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モーニング2 2007年 9/1号

昨日は西島大介君が来て、近所の居酒屋で飲む。そのときに「世界の終わりの魔法使い」シリーズの新作「小さな王子さま」が掲載されている「モーニング2」最新号をいただいた。一度立ち読みしていたが飲んで話す合間にパラパラとめくっていたら突然いろいろなことに気づいたので帰ってきてまた読み直す。

「世界の終わりの魔法使い」は2005年に発表されたが、その後に一作目の1000年前の物語となる「恋に落ちた悪魔」も上梓され、現在は一作目の後の物語である三巻目の刊行が待たれている。今回モーニング2での連載が始まった「小さな王子さま」は「特別編」と銘打たれているが、内容的には上記三作の前段、つまり「恋に落ちた悪魔」よりもさらに過去の出来事を描いている。西島大介は「スター・ウォーズ」のシリーズ構成を念頭に置いていて、つまり「小さな王子さま」は「エピソード1」なのである。だからこの「小さな王子さま」では前作までの敵役にあたるノロ王子の少年時代が描かれるわけで、今後の連載では気の弱い彼がダークサイドに墜ちていく課程が語られるはずだ(それは今作ではなく、スター・ウォーズと同じく「エピソード2」での話になるのかもしれないが)。

ともかくその説明だけでは大長編ながら普通の物語の筋書きと言える。ところが第一作「世界の終わりの魔法使い」が、先日も少し言及した「90年代的な不能感とセカイ系」についての物語であったことを考えると、このシリーズは単なる長編物語として以上の意味を見せ始めるのだ。第一作の世界はすべて「影」と呼ばれる「思い出から複製を生む禁断の魔法」で作られた偽の世界であり、ラストで主人公はその閉鎖された世界を維持したまま別の世界へと旅立つが、これが「セカイ系」を越えて新しい「魔法」すなわちフィクションの力を獲得するというテーマを描いているのは明らかだ。処女作「凹村戦争」で火星人襲来というフィクションに現実として接することができない状況を描いた西島大介が、2005年にその回答を示したのが本作なのである。それは「世界の終わりの魔法使い」というタイトル自体にはっきり見て取れる。

このタイトルは今やシリーズ全体に冠されることになったが、やはり最初に含まれていたテーマは失われず作品全体を貫くものとして維持され、世界とフィクションについての物語が継続されている。例えば、「恋に落ちた悪魔」ではノロ王子について以下のように言及される。

「あれはかわいそうな子供だの 旧王家の幻があの子を苦しめていた」
「だからエラソーなんだろ?」
「弱体化し黄昏れていく魔法星団をあの子は許せなかった…」
「暗いんだよアイツ…」
「やがてあの子は苦悩の果てに禁断の”影”を復活させてしまった」
「”影”って何?」
「”思い出”から複製を無限に生み出す究極の魔法…」
「すごい 使えるじゃん!」
「と思われたが後に重大な副作用が発見されての ”影”を生み出すたびに恐るべき”魔物”が出現してしまうんだ」
「”魔物”って?」
「世界を呪う凶暴な混沌…」


色あせてリアルさが消失していく「よかった時代」のフィクションへの固執から生み出される模倣が世界を混沌に導くというのである。全く直截的な表現だと言っていいだろう。これは寓話的であるよりもずっと批評的なものだと思う。そして上記の昔話を詳しく語るのが今回の「小さな王子さま」なのだということは、居酒屋で酔っていた僕の頭を醒めさせるのに十分なことだった。つまり今シリーズから始まる「恋に落ちた悪魔」の前史が語るのは、次第にフィクションを喪失していったかつての我々の姿であるはずなのだ。まず今回にはノロ王子の兄である第一王子が登場した。眉が太くて常にポーズがキマッていて豪放な性格なのは、西島大介が彼にかつてのフィクションそのものを込めようとしているからだ。彼が西島大介の作品の中では異質といっていいほど手足が長く、八頭身の写実的な姿をしていることに注目したい。この写実的な肉体は言うまでもなく、「恋に落ちた悪魔」での成長したノロ王子の姿に対置されている。あの4.5頭身は、兄の姿を目指してついに獲得できなかった果ての異形としてあるのである。

