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ユリイカ2007年4月号

「ユリイカ」の最新号で巻末のコラムを書かせていただきました。特集は「米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険」で、それは以下のような内容です。

特集*米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険
【受け継がれる魂】
ミステリという方舟の向かう先 「第四の波」を待ちながら / 米澤穂信+笠井潔

【書き下ろし短篇】
失礼、お見苦しいところを / 米澤穂信

【米澤穂信の〈世界=地図〉】
距離と祈り、あるいは世界の多重化に関する覚え書き / 斎藤環
零度のミステリと等身大の世界 We cannot escape. / 佐藤俊樹
砂漠通信 / 巽昌章

【米澤穂信という〈事件〉】
彼らは考えるだけではない / 松浦正人
米澤穂信のできるまで / 桂島浩輔
互恵関係と依存関係 〈小市民〉シリーズについて / 古谷利裕
エモーショナル・レスキューの憂鬱 「仕事」をめぐる冒険として 『犬はどこだ』 を読む / 仲俣暁生
青春以前小説/青春以後小説 / 円堂都司昭

【〈七つ目の希望〉へのオマージュ】
妖精の土地 連作 / 山崎佳代子

【小説の未来へ!】
HTML派宣言! ネットが僕らの揺籃だった / 米澤穂信+滝本竜彦

【21世紀エンタメの波濤】
シミュレーションの論理をめぐる五つの断章 / 福嶋亮大
波動変遷 新本格と「日常の謎」 / 蔓葉信博
失われたスイーツ 恋の賞味期限 / 浅野安由

【資料】
米澤穂信全作品解説 / 前島賢

この特集はとても面白い。特によかったのは、やはり僕にとっては米澤穂信が滝本竜彦とインターネットについて語った対談だ。90年代後半から00年代初頭にかけてのテキストサイト界隈について語られている。特に、かなり具体的にサイト名や人名が挙げられているのが素晴らしいことだと思う。なぜか。ネットで活動をしていた表現者が、ほかの媒体でこのように自らの出自であるネットでの活動について詳細を語った内容が残されるのはあまり例を見ないはずだからである。つまり作家に限らず表現者に「ネット発の○○」というキャッチを付けるメディアはいくらでもあるが、彼らがネットにおいてどうであったのかということが頓着されることは極端に少ない。これは必ずしも作家自身が語りたがらないせいではなく、実際のところ他メディアの作り手(そして受け手)にとってみれば、「インターネットから『こちら側』にやって来た人」ということだけが重要であり、彼らがネットのどこで何をやっていたか、何に影響を受けたかという具体性は不要なのである。だから、ネット発の表現者が他メディアに取り上げられたとき、彼らのネットでの足跡について詳細に述べられることが少ないのである。このことは、ネットがいつまでも他メディアから別空間として処理され続け、またネット発の表現者が他メディアに現れたとき、ネットとの間に断絶がはっきりと刻まれてしまいがちな理由のひとつだと思われる。

断っておくが、僕は単にインターネットというメディアに対する愛情をもって、それを軽視するなと言いたいわけではない。ただ表現者に対して「インターネット発の」と言われることも多い昨今でありながら、実際のところインターネット上での彼らについては前史としてうち捨てられるのはおかしいと言いたいのである。それは、彼らの表現を語る上で中途半端であり、第一黙殺するには大変に惜しいことなのである。

この対談では作家たちは当時のインターネット内における自分たちの詳細な位置を語る。作家の歩んだ道程はひとつなぎになり、過去と現在は断絶されない。これが本来なのである。問題は、彼らがこれを語っても、読者にとって「自分の知らない昔話が続いているだけ」として処理されることなのであるが、この対談の構成はそれを回避できているのではないだろうか。そう思えるのが、僕が当時を知っているせいでなければいいが。

