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フィッシュマンズ「感謝(驚)」

何となくフィッシュマンズの「感謝(驚)」という曲について考えていたら、この歌詞は非常に論理的で読み解きやすい内容ではないかと思ったので、最初の行から丹念に読んでみた。

以下のような歌である。引用のやり方としてはフレーズに分けながら考察を示していった方がいいのかもしれないが、ここではこの歌詞が首尾一貫した構成を持っているという主張がしたいので先に歌詞の全体を掲げる。

楽しかった時が終わって
気づいてみたらさみしい人だった
寄り添う肩も頼りにならないで
裏切ったような気分だった

なぐさめもなく
やさしさもなく
そっと過ぎてく季節を
はしゃがないで見守ってた
あの人に驚きと感謝込めて歌うだけだった
そう全部

正しくもない
ウソつきじゃないよ
そう全部
指切りしない
近道しないよ
そう全部

夏休みが終わったみたいな顔した僕を
ただただ君は見てた

人影もなく
あこがれもなく
そっと過ぎてく季節を
はしゃがないで見守ってた
あの人に驚きと感謝込めて
見てただけだった
そう全部

正しくもない
ウソつきじゃないよ
そう全部
指切りしない
あこがれじゃないよ
そう全部

正しくはない
近道しないよ
そう全部
正しくもない
ウソつきじゃないよ
そう全部

以上の内容について、最初の行から僕の理解を元に書き直してみた文章が以下である。

楽しかったころ自分の周囲には人がいたし、だからこそ楽しくしていられた。だがその時間が終わってみれば、熱が次第に冷めていく寂しさばかりが残ってしまう。彼らはよそよそしい存在になって、彼らも自分も楽しかったときのように触れ合うことができない。本当に楽しかったはずなのに、何だかそうでもなかったみたいになってしまった。

しかしあの人は、その寂しさを口実に慰め合おうとはしなかった。みんな寂しくなったと口にすれば、みんなでめそめそしていられる。しかしそういうことはしないで、ただ寄り添わない代わりに僕をそのままじっと見ていた。その頑なな誠実さは驚くべきことであり、感謝すべきことなのである。だから自分には、その驚きと感謝を歌うことだけができるのだった。

全部同じことだ。自分は必ずしも正しくなんかない。そう言えることこそが、まさしく嘘がないことだと言える。すべてそうあるべきなのだ。何でも約束したりはしない。ごまかしたりしない。

君は終わってしまったことの寂しさを共有するための言葉をかけたりはしないで、ただただ僕を見ていた。

過去は過ぎてしまって、誰もいなくなってしまった。終わるということは美しいものじゃなく、ただ終わってしまうことだった。だからこそあの人は、ことさらはかなんでみせたりはせずに、ただじっとその終わりを見ていた。そうすることを選んでくれたことに驚いたし、ありがたく思ったから、僕もただじっとそれを見ていた。それでいいのだ。

自分は必ずしも正しくない。嘘つきにはならない。気軽に約束はできない。むやみに感傷で彩ったりはしない。

すべてそうなのだ。自分は正しくない。ごまかしたりしない。必ず正しいとは言えない。嘘はつかない。そういうことなのだ。

これは僕自身の解釈でしかないし、あてずっぽうなものなのかもしれない。しかし自分にとって曖昧な部分なしにこの曲を見通すことができたと感じたのは事実である。だからこのようなものが書けた。

もっとも、個人的にはこの内容のすべてを別の言葉で作り直してしまう方法自体はそんなに面白くもないし、こだわるべきものではないと思った。できても誉められたことではないし、それを目的にして行うのはよくないことだとすら思う。なぜか。たぶんそれが目的である限りは、元の歌詞を自分の言葉に押し込めて読者にとっての意味を極端な形で限定しようとする意図を感じるからだ。それは作品の内容を一般化するふりをして、作品以外のものに立脚してしまっているのだと思う。上記の読み方だけが真実であってはたまらない。歌詞に書いてあるとおりで、あくまでも僕は正しくなんかない。逆に、フィッシュマンズという過去をただ自分のべたついた感傷で封じ込めたりもしない。僕もまたそれが誠実なことだと思う。

なるほど、自分がこの歌のどこに惹かれていたのかを知る上で助けになるやり方ではあったようだ。作品を鑑賞するためのメモくらいには使えるわけだ。いつもなら僕はこのような自分の解釈を頭の中でおおざっぱに描きながら、最終的に自分がそれをどう考えるかということを中心にこのブログを書いていると思う。今回はつまり、その書く前の段階をたまたま短い言葉でまとめられると気づいて実行したのだ。

