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Perfume「ポリリズム」

Perfumeって一体何なのだろう? 僕が彼女たちに望んでいる場所って何なんだろう? どうやったら僕らは物語と正しく向きあえるだろう? この半月以上、僕がずっと考えていたことはそれだった。考えに考えすぎて、最後にはもう、一番最初に確信めいて捉えていた結論すら、投げ出してしまうかもしれなかったと思う。しかしようやく、「ポリリズム」まで戻って来ることができた。だから今日はまずこの曲について書こうと思う。

ニコニコ動画でのPerfumeをフィーチャーした動画を僕は全面的に支持する。最も圧巻だったのはこの「エレクトロ・ワールド」だ。オリジナル曲を耳コピしてカラオケを作り、ボーカルをVOCALOID2「初音ミク」に歌わせ、映像を「THE iDOLM@STER」に差し替えたこの動画がどれだけ刺激的なものか。ここではアイドルを成立させていた要素の全てが差し替えられ、オリジナルにあったものが何一つない。ここで、我々はオリジナルの不要性を声高に叫び始めたりはしなくていい。逆にオリジナルがコピーより上位に立つのだと嘯く必要もない。

なぜなら、僕がまた、「ポリリズム」のPVを全面的に支持するからこそなのだ。この素晴らしいPVをぜひ見てほしい。冒頭で四小節ずつ三人が歌うのに合わせて、映像はそれぞれの顔を順に映し出す。この一連のカットが意図に富んだものであることは明らかだ。曲のハイライトであるポリリズムの後にブレイクが入り、三人がイントロと同じく、今度は八小節ずつ歌うときにも同様のカットは繰り返されるのだ。この反復は何を仄めかすものか。すべてが代替可能な状況へ効果的に投げ込まれた三人の身体が、むしろ無機質さの演出のようにしか我々が捉えなかったボコーダー音声(正しくはAuto-Tuneなんだそうだが、僕はもちろんそんな話をしているつもりはない)の中に三人それぞれの個性を立ち上らせるということである。この表現は、三人の肉体と息遣いを最も生々しく我々に意識させる、極めて優れたものなのだ。あ~ちゃんは柔らかく、かしゆかは高く、のっちはクールに。その肉感は断じてオリジナルの優位性に起因するものではない。あくまで代替可能性が氾濫してあるからこそ三人の身体性に焦点がもたらされ強調される例なのである。ごく現代的なやり方で肉体を再発見させていると言っていいだろう。それは、Perfumeの世界に漂うエモーションとおそらく同系にある。

さらに言えることは、これらの例においてPerfumeは実体を待たずに事象として、事件として存在してしまっているということだ。その中心には誰もいない。三人の少女も、中田ヤスタカも、アミューズも、徳間も、もちろん初音ミクもアイマスも特権的にはあれない。一切が代替可能性に晒されるとき、そこにはPerfumeだけが残っている。そして三人が現れたときには三人の物語が起動するのだ。僕はこれこそアイドルだと思う。Perfumeが今実現しているアイドル性って究極なのではないかとさえ真剣に考えるのだ。アイドルって、なんてカッコいいんだろう!

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2007.09.25 | | コメント(0) | トラックバック(3) | [音楽] [映像

CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ

たまたま津田大介さんに会う機会があって、持ってらした「CONTENT'S FUTURE」をいただいた。内容に興味があったのでありがたくいただいて、さて帰って読んでみたら思っていたような本とはちょっと違った。でも、思っていたものよりずっと面白かった。

この本はどういう本か。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのアイコンが付加されていたり、表紙に「ポストYouTube時代」などと書いてあったり、またNT2Xのシリーズであることから、僕は何となくこの本はインターネットにおける著作権がらみのことについて書いた本であるかのように想像していた。実際にはそのテーマからはけっこう遠いのである。もちろんそれと切り離して語ることは全く不可能なのだが、しかしそれよりもずっと現実的な問題を扱っている。つまり、これは今という時代に物づくりがいかに可能であるかということを語った本である。だからこれはコンピュータ関連書というよりも、メディアに興味のある人なら誰でも面白く読めるものだろうと思った。

