スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | |

魔人探偵脳噛ネウロ

週刊少年ジャンプに用があってそれを買い求める。そうしたら巻頭カラーが「魔人探偵脳噛ネウロ」だった。最近考えているのは、ちょうど「謎」のことだ。90年代に入ってフィクション全般がゆっくりと躍動感を失いつつあったときに、最も早い時期にその黄昏が訪れ、そして最も酷たらしく身を蝕まれたはずの小説において、ミステリだけは屋台骨を失わずに物語としてあることができたと思う。今ひもとくべき資料が手元にないので詳しく言えないが、オウム以後に神話や伝奇は読者の興味の求められる場所として退けられたのに対し、トリックという論理性を持ったリドルは読みを持続させる力の源として人々に支持され続けたはずだ。要するに、エンタテインメントとしてひとかどの人気を持続した。それは90年代後半から我々が夢中になった「世界の謎」や「実存の謎」と関係なくあって、ミステリは逆説的な形でそのような謎がなくても物語は存在できると主張していたとも言える。だがそれは、後からしか言えないことだ。

僕がいま考えているのは、「ファウスト」の太田編集長が当初やったのは、まず若年層の触れる読み物にミステリを注入して力を与えるということだったのではないかということだ。それは新本格を愛して講談社ノベルスを通過した彼にとって単に当然の流れとしてあっただけなのかもしれないが、しかしゼロ年代の前半においてファウストがフィクションの現場においてジャンルを超えた注目を集めたのは偶然ではないと思う。よい書き手が書くべき物を喪失しているときに、読者と作者が共に、最後に物語の駆動力として使うものとして彼はリドルを提案した。結局リドルは現実ではなく、あまりにも物語的であることに面白さがある。それが荒唐無稽な物語の楽しさを買って出た。その考えはうまく働いたばかりかミステリ自体を大きく飛躍させたし、多くのフィクションがひとまず物語性を維持するのにリドルを変形しながら採り入れた。例えば僕は奈須きのこの叙述のやり方にそれを感じたし、そして西尾維新の「戯言シリーズ」は、まさにミステリとして出発しながらやがてそれを離れて、なお少年ジャンプ的なエンタテインメントを結実させたものとして僕は記憶している。

ここで週刊少年ジャンプが登場する。ジャンプにとって謎は必ずしも必要な要素ではなかった。ジャンプは際限なくパワーインフレが繰り返されるだけの物語に危機感を抱くころには既に「ジョジョの奇妙な冒険」を手に入れてリドルによる物語を牽引していたからである。ところがジャンプが面白いのは、他誌や多くのジャンルがリドルとジャンプを採り入れてフィクションを発展させたあとで、躊躇なくそれを再導入したことだ。それを象徴するもののが例えば「デスノート」であり、そしてやはり「ネウロ」なのである。作者は、この作品はミステリのふりをしているだけなのだと語っている。「ドーピングコンソメスープ」を初めて見たときに、我々は何と幼稚な馬鹿者かと笑ったのだ。好意的に捉えても、これは何か反則を用いてミステリごっこをしていると言ったのだ。だが僕に言わせればネウロは時代を流れてフィクションが到達した形を、正しくジャンプで語り直している。そして、それが証拠に今我々は、「研ぎ澄まされた冷凍ピザ」によって人を惨殺しようとする物語を週刊少年ジャンプの輝かしい巻頭で読んでいる。

スポンサーサイト

2007.10.31 | | コメント(6) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

CINRA MAGAZINE vol.15

※末尾に追記があります

「cinra magazine」というCD-ROMによるフリーペーパーで「Hang Reviewers High」(それは、このブログのこと)を紹介していただいた。掲載誌を送っていただいたのだが1枚だけかと思っていたら10枚くらい袋に入っていて何だか恐縮してしまう。

受け取ってから毎日、CD-ROMマガジンということについて考えている。作り手はこれを「フリーCDマガジン」と呼んで、一般的なフリーペーパーのようにあちこちで配布している。そして同時に、同じ内容をウェブで公開しているのだ。