僕はどこまで誠実でいられるだろうか?これが「Hang Reviewers High」に掲載する、100個目の記事である。

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2007.05.25 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [音楽] [文章

逆転裁判4

「逆転裁判4」は、東浩紀の「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んでいたころにプレイしたので、あの本の理論で物語を読もうとする癖がついていたようだったが、それはそれでずいぶん面白く感じた。特に最後のシナリオである。詳細に解説されていたプレイヤーの視点やテキストメッセージの語り手が曖昧にされる手法がふんだんに使われていて、あの本の読者には面白がれる部分が多そうだと思った。うまくすれば、以下に書く内容にその影響を現すことができるかもしれない。

さて、本作はおおむね、日本でも2年以内に開始されるはずの「裁判員制度」について考えた内容だと言える。それを説明するために、まず前作までの主人公である成歩堂という男が「逆転裁判」シリーズでやっていたことについて語られる。ここが本作の面白いところだと思うが、このゲームは明らかに非現実的な虚構の裁判ゲームについてメタ的な言及を試みながら、現実に導入される裁判制度について考察しようとしているのである。

成歩堂は彼の裁判の中で、「証拠」を「つきつける」して真犯人以外が犯行をなし得なかったという「ロジック」を組み立てていった。少々強引な手段であっても、たとえば裁判の開始直前に渡された出所の怪しい紙切れ一枚であっても、それを「つきつける」ことで真犯人以外が犯行をなし得なかったという「ロジック」が築ければ成歩堂の勝ちである。それがつまり「逆転裁判」というゲームのシステムそのものであった。本作ではこれがいったん否定される。弁護士が「証拠」によって「ロジック」を築けば裁判官によって判定勝ちが与えられるということは、裁判官と検察官、そして真犯人を納得させる強力な「証拠」を持つ者が勝つということだ。果たして正義が勝つとはそういうことなのか、というのがこのゲームの第一話の内容である。このシナリオがプレイヤーにとって後味が悪いのは捏造された証拠を使って裁判に勝ってしまうからで、また前作までの主人公でありプレイヤーキャラクターだったはずの成歩堂がそれを肯定してしまうからだ。しかし前作までの「逆転裁判」のシステムはそういうものを説明していたと作者は訴えて、そこに疑問を呈するわけである。

かくして前作までの裁判制度、すなわちゲームシステムの否定から出発したこの物語は、最終的に物的証拠に頼らずに真犯人を裁く方法としての「裁判員制度」に近づいていく。それはもちろん、最後のシナリオにおいてはっきりと示される。このシナリオで物語は「7年前と現在の成歩堂が行った捜査内容の資料を裁判員が見る」という視点で語られ始める。資料を閲覧しているとされながらも、捜査の途上においてはプレイヤーは成歩堂として行動するわけで、いわばプレイヤーは入れ子の(二重の)構造を通して物語世界を眺める形になると言っていい。なぜこのような複雑な視点を導入する必要があったのだろうか。言うまでもないことだ。つまり物語は裁判員制度においては「ロジック」について判断するのが裁判官ではなく、裁判員なのだということを示そうとしているのである。弁護士としての捜査を終えて入れ子の視点を外したとき、プレイヤーは裁判員として、提示された「ロジック」を判断する視点であるように設定されているわけである。だからこそわざわざプレイヤーに「有罪」「無罪」という選択肢を選ばせるのだ。このゲームは一般市民が裁判員として判決を下すという重さをプレイヤーに感じさせようとしているのである。そして、プレイヤーが受け取ったその重い判決によって決定的な証拠なしに真犯人は裁かれ、ここに裁判員制度がもたらす「勝利」がはっきりと描かれるのである。この、視点の入れ子構造を使ってプレイヤーに現実の裁判員制度について考えさせようとするアプローチはとても見事だった。

ただ、シリーズを重ねるごとに「逆転裁判」がこのような物語の複雑さを増していくことには一抹の寂しさを感じた。ゲームで味わえるミステリのうち最先端の物語を描ける作品として、また裁判ブームなどと言われる中で大きな変革期を迎えている日本の裁判制度について考える内容を求める中で、本作はいくぶん頭でっかちになりすぎたと言わざるを得ない点があると思う。例えば各シナリオのオープニングムービーはもはや「これから解決すべき事件」をヒントと共に示してくれるようなものではなく、各シナリオをかなり読み進めないと映像の意味すら理解できないものがある。後で「なるほど」と思えるのは確かだが、初見ではどうしても物語に置き去りにされているように感じてしまった。シナリオ全体についても似たようなことが言えるかもしれない。新しい主人公である王泥喜が鮮やかな推理を見せてプレイヤーを満足させてくれることは少なく、結局は既にプレイヤーの手を離れた前作の主人公である成歩堂が大がかりで重厚なストーリーのすべてを取り仕切っていることに欲求不満が募る部分が多い。成歩堂がどこか陰のあるキャラクターになって、含みのある表現ばかりをして王泥喜を煙に巻くのも、不満に拍車をかけるように思う。本作の主人公である王泥喜は、暗中模索ばかりが続くせいかどこか息苦しそうなのだ。彼の裁判中のアニメーションも、成歩堂のアニメーションを初めて見たときの楽しい印象に比べてなぜか深刻そうな表情で似たようなパターンばかりが繰り返されているように見える。

