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ダブルユー「2nd W」

先だって書いていた「レイトン教授」は、本日、佳境と言えるところまで来た。そこまできて、この物語が全くストレートに物語についての物語であることを知る。本当は知っていたのだ。最初からサインはいくつもあったし、自分でもどういう物語か気づいていたのに、ハッキリと言われるまでそれが自分がプレイ中に問題にしていたことと全く同じだと気づかずにいるなんて、本当に馬鹿である。

これは造られた人間達による虚構の町についての物語なのだ。こんなに分かりやすい提示を最初から絶えず与えられながら、何の感受性も働かせずに、ゲームが最後まで語るのを待たずに、もう、物語についてなんて書いてしまった。最後までプレイせずにゲームについて語ることが悪いわけじゃない。しかし前に書いたことが合っていたからいいというわけじゃない。ちくしょうちくしょう!! わかってたくせに! 俺が書かないでどうするんだ、こんなこと!! 何のためにやってるんだ馬鹿が! 今「何の感受性も働かせず」と書いたが、働かせてないどころではなく、俺は感受性がザルなのだ。気づかなかったんじゃなく、「あー人形の町ってわけか」みたいに物語の型を見つけたような気になって終わりにしていたのだ。これは、このブログに対して恥ずかしいことだ。最低の振る舞いだ。俺が吊られて死ね。屑が。ゴミか。頭に来たので今日はこんな文章を書いてしまった。こんなものばかり、何万字でも書けるような俺なのだ。ざまあないとはこのことだ。

まぁいいか。合ってたんだから、俺エライじゃん。フンだ。どうだよ。これは知育ゲームの皮を被りながら、ゲームと物語について深く考えた全く鋭いゲームなのだ。正しい指摘じゃん。おかげで批評ということに希望を持たせてもらえたのさ。最後まで楽しみだ。「最初から気づいてたし」みたいな顔して、思う存分楽しんでみせる。

でもいいことがあった。加護亜依は実に1年間の間我々の前から姿を消していたのだ。日々、加護亜依が今ごろ何をしているだろうと考えなかったことはない。加護亜依は人外の存在であり、その内面は我々にとって巨大な闇であった。あのころ彼女は人間の尺度で測りえるものではなかったのである。スサノオが死んだ馬を投げても、怒る人間などいない。そんなことは無意味である。その超越性を前にして、彼女が喫煙したなどという理由でなぜここまでひどい仕打ちが可能なのだろうか。彼女が慌てて煙草を灰皿に潰したというエピソードを聞くたびにいつも辛かった。なぜ彼女がそんな、人間みたいな真似を。ひどすぎる。

ではここで加護亜依の歌った歌を、とは曲をかけられない。上記のような文章を書いていながら、僕は加護亜依のファンというわけではなく、彼女をどれほども知らないのだ。ダブルユーのアルバムでも聴こう。こういうときに何を聴いたらいいのか分からないのは残念なことでもあるが、しかしこの話と関連しているかどうか分からないままに、桃色核実験が更新されているという幸せを感じられる。なんというか、春は近いんだ。そう思った。

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2007.02.26 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [ゲーム

All About マンガっち

忙しいあいだは、ちょっとずつ書きながらテキストを保存して一応の格好がついたらアップするような形にしてみる。テキストエディタを使うことが前提になっているし、そこでまた文章は変わるのだろう。それもまた僕の成し得たこととして見せなければならないと思う。

さて一個前の記事に書いた西島大介くんの新刊が「All About マンガっち」である。対談の前には駆け足で読むことしかできなくて家に帰ってゆっくり読んだんだけど、この本は本当に面白い。面白いのに分かりやすく説明するのが難しいと考えるのは、僕は西島君を知っているからなのだろうか。しかし、これが彼の日常的な思考プロセスそのものだという面白さがぜひ読者に伝わるといいなあと思う。

西島大介のほかの作品はマンガやアニメやSF全体の状況を見た上で自分がアウトプットするものとして提示されていることが多いけれど、マンガっちはその前の段階、西島大介という作家が自分のアウトプットに影響させる前に日常で何とどう出会い、この人はどういう解釈をする人かという、その課程を追えるマンガになっている。

西島君は批評的なまなざしを日常的なレベルで持ち続けている。「なんと!」「なのだぁ~」と書いてあるのは西島君の口調そのもので、形として説明しやすいのはキバヤシしかいない「MMR」のようなものなのだろうか。「つまりYOSHIKIの音楽性はエイフェックス・ツインそのものなんだよ!!」と自分で言って、自分で「な、なんだって~!!」と答える。それをバカバカしいとかウケを狙っていることだと思ってはいけない。優れた批評とは思考の流れやリズムの感じられるエッセイに近いのだと誰かが書いていたが、その意味でこれは全く批評なのである。これは誰かに説明するためではなく、自分のための作業に近い。彼はそうして好きなものや支持を集めているもの、全く理解できずに拒絶してしまいそうなものまでを面白がり、常に自分をアップデートしている。そして、それを踏まえた上で、西島君は自分の物語を作り出し、また自分で「次の僕はこれだぁ~!!」「な、なんだって~!!」という作業を行いながら、前へ進んでいく。この前進のためのプロセスは爽快そのものである。

本を読み直してみると、対談でうまく説明できなかったことがきちんと理解できたり、もっと面白い読み方ができて「しまった、これを言えばよかった」と思うことしきりだった。ゆっきー(西島くんの奥さん)に聞かれたことなども延々と考えてちゃんと説明がついたりもした。しかし、あのときはあれがベストだったんだから、まぁいいか。←この納得する形がマンガっち的←それを自覚して行い言及するのがマンガっち的←この矢印が安全な場所の確保ではなく自分の理解と発展のために使われるのが西島大介的←まぁいいか←マンガっち的

2007.02.24 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [マンガ] [音楽

レイトン教授と不思議な町

大変忙しくなってきて文章が書けない。だいたい最近ここに書く文章は3~4時間かかったりするのだ。信じがたい。そんな時間はさすがに取れない。負けてたまるかよって気にはなるが、しかし10日くらいいきなり更新しないかもしれない。困った。そんな中、昨日は西島大介くんの家に行ってきた。「All Aboutマンガっち」の販促で雑誌に掲載される対談の相手に選んでいただいたのだ。僕と西島くんが仕事で話すなんてとても面白いことで、実際とても面白くて、対談という読み物のことを全然考えずにいつも西島君と話すように話し込んでしまった。結果的に「マンガっちとは一体何なのか」という突っ込んだ話になってしまって面白かったんだけれど、でも、あの話を文字に直すのは大変そうだと後で心配になる。

忙しくてゲームはさすがにやれなくなってきた。「レイトン教授と不思議な町」をやっていてもなかなか没頭できない。これは簡単に言えば流行りの知育ものゲームをオーソドックスなAVGの形式で作った、というゲームだ。物語が何となく不気味なノリになっていて、そこに魅力を感じるのだがよく味わう暇がない。

ゲームの技術的な発展が、すなわち物語を可能にすることそのものだった時代があった。今では考えられないことだ。その成果として「アルカノイド」や「ぷよぷよ」が物語になり得たことを誇っていいと思う。やがて技術力は物語を表現しうるかというレベルを超え、ゲームにとって物語が少なくとも存在することはたいしたことではなくなった。ゲームは「いかに物語を演出するか」という段階に至ったのだ。

「脳を鍛える大人のDSトレーニング」に代表される新しい知育ゲームは、従来「ゲーム」として考えられていた以外のものを提供していると言われる。なるほどその通りに見えるが、そこで意識されねばならないのは、ということはこのような新しい知育ゲームは従来「ゲーム」において選ばれる要素を排除しつつ成り立っているということだ。そして、従来的な「ゲーム」にあった要素として最も簡単に捨てられたのが、物語なのだと僕は思う。もともとパズルゲームなどにおいて、物語は容易に消し去ることができる。プレイヤーの能力のみが試されることを端的に示すために、物語は結局のところ邪魔でしかなく、ゲームを解く主体がプレイヤー本人であることを分かりにくくしてしまう存在だ。

かくして、DSの人気を底上げした新しい知育ゲームは、あくまでもプレイヤー自身とゲームシステムとの対話によってゲームを進行させる。ルービックキューブやクロスワードパズルが物語を必要としないように、「脳を鍛える」物語は不要なのだ。「脳を鍛える大人のDSトレーニング」はその点で最も過剰だった。評価の対象になるのはプレイヤーの脳そのものなのだ。それに与えられる点数とは、一般的な「ゲーム」におけるスコアと似ているようで異なる。その数字はゲームという閉じた世界における価値ではなく、即座に現実世界での人間を計る尺度としてあろうとする。「あなたの脳年齢は」という言い方は、ゲームという「現実以外の世界」を存在させようとしない。そこにはいかなる意味でも物語が成り立たない。ハドソンの「パズルシリーズ Vol.3 SUDOKU 数独」は最近の知育ゲームを把握しきれずに不用意にキャラクターを登場させてしまい、「数独2」においてそれを改めた。それはまさに改善すべきことだったのである。

「レイトン教授と不思議な町」においてAVGという従来の「ゲーム」が持っていた要素は、人物との会話やたまに挿入されるムービーなどに見られる。画面内をタッチペンで触ってクリッカブルな場所を探したりもできるが、開発者としてはここに複雑なゲーム性を込める必要はなかった。このゲームにとってゲーム性の大部分は、言うまでもないがAVGではなく「ナゾ」と呼ばれる知育の部分にあり、形式的に導入されたAVGはユーザーインターフェースと物語だけを受け持てばいい。

