スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | |

拝啓、父上様

だんだん忙しくなってきたので「拝啓、父上様」の第三話をまだ見られていない。今仕事をしながら見るのを試してみようと思ったのだが、最初の交通標識が映るだけのカットを見た瞬間、あきらめた。倉本聰のドラマは、このように話の合間に風物が挿入される。「北の国から」に見られたキツネや兎の姿のように。あのようなカットは一瞬しか挿入されないが、あれを見なければ倉本聰のドラマにならない。だから仕事をしながらチラチラ見るというわけにはいかないように思われたのである。

しかしこのドラマについて今語るのは難しいように思う。最も大きな理由として、まだこのドラマは始まったばかりだからだ。特に今どきのドラマとしては極めて異例なことだが、このドラマは全話のシナリオが完成してから撮影に入ったそうなのである。つまりこの物語は先の展開が完全に決定づけられているわけだ。先が決まっているとなると、今までの部分だけで軽々しく評価できるようにはなかなか思えないだろう。

しかし最初から台本が決定されているということは、脚本家である倉本聰も含めた全スタッフが筋を理解し、計算し尽くした上で物語を提供するという、連続ドラマではあまり類を見ない作られ方を招いてくれそうで興味深い。作り手の全員が、「次に視聴者に何を明かして何を隠したままでいようか」と考えつつ面白く語ろうとしてくれていると考えるのはなかなか楽しい。役者達の実に安定した演技(一話で二宮和也が携帯で話すシーンはひどかったが)も、その思いに拍車をかける。話のうまい人というか、落語の名演などを見せられているような感じだろうか。

その代わり、ここには危なげない要素しかない。この物語のベクトルがこの先、今とは違う方向に強まるかどうかは視聴者である僕には分からないが、まずないことだとは思う。だから、これは派手なところの何もないドラマだと言われればおそらくそうだとしか言えない。しかし、このドラマは泣くために用意されたドラマなどではないのだから、それでいいのである。そもそも家庭の崩壊を題材にしたおかげで暗い印象の強い「北の国から」だって腹を抱えて笑えるような楽しいシーンがたくさんあるし、お涙頂戴の物語などではないのである。だが「拝啓、父上様」に至っては、「人情コメディ」というふれこみだから当然なのであるが、もっとずっと明るい。既に運命づけられた明るい物語を小気味いい語り口で語ってくれるのが見ていて大変に心地いい。深刻さとか社会性なんてどうだっていいのである。作品として上質であるかどうかということに、そんなものは関係ない。

タイトルからも分かるとおり、このドラマは明らかに「前略おふくろ様」を意識している。梅宮辰夫や八千草薫が出ていて、東京の料亭が舞台なのは偶然ではない。主人公の青年によるモノローグが全編にわたって入っていて「北の国から」の純を思い出す人もいるだろうが、これはもともと「前略おふくろ様」で使われた形式だ。だからそちらを意識したものだと考えた方がいいだろう。モノローグには「ドキドキしていた……」など、純を思い出させるものもあるが、しかしそれは過去作品に対する言及を織り交ぜて視聴者を楽しませようとするサービスではないかと思う。全くこのドラマは、視聴者に楽しんでもらおうという高いホスピタリティが感じられるのだ。それはいいホテルのようで、舞台である神楽坂も、そうした心地よい物語にはふさわしいように思う。

スポンサーサイト

2007.01.29 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [映像

Perfume「Twinkle Snow Powdery Snow」

「ファン・サーヴィス」を前にして、Perfumeの「Twinkle Snow Powdery Snow」をようやく聴いた。ネット配信のみの楽曲とのことだったが、どうやらアルバムにも収録されるらしい。時期的に考えると最初からそう決まっていたのではないかと思う。

しかし残念ながらこの曲にはあまり評価したい部分がない。曲は全く悪くない。「リニアモーターガール」「コンピューターシティ」「エレクトロワールド」の流れにある。違和感のない楽曲であり、前三作を覆すアプローチがされているわけでもない。

あーちゃんによると、Perfumeは「春から女子大生テクノユニットになる」そうだ。彼女たちはもう、いつの間にか、「アイドル」ではないのである。だからこの曲がアイドル性からずっと遠く感じられても、何ら間違いではないということである。先日のライブはカップルなどがずいぶん多かったと聞く。オタ芸を見てびっくりしていたそうだ。僕は、そういう観客が駆逐されるから嫌だと言っているわけではない。むしろそれがある程度維持されたまま、Perfumeが「女子大生テクノユニット」として今後あるだろうことにこそ、やりきれなさを感じている。Perfumeがついにこの比較的安定した地位を手に入れたことには、僕は本当によかったという祝福の気持ちだけがある。しかしその姿に、そしてファンの支持の仕方に、僕があまりにコンサバティブなものを感じるとして、僕が悪いのだろうか?安全な、ライブを見に行ったらちょっとびっくりする、ソフトなオタク系なのか?そこがゴールなのだろうか?

この楽曲はたしかに「テクノユニット」に与えるものとして正しいのかもしれないが、しかしそうなると、僕はこれを音楽として、テクノの一種として、楽曲として、せいぜいエレポップとして、評価するだけになってしまう。つまりcapsuleにさほど興味を抱かない僕がPerfumeを支持した理由はほとんど失われると言っていい。僕は中田ヤスタカが好きだったのではなく、Perfumeが好きなのだ。

彼女たちのライブパフォーマンスは間違いなく見事で、これはCDしか聴いたことのない人に一見の価値がある。のっちのエロい汗と醒めた目、かしゆかの細さとキュートさ、そしてあーちゃんの絶大な魅力を知るためには、ぜひライブに足を運ぶべきだと思う。冗談でも何でもなく、彼女たちはテクノユニットなどと言っているうちに、あと2年もすればアイドルなんて言うのが憚られる年齢になってしまうのだ。彼女たちがアイドルでいる間に、その素晴らしさを目撃すべきである。安全なオタク要素を持ったアーティスティックな集団として評価してはいけない。そんなのは三年後からやればいいことだ。アイドルとして、アイドルを愛するように愛するべきなのである。僕は、これだけ長いことやって、今やグループがテクノユニットと言われるころになっても、いまだに振り付け中にあーちゃんの立ち位置がズレて三人がキレイに三角形を描いて並べないことに、懐かしさと幸福感を覚える。それを見て、そしてそれをかわいらしいことだと考えるべきだ。そうやってアイドルを愛するということを知るべきだ。僕が好きなPerfumeは、断じてテクノユニットなんかじゃない。

2007.01.27 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [音楽

Even As We Speak「Bizarre Love Triangle」

「Bizarre Love Triangle」はニューオーダーのあまりに有名な曲で、ここでPVが見られる。これはもう見ているだけでなんだかわからない奇妙にすがすがしい悲しさがこみ上げてくる、とても大好きなビデオだ。

この曲はカバーするアーティストやユニットがわりと多くて、たとえばFrente!のものとかは有名だと思う。ここにPVがある。以前ネットラジオをやっていたときによくかけていたCommercial breakupのバージョンは好きだ。今調べたらこれもPVが見られる。サビを歌うマトリョーシカが気味が悪くていいな。しかしそれよりも好きなのがEven As We Speakのバージョンだ。Even As We Speakはオーストラリアのバンドで、90年代にネオアコ&ギターポップのレーベルSARAHからリリースしているが、当時SARAHと言えばTalulah GoshでありHeavenlyでありblueboyでありSea UrchinsとかSt. ChristopherとかHIT PARADEであり、まあひょっとしたらOrchidsとかField Miceであったかもしれないが、とにかくEven As We Speakなんてほとんどそちらの文脈ではあまり話題に上るバンドではなかった。なぜか打ち込みを多用しており、しかもその打ち込みがダサくてカッコ悪い。それで、僕はひどく好きだった。ネオアコやギターポップに僕が求めていたものは一貫してどうしようもなくヘタクソでカッコ悪い曲とうわ言のようなナヨナヨした歌だったのだ。後にこのような音楽はオシャレだということになったが、同じジャンルを聴いているはずの人と話が合わなくてずいぶん苦労した。