しかし今後おそらく第一王子は退場させられ、第二王子であるノロ王子は彼への憧憬を抱きながら超越を目指すだろう。最初、ならば「小さな王子さま」のラストでエヴァンゲリオンに対する総括が行われるのだろうかと思ったが、よく考えてみるとそれは順序的にはまだ先の話になるはずだ。いずれにしても、この物語は我々の見てきたフィクションの歴史をなぞり、そのすべてを越えていこうとする壮大な試みなのである。いまだ描かれていないその「歴史」が早く知りたくて仕方がない。「世界が終わる」エピソードはもちろんだが、一番知りたいのはやはり第一作で主人公が進んでいった先の世界だ。それは現在についての物語だろうし、もしかしたら未来を見せてくれる物語である。

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2007.08.20 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ] [アニメ] [文章

イルリメ「イルリメ・ア・ゴーゴー」

最近はとにかく「イルリメ・ア・ゴーゴー」ばかり聴いている。これは短いが本当に素晴らしいアルバムだ。とにかくたくさんの人に聴いてほしくなる。「元気でやってるのかい?」を聴いてよい曲だと思う人はずいぶんいるだろうから、YouTubeにアップされているPVを見てたくさんの人がこのアルバムを買っていればいいと思った。本当はレコ発ライブにも行きたかったのだが、何か別のライブと重なっていていけなかったような気がする。

ポッドキャスト「イルベリ」でイルリメの新作がポジティブかつポップなものであることはある程度分かっていたが、ここまでのものを作るとは思っていなかった。カクバリズムのサイトに書いてあったように、本当に全曲パーティーチューンなのだ。アブストラクトな楽曲を評価されるヒップホップアーティストたちは、まれに単純に彼らが内省的な作品を作っているからという理由で評価されることがある。しかし内向きな作品だから素晴らしいという評価のやり方は無論間違っている。内省的というのがアーティストの思いを掘り下げるような姿勢を持った作風を指すのだとしたら、我々は本来その楽曲が提供する思いの強度をこそ評価すべきなのだ。

そしてそれが本来ならば、結局は抽象度の高い曲かパーティーチューンかなんてことや、あるいはヒップホップらしいかどうかなんてこと自体が、どうだっていいことであると気づくだろう。イルリメはそのことをずっと分かっていた。ポップさとアブストラクト具合が渾然一体となった彼の楽曲は常にそれを伝えていた。彼がアブストラクトな作風に拘っている作家ではないことなど言うまでもない。彼はただ感情を伝えることに熱心なのだ。彼が日本的なビートや押韻を何の衒いもなく持ち出すのだって、複雑なライミングやフロウに拘りがちなほかのヒップホップアーティストたちに対してカウンターとしてありたいからじゃない。彼は常に、どれだけ突き抜けた感情を、どうやって届けるかということばかり考えて手法を選んでいる。違う言い方をすれば「元気でやってるのかい?」という曲の素晴らしさは歌われる感情の美しさだけではなく、感情を伝える強さにあるのだ。

しかしそうは言っても、やはり今イルリメが気持ちを伝えるのに全編パーティーチューンを選んだということは、僕にとってほかのヒップホップアーティストがそうするのとは全く違うことではあったのだ。このアルバムは聴くたびに、我々が新しい時代を迎えていて、確かに前へと進んでいるという実感と感動を僕に与えてくれている。

2007.08.18 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [音楽

SFマガジン 2007年 07月号

別に映画が公開されるからというわけではないが、最初に少しだけ「新世紀エヴァンゲリオン」の話が必要だ。95年に放送されたあの作品は様々な問題提起を行ったが、当時僕が一番高く評価したのは物語が成立困難になってしまったということをはっきりと示したことである。あの作品はあらゆる物語としてのお約束を意識しつつ演出されながら、しかし主人公がロボットに乗る積極性すら獲得できない。作品にエンドマークがうたれても、作中人物は何らかの結論を視聴者に提供しない。むしろ結論を提供することができないという結論が提供される。

すべてはリアリズムの問題なのだと思う。90年代には(もとを正せば60年代から意識されていたことだが)フィクションが本質的に現実ではあり得ないということが広く一般に意識されすぎた。要するにどんなヒーローも現実としては不自然である。絵空事であって、現実の問題解決の役にたちはしない。分かりやすい結論なども現実には訪れないし、主人公であろうとも一個人の行動が物語世界全体を変えていくというストーリーテリングはリアルではない。その他。とにかくフィクションにとってリアリズムとは究極的にはフィクショナルではないことなのだと言った瞬間、我々はどんなリアリズムも構築できなくなった。こうして我々はリアリズムとフィクションの両方を同時に失ったのである。