また、最も残念なのはこのゲームのメインタイトルにある「逆転」のカタルシスがほとんどなかったことだ。王泥喜はかつての成歩堂のように徹底的に追い詰められたりはしないし、劣勢を一気に跳ね返すこともない。そもそもライバル役である検事がものすごく王泥喜に協力的である。検事と弁護士は双方とも、少なくとも真実を求めるのが前提になってしまっている。これらのテーマは過去の作品で語られてはいるが、しかしだからといって本作ではあまりにも裁判が淡々と進みすぎるように思う。前述のように物語のすべてが成歩堂の掌の上にあるということにも関係があると思うが、最後の方では「待った」と言われても特に驚くこともなくさっさとメッセージを読み進めてしまった。音楽が以前と変わったせいかなどと考えていたのだが、やはりムチャクチャなどんでん返しが足りないのが一番の原因ではないかと思う。

以上のような不満点がないわけではないが、それでも面白く読める作品であるし、過去の作品にあったテキストの楽しさは要所要所でしっかりと残っている。そして、現実の裁判制度を踏まえて考え抜いたあげくに前述したようなゲームシステムやシナリオ構成を考え出し、あまつさえ実際にやってしまうラディカルなゲームは、この「逆転裁判」シリーズよりほかにないのではないかと思う。だいたい、すっかり慣れてしまってはいるが、このシリーズに似た推理ゲームなんてほかにはどこにもないのである。

2007.05.24 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [ゲーム] [文章

愛のひだりがわ

ここ十日ほど体調を大きく崩して、久々に熱を出した。毎年楽しみにしている代々木公園のタイフェスティバルにも行けなかったし、仕事もずいぶん遅れてしまった。昨日ようやく体調が戻ってきて締め切りに遅れながらコラムを1つ書き上げられたので、今日はここを更新できるし、ほかの仕事をすることだってできるはずだ。

体調を崩した理由はいろいろあるが、一番大きな理由は本を読むのに熱中しすぎたことだと思う。どうやら僕は小説を読むことができるようになってきたので、信じられなくて毎日ハイペースで読んでしまったのだ。

実際のところ、僕は10年以上の間、まともに小説を読むことができなくなっていたのだが、今回たまたま筒井康隆の「愛のひだりがわ」を読んで、もう一度小説を読み始めることができた。この本はなぜだか家にあった。買った覚えがない。うちには買った覚えがない本がずいぶんあって、そういう本は誰かから借りているのを忘れているのかもしれないので処分することができない。この本もそうだった。

なぜあるのか分からない筒井康隆の本を自分が持っている、ということに興味を惹かれたので読むことにした。僕は中学生のころ筒井康隆をよく読んでいて、子供なりに文庫や単行本を古本屋で買って集めたりしていた。結局、僕には好きな作家の本をすべて揃えるようなコレクター性みたいなものがなかったので、それ切りそういうことをやったことはない。だから筒井康隆の本だけは今でもうちに結構な数あったが、この人の最近の本は全く読んだことがなかった。たまたま「愛のひだりがわ」を読む直前にアニメの「時をかける少女」を見ていたが、だからといって筒井康隆については何とも考えなかった。

読んでいたころは、僕はこの作家の本のオビに「狂気」とか「毒」とか書いてあるのが好きになれなかった。筒井康隆の本は中学生の僕にとって楽しい読み物だったが、しかし彼の熱心な読者たちがはやし立てるように、作中に狂気や毒や反社会性が顕著に見られるから面白いと感じていたわけじゃなかった。また単に僕が読者として若かったからなのかもしれないが、宣伝文句や読者評にあるように、文章に戦慄を覚えたり深い感動を覚えるようなことがなかった。

ところが今回「愛のひだりがわ」を読み終えて、僕はすごく感動した。正確にはこの小説の最後の行を読んで、これはメチャメチャすごい小説だと思って感動したのである。実は、僕はこの小説を読み出す前にたまたま本の一番最後のページを開いてしまい、僕はそこに書かれている言葉を読んでしまったのである。それはこういう内容だった。