Even As We Speakの「Bizarre Love Triangle」はアコースティックなカバーだが、曲が始まってからどんどんどんどん演奏が走り、BPMがぐんぐん速くなっていく。呆れるほど明かなミスタッチが録音に残っている。実にダメなギターポップバンドらしい。僕はそれがとても好きだ。Frente!のカバーなんてあまり好きじゃない。この曲は内容的には彼らの歌い方が正しそうに見えるかもしれないけれど、でも、彼らがやるように演じていい曲じゃないんだ! と思ったものである。オリジナルのニューオーダーだって、演奏がヘタでとっても素敵だ。

あのまずい演奏の上で、こういうセンシティブな歌詞を、何の情感も込めることもできずに歌う不格好な姿に、どうしようもなくカッコ悪く鬱屈した彼らの世界を僕は見ているのだ。僕はその世界が好きだった。聴きたくないときには、頭痛がしてくるようなひどい音楽なのだけれど。

2007.01.26 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [音楽] [映像

僕の小規模な失敗

「七里の鼻の小皺」さんからリンクしていただいていた。本当に心強いことだ。ご指摘は全く妥当で、僕はこのブログに、量と、それを成り立たせるためのスピードを求めている。その理由は、こう書けば少なくとも彼に伝わるのではないかと思うが、このブログを始めるときに、連中をブッ殺すにはまず大量の弾が必要だと思ったからだ。一人でやるのは不可能ではないはずだと思ったが、実際に一定以上の水準を保ってそれを成すのが簡単ではないのは無論だ。僕のこのやり方はもっともっと過剰でなければならないはずなのだ。だからこそ、「大量の弾が必要だ」と思った僕が「世界の片隅でこっそり核兵器を造っている」と書く彼に言及されることは、ある種の共犯を得ているようで心強い。だからここには、ひょっとすると失礼なことかもしれないが、「むろん七里の鼻の小皺もまた全く素晴らしい」と書き留めておきたい。彼はこの状況をはっきりと自覚して、なすべき事をなしている。左のリンク集からリンクされているサイトは、僕にとって本当に信頼に足るサイトばかりで、僕はそれを誇らしく思う。

さて、もうひとかたリンクしていただいていた「私は丘の上から花瓶を投げる」さんが福満しげゆきを読まれていたが、ちょうど僕も「僕の小規模な失敗」を読んでいた。これは、実は通して読もうと思いながら、ずっと読んでいなかった本だ。この話はたぶんニートとかワーキングプアとかランチメイト症候群とか、何となくいまどきキャッチーな現代の若者像に当てはめることが可能なのだろう。だが、読めば分かることだが作者はこの物語を清く貧しく美しくは描かなかった。このマンガの素晴らしさは、主人公がいい加減かつ最低な人間であるところだ。貧しいからといって、清くも美しくもない。

そもそもこの本の最初のセリフは、第一話のタイトルコマにある

一時はどうなることかと思ったけどなんとか高校に入れてよかったよ

である。まずは、中学の時点で既に何かロクでもないことが起こったあげくとして、この物語は始まるのだ。そしていろいろロクでもないことが起こるわけだが、その後に第6話でようやく大学に入ったときのタイトルコマのセリフが

一時はどうなることかと思ったけどなんとか大学に入れてよかった…

なのである。なんという反復であろうか。笑ってしまった。2回とも全く同じシチュエーションで同じセリフ、が用いられているのは実に効果的な作者の演出である。これは、前にも思ったことを、前にも思ったのと同じように思っていて、しかも彼はその過去を全く思い出しもしない、という極めて説明的な描写なのだ。この作品はエッセイマンガ風に自伝を語っているようにも見えるが、実は非常に技巧的である。

主人公はけっこう、何とかしようと思ってオロオロし、いろいろと手を尽くす男だ。行動力がないから何もできず、うまくいかないわけではないのである。彼なりにいろんなことをやらねばならないと思って、遂行している。彼が常に現状を常に変えなければならないと思い続けているのは、このまま進んだ先に全く想像のつかない不安な未来があるような気がするからだ。「遠い将来」の恐怖ゆえに、いきなり別の現実にシフトしてしまいたいのだ。が、その先でどうするかは全く考えていない。彼には常に「近い将来」がないのだ。だからいきなり状況を変えても、何ともならないのである。うまく立ちゆかずに破綻が訪れ、そして「遠い将来」がさらに恐ろしくなる、というループが繰り返される。このままだと彼にとって人生は結局、常に直前について「一時はどうなることかと思った」と思い続ける時間だけが繰り返されてしまうのである。主人公の彼自身はその循環に無頓着で、ただ場当たり的に物事を変えながら「一時はどうなることかと思った」と思い続けている。だが作者はそれに気づいていて、マンガの手法の上で活かすことができる。だからこれは笑いどころとして成立するのである。このマンガは、作者が切ない自伝を語ろうとしているわけではない。辛い気持ちに共感してほしいわけでもない。辛い生活を送る主人公に寄り添いながらも、どこか突き放している。この距離の取り方が絶妙である。

また、主人公のそういうダメさをコミカルな笑いとして昇華しないところがこのマンガの魅力だ。ほかのマンガでは、例えば「バタアシ金魚」のカオルなどは、「みんなと違う変な奴がいます」という位置づけがされてしまっているので、スラップスティックなギャグなどを柔軟にこなすことができる(つまり彼はしばしば人間として扱われない)が、その代わり彼の内面の問題は、本当に残念なことだが、理解されにくい。カオルがなぜあの誇大妄想的なキャラクターを演じなければいけないかすら、読者はほとんど考える必要がないのだ。しかしこの作品はそうではない。「変な奴」を、言動も内面もつぶさに写実していくため、読者は彼の心理に付き合い、トレースしなければならない。常時、手前勝手な目先の問題に対して必死で応対し続けているのである。それを「がむしゃらでいい」とはとうてい言えないし、まして清く美しくなどない。だが、この作品にリアリズムがあるのはそのせいである。深く共感しうるのは、世のほとんどの人は清くも美しくもないからなのだ。

このマンガで一番面白かったのは、バイト先に来た気になる女の子が忘れ物をしたシーンだ。「あ!! カバン忘れていってる!」の次のコマで、彼は間髪入れず「急いで中を見ないと!!」と手帳をあさるのである。彼はただただ必死な顔をしてそれをやってしまうわけだが、ここが面白いのは、この行為が全くツッコミ待ちになっていないことだ。他人のカバンを勝手に開けて手帳を見ることが1コマで片付いて、シーンとして強調もされず「オレはこんなにダメなんだよ」という主張にもなっていない。些細なことであり、いい悪いの問題にすらならない。その是非を読者が判断することなんて期待されていない。そして、読者としても問題視せずに読み進められるのである。主人公の心理に付き合っているうちに、読者の意識まで混乱させられてしまうのが面白かった。

だから逆に、「誰かが僕を尾行してて彼女に言ったのかな? 誰が!? 政府か? なぜ政府が僕なんかを!」のような、必要以上にコミカルさを強調されたセリフには面白みを感じない。このような強調されたキャラクター性は作品の後半になるに従い増えているようだ。彼女ができたせいか、主人公のダメさは次第に深刻な問題ではなくなってしまう。ダメさを何とかしないと、童貞だしホームレスにでもなるしかないという、必要以上の焦燥感は失われる。それゆえダメさは安全に扱えるものとなり、マンガの面白さを作るために使われるようになるのだ。主人公と読者と作者は限りなく一体感を持ってあの焦燥感を味わっていたが、後半では主人公は読者と作者にとって「マンガの登場人物として面白さを見せてくれる人」という第三者的な存在に退く。しかし、それをおいてもラストの主人公の述懐はいいと思う。

僕はいろいろ思った
いろいろなことが…
あったようななかったようなこれまでだったけど…
落ち込んだりもしたけれど…
よくよく考えてみれば今まで
これでよかったんだ…
…………いや
むしろ幸せな人生だったのではないかな…?