知育ものにプラスアルファとして物語を導入するという点では先ほどの「数独」と大差ないが、僕はゲームにおける物語が何を表現したがってるか見るのが好きなので、物語と暇つぶしになるパズルの同居を歓迎できる。しかし、このゲームは前述の理屈から言えば現在の知育ゲームの流行りには逆行している。「ゲームになじみのなかった人」のために作られる流行りの知育ゲームとしてありたいなら、物語性に対しては消極的な方がいいはずなのだ。このゲームがそれを選んでいないことは、僕にはこれが「流行りの知育ゲームを楽しめない従来のゲーム好きたち」も楽しませようとして作られているように見える。新しい知育ゲームが、新しいユーザーの開拓にのみ注力して従来のユーザーを駆逐しようとしているわけではもちろんないのである。お話の複雑さはさほど求めず、代わりに雰囲気やイメージに深くこだわる世界になったのは、ゲームの物語性に異なった態度を取る新旧のユーザーをいずれも見捨てないための折衷案だったのかもしれない。

2007.02.22 | | コメント(3) | トラックバック(0) | [ゲーム

Poppins「恋のJET SHOOTER」

電波ソングを意図して作られた電波ソングにどれだけの価値があるだろうか。

そもそも僕は電波ソングという呼び名が何を指すつもりなのかよくわからない。笑いの要素を持っているならそう呼びうるのか、声優とおぼしき人物がアニメ声で歌っているからなのか、歌われている世界観が常識外れなものなのか、デタラメなDTMによって作られた不自然きわまる楽曲がそうなのか、それとも、「ワタシはウタがヘタ」という歌もあったが、単に歌が壊滅的に下手なのだろうか。しかし今挙げた「ワタシはウタがヘタ」を例に見ても、タイトルが示すほどに歌が下手なわけではない。僕に言わせれば、例えばニャンギラスの方がよっぽど下手である。むしろ最近の声優は歌がうまいとすら思うから、これは電波ソングの特徴としてあたらないかもしれない。「歌が下手だ」としてジャンルにその名を残す電波ソングは、人間の歌うことを全く考えずに作られた楽曲にこそ、そう名指しされる理由があるとした方がいいのではないか。

いずれにせよ、制作者が至って真面目な気持ちを込めて作った曲が目論見通りに運ばず上のような特徴を備えてしまえば、そこに「電波」、すなわち狂気を感じることはできるのだろう。しかし例えば、アダルトゲームの開発者が他人を笑わせるためにこれらの馬鹿馬鹿しい要素をしたり顔で盛り込んだ電波ソングを作ろうとしたら、それも電波ソングと呼んで差し支えないのだろうか。つまり、電波ソングと呼ばれる一連の楽曲があることを理解した上で、あえてその特徴を盛り込んだ楽曲を作れば、それは電波ソングと呼んでいいのか。このような楽曲はいわば「ネタ」である。冒頭にあげた僕の疑問とはそのようなシニシズムについての問題だ。

もちろん、いいのだろう。電波ソングとは今や上記のような特徴を備えた一連の楽曲を指すジャンル名であり、それが制作過程において明確に目的とされていようがいまいが構わないのである。だから「ネタ」として作られた電波ソングを、我々は「ネタ」として楽しむことができる。違うのは、作り手の「ネタ」への意識の高さを評価できることだ。

しかし、そうなるとここで僕にはもう1つの疑問が浮かび上がってくる。では作り手は、上記のような特徴を備えた楽曲を自覚的に作るにあたって、「ネタ」としてそれらを盛り込むしかなかったのだろうか。作り手が純粋にこのようなパワーを持った楽曲の作り方を愛して、聴き手もそれを欲してはいけないものだろうか。

これもむろん、そんなことはない。僕はPoppinsを聴いてそう感じる。これは一体、何だろうか。おしゃれな音楽だろうか。エレポップだろうか。アイドルポップスだろうか。それとも、これをして電波ソングなのだろうか。僕にとってそんなことはもうどうでもいい。

それはなぜか。僕は今「恋のJET SHOOTER」のPVを初めて見たが、これは「HAPPY COSMOS」と共通の世界観を持っている。今日日ありふれたものだと言われても構わないが、そんなことよりも例えばCornelius「Star fruits surf rider」のPVが表現しようとしている世界と、さほどの違いがあると言えないことのほうが興味深い。似たようなものである。Björk「Human Behaviour」もそうだと言えばより確からしいだろうか。そして、そうでありながら、その中の1つは間違いなくアニメ声で歌われないと成り立たないものなのだ。

しかし、「ネタ」というシニシズムに退避して電波ソングというカテゴライズを受け入れていると、これらを同列に扱うことなんてできやしない。音楽的にも、「音楽としてもよい」くらいの評価しかできないのだ。毎度シニカルな笑いを見せてから「案外いい歌」と言わねばならない態度なら、これを掛け値なしに好きだと言えなくなってしまう。「電波ソング」とは単にジャンル名のようでありながら、それ以外の機能を持たされているのである。

この「ネタだからこそ」でないと熱狂できないという態度は、たとえば音楽に知識を持ちつつも「オタクっぽいから」のような理由でみらゐ(サイドプロテア)の「猫鍋」を評価できない態度と、実はそんなに違わない。対象に正対できないせいで楽曲をジャンルの境界に立たせてしまうことでは同じである。これはおそらく、Dimitri From Paris「Tsuku Yomi Mode」と「LOVE LOVE MODE」という対になるべき曲をどう扱いうるかに、分かりやすく集約される問題であるはずだ。

僕は、Poppinsをただいい、ただ好きだと言えねばならない。「ネタ」だとか「電波」だとか、「声優」だとか「オタク」だとか、もしくは「テクノ」だとか「アイドル」だとか、彼女たちをどちらかに傾けてしまうと、僕は作品以外の何かを見て話していることになるだろう。

2007.02.19 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [音楽

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム

当初、僕は東浩紀という人を誤解していた。彼の仕事において対象への熟知がない故に、細部にわたっての正確さがないことを批判的に断じたことがあったと思う。しかし研究家とか学者とも違う、彼はダイナミックな絵を描く、今どきまっとうな意味で批評家だったのだ。僕は後にそう考えるに至らなかった自分を恥じた。

その考えがはっきりとまとまったのは、ロフトプラスワンで2003年に行われた「夜のファウスト祭」を見たときだと思う。東浩紀はものすごい情熱をもって、ライトノベルのシーン全体が全く未成熟であること、関係者とファンが一体となって信じている盛り上がっているという意識なんて内輪のレベルにすぎないことなどを語った。それは浮かれた状況に冷や水を浴びせて悦にいるような子供じみたものではなく、またコミュニケーションの一助として議論をふっかける学者や論壇にありがちな醜悪な態度でもなかった。素晴らしい愛情があった。彼は本当にライトノベルのシーンが盛り上がっていると言えるのは、外部社会に対して圧倒的な影響を及ぼしたときだと考えていた。これはライトノベルやアニメなどの文化に、彼が真の、あまりに深い愛情を注いでいることの現れである。その文化の社会における途方もない価値を見抜いて世に伝えるのが批評家である。それを全世界が無視できなくなり、世界を侵して、既存のものを丸ごと上書きしてしまえばいいとすら期待するのが、批評家の愛情の最も昂じた姿だ。細かな知識として正確かどうかなどそこでは問題ではなかったはずだったのだ。僕は素晴らしいと思った。あのイベントは西島大介君が「よかったら見に来てよ」と言ってくれたから見ることができたんだけど、本当に見てよかったと思う。

批評家はライトノベルのコミュニティ内に迎えられてありながら、たった一人で外部を気にしていた。彼が苛立った調子で「このままではいけないのだ」と熱っぽく語り続けるほどに、会場には白けた空気が流れた。彼を「ライトノベルに好意的なはずの人」としてしか認識していなかった人々には、彼が何をしたいのか全く理解できないか、せいぜい、裏側に意図があってこういうことを述べる人間としてしか批評家という存在を理解できなかったのである。

東浩紀の文章を読んで彼の情熱が分からない人は、ぜひ彼が語るのを見聞きするべきである。ガガガ文庫のポッドキャストでは、ライトノベルについて彼の全く同じ議論を見ることができる。これはテキストとして起こされているが、ぜひ音声で聴かねばならない。彼の主張を字面通り受け取らなければならないが、字だけを見てはいけないのである。

かように東浩紀の言論にはダイナミックさとラディカリズムがある。それは俺イズムでありB-BOYイズムであると言ってもいい。 だから北田暁大との対談集「東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム」において東浩紀に強く一貫した主張があり、自分にはそれがなかったとあとがきで北田暁大が述べるのも、ある程度当たっている。ラディカルゆえに危うくありながらも、東浩紀は常に同じ軸を持った主張を繰り返すことができている。

この本の、東京都心の各街がジャスコ的なものの遍在によって個性の失われた郊外として成り立ち、中央線沿線のような「個性のある街」は共同幻想型テーマパークとしてしか残られないという議論はとても面白かった。これは第一章で語られている渋谷についても同様ではないかなと思った。先日の記事で、僕はAKB48「制服が邪魔をする」が疑似恋愛を提供するアイドルの曲としてリアリズムを保てていないことについて、