上記のことも含めて、今売りのクイック・ジャパンに載っている、僕とばるぼらさんがネットと表現者について話した対談と通底する内容を多く感じた。そして今現前している問題、それは僕がこのブログをやっていることにも関連するのだが、ブログが個々の記事によってのみ成り立ち、サイト全体に一貫したものが表現されにくいという問題などが語られているのもとてもいい。

さて巻末のコラムの拙文の話だが、僕も米澤穂信に絡んだ話をしようかと思ったが、精読したこともないくせに大したものは書けないのでやめた。代わりに、前にここにも少し書いたことがある内容、「二〇一〇年代が既に始まっている」という文章を書いた。いろんな文章を書き分けるのが好きな僕としては、ここはコラムの欄なので、ならばコラムを書いてみようぜと思って書いた。自分の思うような1200字のコラムにできて気に入っている。そして内容も、実は上記の米澤穂信の話と、遠くではちゃんとつながっているのだ。

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2007.03.29 | | コメント(5) | トラックバック(0) | [文章

宮沢りえ「20ans.」

加護亜依は事務所から追放された。おかしなもので、会社は彼女を一度たりとも守ってはあげなかった。矢口真理や村上愛のときに感じたことは、今はっきりと疑問だと言うことができる。つまり、一体彼らはなぜ、自分たちの商品を守ろうとせずペナルティを課すことばかりを考えているのだろうか。僕にはわからない。

本来、彼らにとって彼女たちは売り物である。それは分かっていると思いたい。しかし呆れたもので、彼らは彼女たちの断罪人としてしか働こうとしていない。タレントを管理することができない自分たちを棚に上げるために、タレント自身に全責任を負わせているのだ。それは間違っている。アイドルとは虚像であり実際のところ人間なので、その枠からはみ出した行動を取ろうともするのが当たり前である。それが華やかな舞台の上に漏れ聞こえないようにするのが会社の役割である。アイドルとして恥ずべき様をとった者を首にするのが仕事ではないのである。

今や会社は、加護亜依に関する一連の騒動は彼女自身の過失でしかないと思わせようとしている。ひどいものだ。彼女が実生活で誰と付き合おうが、喫煙をしようが、アイドルという虚業においてはそんなことはどうでもいいのである。そして、それを写真に何度も撮られるような状況を生んだのは間違いなく彼女だけの過失ではない。むしろ商品を送り出す者の責任である。いま僕が加護亜依にしてあげられることはないだろうか。何一つない。この文章を書くことだけができる。

さて宮沢りえの「20ans.」である。先日近所の魚がうまい居酒屋に行ったらこのアルバムの「赤い花」に似た曲がかかっていて、誰のバージョンであろうかと思ったがそれがホブルディーズのオリジナルであった。大変よくできた曲だが、オリジナルはホブルディーズだけあって宮沢りえよりずっとカントリー調が強い。しかし、今聴き返してみると宮沢りえの方もトラックだけを聴けばごく普通にカントリー調である。ではこの無国籍感は、やはり宮沢りえのボーカルの力によるものが大きいと考えるべきであろう。もともと東洋的なメロディだが、宮沢りえの澄んだ声質とトラックのカントリー調と相まって、より一層に異国情緒をかき立てられる。そのかいあって歌詞に歌われる「見知らぬ国の旅行団」の不思議さも際だっている。とてもいいカバーで、これを企画した人はいいセンスだなあと思った。

このアルバムはベストアルバムだが、しかしとてもいい。「赤い花」以外の曲も、簡単に言うと最高である。宮沢りえのパフォーマンスもよいが、最も面白いのは若かった宮沢りえに対するプロデュース陣の熱意である。当時彼女はクリエイターがこぞって起用したがる一つのアイコンだったのだ。彼女をどんなものとして見せたがっているのか、それぞれの作り手の意図がひしひしと伝わってくるのが、作り込まれたものを観賞するのが好きな僕には大変楽しい。