しかし僕はそのことについて考えている。そして、このCD-ROMをとにかくドライブに挿入して、どんな記事があるのか、何を訴えているのか知るよりも、まずCD-ROMマガジンという形式について、それがウェブでも公開されるということについてずっと考えてしまうことが、この読み物の難しさでもあるのだろう、というところまでは考えた。しかしやはりこれはかなり難しい問題で、うまくまとまらない。いただいて一週間経ってもまとまらないのでもうあきらめて、ここでは「うまく言えない」ということだけをそのまま書いてしまおう。美学にも知識のない僕が、形式などと軽はずみに口にすべきではないのかもしれない。メディアという言い換えでならうまく話せるのだろうか。それも怪しいものなのだ。

しかし読み手としてなら率直でいられる。まず音楽が付加されているのは意外に楽しい。聴く前は「まあCD-ROMだからテキストと音の両方を入れようというのはありそうな考えだ」程度にしか感じなかったことだが、しかし作り手が実際に配慮しているかどうかにかかわらず、結果としてこの読み物にはこれらの曲がBGMとしてあるように限定されうるのは、日常的な読むという体験からいくぶん脱したものを感じて面白いことだった。それから、ブラウザで読むものを作るということは、作り手にとって(もちろん受け手にとってもそうだが)「スクロールさせる」ということなのだなと理解した。cinra magazineは個々のページにおける文字量はかなり少ない。テキストの左右幅を極端に狭くして、読者にスクロールさせることを強要する。これはおそらくデザイナーの発想だと思うのだけれど、ページの全体が見えないことから、クリックによる紙芝居ではない、ブラウザで読むことの面白さを作ろうとしている。単純な例で言えばスクロールバーを下に動かすことで、読者に視線の移動を楽しませようとしたりする。もちろんこんなことはウェブデザインでは当たり前のことだ。しかし、それを行うためにページ内に表示される文字数を極端に制限するのは難しいことだと思った。

ここまで書いて、自分はだめだなと思った。ここまで、形式の話しかしていないじゃないか。とても悔しい。形式について話してはいけないわけじゃない。しかし形式と不可分にして作り手が語っているものを僕は書けなくちゃいけなかった。こんな単純そうなことが、なぜ僕には難しいのだろう。

このブログの紹介記事では、僕は「blogを始める人に」という題で何か一言と言われて、ネットで文章を書く意味を考えるということについてごく簡単に書いている。でもそんなことはどうでもよくって、面白いのは、このブログ自体について編集者の方から解説を書いていただいていることだ。このブログで僕が何をしようとしているかということが分析的な文章にされている。レビューされ、批評の対象になっている。実は僕はウェブでも、紙の上でも、何かを書いた経験のなかで、トータルで何を意図してそれを書いたかを文章に沿って書いてもらうことは、あまりなかった。実は、ここ一ヶ月ほどのあいだに、相次いでそういうことが起こっているのだ。何だか幸せだ。僕は前に使った書き方をいつも変えてしまうくせがあって、それはへそ曲がりみたいなところがあるけど、変えたおかげで違ったものが与えられることもあるのだ。

※以下は追記です

【“CINRA MAGAZINE vol.15”の追記を読む】

2007.10.30 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽

クイック・ジャパン74

沖縄に行ったり仕事をしたりと忙しい間に、Quick Japan Vol.74が発売されたのだ。この本は何とPerfumeについての特集号で、僕も文章を書かせていただくことができた。依頼されて、そういう機会はもうないかもしれないと思ったので、すぐに引き受けた。語り尽くせない色々な経緯があって、できあがったのはこういうものである。