エヴァンゲリオンはそれを打ち破ろうとした作品だったのだ。作り手は胸のすくような力強いフィクションでもって人々に現実を打破する力を与えたかった。結局それは失敗した。だがその失敗は作品としての失敗ではなかった。あの作品は当時に「どうしてもそれができない」ということを示して、それこそが当時に驚きと感動を呼んだのである。大切なのは、エヴァンゲリオンが「フィクションで現実は語れない」という断定を行ったのではないということだ。そうではなくて、リアリズムの呪いによって自縄自縛に陥ったという我々の直面する問題を明らかにして、次にフィクションはそこから抜け出すことを開始しなければならないと主張したのである。

おそらくこのエヴァンゲリオンの問題意識から連なる諸作をこそ「セカイ系」という言葉で説明すべきだと僕は思う。これらの作品はしばしば現実に向き合わないオタクが埋没する(したい)引きこもり的な虚構世界そのものであるかのように捉えられがちだが、しかしエヴァンゲリオンの到達した問題意識とは前述したようにフィクションが現実に拮抗し得ないということだけではなくてそれを踏まえた上で我々がどんな物語を描けるか、そして我々が物語を再び獲得することはできるのか、ということである。だから僕にはセカイ系の諸作もまた、そこをスタート地点としていたように思われるのだ。確かにそこには現実と向き合わないための引きこもり的な物語も含まれていただろうし、また登場人物の小さな人間関係がいきなり世界の存亡を左右してしまうような物語を自閉的であると考えてもいいだろうが、しかしジャンル全体の指向として、また時代の意識としてそのような物語世界こそが望まれたのではなかったのではないだろうか。むしろそのような作品は、物語が成り立たないという90年代の結論を超えて物語を語るひとつの手段としてこそ、中間項たる社会を捨象して個人と世界を接続するという方法を編み出したと言えるはずで、あの奇妙な世界観は物語の成立不可能性を乗り越える作法の1つだったはずなのだ。

要するに「セカイ系」という言葉は、90年代的な不能感を乗り越えようという欲求の芽生えがあってこそ成立したのである。決して90年代的な不能感そのものを表すのではない。でなければこの言葉が02年になってから人々に便利に使われブームになる必要すらないのである。90年代的な意識を象徴する言葉といえば僕には「平坦な戦場」とか「終わりなき日常」などが思い出されるが、「セカイ系」はこれらの言葉に感じられる90年代的な閉塞感を超えて物語を獲得しようという意識があり、それぞれの物語が選んだ結末がどうあろうと少なくともその意識は共有されている。あれはつまり、そういうジャンルだったのではなかっただろうか。

「SFマガジン」7月号から連載が始まった宇野常寛「ゼロ年代の想像力」のことを、僕は人から「ぜひ読んだ方がいい」と言われて早速読み、そして大変に素晴らしいと思った。特に宇野常寛の先取的な意識が高く評価できるし、セカイ系以後を「サバイブ感」「決断主義」などによって説明するのも、納得できるものだったと思う。何よりこれが「SFマガジン」に載っているというのが実に面白いことである。ただ90年代的な「引きこもり」的な意識をセカイ系(と東浩紀)に代表させ批判の対象とした上で「時代遅れなもの」として退けるやり方にはあまり賛同できなかった。なぜかというと、ここまでに述べたように僕はセカイ系自体もまた90年代の不能感を超えて表れたものだと思うし、さらに言えば彼の言う「決断主義」という新しい物語のバリエーションだってセカイ系から連続して現れたものであるはずなのである。しかし宇野常寛の語り口は、おそらく東浩紀の古さに苛立ち、また「決断主義」以降の新しさへと人々を導きたいがあまりのことだと思うが、いくぶん時代の連続性をないがしろにしてはいないかと思わされるものだった。