後に宮沢りえは残念なことになったが、しかし彼女は戻ってきた。彼女はクリエイターのためのアイコンではあったが、アイコンになるだけの力があることは前提だったのだ。だから彼女は一人で戻ってこれた。恐るべき精神力である。

僕は今、加護亜依も必ず宮沢りえのようにして我々の前に戻ってくるはずだ、と書いてこの文章を締めようとしたが、残念ながらそう書くことはできなかった。そんなことを彼女に強いるのは、もう、あんまりかわいそうである。今や僕は、彼女は確かに素晴らしかったと言うことしかできない。

2007.03.27 | | コメント(4) | トラックバック(1) | [音楽

日曜洋画劇場 40周年記念 淀川長治の名画解説

今月は全然このブログを更新できていない。実は忙しかったせいもあるのだが、しかし今月は、そもそもメディアに触れる機会が減っていた。本屋などに行く機会も少なく、昨日ようやく「ゲーム的リアリズムの誕生」を買ったので読めば何か書けるだろう、という程度だ。

活字はともかく、僕はここ1年ぐらい映画が見たいとずっと思っているのに、映画館には結局ほとんど行っていない。邦画がブームと言われて久しく、確かに面白そうだと思う作品が多いと思う。しかし、元来からろくに映画館へ足を運ばない僕が是非にと上映時間をチェックしたくなるかと言われると、残念ながらそうならない。

ブームに浮かれてるだけで、邦画なんてつまらないと言いたいわけではない。問題は、ブームだからと言って10年前より今の方が面白くなったとは言えないのではないか、と僕が思ってしまう点だと思う。僕は10年前にはもっと映画を見ていたし、映画館にも行った。しかし邦画はほとんどレンタルビデオでしか見なかった。それは面白くないからじゃない。僕には、邦画はレンタルで見てちょうどよい面白さを提供してくれていた。もちろん当時でも、それを映画館で熱心に見た人はいただろう。要するに僕は、邦画に対する情熱がそういう人よりも少ないのかもしれない。だけど、ブームじゃない、10年前の邦画だってちゃんと面白かったと言うことはできる。

結局、昨今のブームとは、スポンサーがずいぶんお金を出してくれるということだと思う。10年前なら制作費がなくて頓挫してしまうようなものが当たり前のように作れて、ちゃんとした劇場でかかってしまう。しかし、これは別に作品の質が上がったという意味じゃない。だから僕にとっては、たくさんの面白そうな作品が増えてうれしいけれど、しかし機会があればレンタルで借りたいものが増えたという状況にしかならなかった。結局10年前に戻っただけなのだ。昨今のブームはシネコンとかの流行りでもあるはずなのに、全然それを実感できない。作品の質が極端に向上したと思えれば見に行く理由になるだろうが、しかしどうしてもそれができない。例えば僕はこの間「ユメ十夜」が面白そうだから見ようかと思ったけれど、どうしても千いくらだかのお金と2時間程度の時間を費やして劇場で観賞しようと思えなかった。たまたまタイミングがよかったり、無料券を持っていたりすれば見るくらいの気持ちなのだろう。映画に対してなんだか申し訳ない態度だとは思う。

しかも、僕のうちの周りにはまともなレンタルビデオ店などがなくて、借りて見るのもなかなか面倒だった。おかげで見たい気はあるのに、ただ新作の公開やDVD情報を眺めるばかりで過ごしていたものだ。なんとかしたいと思って、先日古い友人に会ったときに教えてもらったTSUTAYA DISCASに登録してみた。月2000円で借り放題のレンタルサービスだ。この手のサービスは5~6年前に開始された気がするが、当時は品揃えが悪くてすぐに興味を失った。しかし最近はそれなりに改善されていて、見たいと思えるような作品が検索できるようだ。これらのタイトルがちゃんと送られてくるならとても便利そうだ。ようやく生活の中で映画を見られる。