わたしは、愕然とした。
わたしはもう、犬たちと会話をすることができなくなっていたのだ。

この文章はこの素晴らしい小説の核心であり、最後のオチだと言ってもいいような部分だ。僕はそれを知りながら読んだのにもかかわらず、最後にこの部分を読んで鳥肌が立つような感動を覚えたのだ。この物語をプロットだけで理解すると、この引用はネタばらしであり、つまり最悪な行為でしかない。しかし今、僕はこの小説は本当にいいと思うから、上記の文章を知って読んだって感動できるのだということを確信している。僕は小説が読めないでいる間にそういうことを理解して、それを理解し終わったから、僕はずっと前に読まなくなってしまった作家の小説を今読んで、当時ですら得られなかった感動を覚えられるようになったのだ。

そうやって、自分が小説を読み通したことについて僕は考えていた。そのときはまだ実感がなかった。だが僕はその後すぐに米澤穂信の「さよなら妖精」を読み始めたのである。これについてはまた書く機会をもうけるが、僕はそれを通読して、本当に自分が再び小説をちゃんと読めるようになったということを理解したのだった。

2007.05.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ

サウスパーク「Episode 1102 - Cartman Sucks」

サウスパークのシーズン11は今のところ「Cartman Sucks」が一番面白かった。最近は物語大がかりでキャラクターがあまり意味をもたない話が多かったのだが、シーズン11は馴染みのキャラクターの持ち味を生かした内容が多いようだ。話が派手なものでも「D-Yikes」の回などギャリソン先生や市長など古くから存在するキャラクターが多く登場して楽しませてくれるものが多い。なお「D-Yikes」の回は映画「300」のパロディになっていて、ポテチをかじったりコーヒーを入れたりキンタマを蹴るだけのシーンでやたらとスローモーションを使うのがくだらなくていい。今調べたらそれっぽいシーンだけを繋ぎ合わせて300のトレーラー風のMAD動画を作ってアップした人がいるようだ。

さて「Cartman Sucks」の回は、ここで見られる。字幕がどこにあるのかはよくわからない。サウスパークは最近、ニコニコ動画で最新エピソードまで字幕付きで見られるらしいので、ニコニコ動画にあるのだろう。もっとも僕はニコニコ動画のアカウントを持っていないのでよくは知らない。この回は学校を中心としたひたすらバカバカしい内容だ。同じく主に学校の話である「Lice Capades」の回もよかったが、最悪なカートマンと馬鹿なバターズが話の中心であるせいかこちらの方がずっと面白い。

話としては、バターズがバイキュリアス(同性愛に興味を持つ者)を異質なものとして排除するのではなく、受け入れることが重要であると説いて物語に現代アメリカのテレビドラマ的な格好を付けつつも、実はバターズはバイキュリアスとは何なのか最後まで全く理解していないという点でまず皮肉な面白さを持っていると言えるだろう。バターズの言葉がどれだけ正しそうであっても、バターズ自身がその内容を理解していなければこの物語全体が空虚なのである。

ところが、このような冷笑的でおさまりのいいオチはサウスパークではほとんど意味を持たない。なぜなら、上記の物語と同時進行するカートマンの物語は「チンポをくわえた奴はすなわちゲイである」という最も単純化された同性愛差別が存在することが前提となっており、しかも登場人物の誰もそれを疑わずに話が進行するからである。こうして、カートマン側の物語が存在するだけで、バターズの物語が持っていたメッセージ性はそれが成立する上で抱えた空虚さまでひっくるめて無効化される。バターズ側の物語は、皮肉も含めて同性愛を理解し現実として受け入れるべきだと主張していたが、その正義は同性愛は差別しうるものであり実際に差別されているのだというごくシリアスな現実の提示によって裏切られるのだ。

マイノリティへの差別問題を考える際に、彼らを理解するだけでなく彼らを差別しうる自分たちを直視すべきだというのはアメリカでもしばしば議論されうる内容だと思うが、このアニメは論点を理解し、コンパクトにまとめた上で茶化しているのがいいと思う。

以下は蛇足になるが、サウスパークの動画を貼っていて思い出した。YouTubeには「NARUTO -ナルト-」のキャラクターをサウスパークの切り絵風アニメーションで表現した自作動画がいくつかアップされている。内容が面白いかどうかはともかく、サウスパーク風の画風による切り絵アニメだと既存のキャラを手軽に二次創作の映像作品にするための技術的な障害を大幅に減らせるわけだ。海外でNARUTOが大人気になっていることは今さら説明するまでもないことだが、そこで二次創作の映像作品を作ろうと思い立ったファンにサウスパークの手法を使う発想が出てくるのは実に日本的ではないようで、面白く感じた。