「女性としての性を求められるが故にハードな現実を生きる制服少女」という90年代的なキャラクター性は、パロディとして現在について批評的な視線を投げかけるものではない。つまり僕は「渋谷で援交する少女から垣間見える歪んだ現実(とエロ)」というリアリズムは2007年においてほぼ成り立っていないのではないかと思っている。

と書いたが、これは本書でも言及されている宮台真司の「ユミとユカの区別もつかない、匿名的な女子高生たち」にかかわっている。本書では宮台真司が90年代当時に行った分析について、従来的な疎外論の構図である

彼女たちは家庭や学校という落ちつける場所から、ストリートという落ちつけない場所に追いやられているという図式

ではないものとして肯定している。AKB48「制服が邪魔をする」が提供する物語はまさにその疎外論の構図から来るものであり、それ故に2007年においてはせいぜい援交AVのストーリー部分としてしか成り立っていないと僕は書いた。だが、本書の第二章以降の議論を援用すれば、今の渋谷は「ストリートを『第四空間』とする路上の少女」をも既に園内におけるキャストの1人として取り込んだテーマパーク化しつつあるのではないかと思う。

僕がAKB48と対照的なものとして挙げた松浦亜弥やBerryz工房にとって都心とは次のようなものである。

オシャレをしたなら街に出て
違う子にでもなったようなメイクして
裏原あたりで出会った子と適当に騒いでBYE-BYE

あるいは、こういうものである。

池袋 過ぎたって
この愛はえ・い・え・ん

どちらもストリートは居場所として求められず、彼女たちは門限までに帰るべき生活空間を持っていることがはっきりと分かる。それがどこかというと、彼女たちの曲のあらゆる部分で強調される、学校と自宅周辺というリアルであり、それがすなわち本書がテーマパークと対置したところの「郊外」である。つまり松浦亜弥やBerryz工房がなぜリアルだったかというと、00年以降において本書の主張通りに郊外化しつつある都市の中に正しく少女達を配したからなのだ。彼女たちは渋谷にも、六本木にも、秋葉原にも、下北沢にも、リアルな存在としてもテーマパークのキャストとしてもいない。「池袋を過ぎたってこの愛は永遠」というフレーズが真に愛らしいのは、彼女たちが我々に対する恋をテーマパークでのデートから帰っても続行するという確認を行ってくれるからである。

本書はさまざまな問題提起をしてくれて、僕にいろいろと考え始められることがあった。まず本書は沿線文化を自明のものとして扱っているな、と思った。これは作者が両者とも関東出身であることから来るのかもしれないが、東京における「住む路線によって異なる沿線文化が存在する」感覚はやや伝わりにくい。地方人は都心に引っ越した瞬間、最も近い盛り場として新宿、渋谷、池袋、そのほかどこを選ぶのかを潜在的に選ばされており、大学生などはほとんど人生を選んでいるようなものなのだ。ほかの都市でも、例えば阪神沿線には阪急、JR、阪神という3路線があってそれぞれに生活水準や文化が異なるが、これらの路線は両端で大阪と神戸に収束するため結局さほどの違いはない。東京においては沿線が違うと接続されるターミナルが違い、住む人々が全く異なるということがあまり解説されていないのは地方から来た者として面白く感じた。

また、最近のサブカルは下北沢や中央線に求められる形でステロタイプ化しているということに気づかされた。90年代的なサブカルには郊外型のものがかなり多いはずだ。小沢健二、岡崎京子、安達哲などが描いた90年代のサブカルは確かに渋谷などを中心として見ながら自分たちの生活空間である郊外をそれ以上に描写したはずである。僕は地方人だし、寡聞にして知らないのだが、岡崎京子のあの川、あの団地はどこだと考えたらいいのだろう? ばるぼらさんに尋ねたら何か語ってくれるだろうか。90年代ブームと言われる中で「渋谷系」や「バブル」を語るのはたやすく分かりやすいし、現在の東京の郊外化を語るために「ファスト風土」を参照するのは手段の一つとして全く正当だが、90年代に東京を描いていたとされている作品群の中から、当然の生活空間としてあったはずの郊外がどのようにあったのか考える余地はありそうだと思った。

ともあれ東浩紀は彼の言う「動物化」を十分に展開させ、東京についてもダイナミックな考察を傾けている。それをライトノベルと変わらず行えるラディカルさが、彼の一貫性そのものでもある。彼の一貫性についてはもう1つ言わせてもらおう。話がずいぶんと前後するが、先ほど紹介したガガガ文庫のポッドキャストをテキストに起こした部分から引用させてもらう。しかし繰り返して言うと、これは音声で聞き、そして彼の熱意を感じるべき内容である。

佐藤:なるほど。前回の鼎談では、ブログっていう手軽なツールがあるによって、みんな小説を書かなくなっていってるんじゃないか、という話がでてきました。ブログを書くという行為は「消費」なのに、それを「クリエイティブ」だと勘違いしているから、それういう現象が起こるのではないか、と。ネットで文章を書く、デジタル化した文章を読む。メールや携帯電話、最近はモバイルマシンもそうですね。そこで文字読むことに慣れている人間に対して、紙媒体である文庫をアピールしていくことが、ライトノベルをつくる上での命題だと僕は思うんですが… そのあたりってどう思われますか?

東:いや、ブログはあまり気にしなくていいんじゃないかな? ネットで感想をいっぱい書く連中は、たとえブログがなかったとしても、どこかで衝動を発散すると思うし、それで満足する人もしない人もいる。それはデジタルとは関係ないと思います。
ただ、僕が問題視しているのは、プチ書評みたいなのがネットに出回る速度が速いので、評価が固まるのも速いこと。たとえば、さっき言った新井素子は、僕は当時、ほんとに偶然に本屋の棚で発見しているのね。新井素子の世間的な価値がどういうものかは知らなかったけど、とりあえず自分的には気に入ったから、それを大切に読むわけ。そうやってずっと面白いと思いながら読んじゃったものって、あとあと「あんなのダメだよ」ってもし言われたとしても、頑張るんですよね。でも、今ってそういう経験がなかなかできないでしょう。「とりあえず読んだ。ふーん、おもしろいな。でも検索してみたらみんな悪口言ってる。やべー。オレ地雷踏んじゃったよ。もう読まない、終了! 」みたいな感じですよね。


佐藤:最近思うのは、人が物語に共感する力。小説でも映画でもゲームでも「こうなってほしい」という願望と、実際の展開がズレた時に、自分の中で処理することができない受け手が多い気がする。少しズレると「それは鬱展開だからナシ」とか言って切ってしまう。そして、その感想がネットによって伝染していく。これは東さんがさっき言ったことに近いのかなと。

東:そうですね。意見の相互調整のシステムが整っているということですよ。それはネット全体がどうってことではなく、ブログとかソーシャルネットワーキング・サイトのサービスの問題なんで、「デジタル」の問題とは別ですね。この辺は、ここ2、3年で急速に変わりつつある。2000年ぐらいの個人ホームページの時代と今は全然違う。何かについての意見を共有できやすくなってしまったので、作品の評価にしても無意識に一瞬で相互調整してしまう。それはあまりいい状況じゃない。いろんな人にとって不幸なことだと思います。逆に、ベストセラーも出やすいだろうけど。でも、全体的には、面白くないんだよなー、個人的に。

これは去年の6月に語られた内容だが、彼は2005年にもちゃんと同じことを論点として持っている。彼が今のインターネットで問題に感じていることは明らかなのだ。

最近は、BLOGとかがあるので、普段からいろんな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技が上達しているし、またそういうのが賢いと思われている。社会学は、そういうときとても便利なツールとして使われている。つまり、「俺はお前の意見とは違うよ」と言っても、「ああそれはそういうコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです。
つまり本を読むときには、若いうちには、「ここには真理が書いてある」と思って読まなければだめだということです。「こういうような時代もあったんだな」とか、「こういうことでコミュニケーションをとっている学者もいたんだな」とか、そういうメタな読み方をしていてはダメです。そこには真理が書いてあると思って読まないといけない。そういう社会学的な読み方というか、メタレベルな読み方は、30代になってやればいい。『波状言論S改』(青土社)を自分で作っていて言うのもなんですが、「社会学的な知」が蔓延することの危険性はその辺にある。つまり受け流す技と言うのが、ちょっと拡がりすぎている。

これを見て、ネットを批評的に論じた話題としてのみ興味を惹かれて消費し二時間くらいで忘れたり、また「ブログのシステムがそうなっているから仕方がない」と言って終わりにしてはいけないのである。これらの指摘は、ライトノベルについて彼が「このままじゃダメだ」と喝破したのと同じ真摯な態度でなされている。だから両方の主張を同時に音声で聞けるあのポッドキャストは聴くべきなのだ。これを聴いて、そして白けていてはいけない。この問題提起がライトノベルの件と同じく重要であり、このブログで、また過去に書いたテキストで僕がたびたび説明している内容と全く共通のものであるのは言うまでもない。僕は「ブログのシステムがそうなっているから仕方がない」というようなことを言う人以上に、環境が人間を作るということを信じている者だが、しかし社会学というものが、人間が自分たちについて考えるのをやめるために使われるべき方便でないと知っている。それは自分を甘えさせる詐術だ。そんなことはもうすっかり明らかなことなのである。東浩紀はそれを許さずに、我々に対して情熱的に語り続けている。