もっとも、TSUTAYA DISCASでまず最初に借りたのは「日曜洋画劇場 40周年記念 淀川長治の名画解説」だった。映画じゃないじゃないか。このブログではかねてから映画批評についていろいろ考えていたので、これが気になっていたのだ。そういうわけで今、見ている。2時間半近く映画解説ばかりが続くのはなかなかボリューム感がある。

テレビの映画解説全般に言えるのかは知らないが、淀川長治は「あれ」「この人」「あのシーン」などの言葉を多用する。本来、指示代名詞を氾濫させすぎると視聴者には何を指しているか分かりにくくなってしまうはずだ。しかし映画を見た直後で映画に対する鮮明な記憶が残っている視聴者には示している内容が理解しやすいだろう。むしろ示される内容を自分が容易に思い描けることによって、淀川長治と同じイメージを共有していることが意識される。解説を聞いていると、彼に対してまるで共に映画を観賞していたかのような近しい気持ちを抱くのはそのためではないかと思った。

2007.03.25 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [映像

ヨッシーアイランドDS

任天堂はマリオを使ってディズニーがやりたかったのだと思う。少なくとも、マリオとソニックがまだ競争関係にあった96年ごろに僕はそう考えていたし、その考えは正しかったと思う。対置するものとしてソニックをおけば、任天堂の姿勢はずっと分かりやすかった。セガはソニックを、若者に愛されるカッコよさのアイコンとしようとした。その意図は「ソニック・ザ・ファイターズ」から「ソニックアドベンチャー」くらいまでの作品には特に顕著に表れていると思う。

対してマリオである。任天堂の姿勢を評価するにせよ、貶すにせよ、それをして「子供向け」と断じる人はあまりに軽率すぎると僕は思う。あの安全さとエンタテインメント性の高さは確かにディズニーに範を求めたものだろう。ディズニー的な世界がどんどん進出していく様には、徹底管理されたセキュアなものがことさら求められる今の社会を論じる鍵がある。だからディズニー的なものを「子供向け」と言ってうち捨てていては現在について考えるのは難しいし、任天堂が何を踏まえてリリースを行っているか考えることができなくなる。

「ヨッシーアイランド」は95年、スーパーファミコン時代の終わりにリリースされた。僕はプレイしていないが、しかし当時「ベビィマリオ」というキャラクターを見て、ディズニーにおける「ディズニーベビー」が容易に想像できたのを覚えている。「ヨッシーアイランドDS」もやはり、このスーパーファミコン版の「子供向け」を踏襲しているしかし、初めて僕がプレイするこのシリーズは、なんだかすごく操作が煩雑だ。見た目とは裏腹に、ボタンをちゃんと駆使しなければクリアできない。これならたぶん、「Newスーパーマリオブラザーズ」の方が簡単だ。

おそらくヨッシーアイランドDSはあくまでスーパーファミコン時代の前作を引き継いだ作品なのだろう。当時任天堂が選んだ管理された安全なエンタテインメント性は、「優しさ」ではありながら最終的には「易しさ」ではなかったのだ。当時任天堂はゲームをどこまでも管理するということについて、安全なものでありながら、しかし極めようとすればかなりハイレベルな難易度である、という回答をしたのだと思う。これは96年のNINTENDO64からゲームキューブに至るまでの任天堂のイメージにそのまま重ねていい。

だからこのゲームが、任天堂が昨今展開している、かつてのゲーム層を呼び戻そうとする戦略から外れているのは明らかだ。ゲームのプレイ感が、スーパーファミコン時代を知る人にとってなじみのあるものだと言えるからである。Newスーパーマリオブラザーズにはそれが感じられない。あれはもっと前の世代、最初に「スーパーマリオブラザーズ」をプレイした人たちへ、ゲームの爽快感を再び味わわせることを念頭に置いている。しかし今となっては、見た目はファンシーでプレイするとそこそこハードであるという、ヨッシーアイランドDSのようなゲームにもまた「かつての任天堂」という懐かしさを感じることはできるのだ。それもやはり、任天堂が変わってくれたからこそなのだが。