2007.05.14 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [映像

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」は、とても親切な本であり、まずはそれに感心した。

前作となる「動物化するポストモダン」に限らず、これまで東浩紀の著作のやり方は、主張を固めるための検証作業がともすれば大雑把であるし、また、さほどに関連性が深いとは言えない事例を強引に繋ぎ合わせて一つの流れを意識させようとするものがあった。僕はこのやり方を批判するものではない。むしろ、あざやかに全体の論旨を生み出していくダイナミックさに感銘を受ける。

しかしもちろん、このような書き方は批評の言語としては今の日本で例の少ないものだから、読者は彼のやり方に違和感を感じるかもしれない。だが彼がなぜこれを選んでいるかということは、現在に至るまでの東浩紀の批評活動のルーツがすべて収められた「郵便的不安たち#」を読めば明確に分かるはずだ。ここでは簡単に触れるまでにしたいが、要するに彼の動機にはポストモダン化が徹底された現代においては批評がもはや成り立たないという強い危機意識がある。そして、超越的な論理によって社会全体を語ることができない時代には、従来的な言論はオタク的に各分野を追求するしかできなくなってしまう。彼はそれに抵抗している。各分野で閉塞せず、しかも超越的な論理なしでもジャンルを横断できる批評の方法を模索しているのだ。あの豪快な書き方はまさにそれである。彼は個々の例示について微に入り細を穿った「事実としての」正確性を求める論考を否定しないが、しかし今、自分は必ずしもそうあらなくてもよいと思っている。そこに僕は批評の言語を活性化させるための力強い意志を見る。

しかし多くの読者は批評というものが特定分野に対する博物学的な「まとめ」から成り立っていると考える。だから読者はそのような作り方を追求しない東浩紀の文章にしばしば驚き、場合によっては拒否反応を示すことになる。例えば彼はしばしばオタクについて書いているが、細部に拘るオタクにとっては「例示すべき作品名が間違っている」または「作品内外の背景事情を深く理解していないため間違った読み方をしている」という批判の対象となる。あるいは、論旨を作る上で根拠が薄いと言われてしまうこともある。しかし東浩紀はそんな詳細な検証をやっていくのが自分にとっての第一義であるは思っていないから、批判に対して「それが何だ」という顔をして、どうかすると自分の考えるように読まれていないことに不愉快そうですらある。批評が博物学的な「まとめ」の積み重ねだとばかり信じている読者には、なぜ彼が不愉快なのか理解できないだろう。彼が批評について何を考えているかをまず理解しなければ、彼が著作を通して何を伝えたいのか理解するのは難しい。著者と読者の間にこの相互不理解があるのは、東浩紀が批評の抱えた問題をまだまだ一般読者の問題として伝え切れていないために起こっているはずだが、しかし彼は昔からたびたび書き、訴えている内容なのも事実なので、一向に理解しない読者の過失でもあるだろう。個人的には、それが理解され、浸透しない仕組みに何かがあると東浩紀に考えてほしいと思う。しかしそれは彼の問題ではないのかもしれないし、そこを気にするのは僕が読者の意識について今こだわっているからだと思う。

いくぶん遠回りになったが「ゲーム的リアリズムの誕生」の話を始めよう。この本も確かに東浩紀のダイナミックな論理展開を持っているが、しかし読者に対するケアを怠らず、議論を明快に進めていこうとする。これは今までの東浩紀の本では見たことのないものだ。おそらく「動物化するポストモダン」という、これまでの東浩紀でおそらく最も広く読まれた本の続編として、前作に違わず、またさらに広い読者に受け入れられるために選んだ書き方だと思われる。まず、この本は構成まで明快だ。前半ですべての理論を示し、後半でその理論を自ら使ってみせる。「理論をツールとして使うとはこういうことだ」という実践を彼は見せてくれているのである。今はごく簡単に触れるだけしかできないが、彼はここで自分の理論を読者が考えを広げるためのツールとして使ってほしがっている。社会学的な語り口が一般化した昨今では、状況分析がしばしば分析自体を目的として成り立ち、人々はそれに慣れすぎている。東浩紀は時評としてマッピング(位置付け)とランキング(格付け)だけを氾濫させるのではなく、理論によって思考を開始する手順を示しているのだ。理論が、この本で扱っている内容を超えてさまざまなことを考え始めるための糸口になれるというのである。