これはひどいまとめだ。これまでのまとめであり述懐であるにもかかわらず何ら具体性がないところが主人公の性格どおりだ。笑うべきオチとして、この最低さはとても見事だ。続編的な短編連作「僕の小規模な生活」は、やはりもうあの根拠の不確かな焦燥感を読者に押しつけようとしてくれないため僕はあまり買っていないのだが、それでも作者のこういう言葉のうまさは随所に出ていると思う。

2007.01.26 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

気まぐれコンセプト クロニクル

先日「気まぐれコンセプト」について書いたら、検索エンジンからずいぶん「気まぐれコンセプト」という単語で人が来た。このマンガが背負っている月日や価値からすれば驚くには値しないことだが、それでも面食らった。何となしに責任のようなものを感じて、今日は「気まぐれコンセプト クロニクル」を購入する。発売直後に本を、マンガ単行本を買うなんて久しぶりのような気がする。スピリッツを読んだら「通常の単行本4冊分の厚さがあります」みたいなことが書いてあって興奮したのだ。書店に向かいながら、前に書いた

どうせ新刊を出すならバブル前期から現在までの膨大な量を全部読みたいくらいなのだけれど。

ということが、かなりのレベルで実現されているのだろう、ということにうれしくなった。作者や編集者は、この本が今日までのすべてを形にしていなければいけないということを、ちゃんと分かっているのだ。「全部入ってないと意味ないでしょ?」と言って、彼らは自分たちの仕事のなんたるかを理解しているのだ。とても感激した。

実際「4冊分の厚さ」であろうとも、さすがに全部を入れることなんてできなくて、かなり抜粋した形になっている。だが、それでもこの本はとても素晴らしい。読み始めて、最初は、元のマンガをベースにしてまさに年代記的に過去の流行や風物を解説する編集構成にちょっと拒否反応があった。現在において重要と思われるものだけを抽出するようなやり方に不安を覚えたのだ。最近は80年代や90年代がブームらしいのだが、その時代に自分たちが思い入れのあったものばかりを懐古趣味のためだけに取り上げるメディアばかりで、僕はうんざりしているのだ。「気まぐれコンセプト」もそうであって欲しくないなと思ったのだが、しかし読み続けているとそれは杞憂であったと分かる。第一、23年分もあるものを、わざわざこんなに分厚くまとめたのだ。そんなチャチなものであるわけがない。もちろん最近の90年代ブームとか、映画「バブルへGO!」に当て込んでリリースされた本なのだが、それとは別に、この本の重要な意味に自覚的な、編集者的な熱意を感じる作りになっている。「東京いい店やれる店」もそうだったが、彼らの仕事がなんなのか分からない奴を尻目に、さも悠々と熱意の込もった本を作っている。作品を売ったり話題になったり何でもないもののように扱われながら、なお自分たちの気持ちは別にあり、そしてそれに誰もが目を向けていなくてもいいのだ。ホイチョイのよさというのはそこだし、彼らが、今ではすっかり言葉としての意味を減じた「業界」に感じているカッコよさというのも、それなのかもしれない。ああ、Wikipediaの気まぐれコンセプトの項目を書いた馬鹿な奴には、絶対に分からないことなのだろうが!

2007.01.23 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

世界樹の迷宮

また仕事が忙しくなってきたんで仕事をしている。合間に「世界樹の迷宮」をプレイしている。僕はウィザードリィにほぼ思い入れがないので、ウィズファンのゲームシステムや世界観などに対する熱意のほとんどが理解できないのだが、3DダンジョンRPGは嫌いではない。例えば「ダンジョンマスター」などには、ウィザードリィなんかよりずっと深い思い入れがある。

「世界樹の迷宮」を新たにプレイするにあたって、これら過去の3Dダンジョン探求型RPGと「比べてどうか」という評価がこのゲームに対して失礼だろうなと思ったが、しかしゲーム制作者は意図的に過去のゲームの引用を繰り返して、プレイヤーに思い出させようとしているように見える。また引用か。別にそれ自体は悪くはないが、毎回毎回引用とかオマージュと書いていると自分がそれしか書けないバカになったように感じる。

それはともかく、しかしこのRPGは過去作品との類似性を意図的に用意しているにもかかわらず、系譜の上で連ねられてゲームとしてのデキで比較されたがっている、というわけではないようだ。つまりそれを引用する理由として、過去にそれらのゲームを楽しんだプレイヤーに懐かしさを感じさせたい、という意図しかないのである。

このようなノスタルジーに訴えかけようという意図は、引用がゲームのルール的な部分以外にも及んでいることからも伺える。例えば古代祐三のFM音源による音楽であるとか、「君たちは○○することもできるし、そのまま立ち去ることもできる」などというゲームブック的なシステムメッセージは、このようなダンジョンRPGが息づいていた80年代の空気をそのまま再現するものだ。だから、このゲームのウリであるはずのマッピング機能が妙に使いにくかったり、ステータス画面が分かりにくかったりしても、うっかり「昔の(雰囲気の)ゲームだから仕方がないか」という気分になってしまえる。昔は操作性の悪いゲームであっても、プレイヤーが我慢するのが普通だったのだ、このくらいのことは耐えねば、と思ってしまう。ソフトウェア的なマイナス点と呼んでいい部分の多くが、「昔はそういうものだった」という理由で納得できてしまうのはなかなか面白いことだと思う。納得できない(つまり、若くて昔のゲームをやったことがない)ユーザー以外は、この不便を自分に強いて、それに快楽を覚えることすらできるのだ。しかし、「イース」が当時に目指した「優しさ」に背を向けて、清貧よろしくゲームのマイナス点に楽しく耐えるなどということができるのは、コンピュータもゲームも今ではずっと進化して、至れり尽くせりの手ほどきをしてくれる「親切なゲーム」が増えたからこそなわけで、このような快楽は実はずいぶん贅沢なものなのだ。だから、あらかじめユーザーの豊かさや寛大さに期待しているというかどでは、このゲームは責められることがあるかもしれない。

2007.01.21 | | コメント(6) | トラックバック(0) | [ゲーム

鉄コン筋クリート

「物語の終焉」あるいは「物語の死」という問題は、ごく最近になって論じられ始めたわけではなく、遅くとも70年代には物語の形式として今や最古に属するものの1つである小説において発見されたテーマだった。僕の印象では、この問題はほかのジャンルのフィクションにおいてもいずれは到達する問題であったが、最初に発見されたのが斜陽と言っていいジャンルである小説においてだったために、以後80年代の半ば過ぎまでは、その愛好者間においてのみ、ひっそりと危惧され続けていた。例えば1980年、ジョン・バースはエッセイ「補給の文学」の中でこんなことを書いている。ブログに引用するにはかなり長いものだが、とても確かなことが記されている上に志村正雄による訳が好きなので引用しよう。