たしかに僕も「セカイ系が既に遅れたものだ」という主張には全く異論はなく、全く今は「企画段階の構想に近い大団円となるエンターテインメント」としてエヴァンゲリオンの新作映画が作られることが可能になった時代なのだと思う。しかし今この時代の直前にあった「セカイ系」が、少なくとも第一回の内容では90年代に含められた上で単にうち捨てられてしまっているのはやや乱暴なことではないだろうか。他ならぬ宇野常寛自身が「決断主義」をもってセカイ系をはっきりと現在とは分離し過去にしたことで、セカイ系の持っていた意味について我々は振り返ることが可能になったはずなのだ。それなのに彼が単にあれを90年代に組み入れるのは惜しい。結果として「エヴァ-セカイ系-90年代」と「決断主義-00年代」という分かりやすい対立構造は用意されたが、しかし「決断主義」が唐突に時代の意識として登場するような図式になったと思われる。それはフィクションではなく現実世界を受けて登場したという説明が成り立つのかもしれないが、しかし果たして過去のリアリズムの系譜とそこまで無関係に登場するべきものなのだろうか?僕はエヴァからセカイ系に連なり、その限界を超えて「決断主義」に到達するという流れなら非常に首肯できるものだと思ったため余計にそう思った。ひょっとしたら宇野常寛はセカイ系の信奉者と新しい「決断主義」の担い手は異なる層だと考えているのかもしれないが、まず僕はそこまで対立軸ばかりを見つけるように説明付ける必要はないと思う。二派の対立という考え方をとれば、彼にとってはつまり例えば西尾維新は(そしてファウストは)セカイ系から「決断主義」的な方へと「転向」したということになるだろうが、作家たちは90年代的な閉塞状況を超えていくことを望んでセカイ系に到達し、それを踏まえて物語性を回復させていったというふうに説明しちゃだめなのだろうかと思うのだ。言葉としては02年に登場したセカイ系が90年代的で、既に遅れたものだったと言って捨てるのは性急に過ぎる。あれが確かに02年に必要とされたということを否定してはいけない。そうまでしなくても彼の主張は十分に説得力を持っているのだから、ここ7年間のフィクションの位置付けを丸ごとマッピングし直すまでの必要はないはずだ。

またおそらくセカイ系と東浩紀をまとめて90年代的なリアリズムの象徴として語っているためだと思われるが、東浩紀に対する批判もセカイ系についてと同様に時代の連続性を感じがたい部分があった。東浩紀に対する批判の多くは彼が例示する作品が古く、また彼自身が旧来的な批評に深くコミットしたものばかりだというものがあって、前にも似たようなことを書いたが、それらは十分に東浩紀に対する批判として届いてはいない。僕はまず東浩紀は、新しい作品を古い世代にも分かる流れに置いてみせることで批評を次世代に続けるダイナミズムを生み出そうとしているのだと思う。だから彼が旧来的な批評にコミットし続けているのは当然だ。それゆえに、彼の古さを正しく指摘するやり方とは、彼が旧世代を引っ張り上げて次の虚空に向かって伸ばした手をさらに掴んで引っ張り上げ、東浩紀が生んだダイナミズムをより高みへと持続しようとするものであるべきはずだ。単に古いとか旧来的だという言葉だけでは東浩紀に対する批判は成り立てないのである。宇野常寛はその点で正しい形での批判にかなり近づいているし、またもちろん「批評は終わった」などと嘯いて自らに停滞を許している甘えた連中とも違い批評を発展させる場所へと到達している。だからこそ、彼はセカイ系も、東浩紀も正しく次代へ接続させるべきだと思った。

でも、これは本当に新しいことを生み出そうとする文章で、その点で僕はとてもいいものだと思う。この文章にかけられた期待の大きさは計り知れない。彼は周囲を気にして「これは批評ではない」などと言わなくていい。その台詞からはかえって立ち位置を気にする姿勢が感じられてしまうんだ。彼はむしろ、これこそが批評だと言ってもっと過剰に突き進めばいいと思った。

2007.08.17 | | コメント(3) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ

つづきをしましょう

こんにちは。書いてる人です。実際はソメルさんでも誰でもない私こと、私です。さて一個前に書いた記事のことが色々気に入らなくて、まあきりがいいところだということで小休止していたらこんなに時間が経ちました。そろそろやる気が出てきたわ。だからやります。てゆっかーマジメだなあ俺。いやマジメなわけじゃないな律儀というか。馬鹿というか。

この「雑記」という記事カテゴリーはもう最後まで使う必要が生じないはずなので、せっかくだから以下に今後このブログには書かないようなことを書いておく。「この間に俺が何をしていたか」という話をどこかに書いておきたいという実に個人的な理由から書くまさに雑な文章なので、なにかの作品についての記事が掲載されるブログとしてこのブログを読んでいらっしゃる方はすみませんが以下の文章は無視してください。読む必要もないです。ごめんなさい。