【FEATURES.1】
Perfume
「アイドル」の意味を回復する3人

■2007.9.17 新曲「ポリリズム」発売記念イベントレポート
■本誌独占!Perfume10,000字インタビュー!!
 アイドルとして、テクノとして、どんな楽しみ方をされてもいい
■私がPerfumeを好きな理由。
 ピエール中野(凛として時雨)/大谷ノブ彦(ダイノジ)/
 後藤まりこ(ミドリ)/サエキけんぞう/辛酸なめ子/SPECIAL OTHERS/
 西脇彩華(9nine)/掟ポルシェ(ロマンポルシェ。)
■Perfumeヒストリー 2000.2007
■振り付け解説①「エレクトロ・ワールド」
■Perfume全シングル・アルバム・DVD解説
■中田ヤスタカ(サウンドプロデューサー)インタビュー
 Perfumeのスタッフは、ものすごい天才か、
 ものすごい勘違いをしているか、どっちかです
■Perfumeの魅力を引き出す映像世界
 アートディレクター・関 和亮インタビュー
■振り付け解説②「チョコレイト・ディスコ」
■特別寄稿
 宇多丸「Perfumeという〈奇跡〉」
■Perfume、渋谷HMVの自動ドアにサインしてきちゃいました!!/読者プレゼント

この中の「Perfumeの魅力を引き出す映像世界」という記事はばるぼらさんが担当されていて、それだけでも読むべきだと思うのだが、僕もこの中で、冒頭のイベントレポートとPerfumeへのインタビュー、そしてヒストリーの作成を担当している。冒頭に来ているイベントレポートは、この特集のすべてをフォローする内容になるものだ。一読すれば分かるように、ここで僕はPerfumeのことではなく観客のことを多く書いている。幸いなことに編集部のオーダーがPerfumeを今取り巻く状況の分かるものにしてというものだったので、そのような書き方ができた。僕はPerfumeを僕らがどう受け入れるかという話がしたかったので、最適だった。この中で僕が何を言っているかというと、誰かが愛を禁じるなら、我々はアイドルを見失うだろうということだ。愛をまぜかえすことに貧しい情熱を傾ける言葉たちによって、アイドルだけでなく、あらゆる愛が不可能になる。やがて、対象を好意的に語ることは憚られるようになるだろう。僕はPerfumeがクラブユースに堪える楽曲を持つからといって、「アーティスト」として分類し「アイドルなどという程度の低い存在ではない」となぜ言わなければならないのかと考えていたが、しかし同時にアイドル好きの人が「音楽目当てでPerfumeを語る奴はウザい」と言うのも悲しいことだと思う。人をどこかの派閥に組み入れて綱引きをするとき、アイドルのファンはオタクで、気持ちの悪い、恥ずかしいものだという、本当は何の裏付けもないレッテルを貼るのにお互いが夢中になってしまうとき、もう誰も対象自体なんか見ていない。これは、アイドルの話だけじゃない。自分の好きな何かについて、それをどれだけ好きか語ることはなぜ困難になっているのだろうか?素敵な存在を前にしているのに、一体我々は何をやっているのだろう?QJで宇多丸さんはこう書いている。

大半の女性アイドル歌手には、「どうせ誰も本気で歌なんか聴きゃしないんだから、この程度で十分でしょ」と言わんばかりの、やっつけ丸出しの曲しか与えられないのが、今も常識です。そして、これはさらに情けない話、実際のところ曲の良し悪しよりも、「握手会参加券封入」とかの方が、遙かに売り上げに結果を残すことが多いのも事実。

アイドルを誰もが見捨てている。我々がここで正しく捉えなければならないのは、アイドルソングに対して期待しない風潮を作り出しているのが、作り手と聴き手の両方だということだ。だからと言って握手会参加券が入っているCDを買うなと言うわけではないし、曲さえ良ければアイドルとして評価しろ、というのではない。ただここには、そのものを認める態度がないと思う。Perfumeはついに今、僕がずっと不満だった「アキバ系」「クラブ系」どっちかに偏ろうとする売り方を脱することができつつあるのではないか。それなのに、今度は聴き手の側からカテゴライズが開始されるなら、Perfumeの新しさなんて何にも残らないはずだ。