2007.02.17 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽

ジャバウォックの花嫁

僕が最初にプレイしたPlatineDispositifのゲーム「ジャバウォックの花嫁」が無料でプレイできるようになった。

僕は同人ゲームの面白さは、商業タイトルでは不可能なアイデアのあるゲームを、短い開発期間で、しかし商業タイトルに劣らないクオリティでリリースできることにあると思う。80年代にパソコンが一般普及した頃から個人作による、しばしば無料のゲームはずっと存在していた。その黎明期には個人とソフトハウスの間に技術的な差はさほどなかったが、ソフトハウスが個人を引き離すのにさほどの時間がかからなかったのは言うまでもない。やがて個人作のゲームは、どんなに優れたアイデアを持つものであっても、あくまで個人のできる範囲上での、という断り書きが必要なものになってしまった。ごく単純な例を出せば、個人がファミコンのゲームを作ることはできなかったし、できることはファミリーベーシック上においてだった。一部の例外を除き、個人が商業タイトル並みの技術を駆使したゲームをリリースできるようになったのは、廉価で扱いやすく、ソフトハウスとほぼ同等な開発環境が十分に整備された00年代以降であると言っていいだろう。技術力が同等になると、同人ゲームはまず商業タイトルにしかできなかった表現を晴れ晴れしく模倣し始め、そしてそれが一段落するとついにそのアイデア性の高さを十分に発揮し始めた。

同人誌や同人音楽は既に商業作品のパロディとしてだけではなく、商業作品に不可能な表現を自由闊達に行うものとして地位を確立していたが、やや遅れてゲームの世界にも同じ波が訪れた。先んじてノベルゲームには既にその波は到来していたと言えるかもしれないが、ともかくこれでほぼあらゆる「同人」分野にはDTMやCD-Rがインディーズ音楽を変えたのと同じ、しかし比較にならない規模の大きな変化が起こったのだ。2002年に新海誠は映像表現に衝撃を与えたが、それは映像だけに起こったことではなかったのである。

同人作品の1つ1つは、時にセオリーを無視していたり、アイデア一発であったり、乱暴であったりもするが、それこそがまさに「商業作品に不可能な表現」そのものであって受け手を驚愕させ、酔いしれさせる作品の力である。「ジャバウォックの花嫁」は以前たまたま動作確認版を見つけてプレイしたものだったが、僕はクォータービュー迷宮探索アクション+弾幕シューティングという発想と、その高いクオリティに圧倒された。誰かが、このゲームを例えばちょっとしたアイデアだと言ってしまうことはできるだろう。しかし、ひょっとしてこのゲームをソフトハウスの開発者が発想しようとも結果としてリリースされないのは明らかで、そして余裕綽々として高い技術と練り上げたゲーム性を保証しえたのはPlatineDispositifだけだったのである。これがまさに、このタイトルに限らず、同人ゲームのすごいところだ。おかげで我々はハイレベルに実現されたアイデアに触れ、驚嘆することができる。そしてなお、今この面白いゲームを無料で体験できるのだ。なんて素晴らしい。

2007.02.15 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [アニメ] [映像] [マンガ] [音楽

ウィッシュルーム 天使の記憶

「ウィッシュルーム 天使の記憶」に全く関係ない話だけれど、次に作ろうと思っているウェブサイトのドメインによる、新しい連絡先を公開しました。メールアドレスを公開するのを忘れていて何かと不便だった。あと先日対談をさせていただいたQuickJapanの掲載誌が届いたので、風呂で読んだ。カンニング竹山のインタビューがとても気丈で泣いた。自分の対談は辛辣なことを言ったつもりで、著者校正のときにもそう思ったんだけど、本になるとそれほどでもないように見えるのはメディアの質なのか、または別のメディア上からネットについて語ることから生ずる遠さなのか、難しいなと思った。ただ2ページの見開きの中でコンパクトに言いたいことは言ったのではないかと思う。

さて「ハードボイルド」が結局、ハメットやチャンドラーが提示した繊細な人間性を異なった様式美の上で解釈するものでしかないということは、僕にとってそれなりに大きな不満なのだ。僕は清水俊二が最初に「さらば愛しき女よ」を訳したときに、マーロウが他人に語りかける一人称として「ぼく」を選んだことがとても好きだ。後の訳ではそれは「私」になっていくが、当初に清水俊二はマーロウという人間をそう理解した。マーロウは弱く優しく、彼のニヒリスティックな態度は社会に対する青少年のそれと同じ、子供のように拗ねた意地っ張りだ。そしてそれを「タフガイを気取っている」と誤解されるような人物だったのである。今、ハードボイルドと言われてそのようなものをイメージする人はいない。ジャンルの成熟はマーロウという人物を彼自身とは異なった場所に位置づけ、ハードボイルドというフィクショナルなキャラクター性を解釈した一つの類例に過ぎなくした。だから「ロング・グッドバイ」には、村上春樹が僕の知っているあのマーロウを見せてくれるのではないかと、それなりに期待しているのである。

「ウィッシュルーム 天使の記憶」の主人公もまた、様式美としてあるハードボイルドの類例の一つに数えるしかないものだが、セールスマンのジャンパーを着た主人公の後ろ姿は脈絡もなく繰り出されるタフなキャラクター性とは異なっていて、なかなか好ましい。このようなゲームでハードボイルドな主人公類型がもっともらしい根拠を持って示されている例は珍しい。キャラクターのみならずこの物語のテキストは細部までよく考えられ、深いリアリズムに到達している。きたがわ翔みたいな整った線のイラストは僕にとってさほど好ましいものではないけれども、最大公約数のユーザーに安定した評価を得られるものだし、いいと思う。まあ何だかんだ言っているが秘書のレイチェルが美人でなかなかイイねということではある。それはともかく、操作性に若干の難があっても、そんなこと物語には何の関係もないと言い切ってしまえるほど文章に高いレベルがあるのは立派なことだと思う。

2007.02.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

PERFECT BLUE

渋谷のシネマヴェーラで「ナインティーズ:廃墟としての90年代」という特集が17日からあるようだ。

オウム真理教地下鉄サリン事件や阪神大震災を折り返し地点としての「失われた15年」

という文章で思い出す。以前に1995年は間違いなく90年代で最も重要な年であったと思い、この年に何があったかすべて書き出してみようかと思ったことがあった。結局そういうやり方は僕のものじゃないと思ったので、やめた。簡単に言うと面倒だったのだが、それでも95年は僕が橋本治なら「'95」という本を書くに違いないほど重要な年だったと思う。

しかし、ごく最近の僕は90年代のことよりも「おそらくこの2007年は2010年代の始まりなのだ!」という考え方に夢中になっている。僕はあと3年の内に、次の10年において1つの核となりうる何かが現れると信じている。何なのかは無論知らないが、これはつまり既に新しく2010年代が始まっているという意識であり、逆に言えば2000年代は2006年で終わったという感覚を持つということである。ここで、ろくに考えを巡らせる術を知らない誰かが「ナントカは終わった」と一言言って4~5日騒ぐ手段にしたがるようなものではないと断り書きをしなければならない。実に面倒なことだ。それはともかく、この考えはたまたまアニメージュの2000年2月号を読んだときから次第に形を成してきていて、要するに年代記の各年代においてキーワードとなりうるものは、その前年代の後期には登場するという、1つの、アプリオリな(つまり至極うさんくさいという意味だ)考えである。70年代ヒッピー文化を象徴付けるサマー・オブ・ラブは68年で、ピストルズは78年には解散し、セカンド・サマー・オブ・ラブは88年なのだ。そしてインターネットが爆発的に普及したのが97年である。こういう考え方というのは何の根拠もなくとも、夢中になって考えているときは楽しいので飽きるまでは楽しみたい。少なくともムーアの法則よりは僕にとって楽しめる。

話が脱線しつつあるが、さて僕はこの特集の中に「PERFECT BLUE」があるのを発見し、そういえばこのアニメがどうしても見られなかったことをも思い出した。DVDをもう5回ほどレンタルし、そのうち3回くらいは冒頭のステージのシーンまでしか見ず、残りの2回は再生する前に返却期限が来て返却したはずである。一体なぜだったのか。そこまで見られないのは大きな謎だと思ったので、椅子にかじりついてでも見ることにした。

この作品が作られたのはシネマヴェーラのサイトによると98年らしい。だから、なのかどうかは知らないが、この物語には私たちの00年代において最も大きな意味を持った「インターネット」が効果的に、そして懐かしく登場する。パソコンや東京の街並みも含めて、細部の全てをアニメの虚構に置き換えなかったことは、この作品の大きな美点として指摘していいだろう。主人公はPerformaを購入し、ネスケ2.0でウェブをブラウズしている。主人公のパソコン用語に対する当時にして当然ありうるレベルの不理解は、10年後では成り立たなくなっている。また、彼らが持っている電話機も面白いと思った。携帯電話は既に持っている人がいて当たり前のものには一応なっている。しかし物語を左右する小道具として当然のようには登場しない。例えば事務所の社長が携帯を持っていても、主人公は持っていないのでそれを使って外部へ助けを求めるという発想は出てこない。携帯電話の普及率が97年以降爆発的に伸びたことから考えると、この描写はかなり事実に即していて当時としてもリアルなものだったのではないだろうか。トレンディドラマ以後なのかもしれないが、現代劇においてはたびたび不自然に新しいテクノロジーが時代背景を無視してごく当然のもののように登場するので、このようなリアリズムがあるのはいいことだと思う。コードレス電話の受話器デザインが、アンテナはないがちょっと丸みを帯びた黒っぽいものが多かったのも当時っぽさを感じて面白い。