えーとまずいっぱい小説を読んでいたんだ。一番よかったのは舞城王太郎をたくさん読んだことだ。この人面白い。前に俺の文体に似ていると言われたことが2回くらいあるんだけどこれは過分な評価であって類似しているのは単に饒舌な文体を好んで書く(ことがある)という点だけだが、つっかつまりまあだいたいこういう文体のことを差して言ってるんだと思うんだがしかして俺はあんなに文章がうまくはないだろう。そういえば俺はこういう文体をこのブログではほぼやっていないので、今日いきなりこれを読まされた読者はどう思うかしらん。閑話休題であるが似ているとすれば文章を作るときの姿勢が似てるのかもしれない。姿勢って何?椅子の座り方とか?知るかバーカ。まあともかく読んでいてとても楽しかった。しかしこの人常に誰かに対するエンタテインメントとしてモノを書いていると思うんだけどエンタテインメントをやれていればそれで満足なのか何か他に書きたかったことがあるのかよく分からなくなっているような感じがするのが歯がゆい作家だ。誰かが彼に言って欲しい事なんて、そんなに言ってあげなくてもいいと思った。それもまたエンタテインメントだけど、それだけがエンタテインメントじゃないというのが難しい。まあでも楽しいよ。ほかの人の本も楽しいよ。どれもこれも。俺は幸せだ。しかしこのブログですがね、休んでいる間に読んだり聴いたり見たりしたもののことも書くべきなのだろうか?どうだろう。まあいいや。

しまった本の感想なんてこのブログの本編でやるべきことだ。ほかのことほかのこと。えー、北海道にバイクで行った。実際は大洗まで行ってフェリーに乗っただけで北海道でも札幌までしか移動してないので、たいした走行距離ではない。でも面白かった。バイクと言えば何だか最近調子が悪くて先日猛暑の中クラッチを酷使して渋滞ダラダラ走っていたら発車時にジャダーノイズが出るようになって大変困っている。それから3月の末からかぞえて体重が20キロくらい減ったのでガン疑惑が出て「失礼な」と思った。あと小津安二郎の日記のことを調べていたら「○月○日 昼に山田君来る。共に食事。時勢のことなど話す。午後歯医者。痛し」とかそういう極めて普通の日記を書くのが面白そうとか思ったんだけど、どこにどうやって書くべえかとか思ってさ、あー?そういうのをmixiで書けばいいのでは?とか思ってさ、人にmixiに誘ってくれと言ったんだけど結局誰も誘ってくれなくて、まあそのうち日記ブームが俺の中からかなり去ってきたのでもうどうでもいいやってなったんだけどそれはともかくmixiに誘われなかったことを重点的に問題視していくとインターネット人っぽいコッケイなキャラクターを演じられるなとか思った。インターネットと言えばFelicaのEdyのやつをさあ使い始めてこれ超便利だね。今までおサイフケータイとか、ハァ?って感じだったんだけどすごい便利だ。ビックカメラとかヨドバシとか、会員証がケータイに入れられるんだぜ。カード持ち歩かなくて済むから便利じゃないか。ソフマップもやれよな。しかしそれと若干関連した話としてはさ、何かウェブサービスの会員パスとか入力するのがいい加減めんどくなったのでGreaseMonkeyで自動ログインするようなモノをマメに書き始めたよ一昨日くらいから。そういえばfubのAutoPagerizeがなぜか動かなくなった。あと更新時のコンパイルがこけるな。理由はよく調べてないのでどうせ俺のせいだと思う。あとは何やってたろうか。あーばるぼらさんの出たトークイベント見に行ったよな。あれすっごい面白かったよいろいろ思った。ばるぼらさんにはメールもいただいてさあすごいいいこと書いてあったんだぜ。でイベントだけどいろんな人が来てた。後は何があった?ここ休んでたせいで吉田アミさんにいただいた本のことを書いてなくてとても残念。あと今夏は痩せたせいか2回も風邪をひいた。そういえば咳止まったな。しかし今年はいろいろなことをやってやろうと思って仕事とかもいろいろやっちゃうぜとか思っていろいろなことをしていたらおかげさまでめっきり忙しくなって大変だあ。俺さあ国会図書館に行きたい気持ちがあるんだけど毎日すぐそばを通っているのに行けてないのが残念。2月ぐらいからずっとなんだよ。誰か行っといてくんない?

まあ、何とかしてやるぜとは思っている。
さて、そんなところではあったのだ。
ともかく私は帰ってきました。続きをしましょう。

2007.08.16 | | コメント(9) | トラックバック(0) | [雑記

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