私のエッセイの趣旨を簡単に言えば、芸術の形式と様式は人間の歴史の中に生きている、それゆえ使い尽くされた状態になりかねない――少なくとも特定の時と所における相当数の芸術家の心の中では――ということであった。つまり、芸術上の諸習慣は引っこめられたり、くつがえされたり、越えられたり、変えられたり、その意志に逆らって展開されたりもしがちなもので、その結果、新しい、いきのいい作品が生まれるということ。この論旨は、反対のしようがないと私の思うところであった。それなのに非常に多くの人々が――その中にはセニョール・ボルヘスも入っていたようだ――誤って、私は文学、少なくとも小説が死んだと言っている、すでにその命脈が完全に尽きているんだ、今日の作家に残されていることは、この尽きてしまった媒体の偉大な先輩たちをパロディ化し、茶化す――まさにある種の批評家がポストモダニズムだと言って嘆くようなことをやる――以外に何もないと言っているのだと取った。
 そんなことを私はぜんぜん言っていない。自己超越的パロディというかたちで、小説は『ドン・キホーテ』から始まると言っていいし、しばしば活性化のためにそういう様式に戻ったという著名な事実は別にして、ただちに、はっきりと言っておきたい――文学が尽きることなどあり得ないというボルヘスと私は同意見である、と。いかなる文学テクストといえど尽きることはあり得ない――その「意味」がさまざまな時、空間、言語にわたる個々の読者との関わり合いに存する――というだけの理由によっても、文学は尽きるものではない。私の以前のエッセイの誤読者に申し上げたい――文字に書かれた文学は、じっさい四千五百年の歴史を持つ(文学の定義によって、数百年のプラス・マイナスはある)が、この四千五百年という年齢が老齢なのか、成人なのか、若いのか、単なる幼児期なのか、それを知る術はないのである、と。表現できるすばらしいこと――たとえば暁とか、海とかの隠喩――の数は確かに有限であろう。同じくらい確かなことは、その数は非常に大きく、まずはほとんど無限と言ってもいいかもしれない。私たち作家は、ある種の不機嫌におちいったとき、ホメロスはおれたちより楽をしたなあ、「薔薇色の指の暁」やら、「葡萄色の暗色をした海」などと競争相手のいないうちに言ったのだから、などと感じるかもしれぬ。現存する最古の文学テクストの一つ(ウォールター・ジャクソン・ベイトが一九七〇年の研究に引用している紀元前二〇〇〇年頃のエジプトのパピュルス片)は、もの書きのハヘペルレセンブが文学の現場に到着したことの遅きに過ぎることを嘆いたもので、せいぜい私たちはこれをもって慰めとすべきであろう――

いまだ世に知られざる文句、目新しい言葉がほしいものだ、いまだ使われたことのない新しい言語、繰り返しではなく、昔の人たちがしゃべった言葉ではないものが。

ここでバースは、むしろ「文学は死なない」ということを主張しているが、最終的にこの時代を席巻したのは、彼がわずかに認めた文学表現の有限性という考え方であった。構造主義以降の思潮は、修辞表現はもちろん、物語構造全体までもパターン化して分類可能にすることで有限性の幅を縮め、「ほとんど無限」として片付けられるはずのフィールドを区画整理されうるものとして再定義した。

90年代が始まったときは、フィクションに対する不安はついに小説以外のジャンルへと波及しており、マンガについても声高に「物語の終焉」が語られ始めていた。89~90年ごろのマンガに対する言論に、「物語の終焉」というテーマが散見されるのはそんなわけである。僕が知っている限りでは、たとえば米沢嘉博などがそういう議論をしていたはずだ。以前ここにも書いた「テヅカ・イズ・デッド」にも、この時代のマンガ終焉ムードを論じた個所があったはずである。そして、松本大洋が登場したのはそういう時代であった。

僕はこのたびユリイカの原稿を書くために「鉄コン筋クリート」を読み直して、まずはひどく戸惑った。ずいぶん90年代的な物語だなあと思ったのだ。彼がこの作品で行っていることは、物語構造を原初的な単純さに求め、装飾的に比喩やオマージュに満ちた絵とセリフなどを散りばめる、現代における寓話である。彼の作品が90年代において物語としての新しさを提供しているように感じられたのは、まさにそこであった。誰もが、この作品に物語としての生命力の強さや、生や死の象徴的なイメージを感じることができる。またいくらでもペダンティックに読み解くことができる。僕は原稿の中で「魔術的リアリズム」と書いたが、これは言うまでもなく、小説において「終焉」が語られて以後魔術的リアリズムと呼ばれる作品群がブームとなった状況に、松本大洋の初期作品群の特徴とその迎えられ方が似ていると感じてのことである。この「魔術」は、物語の復権を期待されたものであったのは間違いない。かくして松本大洋は「終焉」ブーム後の時代を代表する作家だったのである。

しかし2007年という現在において松本大洋を語るまでに、時代はかつての小説においてとは違う変遷をたどる。まず第一に、松本大洋の手法は急激に模倣された。おそらく326の登場によって、我々はコピーを重ねた「松本大洋的なもの」の極致を見たはずである。その結果何が起こったかというと、松本大洋は掛け値なしにオリジナルな作家であったにもかかわらず、恐ろしいことに326の物語と90年代における松本大洋の物語が実は全く異ならないと言うことが可能になってしまった。松本大洋が「鉄コン」で選んでいた手法とは、先にも述べたように、物語をあくまで原初的なものに求めて、セリフや絵に深いオマージュを込めていくということである。表徴として現れる絵とセリフがどうであれ、物語の単純さを崩さないことでこの「魔法」は成り立っていた。しかしそれは裏を返せば、同じく単純で強いメッセージを持ち、松本大洋から抽出された表現を用いる326を軽んじられない、ということにもなってしまうのだ。90年代から現在までに培われたマンガに対する分析的な読みは、そんな事実を我々に突きつけることが可能になる。原稿で僕が「この作品から受ける感動がそんな単純な寓意から来てたと気づかされるのはショッキングなことかもしれない」と書いたのがそれである。なぜショッキングかというと、この物語が興味深いものとして読み解かれた90年代には、確実にそれ以前にはない新しさを持ったマンガとして読まれたはずだからである。しかし2007年に松本大洋を論じることは、彼を「松本大洋的なもの」の頂点に格下げることに近づいてしまう。

さらに、90年代と今で違うことには、その物語が持つ寓意の効果がある。たとえば今、アメリカでは小説が全く売れない。本当に読まれなくなってしまった。「”It”(それ)と呼ばれた子」とか、「ア・ミリオン・リトル・ピーシーズ」などのフィクションが「ノンフィクション」として売り出されてベストセラー化し問題になるなど、ひどいことがたくさん起こっているのだ。アメリカほどのことが起こっているとは思いたくはないが、日本でも今は事実をベースにしたフィクションや、ノンフィクションは飛ぶように売れるし、一部のノンフィクションに対する批判は、「それが真実かどうか」ということだけを注視する。なぜこんなことになったかというと、当たり前だが人々がフィクションよりも現実に強い興味を持っているからである。これは80年代にバースが述べたような「物語の死」とは微妙に異なる問題であり、実際、現在あちこちで行われている「物語の終焉」という議論は、現実が物語を凌駕して物語のリアリティはリアルに敵わなくなり、物語のリアリティが成り立ちにくくなってしまったということを主な問題とするものだろう。だからこそ、今、批評的に作品を語る者の多くは、現実問題やジャンル全体、または技法にフィードバックする形でしか作品を評価しえない。魔術的リアリズムの物語が根底に持つ単純な寓意は、消費される物語の回復に対して有効に働いたが、リアリズム自体の立つ瀬が奪われていっている現在の問題には合致しない。寓意は物語の豊穣さなどもはや伝えない。現実に対する、ひどく素朴な批評として回収されてしまう。

あの映画で起っていることはそれである。映画スタッフが忠実に原作を再現した結果、純粋にあの寓意に共感する者しか見られない作品になっている。この映画は映画「時をかける少女」について熱く語る人からは絶賛はされない。しかし原作に忠実である以上、原作に対する肯定的評価だけが許され、映画だけが批判的に扱われるいわれはない。原作には複雑な意味内容があって映画にはそれがない、と考えるのは間違いなのである。そこには、映画単体ではなく「鉄コン」という物語そのものが、2006年までの間に読まれ方を変えてしまったという事実が確固としてある。そんなことを考慮して原稿を書いたわけである。映画自体を離れた話は端折ったが、試写を見たときにこのブログにメモったことの詳細は、だいたい今書いたようなことである。