2007.03.20 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム

下妻物語

最近FC2がすごく重くて、直るだろうと思って何日か待ったがどうやら直らない。直らないというか、なぜかメインで使っているパソコンだけで記事の投稿が通らない。そういうわけで、テストのような気持ちで投稿します。

それから、もう一つあった。FC2から「4月になったら勝手に広告を消しているブログは消すからな」という通知があったようだ。「あれ?広告消せるじゃん」と思って試みに消してみた僕だが、しかし記事を投稿できなくてイライラしていたときにそんな通知を受けたので何となく癇に触った。直してやろうか、どうしようか。なんてことをやっているうちに、ここはもうすぐ消えるのかもしれない。全く僕は無料サービスの利用者には向かない。

最近映画が見たいのだけれど、上映中のものを見に行く機会になかなか恵まれない。だから家で「下妻物語」を見た。最初テンポがひどく悪くて閉口したが、後半とても面白くなった。これだけさらっと面白さを作れるなら、前半の変わった演出や絵なんて全くいらないのではないかなあと思う。それによって視聴者の興味を持続させようという目的でやっているのかもしれないけれど、あれをやらないと視聴者の興味が離れていってしまうのではないかという不安自体が、僕には神経症的なものに思える。邦画には、映画というもの自体にメタ的な視点を注ぎながら、いかにも面白いことをやっていますという演出を見せるものがしばしばあって、僕はあまり好きじゃない。そこに「今オレ、映画を作っています。映画っぽい見せ方をしています」という目配せを感じるからだ。

話は本当に面白くて、二人の主人公の対比もうまくいっていると思う。細かな伏線やエピソードの挟み方もいい。僕は映画に詳しくないので、それが脚本の良さなのか、演出の巧みさなのかは判別できないけれど。しかしここまで作れているのに、なぜ作り手は前半のギクシャクした展開を必要としたのかが気になる。ひょっとしたら、ギクシャクしていた映画のテンポが中盤以降からどんどん整理され、スピード感を増して、視聴者に「さほど興味を持っていなかったのにいつの間にか引き込まれる」という体験をさせるための演出なのだろうか。それなら、ずっと「私は心根が腐っている」と言って感情移入を受け付けなかった深田恭子が、後半で土屋アンナと心を通わせ、さらには観客と一気にシンクロしていく課程に重なるのだ。なるほど、ここで深田恭子というキャスティングが見事に活かされている。作り手は、二人の主人公が他者を理解するという問題を、登場人物だけに押しつけなかった。この映画は、まずは理解不能なものとして遠ざけやすく用意された彼女に同一化するためのものなのだ。

ダメだ。やっぱ投稿できないや。困るなあ。

2007.03.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [映像

偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命

イアン・ハッキングの新刊が出ているので買おうと思ったが、あまり面白そうじゃなかったので旧作である「偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命」を読み直した。前に読んだつもりだったんだけど、全然覚えていなかった。面白い本である。冒頭に献辞としてこのように書かれている。

この博物誌的な書物を、好奇心に満ちたすべての読者に捧げる

この言葉には嘘がなく、統計学も歴史もあまり好きじゃない僕をも満足させるに十分な面白さがあるのだった。この本は役に立ったりためになったりするよりも前に、実に面白いのだ。本論とは全く関係のない挿話的な註がいくつも付いていて、それを読むだけで楽しい。含蓄でも蘊蓄でもいいけど、好奇心のあるすべての人に、ただ面白いからという理由だけで薦めたくなる本だ。

僕が統計学や歴史をさほど好きじゃない理由は、なぜなら、そのどちらも一般社会において、盲信と言って差し支えないような信頼が置かれることが多いからである。実に子供じみたことで、僕がしばしば統計学や歴史に嫌悪感を表して、ことさらに軽視してみせようとしたのは、個々の学問についての不満からではなく、それらを何か絶対的な真理であるかのように扱おうとする人達に対する憤慨からだったのである。