理論のパートでは、噛んで含めるように読者の理解を確認しながら話を進める。読者に高みを見せるために一歩一歩と共に石段を上ってくれるごとき姿勢はたいへん好感が持てる。この姿勢は、本文や注釈において各論についての反論の余地が示され、それぞれについて彼の議論を妨げるものではないことをきちんと説明するさまからも伺える。特に、これは前作であった批判を念頭において先回り的に言及しているのかもしれないが、個々の作品についての細かな事実関係については本論と関係がないということが何度も書かれている。この細かなエラートラップのように張られた自省と検証がありながら、しかも彼の持ち味である論理のダイナミズムが維持されるのは全く素晴らしいと思う。次第次第に読者と共に論理の頂点に達して眺望を見渡し、いよいよ本の後半から各作品に対してポストモダン的な読解を始めるという展開は実に爽快感がある。この着実で活き活きとした議論の進め方は、全く優れたエンタテインメントとして読めるものだ。

東浩紀がこのような書き方をできたのは、当然のことながら東浩紀を取り巻く前作以降状況が大きな影響を及ぼしていると思われる。これは「ファウスト」との関係などによってライトノベルのシーンに彼が接近したため、この本が全体としてライトノベルを主に扱った文芸批評として成り立ったということだけを意味しない。例えば前作の時期に比べて「オタク」や「萌え」がここまでポピュラーになったことは彼にとって悪いことではなかった。「動物化するポストモダン」では、分野や世代においてあまりに広がりすぎている「オタク」「萌え」などを読者に対して1から紹介しつつ、そこから日本社会のポストモダン化を読み解くという形式を持っていたために、あの本はしばしばジャーナリスティックな観点から単にオタク文化やその特性を世に紹介したいものだと誤解されたことがあったと思う。東浩紀がオタクを引き合いに出して語りたかったのは社会のポストモダン化についてだったが、読者の読解によってはオタク文化を紹介する姿勢のみを読み取り、そこから「日本では現状においてオタク文化が台頭している」という誤解した形での時評としてあの本を扱ったり、また前述したように、「紹介されている」個別作品やその読み解き方だけに固執されることがあったのである。

しかし今や「オタク」などは社会的に十分認知され、東浩紀はそれらのカルチャーを紹介する役を兼任する必要が全くない。かくしてこの本はライトノベルやノベルゲームに限定した形で議論を進めて他のジャンルへとぶらす必要がなく、話がまとまって読みやすいものになったと思う。「文学」という、古くから批評が語るフィールドとしてなじみの題材だったこともよかったかもしれない。いずれにせよ非常に敷居が低く、しかも前作以前から引き続いている質の高い理論を端折らずに提供できているため、新しい分野を新しい言語で語り、新しい読者へ訴えかける批評と呼びうる優れたものになったと思う。これは東浩紀が前々から目指している批評の形としても高い完成度だと言っていいのではないだろうか。言うまでもないことだがこれは議論がアカデミックであるか否かというレベルの問題ではない。しかし結果として前作以上に新書という書籍形態にうまくチューニングすることにも成功していると思われる。

ただ、それでもこの本を誤解して読んでしまう読者はいるだろう。例えば、東浩紀はこの本に書かれた「ゲーム的リアリズム」が台頭することによって従来文学における自然主義的なリアリズムは駆逐されると主張し、彼自身がそれを望んでいると思う読者がいるだろう。誤解してはならないのは、やはりこの本は全く前作と同様に時評的ではないし、また単に文学の新しい(「次の」)トレンドを紹介するものではないということである。

東浩紀はもちろん、読者がそのような読み間違いをしないために必要な言葉を注意深く用意してくれている。まず、先ほども述べたように今の日本はポストモダン化が徹底された状態にある、ということである。それはつまり「ゲーム的リアリズムによって自然主義的なリアリズムは駆逐されたりしない」ということそのものなのだ。ゲーム的リアリズムは自然主義的リアリズムからすげかえられるべく現れたわけではないし、また概念的に上位に位置するわけでもない。それが全く別のものとして、バラバラに成り立ったときに、自然主義的なリアリズムにとって異質だという理由でうち捨てることができないというのがポストモダン的な状況なのである。「まんが・アニメ的リアリズム」であろうと「ゲーム的リアリズム」であろうと、既存とは異なった作品は次々に現れ、爆発的に売れ、表現の上での洗練もますます加速している。しかし従来的な批評の言語はいまだにそのようなものを扱うことすらできないため、ただ無視したまま衰退していっている。ここに批評の迎えている危機があり、この本で東浩紀が提示している理論とは、批評がこれらの作品を読むための力を得るためのダイナミズムなのである。