コンピュータやネットワークの発達は従来のメディアの常識を覆して、その立場をしばしば危ういものにした。分かりやすい例がコピーの可能性であるし、またブログによって誰もがメディアを持てるようになったことだってそうだ。しかしこの本は、新しいメディアが招く危機について語ったり、またその是非を問うものではない。そのような手垢のついた語り口は今なお法制度や倫理について語る準備としてありうるが、しかし今まさに刻々と進行している物作りの現場にとって役立つ議論でないことはあきらかだ。この本の作り手はそのことを正確に理解して、だからコンピュータやネットワークが「可能にしてしまったこと」について今さらのように語り始めたりはしない。そんなことよりも、たった今、メディアの現場はどのようにそれを受容し、どう作品を作るのかを問題にしているのだ。だからこれは、ある意味では法制度がどうなるかという「先の話」よりもずっと読者にとって近くて重要なテーマだ。

気に入ったのは、この本が特に注目しているのがクリエイターではないということだ。登場するのは映像や音声番組のディレクターやプロデューサーなどが多い。インターネットがクリエイターと受け手を限りなく親密にさせ時には両者を融合するような時代には、むしろ彼らのような中間的な存在について考えることこそが次代のコンテンツにとって重要であるという主張を感じた。特に松岡正剛のインタビューの以下の部分がよかった。

津田 最近言われている「ウェブ2.0」についてですが、インターネットやPCが情報やコンテンツを作る現場に影響を与えて、「一億総クリエイター時代」なんて言われるようになりましたよね。誰しもがブログを作ってデジカメで写真撮って、誰もがクリエイターだよ、という時代になった。
 生み出されるコンテンツが、良い悪い関係なくとにかく増えて、それを享受する受け手も非常に増えているというのが今の時代ですよね。そういう状況下で、僕は、今一番足りなくなっているのは「エディター」だという問題意識を持っているんです。

松岡 足りないねえ。

津田 みんなが情報のパブリッシャーかつクリエイターになっているけど、エディターは本当にいなくなってる。

ここに書かれていることとか、またナラティビティが成り立ちにくいという話は、僕が普段感じていることに近くて興味深かった。ネットはプル型のメディアとしての側面が強いせいか、情報に対して個々のユーザーがいかに判断するかという話が多いが(みんなメディアリテラシーの話ばかりする)しかし情報の送り手についてや「エディター」だのなんて、それほどは問題にされない。文章なんて誰でも書けると思われているのだから当然である。僕には結局のところ、言葉の地位が下落したことに原因があるように思えてならない。

2007.09.18 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [映像

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

9月上旬は飛ぶように過ぎた。全く僕には一瞬にすら思われた。でもようやく久々に忙しく走り回らなくてもいい一日があって、昼に起きて白いご飯と味噌汁と塩辛で食事にしたら何だかとても気分が落ち着いた。それで僕はついに映画を見に行くことにしたのだ。

どうせ三軒茶屋かどこかで見られるとばっかり思っていた。誰もが注目している、いっとう大事な映画なのだから、どんな映画館でも今はこれをかけているに決まっているんだと勝手に思いこんでウェブで確認したが、実際そんなことはなかった。それで結局は渋谷に出向いてバイクを駐車できなくて、新宿まで行った。

正直な話、僕は「新世紀エヴァンゲリオン」という作品について文章にしたことがほとんどないのだ。

僕が初めてこの作品を見たのはテレビの本放送で、そのとき見たのは「第弐拾弐話 せめて、人間らしく」だった。スーパーファミコンのゲームを遊び終えた僕はテレビを付けっぱなしにしたまま寝ていたのだが、目覚めてみるとハレルヤの合唱をBGMにした何だか全く不可解なアニメが演じられていた。不可解というのは解読不能というわけではなくて、注目に値したのはこれが明らかに解読されることを待っていたということだった。