そもそもPerfumeが僕にとって面白かったのは、彼女たちは僕らのそんな態度をなで斬りにしてくれる存在だったことだ。楽曲の完成度が高く、パフォーマンスはアイドルそのものなのである。しかもメンバーはアイドルという認識を揺らがせる態度であけすけに何でも自由に語る。相反する極端な要素を高い完成度で併せ持ってしまうと、誰もが認めざるを得なくなる。僕は爺さんなのでそこに皮肉さやパンキッシュなものを感じようとしてしまうが、彼女たちにはそんなものすらなくて、僕はそこに快感を覚える。セオリーを守ろうとか、タブーを「あえて」侵そうとか、そういう感覚が全くないままに易々とこなすのだ。圧倒的な存在。それは、今の10代とか20代前半に僕が抱いている期待に近い。QJのインタビューでは、メンバーのそういう側面が出ないかと思って作ってみた。そのことが、つまらないことにこだわっている僕たちを解放してくれるのではないかと思ったのだ。子供の頃からSPEEDが好きだったけど、アイドルだとかアーティストだとか考えたことはなくて、ただ歌手として好き。プリキュアも好きだし、オシャレな音楽も好き。彼女たちはそう言った。そして、僕はニコニコ動画をどう思うか聞いたし、こんな質問もしたのだ。

では今からPerfumeを「アイドル」としてファンになる人がいてもいいですか。

もちろん、彼女たちは期待を裏切らない返事をしてくれた。素晴らしいことだと思う。「その人たちがいなかったら、今のPerfumeはないと思います」と言ったときの、あ~ちゃんの真摯な目が印象的だった。どうしても諸手を挙げて誰かを好きだと言えないような人は、自分たちがひょっとしたらプロデュース陣に踊らされているんじゃないかみたいなことを言うかもしれない。そういう物語が楽しいものだと思いたい人もいるのだ。以前の記事にも書いたが、例えば楽曲を作っている中田ヤスタカとか、アミューズや徳間がPerfumeにおいて特権的な存在であるように感じるかもしれないが、Perfumeが最も面白いのは、誰も中心にいないことだと僕は思う。中田ヤスタカはインタビューの中できっぱりと「Perfumeは誰にもコントロールされていない」と言っているのだ。この先、誰かがPerfumeを牛耳るのかどうか僕には不明だが、今はそうじゃない。それで僕は特集のリードに密かにこう書いたのだ。

今や僕たちは、彼女たちがいつかアイドルじゃなくなることまで知っている。でも、だったら躊躇する理由はどこにもない。モタモタしてると彼女たちを見過ごして、ただ時代が過ぎていってしまうんだ。

いつか裏切られると暗い期待をして時代を過ごすのは誰かの勝手だが、物事が繰り返しなら、そうやって座していることも正解じゃない。アイドルだから聴くのが恥ずかしいとか、あれはサブカルだとか、オタクだとか、黒歴史だとか、言い過ぎたあげくにいつの間にか衒いなく対象を好きだと言えなくなってしまうようなことを、僕は今やめていいと思う。そういう頃もあったし、そういう時代はまたいつか来ると思う。でも今は停滞の中に身を委ねてはいられない。「あえて」も「ネタ」も、もういいだろう。もし自分の好きなものを好きだとだけ言って、お互いにそうあれるならPerfumeなんて好いてくれなくてもいいくらいだ。Perfumeとハロプロの違いを知りたい人にはインタビューの欄外にある「私がPerfumeを好きな理由。」の掟ポルシェさんと辛酸なめ子さんの文章が最適だと思う。でもこれを読んで、ハロプロのことを否定し始めなくてもいいのだ。Perfumeがいいと言うことは、ハロプロのここがダメでPerfumeはここが新しい、次はこれだ、と言うことではなかった。Perfume自体がそれを体現するグループなのだから、僕らも彼女たちの物語に集中しよう。この欄のちゃあぽんのインタビューは、涙なくしては読めないものなのだから。