僕は読みながら、伊藤剛の「テヅカ・イズ・デッド」を思い出していた。あの本も、従来のマンガ批評が「ガンガン」などに掲載されてた新しいマンガ作品を無視していることへの問題視からはじまっている。二作のスタート地点は同じだし、さらにそれがアニメであろうと音楽であろうと小説であろうと、政治思想であろうと、今やあらゆる場所でそういうことが起こっている。彼らの仕事はいずれも「大きな物語」ですべてを束ねることができず従来の批評が限界を示した時代に、いかにして批評を成り立たせるかというものである。

逆に言えば、彼らがやっていることはそれらの無視された作品たちを当然のものとして享受している幸せな読者のためのものではない。「ゲーム的リアリズムの誕生」が迎えようとしているのは、これらの作品を理解できない古い読者たちである。彼らはひょっとすると社会がすっかり変わってしまったということをいまだに理解していない。自分たちが敗北したとして、誰か別の人が自分たちのいた位置に座るのだろうかと考えてしまうほどに、ポストモダンという状況を理解していない。東浩紀が何とかしようとしているのは、そのような時代感覚である。同時に、あと15年もすれば、「ゲーム的リアリズムの誕生」に書かれたことなんて当たり前のものとして扱える論客がたくさん現れるだろう。僕はつまり、そのときこの本は不要になるのかもしれない、と思っているのだ。それこそ、ライトノベルの若い読者層にとっては、自然主義的リアリズムなど敵でも味方でもない。実際、若い世代の作品への触れ方はリアリズム自体を全く意に介していないほどにとても自由だ。だから結局これは「大きな物語」に束縛されて不自由を抱えた、最後の世代ための書物なのではないかと思う。もちろん東浩紀だってそんなことには気づいているだろう。しかしこの本が「時代遅れ」と言われるようなころが来るなら、彼もきっとそれを喜んで、新しい言論の到来を祝うことだろう。

2007.05.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [アニメ] [ゲーム

犬神家の一族

近くのドトールで本を読んでいたら20時過ぎには店を閉めるという。持っていた本をあと3分の1くらいで読み終わるところだったので何だかしゃくに障り、遠くにあるスターバックスまで走って行って、そこで読み終えた。

読んでいたのは「犬神家の一族」である。この本はずいぶん前に電車で読むために買ったが、最初の数ページしか読まないうちに電車に乗らないようになってしまい、以来読んでいなかった。この有名な金田一耕助のシリーズを僕は全く読んだことがない。そもそも僕は松本清張と横溝正史の区別も付かないほどミステリのことを知らない。金田一についても、今回読み直すことにしてようやく「そういえば最近、映画化されたんだっけ」と気づくといった調子で、ともかくお話にならない。この本を本棚から引き抜いたのだって、つまり全く気まぐれだった。

読むと実際、全く僕が言うまでもないことだが、たいへん面白い。話の筋はあまりに有名だし、仕掛けの明かな伏線がずいぶんと持って回った言い回しで語られる。どうかするとこの物語について「ありきたりなものだ」と言う人がいてもいいと思う。だが、それをおいても松子という女がすごく悪くて怖くて、小説の登場人物として実にカッコよく書けていると思う。特筆すべきなのは三姉妹が青沼菊乃をリンチするシーンで、作者はこの残虐な描写を延々と松子の口から語らせる。この文章には変態的な執着が感じられて一字一句引用したいぐらいに素晴らしい。これに比べれば惨殺された死体の描写などさっぱりしたものだと思う。個人的には女三人が猟奇趣味などみじんも感じさせず、ひとえに悪意だけで女一人を責めているところが今どきにすればむしろ新鮮でよかった。

最初の方で作者は「この物語の主人公は珠世である」みたいなことを書いていたが、悪意に満ちた三姉妹に比べれば珠世なんてちっとも面白くない人物だ。面白くないだけでなく、実質彼女は主人公とは言えない。作者は最初、彼女に美しさだけでなく神秘的なものをちらつかせていて、金田一はずいぶん翻弄されるし、彼の推理が至らない部分に対して珠世は軽蔑の眼差しすら投げかける。たしかに、この物語全体を眺めているかのごとき態度からしても彼女は物語の鍵になっているとは言えるのだ。ところが物語の最後の最後で、結局のところ彼女が見せていた輝きは佐清に対する愛情から発せられるものだったという実につまらない種明かしがされてしまう。しかも愛情は、それが向かう先である佐清自身によって裏切られるのである。