この本は簡単に言うと統計学の歴史についての本だ。それを僕が面白いと思える理由は、一つにはまさに、この本が当然のこととして統計学が絶対的な真理を提示するものだという考え方を否定しているからである。それはまず、統計学は起源的に神の御業を証明するために必要とされたということから説明されることから分かる。これはやはり、統計とはいわゆる科学なのだと信じる人にとっては意外な話なのである。しかも統計学は神や決定論を否定しながら、さらに神に代わって新たな決定論の王になろうとした科学をも、紆余曲折がありながらも裏切るのである。統計はついに、世界が偶然に成り立っているということの説明でしかなかった。事物は判断されるのを待ってさえおらず、単に我々の前に横たわっている。統計は意味を持った資料ではない。意味は常に読み手にとっての問題である。男女の出生率がほぼ同数で、かつわずかに男子の方が多いとき、そこに神の業を見るか、それとも生物科学を見るかは、解釈に委ねられているのである。

この本には社会学的な面白さがあると思う。社会学は社会の真理を解き明かす学問ではなく、現実について解釈を加える学問だ。僕が社会学を愛したのはただその一点においてのみだった。現実を読み替えながら、いつの間にか読者を一般通念とは異なった結論に導いてしまう。そこには、社会学自体が社会に対して実効性を持たなくても構わないと言い切れるほどの皮肉がある。だから僕は、社会学の理論自体が世の役に立つとは、いまだに信じていないところがある。また昨今、社会学が僕の思っていた以外の形でしばしば人々に取り上げられ、議論の外部に立ったり、あらゆる事物を相対化するツールとしてのみ使われて、しかも社会学者がのうのうとそれを眺めているかにみえることに、それなりの不満もあるのだ。

ハッキングの議論は、彼の主張自体もまた真理ではないということを示唆している点で、社会学の最も楽しい部分を備えている。語り口はユーモアに満ちて、かつ極めて慎重に、さりげなく、いつの間にかすべてをひっくり返そうとする。このミステリのようなやり口はとてもスリリングで面白い。最近の学生はこういう面白い本を教科書にしてもらえたりするんだろうか、そうだとしたらうらやましいことだなあと思った。

2007.03.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

バタアシ金魚

読まなければと思っていた「バタアシ金魚」を読んだ。あまりに辛い読み物だった。

前に書いたと思うが、このマンガが何を描いているかについて満足に語った文章は、ウェブをざっと見る限りほとんどない。関心空間のキーワード解説がかろうじて間違いのないことを書いているという有様だ。マンガ自体についてより映画について書かれた文章の方がまだ多いようである。「BSマンガ夜話」のこのマンガの回では、この物語について、まず「バカの話」と言い、また「スポ根」であるとして語った。そんなことは、僕にとってちょっとあんまりである。

まず「スポ根」についてから考えたい。このマンガが連載を開始したのは85年で、これはあだち充「タッチ」が連載終了する前年のことである。「タッチ」へ詳細に触れてしまうと「バタアシ金魚」から大きく逸脱してしまうのでここではごく簡単に述べるが、あの作品は「ナイン」から始まるあだち充のスポ根ものの変形がひとまず完成を見た作品である。しかし、あれは紛れもなくスポ根の否定ではなく変形である。最終的に恋愛ドラマに主眼が置かれるためにスポ根の否定として例示されるが、しかし努力によって大願を果たし、しかも勝利自体よりも精神的な成長性が重んじられるという基本的な構造はスポ根そのものである。

ところが「バタアシ金魚」は全く違う。「スポ根マンガ」ではないし、「スポーツマンガ」であるかどうかすら怪しい。あだち充が作を重ねてスポ根を徐々に変形させていったその先において、ついにスポ根どころか、スポーツ自体すら無関係に成り立てたマンガなのである。この、スポーツを描きながら、それ自体は全く重要ではないというマンガは当時新しいものだった。だから、これをスポ根と呼んでしまうことは望月峯太郎の新しさを否定することであり、間違いなのである。それなのにこのマンガがスポ根と呼んでしまわれる原因は、主人公カオルのセリフにあると考えていいだろう。