この特集の記事はすべて、まず、Perfumeのことを知らない人に向けて書かれている。だから僕のレポートも「Perfumeってどんなものだろう?」という内容なのだ。実際この記事はいろんな人に向けて書かれていて、初期のQJの読者だったであろう、一定の年代の人にしか分からないこともわざと書いてある。だが、それとは別に、単純にPerfumeのファンの人にとっても読めるものにできたつもりだ。特に、今のPerfumeを取り巻く状況に少し複雑な思いを抱いているであろう、あの頃のファンたちにも届いていればいいと思う。三軒茶屋のツタヤで、サンリオピューロランドで、亀戸で、広島で、人が全然いない海岸で、雪の降る歩行者天国で、そしてネットラジオで(もちろんだ)。あのころ僕と一緒に本当に大切そうにPerfumeを聴いた人たちが、今どんな気持ちでいるのか僕は想像できなくもない。だから僕の文章を読んで、彼らがこれからもずっと変わらず彼女たちを見守っていられる気持ちになってくれればうれしい。

僕がもう1つ担当した「Perfumeヒストリー」は、作るにあたって、norさんをはじめとするPerfumeのファンの方々に協力していただいた。一人一人にお礼を言えないけれど、皆さん本当にありがとうございました。このヒストリーはPerfumeのメンバーに渡して、それを見ながらインタビューを行ったのだけれど、三人はすごいすごいととても喜んでいた。ファンたちは彼女たちのことをこんなに熱心に見ているんだということをメンバーに分かってもらいたかったので、とてもよかった。この記事は特集内ではそこそこ資料としての価値がある部分かもしれない。でも僕は今回は資料として価値があるものを作っても意味がないと思ったので、例えば単なる「ヒストリー」じゃなくて「全仕事」にするなど、そういうアイデアは一切挟まなかった。どちらかというと不要な部分をどんどん排除して、インタビュー記事に関連する部分と、エピソードとして面白い部分だけを残していった。雑誌の役割はこうだという意志でそうした。熱心なファンが個人で情報を発信する時代に、マスメディアが同じものを作って競い合うのは意味が少ない。究極的にはファンジンを作れば熱心な個人には適わないし、できる限り多くの人に読んでもらいたい雑誌編集者ならファンジンを作りたいとは思わないだろう(そういう本作りを否定はしないが)。カルチャー雑誌はいまだに90年代以前の手法でカタログ本を作っていることもあるが、インターネットで個人がもっと偏執的な情熱を見せているときに、もうあのやり方はいらないと思う。それよりも、それぞれのページがなぜ必要なのかを深く考えて、全体を読み物として筋の通ったものにして、きれいにレイアウトしてあげる、編集という仕事の当たり前の面をもっと見せればいいのだ。それが雑誌というメディアの醍醐味なのだから、見失ってはいけないはずだ。それを個人に投げれば、個人はそれを吸収して、さらにマスメディアには太刀打ちできないようなものを投げ返してくるだろう。そのおかげでマスメディアはさらに伸びることができると思う。

逆に言えば、僕らにとって面白いのは、本が出た後のここからだ。今回掲載したヒストリーは、実は完全なバージョンではない。読み物として不要な部分や、掲載されたインタビューでは言及されていない部分は惜しげもなく削除した。繰り返すが、それが雑誌の良さなのだ。実際それぞれのエピソードは蘊蓄として読んで楽しいものになったと思う。そして、詳細さを求めるものは今は雑誌じゃなくてネットにあるべきだと思う。だから僕は、Perfumeのメンバーに渡したバージョンを、今ここに公開しよう。ファンの人はどうか好きに使ってください。いくら配布しても、加工しても、追加しても、別の場所で使ってもいいです。むしろどんどん追加してほしい。最初の一瞬だけ全仕事を作ろうかなと思ったけれど、インタビューに持っていくのにも不要だと思ったのですぐにやめて不要な項目をざくざく削除したのだ。だから、まだ全然足りていないこれを基にして全仕事のヒストリーを作るのもいいと思うし、メディアの出演情報などについては必ずしもすべてについて確認を取っていないので、1つずつ集めるのもいいかもしれない。その代わり、間違えている部分があったら、僕に断らなくていいから、よかったらこっそりと直しておいてください。どうか、Perfumeを楽しんでください。