あの映画は10年遅かったのだろうか、90年代なら、あの頃はまだ新しかった物語を映像化した作品として、手放しで楽しめただろうか、とも考えたが、10年前には公開なんてとても無理だったのだ。あの映画が公開できるはこびとなった時代状況には、昨今のアニメや漫画に批評的な見方をする人々の存在があったはずだ。難しいことである。

ともかく、12月の半ばからずっと考えていた「鉄コン筋クリートについて考える」という作業がひとまず片付いて何となくスッキリした。

2007.01.16 | | コメント(0) | トラックバック(2) | [マンガ] [アニメ] [文章

まえけんトランスプロジェクト「恋のブチアゲ♂天国 恋のマイアヒ-チワワ-バンザイ」

日が空いてしまった。更新していない間は何をやっていたかというと、今度新しく運営するサイト用にサーバやドメインを契約したりした。借りただけなのでまだ何にもコンテンツはない。僕がかなり苦手とする種類のサイトなので、作るのにはまだまだ時間がかかるだろうなあ。ともかく、公開用のメールアドレスをようやく確保できたので、あとでこのページのプロフィールにも書いておく予定。

そんなことをしながらも昨日は西島君が夜遅くに来た。うちでWiiで対戦して、軽く話す。ユリイカの文章を誉めてくれたので大いに機嫌が良くなり、ここに鉄コンのことを書く気になる。うれしかったのは、どうして僕があのような書き方を選んだのかということを汲んでくれたところだ。もっとも、彼は僕と一緒にあの映画を見て、そのあと内容について話したし、何より僕の考え方がある程度わかっている友人だから意図を汲めて当然なのかもしれないが、おだてられやすい僕としてはともかくうれしかった。

そのあとカラオケに行く。Berryz工房「ギャグ100回分愛してください」に始まっていろんなものを歌ったが、歌詞を見て今さら、改めて感動したのは、「恋のブチアゲ♂天国 恋のマイアヒ-チワワ-バンザイ」である。歌詞を一部抜粋しよう。

BABY I LOVE YOU(チワワ)
愛してる (チワワ)
BABY I LOVE YOU(チワワ)
オー チワワ (チワワ)

BABY I LOVE YOU(チワワ)
愛してる (チワワ)
BABY I LOVE YOU(チワワ)
オー チワワ

う~ ばんざい!

1. 2. 3. 4. 5. 6.
前進するのが大事よ
1. 2. 3. 4. 5. 6.
みんなで陽気に暮らそう
1. 2. 3. 4. 5. 6.
前進するのが大事よ
1. 2. 3. 4. 5. 6.
人生いいこともあるわ
1. 2. 3. 4. 5. 6.
みんなで陽気に暮らそう
いつも一緒に MUZICA
そして燃えつく L'ANIMA
当たり前のことが
素晴らしい事に気がつく

LA LA LA……
SAY GOOD-BYE
LA LA LA……
SAY BANZAI

この批評性のなさはすごい。革命的なことだと思う。すべての言葉が、タイトル通りに「ブチアゲ」るために選ばれた即効性のある記号でしかない。素晴らしい。

本来「がんばれ」「元気を出して」みたいな応援ソングの歌詞というのは、現状を回復するという視点から書かれているはずだ。先だって僕が聴いていた「男の勲章」もそうで、この手の曲は、少なくとも回復すべき現状についての評価という部分を持っているがゆえに、客観的または批判的な視点が導入されているともいえる。

漠然とした欠如感を満たそうとする歌詞というのはこの手の応援ソングはもちろん、日本のヒットソングにはよく見られる、ありふれたテーマだ。例えば僕はスピッツ「ロビンソン」の歌詞に同じものを見る。応援ソング的な歌詞の語る未来への希望とは、リスナーにとって常に満たされた現実でないことに意味がある。ヒット曲として応援ソングがウケるのは、そこで歌われている希望をリスナーが必要としているからとも言えるけれど、常に欠乏感が必要とされているとも言えるのである。

しかしこの曲はさして否定すべき現在を想定していない。「前進するのが大事よ」と言っているのは、現状が示されないまま出てきた言葉なので文字通りの前向きでありたいという意志の表れにしかなっていない。全編を通して、この曲ではわずかに、「人生いいこともあるわ」の「も」だけが現在に対して批判的な要素である。しかも同時に「当たり前のことが素晴らしい」などと言って、「前進しすぎない」ことまでが求められているのだ。リスナーとアーティスト、もしくはリスナー同士の現状に対する不満ではなく、未来に対する肯定的なイメージだけが漠然と、しかし強く共有され、「みんなで陽気に」「ブチアゲ」ることが求められている。この高揚感と一体感の捻出は、もちろんトランスという音楽の種類的にも大正解である。

余談だが、「エウレカセブン」の最終話を見たときにもわりと近い印象を受けた。あのアニメの楽しみとは、途中を全く見なくてもよく、最終話のBパートだけ、電気グルーヴの「虹」がかかるところだけを見て、そのドライブ感と高揚感を感じるだけで成り立つ。「何だかよく分かんないけど、でも大丈夫!いけるよ!」という驚くべきセリフが出てくるが、それに対する批判など無意味なのである。

2007.01.15 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [音楽] [アニメ

天空の城ラピュタ

いろいろここに書く題材があって、「鉄コン」の話が書けない。しかし何となく見たくなったので「天空の城ラピュタ」を見てしまった。見たので書かねばならない。明日には鉄コンについて書きたい。

あまりジブリアニメをちゃんと見ていないが、見た中ではこの作品が一番好きだ。前に見たのは何年ぶりか忘れたが、何年も前だと思う。見始めて、最初の飛行船からシータが落ちるあたりで既に感動して泣きそうになっている。何だかまるで涙腺が弛んでいるようなのだ。前に見たときにはそれほど感動しなかったし、だいたい冒頭のシーンで感動するなんてどうかしているわけで、自分が何に感動しているかよく分からなかった。今にして思えば、あの感動は物語自体にではなかったと思う。たぶん作品の表現があまりに自由で幸福感に満ちていたからだったと思う。この作品は全くスレたところがなく、外連味もない、素敵な冒険活劇で「このアニメ映画でもってすごい話を見せて観客をワクワクさせよう」という作り手の意図がまっすぐに伝わってくる。今、こんな立場から作品を作るのはなかなか困難だ。もう今では宮崎駿ですらそれができなくなっている。僕は今では成り立ちにくい、その力の美しさに感動したのだと思う。

この話はちなみに、見てみるとナウシカに始まりトトロへと続く「自然対人間」という物語だった。過去に見たはずなのに全く気づいていなかったのは、いい加減にしか見ていなかったせいだと思いたい。まずポムじいの畏怖である。

その石には強い力がある。わしは石ばかり相手に暮らしてきたからよう分かるんだが……。力のある石は人を幸せにもするが、不幸をまねくこともようあることなんじゃ。

ましてその石は人の手が作り出したもの……。その……気になってのぉ……。

もう、これだけで十分「自然の方がエライんだぞ」というメッセージなのであるが、これがラストにシータが言う「人間は土を離れては生きられないのよ」というセリフに繋がっていく。

ここでポムじいは、飛行石自体が「人」に対する「自然」ではないという重要なことを言っている。では「自然」とは何か、ということは後に明らかになるのだが、それはラピュタにそびえ立ち、根を張り巡らす巨木であった。ムスカがラピュタの心臓部に張り巡らされていた植物や木の根に対し「後で焼き払ってやる」と言って常に不愉快そうにしているのが、自然と人間の対立の象徴である。