作者は珠世の神秘などつまり張り子の虎であるということをほとんど計画的に描いているのではないかと思わせる。例えば、物語の冒頭で超然としていたはずの珠世は、徐々にただの古風な小説に出てくる美しい乙女にされてしまうのだ。ついには佐智に拐かされ、クロロホルムみたいなものをかがされて「あ、あ、あああああ……」とか何とか、実にステロタイプに気を失ってしまうのである。これでは主人公どころか、誘拐されるヒロインとして典型的である。金田一耕助が主人公ではないことは全く明らかであるが、だからといって珠世もまた主人公ではないのだ。

それにしても佐清である。彼だって全く主人公ではないが、しかしこの物語の意味は彼に表れている。この話が何であったかというと、つまり佐清だけは意識の上でずっと戦中を引きずっていたという話なのだ。彼は「誇りと責任感」というものをずっと信じていた。戦中の「誇りと責任感」というのは、要するに家族から国家までをすべてひとつなぎにしたうえで、自分が帰属するその団体の一員として責任を持つべきだ、というようなものである。それを信じるゆえに、彼は戦場で犯した失敗に罪の意識を感じながら復員したが、戦後においてはもはや彼の失敗など罪でも何でもなかった。しかし彼にはそれが分からないから、復員しても家の名誉を守るためであれば人殺しの後始末だってするし、愛する女の首でも絞めるのである。

珠世が全く呑気なのはここで、家を守るために自分の首に手をかけたような奴と結婚するなどと言い出すのである。本来、遺言状が効力を持つ以前からすべては彼女に委ねられていて、どのように物語を選ぶことも可能だったのだ。にもかかわらず彼女は、男がもはや存在しない「戦中」を守ろうとして右往左往したさまを十分に見た上でも、「ふつつかものでございますけれど……」などと言ってその伴侶になると言うのである。金田一は佐清に

あなたはあるひとをかばうために、珠世さんの魂を殺そうとしたも同然ですよ。よく考えなければいけませんね。

と言うが、本当によく考えるべきなのは珠世の方である。

しかしそれでも珠世が佐清を愛するならば、ついに珠世はその美と共に神秘的な力を発揮していたわけではなく、佐清を愛するだけの女である。家のために自分を利用した男に失望する女性だって世の中にはもちろんいるが、ここで描かれるのは自分の愛情を貫く女性であった。それは松子とも一致する。彼女は、息子が戦場で犯した罪を聞き、それが重大なものではないとわかってにっこりと笑う。彼女は悪く醜いが、息子の無事をいつでも願い続けている姿は強く美しい。僕には、ひょっとすると最初から、戦中からだって、二人の女性には「誇りと責任感」なんてどうでもよかったかもしれないとすら思えた。彼女たちはいつだって佐清に最大限の愛情を注ぐことができた。長年をかけて「誇りと責任感」にこだわっていたのは男ばかりなのだ。作者はそのこだわりを「純情」と呼んで讃えるが、しかし作者自身が指摘するように、その純情こそがこの事件のろくでもない引き金になっている。

2007.05.05 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章] [映像

うちに帰りました。 鴨志田穣さんの想い出

連休初日はまだ仕事をしていたが、時間を作って大手町へ出向いた。まさに青天の霹靂という感じで、とてもいい陽気の日だったのにものすごい雨が降り出した。雨が弱まってからようやく会場に着くと、死んでしまった鴨志田穣のためにずいぶんの人が集まっていた。家族も知り合いも読者も、みんな彼のことが好きだったなあという顔をしていた。誰も彼に怒ったことなどないようだった。西原理恵子は彼がいい男だったと言って泣いていた。僕はかわいい人だなあなどと考えていた。

「うちに帰りました。 鴨志田穣さんの想い出」というタイトルの小冊子をもらって家に持ち帰り、鴨志田穣が小学校卒業の時に書いた作文を読んでいると、そこに彼のきまじめで自罰的な性格がそのままに表れていて何だかぼろぼろ涙が出てきた。文章じたいも、死ぬ前に書かれたものとほとんど変わらない、同じ人間の筆が感じられる。一読者である僕には彼が本当はどんな人だったのか分からないけれど、この子供が書いた作文には僕の理解している彼の姿があるのだ。僕にこんな色が出せるだろうか。わからない。

泣きながら、僕が泣いているのはこの人のことが好きだったからだろうか、と考えた。そうではなくて、僕は誰かが死んだということにただ感傷的になって泣いているだけなのではないだろうかと思った。それから「だったら何が悪いんだ」と思い直した。それが家族だろうと、知った作家であろうと、たまたま通りかかった葬式であろうと、誰かが死んだことが悲しくなって泣く何が悪いだろう。だから僕は、すっかりやせてしまった晩年の写真を見てもっともっと泣いた。

2007.05.01 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

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