めでたいことに、今号はどうやら好評で品切れが続出し、早くも増刷がかかりそうという話だ(これで誤植も直せるわけだ)。しかし逆に言うと品切れになるというのは、書店の人や、どうかすると太田出版が「Perfume特集なんて売れないだろう」と判断してあまり店頭に並べなかったということだから、悔しいじゃないか。今のQJの方向性を決定づけるほど売れたのはたぶん「水曜どうでしょう」の号じゃないかと思うんだけど、そこまでいかなくても、何だかおかしなことが起きていると思わせるほどに売れてたらいいのにと本当に思う。

アイドルは決して我々を試さない。アイドルは原則的に我々を愛するし、自分たちに対する我々からの愛を疑わない。我々が試されているのは、ただ我々自身によってのみである。彼女たちの一途さを受諾するかどうか、我々は逡巡している。我々がアイドルに戸惑うときも、アイドルはただじっと我々に愛されるのを待っていてくれるのだ。我々はアイドルに許されている。愛とは何か。それは物語を信じる力だ。昨日書いた記事にも書いたことだ。しかしここではもちろん、七里の鼻の小皺の記述を引用するのがふさわしいだろう。

われわれは、一人一人社会に入り込んだ、ゲリラ部隊のようなものなのだ。もう、そろそろ点呼をとろう。社会が、愛を禁じる場面をみつけては、各個撃破する。その約束のもとでなら、どれだけ離れていても、われわれは想像力の眼差しを交わすことができるだろう。

もちろんだ。彼に応じよう。各々、展開しよう。疲れればまた煙草を吸ってビールを飲んで一服しようじゃないか。そしたら僕はまた奴らを高く吊るす。さあ、連中が僕のやった有様を見るだろう。戦況は以前にはずっと絶望的だった。しかし世界を変えるのは我々だ。我々自身だ。我々は人々にあんな態度を強いているものを退けられる。「コンピューターシティ」を聴けば分かる。

もうすぐ変わるよ 世界が
もうすぐ僕らの何かが変わるよ

完璧な計算で造られたこの街を
逃げ出したい 壊したい
真実はあるのかな

完璧な計算で造られた楽園で
一つだけ嘘じゃない
愛してる

2007.10.16 | | コメント(34) | トラックバック(3) | [文章] [音楽] [アニメ

暗闇の中で子供―The Childish Darkness

舞城王太郎の小説「好き好き大好き超愛してる」では、冒頭からストレートな表現で愛について語られる。以下のような具合である。

 愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。

舞城王太郎はここで明らかに読者に対し素朴で力強いアプローチを試そうとしているが、しかし表現の強さによってむしろ読者が見逃してしまいがちになるのは、ここから必ずしも恋愛小説が開始されるわけではなく、これが実に小説についての小説であるということだ。それは二段目以降へ読み進めればすぐに分かることだ。

 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ。
 祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
 人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。

過去についての希望という表現は一種奇妙だが文脈から理解するのは容易だろう。これは言葉通り、例えば実現できなかった未来に対する「反省やら後悔やら」としてあるわけではない小説の効果について語っている。小説の奇跡によって過去は改変しうるというストレートな指摘をまずは受け取った方がいいだろう。現実にとっての効果の前に、少なくともフィクションの中でなら願いは実現されうると舞城王太郎は述べている。ここで語られているのは主に書き手の問題だが、しかし物語の奇跡を成り立たせるためには読者にも同じものが求められるはずだ。我々は物語の祈りと願いを信じ、共に祈らなければならない。我々が物語の奇跡を目撃するには、まずフィクションにおいて願いが実現されうることを信じるべきなのだ。

舞城王太郎はフィクションの効果について過去から一貫した姿勢を取っている。例としては「暗闇の中で子供」が非常に分かりやすい。この小説は主人公である奈津川三郎の一人称で書かれているが、正しくは第三章以降は奈津川三郎自身によって書かれた小説としてある。第三章以降の固有名詞や事実関係が第二章までと少しずつ異なり全体として食い違いが散見されたり、最終章において現れた人物について語られることが唐突に放棄され結末が何パターンも示されるのは第三章以降が物語であるからに他ならない。細かいところでは野崎博司の名前に侮蔑の言葉が挟まれるのも第二章までで、第三章以降にはそれがなくなる。作者はあらゆる面で第三章から別の物語が導入されているという事への注意喚起を促しているのだ。