話の筋書きについては特に言うべきこともないとも言えるが、逆に言えば女性マネージャーが登場したときに最初から怪しいと思ってしまえるようになったことが、この10年で物語というものに起こったことを象徴しているとも言える。ただ、この作品は筋書きだけで見るようには全くできていないので、筋についていささかでも言葉を挟むのは野暮なことなのかもしれない。

見始めてずっと、言いようのない不安感、心臓が捕らえられているような嫌な感覚を味わいながら見ていた。筋としては前述のようにほぼ自分の手の内にあると言っていいのに、なぜこの作品は全体から圧倒的な緊張感を感じさせているのか。それをずっと考えながら見ていた。最初は、常に次の瞬間に何か破綻を起こしそうな雰囲気を持続させることでそれを成り立たせているのかと思ったが、そうでもないようだ。ずっと考えていても分からないので、自分が知らない緊張感を煽る演出がなされているのだろうかと思った。何しろ僕は映像表現に知識がないので、映像的に何かをやっているのだろうかと一所懸命画面を見たりした。

しかし、現実と妄想と主人公の出演するドラマの世界が大きく混乱しはじめたあたりで、ようやく何かに思い当たった。これらの世界が混乱を来しているということは見ていれば誰でも分かることだが、しかしこのアニメはアニメであることを完全に利用し尽くして、何が現実であるのかを全く感じさせないようにしている。例えばアイドルとしての自分と女優の自分が同時に同じ部屋に立つシーンで、どちらの存在も現実のように見せることができながら、そして重要なことには、どちらも虚であるように見せることもできるのだ。今日、実写において一人の人物を同じシーン内に二人出すことは不可能ではないが、しかしその場合は「実体がふたつある」という意味しか作ることができない。この作品は、現実と妄想、そして劇中劇にわざと絵としての差を作らず、アニメとしてすべてを同等に描いてしまうことで「どれも実体ではない」という意味を作り出している。

こうして、主人公は妄想の存在であるアイドルとしての自分という存在を浸食され、妄想の存在が常に生き生きと歌い踊るのに対してやつれていくが、しかしそのやつれた姿も虚構でしかないことが示される。それを強調する必要はなく、アニメーションはただ物語を伝えているだけで不安な存在になる。いわゆる「信頼できない語り手」としてあるのは主人公ではなく、神の視点を持った作者という存在でもなく、映し出されている映像のすべてになる。「真実」が明らかになったはずのラストの格闘シーンでさえ、街に一人の通行人もいないとか、主人公がマンションからブザマに落下しているのにアイドルとしての自分は軽やかに空中を飛ぶことができるとか、しかし、絵としては全くアイドルの自分でありながら、現実としてはサイコ野郎と化したマネージャーだとか、現実として説明のつかない、かといって妄想としては片付かない展開が続く。もはやこの映像のどこに確かなことがあるのか、視聴者には完全に分からなくなってしまうのだ。これは非常に見事だと思う。

こうして、あらゆる瞬間が信頼できるものではないことこそが、この作品が発している緊張感の源である。先に書いたような小道具がリアルに描いてあるのもわざとで、現実感覚を混乱させるための1つの仕掛けなのだろう。僕が過去に何度も最初のシーンまでで見るのをやめたのは、おそらくこの張り詰めた緊張感に無意識に引っかかってしまったせいではないだろうか。思えば最初のシーンから、時制を前後させたカットを連続させて不安を煽っていたのだ。全く、わずかなセリフから一瞬の映像に至るまで、すべてを計算し手を入れ尽くした作品なのだ。それができるのもまたアニメの強さだということも、作り手は自信満々に把握している。そこに自負のようなものを感じた。

2007.02.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [映像

最強伝説黒沢

福本伸行のマンガで重要なのは、もっともらしいハッタリだけである。それが魅力なのであるから、もちろん批判には値しない。彼は博打を題材にしたマンガを数多く描いているが、しかしそもそも彼のマンガとはどんなものであれ作り自体が博打そのもののようなハッタリに満ちている。それは「無頼伝涯」であろうと「最強伝説黒沢」であろうと変わりはない。作者は常に読者に対し凄みを効かせたハッタリを延々と語り、そのもっともらしさによって読者は以後のドラマに常ならざる緊迫感とスリルを味わうことができるようになっている。

つまりカイジやアカギが負けの代償として人体を破壊されうるというルール自体は読者にとってまだ恐怖の対象ではない。その拷問がどれだけ恐ろしいものなのかをしつこく、本当にクドクドと解説する語り口こそが彼のマンガなのである。連載が長期化した最近では次第にこのハッタリがマンガの内容そのものにすり替わってしまい、「純粋に博打の駆け引きやどんでん返しを楽しみたかった」読者に不満を抱かせているかもしれないが、形式として彼のマンガは過去も現在も変わらずハッタリであり続けている。博打自体にあまり興味がない僕には、何も変わっていないようにすら見える。

「最強伝説黒沢」における作者のハッタリは「能力に乏しい独身の40代男性は孤独な存在である」という恐怖心を煽り立てる。実際がどうであるかではなく、はじめからもっともらしさだけを重視しているこの作家は、物語の語り手としてとても優れている。「能力に乏しい独身の40代男性」が感じる「孤独」とは「自分が社会的に存在していないことになっていく」というドロップアウト感覚である。ここに恐怖と焦燥が生まれ、物語を動かしている。これは先日僕が読んだ福満しげゆき「僕の小規模な失敗」にあったテーマで、奇しくもこの二作で主人公が感じている孤独感は全く同じものだ。「僕の小規模な失敗」が最終的に得た「成功」と同じものが「最終伝説黒沢」においてもたらされなかった理由は、筋書きの上でこのマンガが迎えた破綻と、それを承知で作者が求めた結末に理由がある。

おそらくこのマンガには、連載当初から「能力に乏しい独身の40代男性は孤独な存在である」という1つのハッタリと、その男が最終的に近しい者に愛されながら死ぬ幸福を迎えるというハッピーエンドに向かって話を進めていく意志があった。作者は黒沢が近しい者に愛されるための試行錯誤のあり方として物語を展開せねばならなかったのである。それはちゃんとマンガの冒頭で「人望が欲しい・・!」というモノローグによって分かりやすく目標設定されているし、「星座の話を振って自分の誕生日に気づいてもらおうとする」「アジフライを土木作業現場の人間に振る舞う」のような慎ましいエピソードは、すべて彼らが社会における存在感を回復しようとする活動としてある。黒沢にとっての社会とは「土木作業現場」だけであり、そこでの地位向上に拘ってみせるこのエピソードは彼の現実を正しく描写している。これは「僕の小規模な失敗」の「小規模」が示すものと全く同じである。彼ら主人公達が目下の問題とするのは大きな物語の主人公として大事を成すことではなく、彼らの小規模な現実を満たすことだ、と2つのマンガは共に言っている。このことは、第一話で黒沢がサッカーの日本代表戦を誰よりも大声で応援しつつ、

オレが求めているのは……
「中田っ…!」
「森島っ…!」
っていうことじゃなくて……
オレの鼓動……
オレの歓喜。
オレの咆吼。
オレのオレによる、オレだけの……
感動だったはずだ…!

と独りごちる姿や、「生まれ変わるんだっ…! この新しい現場では…!」というセリフなど至る所で強調されている。

ところが、このマンガはここから、目的に接近する手段を唐突に変化させる。黒沢は自分に恥をかかせた中学生と決闘を始め、以後はラストまで若者との抗争が続く。この黒沢の現実における自己回復に見せかけた物語は、実はそれを大義名分として物語冒頭で否定される大きな物語への積極的な関与によって自己を実現しようとするものでしかない。なぜなら、ここでは若者達は常に極端なならず者、打ち倒すべき「悪」として描かれているのである。若者は、まるで黒沢を含めた弱者たちが社会的に居場所を失った原因であるかのように描かれ、本来は全く無関係であるはずの黒沢が戦う理由を強調される。それでも、黒沢がそれによって彼の周囲における存在感を高めることができるのであれば物語としては問題ないと言える。しかし、黒沢は本来「能力に乏しい独身の40代男性」であり、大きな物語に勝利する主人公ではないことが物語の大前提としてあった。それが小さな社会における自己実現を成せない苦し紛れとして大きな物語に勝利することは、まさにイカサマでありこの物語のすべてを否定している。前提として作者自身が置いたハッタリを否定しているのだ。

かくして、物語からはある程度「もっともらしさ」が失われていく。最初は騙し騙し、物語は偶然を装いながら黒沢に勝利を獲得させていくが、まぐれが何度も続くわけにはいかない。最終的に大きな物語を制する能力があったことにされた黒沢は、

今のこの姿からは想像できないが…
あの時は…
オーラが出ていた……!
他を圧するすさまじいオーラが……!

と言われるような存在になってしまう。これではもう黒沢はヒーローものの少年マンガの主人公、例えば「キン肉マン」と何ら変わらない。なぜ、このような不自然が生じたのだろうか。

黒沢は最初の中学生との決闘前に次のように述べる。

生きてりゃいい…
生きてりゃ十分なんて…
誰が思うかよ…!
理想があるんだよ……!
みな…!
みんなそれぞれ理想の男像……
人間像ってのがあって…
そういうものを…
目指すから人間だっ…!

