気もない人々との間にある断絶について知りたいのだ。

というわけでわりとマジメな顔をして読む。要するにWeb2.0はインフラが従来のインターネットそのものなのでそんなスゴくないよということらしい。それを受けて、次のステップとしては「人間がインターネットに常時接続をされた状態」というものがクる、と言いたいようだ。これはさすがにないだろう。それはなんていうか、ウェブなんてんゼロとかそういうレベルの話じゃないような気がする。「ウェブ」という、インターネットの一部における革新についての話だったが、インターネット自体の革新に話がすり替わってしまっていると思う。さらに言えば「人間がインターネットに常時接続をされた状態」なんてものは、もう「インターネット」ではない。別の(おそらくは「オーバー」と頭に冠した方がいいような)テクノロジーだろう。

それから、この本はWeb2.0の(ひいてはインターネットの)情報の即時性にひどくこだわっているなと思った。ブログ検索の検索ヒット数や情報の新しさを比較検討したりすることには、たしかに意味がないとは言えない。実際、僕はここで商品の名前が頻発するブログをやってみて、商品について何かを書けばブログ検索からずいぶんと人が来るということを知ったのだ。話題の商品や新製品ならなおさらそうなんだ。これはブログってのをやってみて「へぇ」と感心したことの1つだ。だけれど日本のブログで素早く伝わることをこの上なく重視しているブログがどれだけあるんだろうか?この本の書き方ではあくまでブログの至上命題がそれであるように見えるけれど、でもこの本には、ユーザーがこう判断するだろうからこれが流行るだろうという話はちっともない。

しかし、そういう本なのだろう。そして、それを信じる人がこれを買う。雑誌というのはともかく、その雑誌を読ませたい読者にとって魅力的であり、そしてそれらの人々に売れればいいのだ。その雑誌が語る、「読者にとって有益な(読む価値がある)情報」とは、彼らにとってのみのもので構わない。その雑誌を必要としている読者以外にとっては紙屑でいいのだ。このことは多くの人が忘れられていることで、それが僕にはとても不思議だ。

2006.12.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

カドゥケウスZ

ゲームばっかりやっているのは、プレイ中だと難しいことを考えるアタマがあんまりいらないからだ。ゲームについて難しいことを考えるときは、プレイしていないときだけだ。本や映像だと、見てる間にいろんなことを思う。落ち着きがないのだ。しかしゲームはわりとゲームに熱中する。テキストアドベンチャーとかは別だぜ?

要するに難しいことを考えたくないのである。なんか疲れた。たぶん年末進行のせいもあってもういい加減アタマが疲れてきているのだ。しかしここの文章は一定期間は書くと決めたので書き続けるが、これ読んでる人に全く失礼な話なんだけど、大変おっくうだ。しかし、それでも書く。「それでも書く」ということに意味があるかどうか調べるつもりなのだ。でさ、前から思ってたんだけど僕は文章が下手なんだよ。で今はさ、難しいことを考えると要するに僕は文章が下手だということを思い出さなきゃいけなくなるので、なるべく考えたくないんだ。分かるか。だからよー今日はこの文章もこんな文体なんだよお前。分かるか。分かってくれようー。

だから「カドゥケウスZ」なのであるが、Wiiのユーザーは全然このゲーム無視してるだろお前ら。ぜーんぜん話題にしてるところ見ませんよ。世界でたった一人このゲームをプレイしているような気分ですよ。ゼルダばっかりやりやがって。僕はですね本体と一緒に買ったのが「Wiiスポーツ」「おどるメイドインワリオ」そして「カドゥケウス」だよ。お前らがゼルダを据えるところに手術ゲーとか入れちゃってんだよ分かる?「ゼルダなんてきっとゲームゲームしてて別にWiiって感じじゃないに違いない」とか勝手に考えて選んだわけだよこのわたくしがなあ。このゲームのストーリーなんて、あってなきがごとしである。キャラクターも、アトラス的なケバケバしいコスプレ感覚に満ちていて大変好きじゃない造形であるが、手術は面白いのである。操作感覚としてはDSのが普通のメスだとしたら今度はレーザーメスかというほどの違いがあって、わりと簡単になってるんだけどさ、僕ほらゲーム下手だから前のやつなんか全然「新米医師」とかばっかり言われてムカついてたからちょうどいい。でも簡単になったっていっても退屈なわけじゃなくて、なんかこう、いろいろやることが多いゲームなんですね。手数が多くてやたらとアレコレさせるわけですよ。料理っぽい。というか。手術だけど料理か。なんか違うか。まあともかく不健康なゲームなんだよね没頭するというか。ある意味、今みんなが喜んでいるWiiっぽくないんだ。で、ずーっとやってるわけなのさ。

2006.12.12 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

Wii Sports

今日はちょっとだけヒマになったのでWiiで遊んでいる。全然関係ないけど何だか頭が痛いなあ。

ゲームセンターの、いわゆるビデオゲームじゃないやつってあるじゃないか。あれのことを何と呼ぶのか知らないんだけど。パンチしたりするやつ。モグラたたきとか。コズモギャング(ビデオじゃない)とか。一人でプレイするWii Sportsはあれを「タダでやっていいから極めてみろ」と言われているような感じだ。ゲーム自体がどれも単純な点も含めてそう思う。単純だけど、それなりに面白い。それにしてもボウリングとかゴルフとか、一人でやるスポーツばっかりうまいのはどうしたものか。

もちろん、複数人数でもやってみた。コンピュータゲームの上手下手が関係ないので、誰が一番上手いのかがやってみないと分からないというのはとても新鮮なことだと思う。ゲーム自体よりも、それが一番面白かった。

2006.12.10 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム

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