そして、第二章の終わりが美しくもの悲しいのも、ここで物語がいったんフィナーレを迎えているからだ。このラストにはまさに小説の効用について書かれている。

 今ここにUFOが下りてくるといいと俺は思う。この手の平池の鏡のような水面の上に、音もなく。何しろ高野祥基も橋本敬も、そして暗闇に溶け込んで俺を見つめているはずの布瀬由里緒も、空から見るための大きな絵を描いたのだ。それも二枚も。ナスカの「猿」と宇宙人への手紙。高野祥基なんてそのために人を殺してさえいるのだ。バラバラにして。布瀬由里緒だって日記を焼いて遺書を残して多分自殺を図っているわけだし、橋本敬はその絵のために殺されてしまったのだ。空から見てようやく判る大きな絵のために。だからその絵を見て、誰かが空から降りてくるべきなのだ。UFOに乗って、待たせたなという感じで。俺がこれを小説として書くなら、必ずそういう結末にするだろう。物語というのはそういうものなのだ。誰かの熱意が空にいる誰かに通じたりしてもいいのだ。それが嘘であってもいいのだ。何故なら、誰かの懸命さは必ず他の誰かに見られているものだということは、物語が伝えるべき正しい真実だからだ。

以上のように書いて、このシーンの後で実際にどうなったかは描かれないまま第二章までの現実を改変するための物語として第三章以降が開始される。「好き好き大好き超愛してる」の、「既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ」という言葉は、まさにここに対応している。ラストで奈津川三郎が以下のように述べるのを参照しよう。

俺が失ったものが手足という具体的なものであって、得たものが希望などという形を持たないものであったとしても、俺はそれで大満足。

彼が四肢を失ったという「具体的な」エピソードが果たして事実かどうかについては明らかにされない。むしろどの記述も虚偽である可能性を最後まで残すことで、読者が「現実」に依拠して小説から感動を引き出そうとするのを妨げようとする。全編にわたって、巨人や幽霊など明らかに非現実的なものが登場するのも同じ意図である。読者は「現実」であるはずの第二章ですら、奈津川三郎によって書かれた「物語」なのだと考えてしかるべきなのだ。すべてが荒唐無稽なフィクションであっても、現実をベースにしていても、結局はすべて非現実であると認めつつそれに身を委ねなければならない。そうでなければ我々は物語から何も得ることができない。しかし信じることができれば、フィクションは力を得て、我々はすべてを自在に実現できる。

俺の中には希望がたくさんあって、それがどんどん現実となって叶えられていくのだ。全てを手に入れて大きくなっていくのだ。失った本物の手と足の代わりに偽物の「手」と「足」を自分の中から仕入れて俺は踊りまくるのだ。

こうして、舞城王太郎は、もうずっと、フィクションについて語っている。彼は自分の言っていることを、批評家が、読者が、なぜ分からないのか分からないのかもしれない。だから形を何度も変えながら同じことを繰り返して言っている。ただ僕には、彼がそれを繰り返すことによって、ドライブ感溢れる彼の作品自体が物語として躍動感を損うように思えてならない。彼の作家としての活動が、処女作「煙か土か食い物」で描かれたエンタテインメントへの無理解や誤解に対して反駁を繰り返す課程そのものになってしまうとしたら、たとえ彼自身がそれを受け入れるとしても、悲しいことだと思う。逆に言えば、このようなフィクションについて言及したフィクションも、舞城王太郎はエンタテインメントの1つとしてやってしまうのではないだろうか。それは興味のある人にとってはエンタテインメントとして成り立ってしまうのだから。そして彼は求められたことに応じるのがうますぎるのだ。説明を求められると説明してしまう。僕は、彼をそういう作家であるように感じたわけである。

2007.10.15 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

«  | INDEX |  »


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。