しっかしソノコ君っ
俺がどんな男か
認めさせてやるぞおお
まあず
高校新だして
日本新だして
世界新だして
ご・・・・五輪に出て
そんで水泳で
そんでそんでとにかくっ
すげえコト
やってやんだあ

彼のセリフを単に誇大妄想的なギャグだと理解すると、それはとたんにスポ根のパロディに化ける。「ネアカ、ネクラ」や「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」のような時代的な意識を通過した後で訪れた80年代半ばの平凡な高校生活に紛れ込んだ、前時代的な「キャラクター」としてしか彼は扱われなくなる。彼の言動が過去のパロディとして理解される限り、彼は「キャラクター」であり、人間としては扱われない。だから彼は不死身なのである。どんな事故に遭っても死なない。

だが、物語世界が「現実的な」判断でカオルのセリフを「マンガ」として扱おうとしているときに、読者は一緒になって彼のマンガっぷりを楽しんでいてもしかたがないのである。ソノコの友達の女子のように、たとえ彼に好意的にあっても

でも変わってて面白いコだと思う

という、マンガのキャラクターに「かわいい」と言っているレベルでいてはいけないのである。なぜなら、読者には彼の内面で何を考えているか十分すぎるほどに示されるからである。パロディであり人間でないのであれば内面など必要ない。この内面を見て、この物語を「バカの話」として扱えるのは、僕には不思議でならない。作者はカオルに次のようなモノローグを与えている。

ひでえな――
いつの間にか
夏が終わってやんの

ソノコ君はあいかわらず
つれないし・・・・

それにしてもソノコ君は
どーしてわかってくれないんだろ
なんならまゆ毛 片っぽ
剃ってやるぜ

そうしてカオルは水中メガネの中で泣くのだ。彼がただのバカでありパロディ的な存在なのであればこんな内面は全く必要ないのである。このマンガはつまり、現実が思い通りにならない男子高校生の鬱屈を描いた青春マンガそのものなのだ。もはやスポーツが主題でないのは明らかである。彼は確かにスポーツにおける自己実現を求めているが、スポーツが重要ではないことなんて第一話の最初で分かることだ。

ホントのコト言うと
水泳ってあんまり好きじゃ
ないのよね

俺 ホラ
中耳炎のケがあったしさ
ビリー・ホリデイみたいな体型に
コンプレックス持ってたし

下着だってトランクス専門よ
けれど水泳部って
競泳パンツ・・・・
はくんだよ
競泳パンツ――

カオルが欲しいのは「すげえ自分」だけである。もっと言えばソノコの愛だけが欲しいのである。それは「ナイン」が中尾百合の涙を理由にして勝利を目指すのとも違う。なぜならダイエットのために水泳を始めたソノコは勝利など求めていないからだ。そんなことは分かっている。カオルは何か「すげえ自分」をソノコに見せて、とにかくソノコに愛されたいのだ。後にカオルはソノコを抜きにして、純粋に水泳が好きな自分を自覚するが、この問題が本当に語られるのは続編である「お茶の間」においてだし、どっちみちカオルが水泳において成果を出すのも次作である。本作では、カオルは最後の最後になっても、勝利を掴むのではなく未来の自分の影を見ることしかできない。ここではその幸福な未来が自分にはハッキリと見えることが重要であり、まだ誰も知らないその未来をソノコと共有できることだけが幸せなのだった。

僕がこの物語を初めて読んだのは中学生のころだったので、「ああ、何て辛い話だろう」と思った。何もかもが思い通りにならず、誰にも理解されない男子の世界をこれだけ明快に描いた作品はないと思ったのである。

・・・・ボク
――俺は
学校も好きだし先生も学友も好きだし
クラブも好きだよ
いつも若い時代を充実させたいと思っている
なンで笑ってんの?