僕はずっとアニメも漫画も嫌いじゃなかったけれど、90年代に入ってから特にアニメは「アニメファンを喜ばせよう」という制作者たちの意図が(誓って彼らの名誉のために言うのだが)ただ彼らが力不足であるが故にアニメというジャンル全体を、内省的ですらない、内向的なものにさせようとしていた。だから僕はテレビアニメなんてほとんど見なくなっていたのだけれど、だけどそのとき偶然に見たおかしなテレビアニメは、どうやら主人公サイドがロボット戦で勝利したらしいラストシーンで赤いボディコンシャスな戦闘スーツを着た女の子がなぜだか泣き続けていて、そして「立入禁止」と書かれた寒々しいテープがリアリズムを主張していた。そのあと明らかにただのイメージボードとおぼしき手描きの絵を映し続ける次回予告を見るにいたって僕はこれが我々が抱えてしまった困難な問題を必死で表そうとしているものだと気づき、その蛮勇に体が熱くなった。今テレビアニメで何か大変なことが起こっているのだと知って、次の日会った人に前日見たものについて話してみたがうまくは語れなかったのを覚えている。

その後、新世紀エヴァンゲリオンというアニメについて書かれたものをいろいろと読んだ。当時僕がずっと不満だったのは、今ではむろん考えられないことだと思うのだが、あれを語るやり方で流行っていたのが主に心理学を根拠に据えてキャラクターたちの精神分析を行おうとする、つまりあの物語をただ現実の模倣として扱うようなものであり、あの作品が物語そのものについて語っていることなんてほとんど誰も何も口にしなかったことである。

しかし、それが僕にとってとても大事な問題だったから苛立ったのに、だからといって僕も何も言わなかった。僕は関連書籍や雑誌やインターネットを黙って見て、だけど自分からは何をも語ろうとはしなかった。何も言わずに、あれを作った誰か(そんなの誰だってよかった)が早く何か解答を示して困難な状況を打ち破ってくれるのを待ち続けていた。だから僕は、その後作られた映画だって見たのだ。見てそして、僕はずっと待っていただけだったから、結局その映画が終わったときに到達した場所を見て、そしてへこたれたのである。

エヴァンゲリオンの新作が作られて、見る前に思ったことはオリジナルのエヴァが特別な存在じゃないということが分かるだけじゃないだろうかということだった。エヴァから始まったこの12年が僕らに示したのは、結局そういうことだった。エヴァのバリエーションは今や無数にあって、僕はそのすべてを許容できる。たとえそれがパチンコ台であっても一向構わない。僕はそれでいいけれど、しかしオリジナルを作った人たちが今なお自らがオリジナルであることを主張するのであればそれは辛いことになるだろうと思った。

結果として僕はその新たな物語の力強さを誇らしく思った。初号機が発進するときにワクワクしたし、陽電子砲を再び撃つために立ち上がるシンジの姿に感動した。しかも、作り手は自分たちの物語もまたバリエーションの1つに過ぎないということを折り込み済みで作品を作ってみせたのである。次回予告にいたっては「次第に壊れていく碇シンジの物語」とハッキリ口にしてみせた。ここまで示唆的なことがあるだろうか。その上で彼らは大団円を目指すのだ。けれど、やはり僕はそこでもう「ありがとう」とは思わなかった。もちろん「おめでとう」という言葉が思い出されるのだ。これは明らかにあのころエヴァンゲリオンを見た人へ向けて作られていて、そういう人のために作り手はもう一度物語をやり直そうとしている。だけど12年を経て、今ならそれができるようになったのだということが僕にだって分かっている。ひょっとしたら、見に来た誰しもに分かっていることなのかもしれない。思えば最初からずっとエヴァンゲリオンは僕らと同じ問題を共有していたし、そして今これが作れるということを、作り手も視聴者も共に祝えるときなのかもしれない。

全然、そうではないのかもしれない。「破」ではすべてがひっくり返されるのかもしれない。僕が12年で得た自信なんて淡く消し飛ばされるのかもしれない。またイメージボードの長回しが始まって僕らを痛めつけるかもしれない。引き際でそう思わせてくれるのが、まさにエヴァンゲリオンというあの物語の懐かしいやり口であった。でも僕は、ずっとそれが好きだったのだ。次回がとても楽しみだ。

2007.09.17 | | コメント(4) | トラックバック(2) | [アニメ] [マンガ

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