ラストで滅びの言葉を言ったときにラピュタの上層部が崩壊を免れるのは巨木がラピュタ全体に根を張っていたおかげだ。ここでムスカと対比されることで、自然たる巨木の勝利が示されている。このラストシーンは、一見すると単に根が張り巡らされていたせいでラピュタの崩壊が物理的な意味で防がれたということにも見える。たわんでバラバラになろうとする構造物を根がしっかりつなぎ止めた、というわけだ。しかし飛行石を根に抱いた巨木と共に、ラピュタが浮上を開始するのを見てドーラは「木だ!あの木が全部持ってっちまう!」と叫ぶ。つまり巨木が意志を持って飛行石をコントロールし、ラピュタ(のお宝)を自分たちから取り上げようとしていると彼女は言っているのだ。巨木は、登場人物の一行が訪れたことによって荒らされたラピュタを誰からも遠ざけ、園丁ロボットと植物や鳥、キツネリス達が永遠を過ごす楽園にしようとするのだ。そしてそれは成功する。

しかしここでは、飛行石自体には善悪の判断がなく、ラピュタは常に使用者の意志通りにコントロールされるということが露呈している。パズーはポムじいの危惧に対して「そんなことないよ!その石はもう二度もシータを助けてくれたじゃないか」と言ったが、それは間違いで、飛行石は意志を持って「助けてくれ」たりはしないのだ。園丁ロボットたちにラピュタを譲らねばならない理由はないのに、巨木は彼らを選び、飛行石を利用して逃走したのである。ぶっちゃけてしまえば、この巨木の判断が恣意的でないとは言えないということだ。

飛行石が劇中で力を失い、それにもかかわらず自然がその力をもってラピュタを浮上せしめたのだとしたら、「自然には圧倒的な力があり、善である」というだけの物語だった。超越的な力を持つ自然はまさに人間を越えた存在であり、その行為に善悪はない。しかしこの話では、自然は人と同じく飛行石を使って大きな力を行使する。超越的な力と巨木の意志が分離されるため、その善悪について語ることが可能になってしまっているわけだ。「あの木が全部持ってっちまう!」というセリフはそのことを鋭く指摘している。

この物語にとって最後に善として語られるのは、それでもやはり自然だ。しかし、ここでは単に「自然がエライ」というパターンとはちょっと違うアプローチがされている。つまりは自然が選んだ存在、園丁ロボットや鳥たちの楽園を観客にとって「守られるべきもの」として同意させようとしているのである。漠然とした力としての大自然ではなく、小さく閉ざされた愛らしい生態系を用意し、そこに人間が関与できずまたその必要もないことを示して、我々に不可侵の自然を意識させるのである。

だが、これではやっぱりナウシカのように自然と人間が共存できない世界だ。上昇していくラピュタに園丁ロボットの平和な世界が一瞬だけ映るのは、幸せそうでありながらも残されるものにとって悲しい光景でもあるのである。しかし、そういう終わりが正しいのかどうかという疑問はこの作品にはないし、必要ない。おそらく、そういうことを考え始めると、ユリイカ増刊のインタビューで宮崎駿が言っていたように、「もののけ姫」のようなヒロインが笑うことのない物語になるのではないだろうか。僕はもののけ姫についてあまり考えたことがないのだが、なんとなくそう思った。ともかく、それを考えずに美しくまとめ上げられたこの物語は、本当に素晴らしいと思う。

2007.01.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ

Alors Les Filles,On Fête Noël?

クラブにあまり行っていない。大晦日に友達のイベントがあったのだが、日本酒を飲んで寝ていたので行けなかった。最後に行ったのはリキッドルームにURが来たときだったっけ?いや、それは2年も前だし、その後にも何か行った記憶があるな。しかしそれでも片手で数えられるほどの回数しかないだろう。踊りに行きたいなあ。

左のリンク集からリンクさせていただいている「ecrits」さんは、実はかなり前から拝読しているサイトだが、先日Krazy Baldheadの「Crazy Mothafuckaz」のMidfield Generalリミックスの話をされていた。さっそくTECHNIQUEのサイトで試聴したら大変かっこよかったので、年末に行われたArcade Modeのイベント「Alors Les Filles,On Fête Noël?」の会場に用意されていたらしいOrgasmicによるミックスCDの音源を聴いた。ここで聴ける。せっかく僕もブログなのでEMBEDタグごとパクってウェブ2.0デビューしてみようかと思ったが、趣味に合わないし、このフラッシュの再生ボタンが分かりにくくて頭に来たのでやめた。それにしてもArcade Mode周辺のものはどれもジャケットがキュートだな。

内容はArcade Mode関連のアーティストショーケース的なもので、件のリミックスはもちろんPara OneとかSurkinとかOrgasmicとかJusticeとかUffieとかがどんどん登場するヒット曲集という感じ。ミックスどうこうよりも、いい曲ばっかり手当たり次第に流れるのでアッパーになりたい今の僕には大変いい(余談だけどPara OneのヒップホップユニットTTCの新譜はあまり好きになれなかった)。

しかしいわゆるエレクトロで踊るのってやっぱり難しそうだという印象も抱いた。だからたぶん僕がこのミックスCDは好きだ、と思ったのは、Surkinの「Midnight Swim」リミックスとかがあるからなのだろう。この人のハウスとゲットーテック的な手法の融合は僕の好きな過去のハードコアテクノとかラガテクノに印象が近く、それに自分は反応しているのだと思う。

Surkinは日本先行で2月にアルバムが発売されるみたいだけど、本人のmyspaceで聴く限りでは別に上記のような僕の好みに沿った曲ばかりというわけではないとは思う。でも時代はリバイバルにリバイバルを重ねて、アーリー90'sに近づいていると考えると楽しい。ジェームズ・ブラウンも本当に死んだことだし、そういう曲が妙に流行ったりしないかな。

2007.01.08 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [音楽

ILLMATIC BUDDHA MC's「TOP OF TOKYO」

全く関係ないが、なんだか文章にかける時間が長すぎるようだ。このトーンを崩さないようにしながら短く早くってのは意外と難しいなあ。もうちょっとライトに書いてもいいかなとも思うけれども。話はさらに逸れるのだが、年末年始にウェブを見たら「2006年ベスト10」みたいな企画をやっているブログが多かった。簡単に言うと「このマンガがすごい!」みたいなやつだ。つまりみんなは普段は総論というか概論みたいなものを主に書いて、年末になると個別の作品について書くのか、となんとなく不思議に思った。しかし個人的には2006年は00年代を象徴するような年じゃないかと感じるほどいろいろ目立った出来事のある年だと思っていたのだが、このブログは形式的にそういうことを書きにくいので、結局書かなかったなあ。

ILLMATIC BUDDHA MC's「TOP OF TOKYO」はWOWOWで放映中のアニメ「TOKYO TRIBE2」のオープニング曲である。YouTubeではここでPVが、ここでアニメのOP映像が見られる。YouTubeにはアニメ本編もマメにアップされているようだ。

こういう曲、というか無敵の三本マイクことBUDDHA MC'sは、そのスキルも越えもルックスも三人が三人とも単純にとても好きなので(そんなの当たり前じゃないか!)、曲を聴いても「うわー三人ともカッコいいなあ!」と思って終わりになってしまうことが多い。だから何か意味のあることを書くのは難しそうだ。

なお、このアニメのエンディング曲はスチャダラパーで、サウンドトラックのプロデュースはMUROである。OPとEDのメンツについては作者である井上三太の強い希望があったと公式ウェブには書いてある。本当かどうかは知らないが、なるほど「自分のマンガをアニメ化するならそうであって欲しい!」と思うかもしれないメンツかなと思う。つまりBUDDHA MC'sもスチャダラパーも、日本のヒップホップにおいて象徴的なキャラクター性と意味を持った人々で、積年の夢って感じの人選なわけだ。ただ、ちょっとだけ懐かしい意味合いが強く出ちゃう人選かなとも思うが、しかしもっと若いラッパーを配して、この作品の持つ日本のヒップホップに対する強いオマージュが伝わりにくくなるよりは、こっちの方がずっといいと思う。