上記のセリフにはおかしなところは何もない。本心からカオルはそう述べている。ここでは「青臭く素直に感情を表現すると周囲から浮いてしまう」という恐ろしい現実が描かれているのだ。この時点で望月峯太郎は90年代の問題にすら到達していた。読者がこれを「青臭い話だなぁ」と考えても別に構わないが、ソノコと一緒になって彼をバカ扱いしているのでは、この物語は永遠に分からない。今回読み返して、カオルの言葉がいちいち否定されていくのが辛くて仕方がなかった。1巻を読んで悲しくてやめたくなった。

けけ懸命なんだぜ俺は!
見てよ!
この汗っ
平然じゃないよ
いつだって
・・・・いつだって
無理してんのよオレ!

どれだけ彼が懸命なのか考えて、読者は彼をバカだとか変な奴だとか「かわいいキャラクター」だとか言えるだろうか。煩悶する彼を、人間ではないものとして処理しないでほしい。それは彼の懸命さに対してあまりに酷だと思う。彼はそこいらのマンガ以上に人間で、だから本当は不死身でもないのに。

2007.03.06 | | コメント(9) | トラックバック(0) | [マンガ] [映像

俺と悪魔のブルーズ

「俺と悪魔のブルーズ」は、伝説的ブルースマンであるロバート・ジョンソンが「ボニーとクライド」のクライドと旅をするという、設定を聞いただけでも実に面白いマンガ。サスペンス的な展開を続けながら、綿密な時代考証によってキング牧師もマルコムXも登場していない禁酒法時代のアメリカで黒人がどのように扱われていたかを意欲的に描いている。

平本アキラのマンガを語る上では当然「アゴなしゲンとオレ物語」について書くのを避けられないのだが、あの作品と「俺と悪魔のブルーズ」に共通するこの人の面白さとは、アクが強く外連味のある映像的な描写を意図的に盛り込んでいることだ。他の作家と比較してその演出的な手法を意識的に行う度合いが極端に高いところが特徴的な部分だと思う。どのページをめくっても、複雑に考え抜かれたカメラの位置、コマ割りによる凝ったカット、微細に描き込んで人物の顔に濃い影を生み出すライティング技術、繰り返される緊張感に満ちたクローズアップなどが散見される。それを分かりやすく感じたければ、この作品を日本語が全く読めないつもりで読んでみるとよい。大変綿密に計算され、強い意図によって描かれたこのマンガの絵を知ることができるはずだ。

「アゴなしゲンとオレ物語」では、このような映像的表現はギャグの一部として機能するか、そうでなければ単に作者の楽しみとして僕には映った。凝った表現を見るほどに、作者がマンガという手段を楽しんでいるのが伝わって、すがすがしい気分になったものだ。しかし「俺と悪魔のブルーズ」では、その映像表現はまず演出として機能し、まさに本領発揮とばかりに物語に凄みを与えている。

それでも僕がこの作者に望むことは、どうか雰囲気のあるものを描くことばかりが楽しくなりすぎなければいいなということである。絵として完成されたものを描くことが繰り返されたあげく物語が意味を失ったり遅々として進まなくなり、読者から遠ざけられてしまうマンガは少なくない。平本アキラの細部に対するこだわりからあまりに熱意のこもったものを感じるので、思わずそのような作家に近づいてしまうのではないかと心配せずにはおれない。「アゴなしゲンとオレ物語」ではどんなに作者が絵やシーンの見せ方に熱中してもせいぜい数話でエピソードが完結していたのでよかったが、長編のマンガではそうはいかない。

しかしもちろんそんなの杞憂に過ぎないのだと思う。この面白い物語を、平本アキラが最後まで楽しませてくれるのに期待している。

2007.03.04 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ] [音楽

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