実はこのセリフは、ラストの暴走族との戦いで述べられる思想と全く同じだ。つまり2巻の時点で既に作者はこの作品のテーマを述べてしまった。テーマが繰り返し語られることは特に問題ではないが、ただこのセリフはつまり「能力に乏しい独身の40代男性は孤独な存在である」と「その男が最終的に近しい者に愛されながら死ぬ幸福」というハッピーエンドをつなぐものとして「理想の男像を目指す」ことを提示しているのだ。黒沢が自分を回復させるものとしてついに選んだのは男性性なのだ。最後の戦いにおいてホームレスの老女が必要とされ、「今…ばあちゃん一人守れないなんて……」「女一人救えなかったんだ…と…!」「今……立てば…男にはなれるだろうよ…!」という男性性を強調したセリフが増えていくのはそういったわけである。この物語は全く明快に論点と手段を示している。つまり、能力に乏しい独身の40代男性は「男」としてあることで物語の主役として立つことができ、そうすれば近しい者に愛されながら幸福に死ぬことができるというのである。彼は自分について、はっきりと「物語がない」と言う。このストレートな表現はとても素晴らしい。その上で

オレ達は誇りうる……
物語がある…!
ガキの頃から……
何度も言われてきたはずだ……!
男だろ…って…!

と述べる。明快な論理性があり、とても気持ちがいい。

最初に読者へ言い含めたハッタリを裏切ってまで、大きな物語へと接近することを求めたのは、作者の過失であるとは言えない。男性性を回復することで大きな物語に参加すべきだというのが最終的に作者の主張だからだ。それでも黒沢が本当に「力」を持ってしまう課程はこの筋には不要だと思うし、またこのマンガが現実の問題から始まりながら巧みにそれを捨ててファンタジーに逃げ込んでいるのは明らかだが、願望を充足させる物語の効用としては非常に美しくまとまっている。読み終わって、これらの問題を山口貴由「炎のうさぎ戦士」や望月峯太郎「バタアシ金魚」はどのように描いたか非常に気になって、再読しようと思った。特にバタアシ金魚については先日も少し書いたが、ウェブ上で調べたところこのマンガについてのまともな論評はほとんど残っていないようなので、かなり読む価値を感じている。

2007.02.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

Anime World Order Show

ブログがずいぶん整備された結果、ウェブではどこを見ても同じ話題しか手に入らないことが多くなってしまった。それなりの間、RSSやブログをまじめに使ってみたのだが、やはり情報に偏りが作られにくいようだ。この新しい流通手法のおかげで情報がこんなに流れやすくなったというのは僕だって素晴らしいことだと思う。しかしマスコミが流す大本営発表や個人が書き留めた些細な話題が技術の上で平等に流通していながら、同時にその技術そのものが「みんな」にとっての重要度に合わせて話題の価値を決定付けることを許してしまっている。しかしこの技術に平等さがあるから多様性を実現しうるというのは誤解で、平等さは衆目の集まりやすい記事に誰もが注目しやすいという平凡な状況しかもたらしていないように思う。個々のユーザーが能動的に情報を集めていると錯覚させながら実態としてプッシュ型に近づいてしまうというのは退屈どころか欠陥を含んだシステムだと言いたい。「フォークソノミー」(folksonomy)という言葉には、よく考えると僕の感じる不満が内包されている。この言葉は疑いもなしに「民衆/人々」という大きな主体を持ち出すことで個別のユーザーという存在を忘却させ、その大きな主体によって情報全体が乱暴に分化されゆくのをことさら讃えているように思えるのだ。

前にも書いたが、最近はポッドキャストをけっこう聴いている。ポッドキャストもウェブと同じ仕組みでネットワーク内を流れるが、音声というのが本質的にテキストデータと相容れないせいで、同じインフラでありながら別の課程で流れる情報のように扱うことができる。大雑把な言い方をすれば、音声データにはテキストデータと違いそれ自体に意味内容が付随しないため、ここにRSSやブログ検索に現れない面白さが残される。それから、言うまでもないことだがプッシュ型であるこのメディアには「僕にとっての面白さ」を偶発的に見つけ出す契機が絶えず存在している。

日本のポッドキャストは企業主導のものが面白く、中でもやはりTBSラジオのものがいい。出演者のタレント性を前面に出すのではなく、人文系のテーマなどを豊富に揃えて「じっくり聴く」ための内容を用意しているのがいいのだと思う。この方針は、日本だと他局はもちろん個人によるポッドキャスト配信ですらも、じっくり聴くための内容が重視されないのと大きく差別化できている。先に書いたとおり新たな情報源としてポッドキャストを見い出そうとしている僕には「好きなテレビタレントが語る雑談」などはタレントのブログを情報源と見なせないのと同様に全く必要とされない。ウェブと同じ考え方をして、「タレントのブログ」に対置されるものも必要とされうると考えたTBSラジオのポッドキャスト担当者はセンスがあったと思う。ここがなくなるとほかに聴くものが一気に減って困るので、人気がなくてもこの路線を維持してほしいと思う。というより、フォークソノミーな人々だって情報に興味があるのだろうから、この路線に需要がないわけがないだろうと思う。惜しむべきなのは、ポッドキャストのサイトのトップページにやる気があまり感じられず、個々のコンテンツが一覧性に欠ける上に面白さが伝わりにくいことだ。

一方、海外のポッドキャストにおいては、日本と違って個人の作ったものの方が面白く感じる。企業のものにも面白いものがあるとは思うが、わざわざ企業のものを探さなくても個人が十分に面白いものを作っているという印象だ。特に、個人や複数人数による対話によって弁論が行われるものがあるのがいい。日本のネットラジオには討論や議論を中心としたものはあるが、自説を述べたり作品の批評を行うにはテキストを書くのが普通なので、音声を通じて個人の意見を聴くことは少ない。個人的には、海外のアニメやマンガオタクの人がやっている番組が面白かった。海外のオタクについては、いまだに「ドラゴンボールやうる星やつらが人気を博している」のような、日本とのギャップを強調しようとする表現が好まれる傾向にある。それは冷笑的であると言ってもいい。マスコミであろうと個人のブログだろうと、海外のオタク市場で作品がどのように流通し、オタク達がその作品をどう語っているか正確な知識を得ようという向きは少ない。日本のコミックやアニメについて熱く語る個人ポッドキャストを聴くと、海外のオタク関連コミュニティがリアルに感じられて面白い。また、日本で既に評価が定まっている作品について丁寧な考察が行われているのもありがたい。例えば1回分が2時間以上もあり聴き応えのあるAWO(Anime World Order Show)などは「ジョジョの奇妙な冒険」を、「こち亀」の次に古い現在もシリーズが継続している作品だと指摘していたりして、そういえばそうだよなあと気づかされる。こうした事実は日本だと頓着されにくく、書いてあっても読み流してしまう部分であるように感じる。

現状のポッドキャストを特に情報源として扱う場合においては問題点がいくつかある。まず、それが利点でもあるのだから仕方がないが、テキストのように流し読みができない。受け手には一定の時間が必ず必要とされてしまう。また集中して聞かねばならないため、他のことをやりながら、特にウェブを読みながら聴くのは難しい。iPodなどに転送して聴けばいいということになるのだろうが、以前にも書いたように、それだけリスニングスタイルを限定されるメディアというものが視聴者をますます増やして発展しようとしているようには思えない。僕はiPodなんて持っていないし、iPodを持つ人だけが得られるような情報にさほど興味はない。

登録した番組のURLすら満足に調べられず、番組のダウンロードにリトライ機能がないiTunesのような貧弱なツールが推奨されるほどまともな受信や再生ソフトがないという問題と相まって、リスナーが情報収集のために効率的な聴き方をするのは難しいと言える。多彩なポッドキャストばかりを専門に聴いて内容をまとめるようなまとめサイトがあれば盛況になるだろうが、現在のところこれらの問題によってかなり面倒な作業になるだろう。

実はこの文章は「ビューティフル ジョー」というゲームについて書くつもりだったのだが、ポッドキャストの話で終わってしまった。インターネットの話などしすぎる必要はなかったのだ。これは失敗である。

2007.02.12 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [マンガ] [アニメ

New Zealand Story Revolution

「ニュージーランドストーリー」はタイトーの2Dアクション好きの僕としては当然好きなタイトルだが、最近になってなぜか海外でリメイク版「レボリューション」が発売された。

「バブルボブル」や「レインボーアイランド」のリメイクは日本でも発売されていた。「バブルボブル」はモードを選べば旧バージョンもプレイできたので別によかったが、「レインボーアイランド」の方はタッチペンをムリヤリ使ったあまりにもひどい内容で、すぐにやめてしまったものだった。今回の「ニュージーランドストーリー」にもさほど期待していなかったが、やってみると意外に面白い。

ゲーム自体は旧作のアレンジとはいえ、二段ジャンプや床からの落下が可能になっていたり、またアイテムが豊富だったり敵の倒し方が簡単になっているなど、ほとんど別物だと思った方が楽しめる。さらに、ゲーム中にタッチペンを使って間違い探しや綱渡り、魚釣り、玉入れなどを行うシーンがある。これが上画面でのゲーム本編と並行して行う場面が多く、地味だが面倒な操作を要求されるのがスリリングで面白い。旧作のようなシビアな操作を要求されるゲームではなくコンティニューも可能なのでゲームの難易度はやや低めだと思うが、クリアするとエキスパートモードが選べるらしい。タイトー2Dアクションのリメイクバージョンはろくなものがないと決め込んでいたので、とてもよかった。