で、リリースされた曲を聴いてみると、任された二組は各々の個性を十分よく発揮していて、狙い通りの曲に仕上がっている。「TT2オワリのうた」というスチャダラパーの曲名も、ブッダと並べてみると個性が引き立ってなかなか好きだ。曲単体では正しい人選だったと思うわけだが、僕はアニメをまだ見ていないので画面にマッチしているのかは分からない。今度見てみよう。

2007.01.08 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [アニメ] [文章

気まぐれコンセプト

たまたまウェブで「気まぐれコンセプト」の単行本(新刊)が出るという情報を見た。「気まコン」と言えば以前から、たいへん重要なマンガのに誰も注目していないという話を会う人ごとにして、また文章にも書いていたのだが、そうしたらばるぼらさんがわざわざ絶版となっている単行本を贈ってくださったのだった。ちょうど昨日あたり、ばるぼらさんにリンクしていただいていたので、それに引っかけながら、今度の新刊やこの作品の不可思議な黙殺についてまたしつこく書いてみようと思い、さっそくスピリッツを読んで情報を仕入れた。今週号の絵で見る限りでは、装丁は旧単行本に合わせたペーパーバック風のもののようだった。それで今ブラウザを開いてみたら、ばるぼらさんが既にそれについて書かれていて、なんだか見透かされたような気分で恥ずかしい。

これの一巻は前に人にプレゼントしてしまったので今手元にないが、現在とは違い、業界ネタが主流ではあるものの、時事ネタが希薄だったように記憶する。

このプレゼントしていただいたのが僕である。内容を確認できなくなってしまって申し訳なく思いながら、いただいた単行本を読み直してみた。ばるぼらさんもおっしゃっているように、時事ネタより広告業界ネタが多く、欄外に広告業界用語が脚注として付けられている。ただ、読み返してみると現在の基本路線である時事ネタもそれなりに散りばめられているようだ。連載当時に全くなかったわけではないようだ。当初に大幅な分量を割いていた業界ネタが尽きたため、時事ネタだけが残った、という感じかもしれない。最もストレートな時事ネタでは「オールナイトフジ」や「アクアフレッシュ」のCMの話などがあった。いずれにせよあくまで広告業界にまつわる話として取り上げられているのが現在との違いかもしれない。今では酒の席で使えるような「面白い話」として時事ネタが使われていることも多々あると思う。また現在ほとんど残っていないパターンの話として、時事ネタでも業界ネタでもない単なるギャグ4コマのような話もいくつかあるのが意外で面白かった。

しかし20年以上前の本だけあって、意図的に挿入された時事ネタでなく普通に描写しているだけのものでも現在の世相や風俗とは異なっている点が多くて面白い。「トルコ」や「女子大生」なんてまさにそうである。しかし最も時代を感じさせるのはパソコンだ。この本には「OA」や「ワード・プロセッサー」などのデジタル機器が登場するが、しかし各章の扉では、広告業界に必須のアイテムとしてデザイナーが使うディバイダやトリミングスケールなどのアナログな用具が解説付きで図示される。作中において結局「OA」はこれらのツールに花を添える脇役の1つでしかないが、「IT」はこれらすべてに取って代わって、世界を劇的に変えてしまったのだなあと思う。テレビ局にCMを納品する1インチVTRテープなどは、たぶん今でも現役じゃないかなと思うが、もうすぐテレビ放送がデジタルになってしまえば、役割を終えてしまうのかしら。

時事ネタとしては「六本木の一等地」に「ビデオやレコード等、オーディオビジュアルソフトのデパート」として建った六本木WAVEの話が載っていたり、漠然と「景気が良かったはずだ」という印象を持っているのにセリフの中では「ゼロ成長時代」なんて言われているのが興味深いと思った。やはりこれは穿った見方など全く必要なしに、日本の一時代を描いた貴重な資料なのだ。しかし、この本がどんなものかもよく考えずに、ほとんど「美味しんぼ」のような予定調和マンガや、サラリーマンが退屈しのぎに読む軽い4コマのように考えている人の方が多そうだと思う。「あえて」楽しんで読んでいますという難儀な人も含めて、「気まコン」は誰にも顧みられてこなかった作品なのである。ばるぼらさんのおっしゃるように、

これも語られない漫画であり、漫画史から抹殺され続ける不遇の作品だなあ。

ということになる。ばるぼらさんに先に言われてしまったので僕が繰り返すまでもないのだが、しかし僕はまた、最近は過去のマンガを積極的に読んだり、80年代や90年代、そして00年代の文化全般について何かを主張しようという人がかなりの数いるのに、こういう作品について語ろうという人が全く存在しないということそのものにも、興味がある。マンガであれ、音楽や世代であれ、サブカルチャー全体であれ、今僕が目にする言論のほとんどが、こういうものを見過ごした上で主張されているように思えてたいへん気になる。「萌え」とか「オタク」が流行ったって、いやむしろ流行ったからこそ、今のマンガの語り手からこの作品はますます無視される結果になっているものだと思う。もちろん、誰もが意識する必要なんてないのだ。しかし意識する語り手が全くいないのはおかしい。また、誰もこれを意識していないのに、いずれの論客も、あたかもすべての過去をフラットに見通せているかのように物事を語るのは、たいへん奇妙に思う。

今回の新刊「気まぐれコンセプト クロニクル」はおそらく、映画「バブルへGO!」との連動を目論んだものなのだろう。これらをまたも自分とは無関係だとする人もいると思うと残念に思う。個人的にはバブルだけにこだわっているわけではないので、どうせ新刊を出すならバブル前期から現在までの膨大な量を全部読みたいくらいなのだけれど。

2007.01.07 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ] [映像] [文章

弾いて歌えるDSギター"M-06"

とっかえひっかえ、ゲームをやっていた。ハドソンの「SUDOKU2 Deluxe」をやってみたつもりだった。前作よりUIがよくなっているはずなのに全然変わらないなあと思ってよく見たら、前作だった。なにをやっているのか。こういうの多いなあ僕は。

「弾いて歌えるDSギター"M-06"」もプレイする。これはたいへん面白い。本当にギターを弾いているようだ。デジタル的な楽器といえば鍵盤の付いているもの、つまりMIDIインタフェース的なものを想像してしまうし、そういうものしか触ったことがなかったのだが、これは触ったら触ったとおりに音が出て、それきりなのだ。何を当たり前のことを書いているのかと思うかもしれないが、UIと音源が別になっている種類のデジタル楽器しか頭になかったせいで、こういう当たり前のことにバカバカしいほどに驚いてしまうのである。

操作がタッチペンだろうが何だろうが、それが単にMIDIインタフェースであれば別に驚いたりはしない。しかしこれはDSから鳴る音色はほぼ変えることができない、というところが本物のギターっぽいなと思った。音色を変えようと思ったらアンプやコンパクトエフェクターに通すことになる、という点こそが、これがMIDIインタフェース+ギター音色ではなく、「楽器」的だなあというわけだ。

ただ、自作してバンクしておけるコードは1曲につき16個で5曲分のみ、というのが残念だった。内部に20曲ぐらい入っている曲コード&歌詞を使って弾き語りをするだけの人には関係ないけど、楽器としてライブなどで使ってみたいという人には少なすぎると思う。この少なさだとコード感のある曲を多数演奏するのは難しい。DSを複数台用意すれば別だけど。ギターみたいにスタンドに置いておくとか?そうしない限りは、即興セッションとかDTMや宅録がメインの用途になってしまう。しかしそれなら「変わったMIDIインタフェース」とあんまり変わらないのだ。録音メインなら面白いデバイスを使って演奏する意味は少ない。これでしかできない面白い音が作れるなら別だけど。

もっとも、こういう「音の出るオモチャ」が好きな人にはいい遊び道具だし、そういう人は、どんなものだろうがいじり回し、使えれば使える形で使う、という人に違いない。だからバンクできるの何曲分だろうが、ソフトの細かな仕様なんてどうだっていいことかもしれない。そもそも「ギターの代替品であり、楽器である」という主張を持った製品ではないのだから、そんなことは言うだけ野暮である。

2007.01.07 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [ガジェット

レイナナ

正月はたいしたこともせず、本も週刊誌以外は読まず。アイドルの振り付けについて考えたりしていた。それから、「レイナナ」が発売されているのに全く気づいていなかったので慌ててプレイする。僕は「リアライズ」を大変高く評価しているので、やらずにはおれない。

やってみると、僕が面白がりそうな部分がToHeartに近いなあと思った。これは、ヒロインの両親がToHeartの主人公になっていることに見られるような、設定上のつながりを意味するわけではない(というかその設定はオマージュに近いもので、裏設定だなんだと騒ぐ必要もないことだと思う)。ノベル+育成シミュレーション+アクションといういろいろな要素を持ったゲームだが、ゲーム(1周)クリア時のステータス値が次回以降に引き継げるので、育成要素は全く高くない。また、イベントはステータス値とは無関係に、その回のプレイで行ったコマンドの回数によって発生するという変則的なルールになっている。例えば開始時すでに体力がMAX値になっていても、特定のイベントを見るには5回以上トレーニングを行う必要があるとか。

しかもパラメータ値はアクションパートでのキャラクターの強さに関係しているのだが、このアクションパートが非常に簡単なのだ。おそらくこのアクションパートは、「リアライズ」においてはテキストしかなかったバトル描写をもっとゲームとして味わわせ、シーンの緊迫感や「自分の力でクリアしている感」を増させるために作られたものだと思われるので、この程度のゲーム性で十分だと判断されたのだろう。だから、パラメータ値自体にもそんなに意味はないのである。

つまりシミュレーション画面でのコマンドは、実質イベントを起こさせるためのトリガーとしてのみある。この「分岐」ではなく「作業」に近いゲーム性は意味もなく校舎内をウロウロしたToHeartにおける作業と異ならない。作業というとどことなくネガティブな響きがあるが、しかし僕はこのユルいゲーム性が嫌いじゃない。また、それによって起こされる些細なイベントが好きだ。PS版ToHeartの休日シーンなどにあった、ゲームの本筋にはまったく関係ない、くだらないイベントが好きだったように、僕は基本的にこのノリが好きなのだ。こういう日常の些細な描写に女の子との交流やかわいらしさを込めようとするテキストを見ると、ああ高橋龍也のゲームらしいなと思う。彼の文章においては、とりわけキャラを見せる部分では「好きな食べ物は?」「幽霊を信じる?」みたいな些細な質問や、そこから起こる平凡な日常描写や会話の積み重ねによって、女の子をプレイヤーにとって魅力的に見せようとするものが多い。これは今のギャルゲーというか「萌え」の傾向とは違うのだけれど、僕はすごくいいと思う。これは人物設定と作品上にテキストとなって現れるエピソードが曖昧になってしまうような文章の作り方をしていない。キャラのたたずまいがプレイヤーと一緒に過ごさせることで現れ、その中からキャラの持つ「かわいさ」に気づいてほしい、ということなのだ。エピソードがかわいいのではなく、設定がかわいいのではなく、人間としてキャラを愛されたがっている。

だからこそ、あまり手のかかっていないイベントにはつまらないものがあって残念だった。たとえば有美に「今日食べたいもの」を聞いたシーンで「冷やし中華」と答えられて「なんか意外!」で終わってしまうのは設定を喋っているだけに近く、細かなエピソードの積み重ねにはなっていない。細部に渡って作り込まれていることに意味がある作り方なのだから、こういった投げ出し方をされている部分は非常に気に障る。

また、イベント内の選択肢が非常に少なく、あってもほとんど意味がないのも残念だった。シミュレーションパートが形式的に難しいからこそノベルパートに複雑な分岐を入れることが嫌われたのかもしれないが、それならば分岐という概念自体を全く残すべきではないと思う。アクションパートのゲーム性のユルさは、それでも負ければゲームオーバーになる種類のものであってプレイヤーにゲームへの没入を誘えるものだったが、ノベルパートにおける分岐はどれを選んでもゲームの趨勢に対して影響がない。選択肢によってCGが見られたりパラメータ値が上下したりはするが、いずれもストーリーに大きく影響しないものだ。パラメータ値がもう少しゲームにかかわっていればまだ違うのだろうが、前述の通りシミュレーションパート自体にはほとんどゲーム性はないのである。結局、選択肢の無意味さはのれんに腕押しのようなものである。「自分の選択によってストーリーが変化する」というノベルゲームの最も面白い部分が排除されてしまい、ゲーム世界に対して自分が影響を与えていないという白けたものを感じさせる要素にしかなれていない。

あとストーリー的にはレイナナが民衆の多数から支持されている描写を冒頭に近い部分に作るべきじゃなかったかと思う。そういうシーンがないわけじゃないんだけど、描かれるのが遅すぎる。アイドルとしてのヒロインがファンに囲まれるようなシーンがないのは別にいいと思う。「櫻井玲奈」は主人公にとって遠くて手の届かない世界において支持されているけれども、主人公のいる「レイナナ」側の世界での彼女はそうとは感じさせない、日常的な存在である、という意味になるからである。千夜がいつの間にかトップスターになって、手に届かない存在になるエピソードが効果的に見せられるのも、彼女への芸能界における支持がさりげなくしか描かれず、主人公にとって彼女が基本的に日常的な存在であり続けたからである。しかし「レイナナ」側の世界は主人公が主に属する世界であり、このゲームのタイトルであるメイン世界であるから、その世界を感じるためには説明がもうちょっと欲しかった。冒頭から長い間、一般社会との接点がRRF(自衛隊みたいなもの)しかないので、一般民衆がレイナナをどう支持しているか、捉えにくい。レイヨンについてはさまざまな形で語られるのですぐに理解できたが、レイヨンがいなくなったあとで登場したレイナナを人々がどう受け入れたとか、このヒーローがどのくらい人々に浸透していて、どう思われているかということが伝わりにくい。必殺仕事人みたいな裏の存在なら別だが、「スーパーヒーローが当たり前のものとして存在している社会」を描くのなら、ヒーローと社会の接触をもっと始めからちゃんと描写していった方がいいと思う。簡単に言えば「鳥だ!飛行機だ!いやレイナナだ!」みたいなベタなシーンが最初の方に入るだけでずっとこの世界を感じやすいということだ。

なんかよくないところが多いような書き方だが、それでも楽しいゲームだと思うし、好きだ。文章は丁寧で読みやすく、しかも誤字脱字のような間違いがほぼない。前にも書いたけどこれはけっこうすごいことだ。でも定価で9000円以上するのはあまりに高すぎると思う。消費者にここまでお金を出させないといけない種類の娯楽ではないように思う。この値段が業界的な標準なのだとしたら、こういう書き方は作り手のプライドを傷つけるものだろう。しかし僕はそれなら、そんな高い値段でリリースしなければならないような、または安売りを前提としなければならないような市場がおかしいと思う。そうして、誰か安くて早くてうまい商品を作って売りまくってしまえばいいのに、と安易に思ってしまうのだが、難しいのだろうか。

2007.01.04 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム

«  | INDEX |  »


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。