しかし最近はDSやGBAで2Dアクションゲームをやるたびに「スクリューブレイカー 轟振どりるれろ」のことを思い出す。僕はあのゲームくらいから再びゲームをやり出したのだ(つまり最近だ)。あのとき僕は「最近のゲームってこんなに面白いのか!」と感動したのだが、それはちょっと間違いで、あのゲームが特別に面白かったのだなあ。以前遊んだゲームを超える面白さばかりを他のゲームに求める態度に僕は否定的なのだけれど、そうはいっても、いつまでも思い出せる面白さがあるゲームというのは、やっぱりすごいものだ。

2007.02.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム

BET

渡辺和博が死んでしまった。何となく、絶対に死なないような人だと思っていた。それは僕がJBの不死を当然のこととして信じていたのとは全く違い、最初から、渡辺和博という人の存在自体をどこか信じていないようなところがあった。僕にとって彼はメディアのわずかな隙をどんどん浸して、至るところに存在していくような人だった。それが「金魂巻」であろうと「ガロ」であろうと、また「エンスー養成講座」であろうと「ナウのしくみ」であろうと彼はあちこちに遍在しており、その様は僕にとって人間として感じられないほどポップだった。つまり彼の活動はそれ全体をしてアーティスティックなものだった。たまたま僕の見るものに彼が登場しやすかったのかもしれないが、それでも「ガロ」と「ナウのしくみ」がかつて横断可能であったということは現在において驚きに値するようなことだと思う。

ばるぼらさんにいただいたミニコミ「BET」の特集「自販機本 自販機本のビューティフルな世界 」には「X-MAGAZINE/Jam/HEAVEN全冊レビュー」として各誌の目次が載っているのだが、そこには、やはり渡辺和博が当然のように居座っている。それを見ながら上記のようなことを考えていた。

BETは面白かった。内容はもちろんだが、編集後記が目を引いた。ばるぼらさんにしては珍しく、自分の仕事についてはっきりとした意見を書いているのだ。

自分がやっていることは一種のカウンターだと考える。よく判らないもの、まだぼんやりとしか理解していないもの、判断できないもの、皆が知らないもの――そういったものの情報や資料をまとめて、一つの世界観を呈示し、皆に報せたい、消費させたいという欲望がある。「昔は良かった」と爺婆が語る伝説や、一部の人達にだけ独占されている知識・価値観の正体を暴いて、誰もが共有できるものに変えてしまう、時には幻想を剥ぎ取ってしまう、消費しにくいものを消費しやすい形に変えてしまう、そういった行為が自分の役割だと思う。だから本誌は当時を知る人間に対しての懐古/回顧サービス業ではなく、「お前達が大事にしている秘密はこういうことだろう」と突きつける反抗のつもりだ。現代に通じる文化の源流の再確認という意図は、実はあまりない。

これは、これまでのばるぼらさんの仕事すべてに言えることだ。このことは、いつか誰かが指摘しないかと思っていたが、本人が語っていたのでほとんど拍子抜けである。

僕はときどき、ばるぼらさんの批評的態度がいかにして成り立っているかを考えることがある。例えば、彼がインターネットについてあまりに詳細な本を書いたからといって、彼のことをインターネットを愛する、インターネットのすべてに肯定的な人間だと考える人はずいぶんいる。彼の本を読んで懐かしいと感じるような人なら、なおさらそう思うだろう。そのような人は、しばしば自分にとってノスタルジックな何かを彼が知っているからといって、彼を「自分たちの仲間」であると誤解し同調を求める。それはもちろん悪意ですらない。だから彼は、いつも口を濁すばかりである。彼は別に対象に対してことさら愛情深いがために本を作るわけではないのだ。むしろ彼は仕事の上で、対象に対して必要以上に愛着を持たず、常に一定の冷淡さを保とうと努めているのだ。だから彼はインターネット全体を無条件に肯定するような論調に必ずしも同意しないし、同意しても、その理由を愛情故だと取られることを嫌うだろう。彼はそのようにして、対象から離れた位置を確保している。彼は公の場でこれまで一度も自分の年齢を言ったことがないと思うが、それは自分の仕事を世代故の愛情として語られたくないからであり、また彼にとって観察対象となりうる世界のすべてから遊離してあるためではないかと想像している。そんな誰からも遠い距離を保つことで、彼はどんな些細なことも見逃さないであろうとすることができるのではないか。そう思っているから、僕は一度も彼に年齢を尋ねたことがない。

「BET」において語られている自販機本についても、彼は深い愛情を持ちながら一定の距離を保っている。だが彼はそんな距離を保つことで、彼は誰もが見落としている雑誌というものについて平然と語ることを可能にしている。昨今では各誌についてはもちろん、編集者やエディトリアルデザイナーという人間の情熱によって成り立つ雑誌というメディアの面白さそのものを多くの人が忘れかけている。しかしこういう、誰が作っているか、誰が寄稿しているかを見るだけで誌面が浮かんでくるような雑誌は、確かに過去にはたくさんあったのだ。あまりに純朴なマスコミ批判などが恥ずかしげもなく語られるこの時代には、雑誌の作り手などほとんど気にされない。だからこそ雑誌というものが人間によって作られているということをこれほどまでに意識させられる本は最近なかった。ばるぼらさんは、全く彼自身の言う通り、多くの人がいま目を向けていないことを常に淡々と指摘し続けている。

2007.02.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ

AKB48「制服が邪魔をする」

AKB48にはほぼ興味がなかった。しかし秋元康の仕事を僕はかなり評価しているため、AKB48についても「スカート、ひらり」などはいいと思っていた。デビュー当時のAKB48は「アキバ系」のブームの流れから導き出されていた。これは過度に清楚さと処女性を強調しつつ少女に対する性的な幻想を味付けとして使うという80年代アイドルのパロディ的存在でありつつ、現在のオタク文化が持っている保守的な女性観との一致を正しく指摘したものだと思っていた。だが、最近このグループのリリースを意識して見ていなかったうちに、どうも様子が変わってしまったようである。PVを見ればより明らかだが、「制服が邪魔をする」は推定少女の焼き直しと言っていい。

「女性としての性を求められるが故にハードな現実を生きる制服少女」という90年代的なキャラクター性は、パロディとして現在について批評的な視線を投げかけるものではない。つまり僕は「渋谷で援交する少女から垣間見える歪んだ現実(とエロ)」というリアリズムは2007年においてほぼ成り立っていないのではないかと思っている。少女の援交それ自体は若者を語る上での大きな問題ではなくなってしまった。これはよく調べるべき問題なのではっきりとは言えないが、おそらく細分化やゾーニングが進んだせいで若者全体を語ることが難しくなったせいではないかと思う。援交をするような少女とは当人以外にとっては別の現実、物語に過ぎなくなってしまった。彼女たちの物語は人々にとってせいぜい援交AVのストーリー部分としてしか処理されなくなり、仮想の恋愛を提供するアイドルポップスとしてのリアリズムは減退する。推定少女において既にそうだったのだから、「制服が邪魔をする」はさらに後退していると言わざるを得ない。

Berryz工房が優れているのは、そのような大きな社会性をアイドルに持たせようとしないからで、「現実について分かったようなことを言うクラスの女子」という半径5キロ程度で終わるゆえにリアルさを感じる物語を作り上げている。松浦亜弥が「ドッキドキ! LOVEメール」「トロピカ~ル恋して~る」などから現在的な平凡さを強調し続けたのを通過してなお、今どきの女の子の現実が渋谷に求められていると考えるのはあまりに古い価値観であり、またノスタルジックな存在として持ち出すにも時期尚早である。人数の多い推定少女としてAKB48が扱われるのであれば全く残念だ。

ただ、この曲は楽曲が大変すばらしい。僕がこの曲を聴いた理由も、薬局に行ったらかかっており、歌詞はよく聞こえなかったがサウンドが気になったからなのだ。80年代アイドルポップスの外連味あるメロディーを使いつつ、トラックには90年代的ダサカッコ悪いドラムやシンセのループがまるでシャ乱QやLAZY KNACKあたりを引用したがっているように見えて非常に面白い。それに「アーン」というあのハロプロ的なアヘ声ブレイクが入る。ここに新しさはあると思う。

2007.02.05 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽

QuickJapan70号

仕事中であり疲れているのだが、インターネットを見たらとても悲しくなったので、自分は決して怠けてはいられないのだと思って今、とても疲弊した体でだらしのない書き込みを始めてしまった。

さて2月13日発売の「QuickJapan」70号で、ばるぼらさんとの対談相手としてご指名いただいた。昨年暮れのユリイカと同じく「さやわか」という筆名である。この対談は、この号の「70号記念総力特集 Next Quick Japanese100」という第2特集の一部であり、特集全体では以下のような内容だ。

70号記念総力特集 Next Quick Japanese100
■花沢健吾ロングインタビュー
「ボーイズ・イン・ザ・ヰタセクスアリス、あるいは、それでも、人間っていいな」
■QJが選ぶゼロ年代日本次の100人
足立守正/飯田一史/伊豆一都/磯部 涼/井上佳子/北沢夏音/渋谷直角/鈴木淳史/竹田晃洋/竹村真奈/ばるぼら/広瀬小太郎/前田和彦/松永良平/松本亀吉/森 樹/森 直人/吉田大助
■対談 鹿野 淳×磯部 涼
「今、音楽のために、音楽ジャーナリズムは何ができるのか」
■対談 佐々木 敦×吉田大助
「読んだことがないようものが読みたいし、聴いたことがないようなものが聴きたいし、見たことがないようなものが見たい」
■対談 中森明夫×渋谷直角
「いろんな所で停滞しているってことはかなり熟しているわけで、パンクが出てくる前夜の雰囲気と同じだ」
■対談 さやわか×ばるぼら
「ネット単体ではもうパターンが出尽くしちゃってるから、現実につながる何かの方が面白い」

対談の内容は、過去から現在、そして今後においてネットは作品を発信するメディアなのか、違うならどのように使われているか、というようなものだ。

僕はこのような内容のブログをやっているが、今これをやっている理由の1つは現在のインターネットについていろいろと考えたせいだ。だからこの対談を読んでいただくと、僕が今これを重視している理由が断片的にでもお伝えできるかもしれません。よかったらご覧ください。

全く偶然だが、ばるぼらさんと対談するというのは、僕が次に作るウェブサイトでも企画されていることだった。この対談の依頼を受けたのは、そのウェブサイトのためにドメインを取った1時間ほど後だ。不思議なことだ。一番最後に「『Hang Reviewers High』」というタイトルの記事を書いたらここは終わりになるが、当初想像した以上にこのブログは続ける必要があるものだった。だから、その新しいサイトを作り始めるまでにもう少しかかりそうだ。あっちだって無関係ではないのだからやりたいのだけれど。サイトの名前は「ソニクニホン」といいます。

さてこの号の全体は以下に示すようなものだが、Perfumeのインタビューがあるのが非常にうれしい。それからチュパチャップスの宮川大輔が載っている。僕はバッファロー吾郎がとても好きで、てんその前後に何度か見に行った。「ダイナマイト関西」のDVDを買おうか真剣に考えている。淀川長治の日曜洋画劇場のDVDと同程度に、つまり非常に、欲しい。関東の人はお笑いに高い興味のある人しかダイナマイト関西のことを知らないというのは、実にもったいないことだと思う。その人が、笑うのを嫌いじゃなければ。

カンニングのラストライブ「Quick Japan Presents FIVAL vol.001 2004 WINTER」というのは、これは西島君に誘ってもらって一緒に行かせてもらったときに見たやつだ。あれが最後のライブだったのかと驚く。宗教ネタや政治ネタをやっていたはずだ。ファウストのイベントがあり講談社へ行った後に新木場に移動した日で、客層の違いが面白かった記憶がある。カンニングはとても面白かった。あのとき既に入院するという話をしてたんじゃなかったろうか。違っただろうか。

【FEATURES.1】
カンニング全記録
──The Long And Winding Road 1992-2006

■本誌独占 竹山隆範23,000字インタビュー
「カンニングは、僕が唯一本気で漫才ができる場だった」〈前編〉
■カンニング ラスト・ライブ
Quick Japan Presents FIVAL vol.001 2004 WINTER
■1992-2004竹山隆範ネタ解説
■中島忠幸との1時間─中島忠幸&真奈美インタビュー再録
■竹山隆範23,000字インタビュー〈後編〉

【FEATURES.2】
70号記念総力特集 Next Quick Japanese100

■花沢健吾ロングインタビュー
「ボーイズ・イン・ザ・ヰタセクスアリス、あるいは、それでも、人間っていいな」
■QJが選ぶゼロ年代日本次の100人
足立守正/飯田一史/伊豆一都/磯部 涼/井上佳子/北沢夏音/渋谷直角/鈴木淳史/竹田晃洋/竹村真奈/ばるぼら/広瀬小太郎/前田和彦/松永良平/松本亀吉/森 樹/森 直人/吉田大助
■対談 鹿野 淳×磯部 涼
「今、音楽のために、音楽ジャーナリズムは何ができるのか」
■対談 佐々木 敦×吉田大助
「読んだことがないようものが読みたいし、聴いたことがないようなものが聴いたいし、見たことがないようなものが見たい」
■対談 中森明夫×渋谷直角
「いろんな所で停滞しているってことはかなり熟しているわけで、パンクが出てくる前夜の雰囲気と同じだ」
■対談 さやわか×ばるぼら
「ネット単体ではもうパターンが出尽くしちゃってるから、現実につながる何かの方が面白い」

【FEATURES.3】
特集 宮川大輔

■宮川大輔の原風景、京都・滋賀を巡る旅15,000字インタビュー
「天然素材に振り回されたり、役者になったり、笑いが怖くなったり、いろいろあったけど、今が一番おもろい」
■証言構成「宮川大輔と私」
FUJIWARA・原西孝幸/バッファロー吾郎・竹若元博/今井雅之/古田新太/荒川良々/ほっしゃん。
■宮川大輔欠席裁判
宮迫博之(雨上がり決死隊)×山下しげのり(ジャリズム)×たむらけんじ
「今よりも進化したら、もう塀の中へ行くしかない」
■ルミネtheよしもと聞き込み調査「宮川大輔ってどんな人?」

【REPORT】
■TV・オブ・ザ・イヤー2006
現役放送作家22人が選ぶ本当に面白い番組 エンタテイメント大賞
「CHIMPAN NEWS CHANNEL」(CX系)、副賞「アメトーーク!」」(テレビ朝日系)ほか受賞作紹介
・放送作家7時間徹底座談会&アンケート
大井洋一/興津豪乃/北本かつら/酒井健作/鮫肌文殊/鈴木おさむ/すずきB/そーたに/高須光聖/田中直人/都築浩/中野俊成/樋口卓治/福原フトシ/堀江利幸/堀田延/松井洋介/松本真一/村上卓史/山名宏和/渡辺信也/渡辺哲夫

■マッスル―変化するプロレス界の落とし子 いま、プロレスに何が起こっているのか!?─マッスル登場の背景
・対談 森 達也×マッスル坂井 「マッスル自体がすでにプロレスのドキュメンタリーである」
・観戦レビュー「マッスル・ハウス3~新春肉笑いスペシャル~」07年1月3日・後楽園ホール(吉田 豪/菊地成孔)
・観戦マンガ「プロレスのこちら側」(ルノアール兄弟)

■ネタで勝負だ! 関東のお笑い界を支える養成学校「スクールJCA」潜入記
■ダーリンハニー長嶋智彦のロンドン・カルチャー入門
■伝説の深夜バラエティ番組が全話収録DVD-BOXとして復活!! 「三宅裕司のワークパラダイス」――あなたたちが僕の青春でした。
■「ぼくがもしアーティストになっていたら、きっとこういうスタイルで唄っていた」 劇団ひとりが語る、ミドリカワ書房『みんなのうた2』制作秘話
■シングル『Fan Service [sweet]』発売 パフュームインタビュー
■『TOKYO TRIBE2』アニメ化記念 井上三太インタビュー 「これほどオリジナルなジャパニーズ・アニメーションは他にない」
■悲しみから零れ落ちた声を音楽に変えて──倉橋ヨエコインタビュー

【REGULARS】
★新聞やTVの報道しない2007年如月のニュースをクイック・キャッチ! クイック・ジャーナル
カンニング/Next Quick Japanese100(花沢健吾)/宮川大輔/TV・オブ・ザ・イヤー/マッスル/倉橋ヨエコ/184045―もうひとつの横浜アンダーグラウンド・シーンについて/今どき真っ当な、"マンガを読んだなぁ"って感じ―『林宏』袈裟丸周造インタビュー/歌舞伎町をひた走るナゾのスピーカー車を追え!!/よく分からないものの連鎖──「家賃をタダにしろ! 中野―高円寺一揆」/チョップリンの中年ライフに幸多かれ!/PANTA──新たなる始動/D.Lの帰還からブッダ再始動/ドッペルゲンガー、研究の現在/追悼・米沢嘉博 コミックマーケットで耳を澄ました日/町の話題

■ヒロシ「ヒロシポエム」第10回「間違い探し」
■劇団ひとりのカプチーノを飲みながら 第22回「お掃除の達人・クリーン相沢(34)」
■笑い飯の日本列島改造計画 第13回「カレー」
■Quick Japan People「リラクゼーション・スポットで話を聞いた。」
臼田あさ美/松尾貴史/吉村やよひ/松本光一/COMA-CHI/小泉麻耶/松崎しげる
■板尾創路とピエール瀧のハチ公はなぜ剥製にされたのか? 第6回・修学旅行
■北沢夏音「Get back, SUB!―あるリトルマガジンの魂に捧ぐ」第16回・再訪
■iTUNES拝見 第18回・渚ようこ
■草森紳一「記憶のちぎれ雲」第16回・伊丹一三(十三)〈6〉「美人来たらず、空しく断腸」
■坪内祐三「東京」(写真・北島敬三) 第19回「目白」
*高須光聖「クイックch」は休載いたします。

【COMICS】
■長尾謙一郎「ヤバイ」Chapter.4
■衿沢世衣子「天心モナカ」第5回・シマイ

【COLUMN】
QJC Quick Japan Column Vol.020 2007年如月、QJが最も読みたいコラムを23連発!!
足立守正/和歌頭アキラ(赤犬)/鴨田 潤(イルリメ)/長塚圭史/寺尾紗穂/西島大介/森 樹/MASAMATIX(AUDIO ACTIVE)/安田謙一/松本亀吉/ばるぼら/長谷部千彩/佐々木敦/豊田道倫/326a.k.a.19……and more! 」

【FROM EDITORS】
バックナンバー/寄稿者紹介/編集後記

2007.02.03 | | コメント(2) | トラックバック(1) | [文章] [映像

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