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スマーフ男組「スマーフ男組の個性と発展」

10月ぐらいからずっと年末進行のような多忙さである。個人的にはもうすっかり2007年は「ゆく年」扱いであって送り出す気まんまんだが、暦の上ではまだ12月にもなっていないという。勘弁してほしい。しかし自分としてはすっかり2007年は終わり気分であるから、今年を総括したようなことも考えたりする。今年はいろいろなジャンルで目新しい動きがあって、いい年だったと思う。数年前の年末年始に味わった、あの空転しているような停滞感はないようだ。

個人的にそれを一番感じたのは、やはり音楽においてだった。音楽というジャンルは10年前には他の全ての文化を牽引する新しさがあったが、ゼロ年代に入るころから細分化を重ねて全体に波及するようなダイナミズムを減少させ、先鋭的な音楽のあり方が社会全体を暗示するようなことはなくなったように思う。たしかに、今年もやはりそうではあったのだが、しかし今年はこの数年のミニマルな動きがようやく他ジャンルの動きと符合して新しい時代を印象づけられるようになったのではないか。先日以来あちこちに書いているPerfumeの話だってもちろんそうなのだが、しかしやはり今年RAW LIFEが行われず、代わりにCHERRYBOY FUNCTIONが素晴らしいアルバムをリリースし人々が絶賛をもってそれを受け入れたということのほうがより新しい時代の到来を端的に示しているとも思うのだ。またもちろんDE DE MOUSE「EAST END GIRL」や、またカクバリズムの諸作はその存在自体で新しい時代を示してくれたと思うし、何を差し措いても七尾旅人がようやく今年において「911」と名に冠したアルバムを世に問うことができたということこそが象徴的なトピックだったとも思う。以前□□□を聴いたときにあれは希有なものだったんだけど、今作ではそう言わなくてよくなった感じがするのもそれゆえだろうか?それには、アーティスト自身よりも状況の変化が大きくかかわっている気がするのだ。

ともあれ、今年は相手を問わず誰かに「面白いから聴いてみて」と勧めたくなるものが多かった。今年の「新しいもの」は、単に「去年なかったもの」ではなくて、その新しさを人に体験してもらいたくなるものだった。そのことこそが、音楽が新しい時代を迎えているということなのだと思う。また、誰もに聴いてもらいたくなるようなものとは、この時代の音楽のあり方そのもののようにも感じられる。

ややこしい話になった。本当に僕がしたいのはスマーフ男組の話である。何だかんだと言ってはいるが、僕が今年最も衝撃を受けたのは「スマーフ男組の個性と発展」だと思う。何せ、このアルバムは別に今年っぽくないのだ。今年っぽくないはずである。今っぽいからいいんだよと言えれば話は簡単なのだが。いや、分からない。すごく新しいのかもしれない。僕はこのアルバムに好意しか持ち得ない。好きに決まっている。なぜかというとこのアルバムが超ヒップホップだからだ。いや、しかしその言い方には語弊がある。なぜならこれはいわゆるヒップホップのアルバムとは言えないからだ。では少し言い方を変えてこれを「ヒップホップ的だ」と言うことも可能なのだが、それも本質とは異なっている。なぜならこれは別に「ヒップホップ的」なのではなく、僕がもともと感じたのはヒップホップそのものと言う方がまだ近いからだ。その他、オールドスクールエレクトロに忠実なファンクネスがあるとか黒いとかラリってるとかイルだとかフレッシュだとか、これはどんな言葉でも表すことができると思う。でも僕の感じた好印象に対しては遠すぎる。かくして僕の文章能力の拙さだけが突きつけられる格好となるわけだが、しかしそれは対応する言葉を知るかどうかということ以上に意味深かった。世界の限界を僕の言語と定めてこれを書いてきた僕にとって、言葉にできないものというのは驚きであり、感動だったのだ。たとえ言葉がついには世界を写す鏡ではないとしても。だからあとはただ、頭を垂れてこの音楽に身を委ねるしかないだろう。陵辱されるかのように。最初に聴かせてもらったときから、ずっとこれを説明したかったが、12月になっても僕の言葉は追いつけなかった。すごいことだ。僕にとっては、そういう音楽であった。だからこれが今年一番心に残った。ああ、こんなことしか書けない。そうじゃないと言っているのに。
とても、すきだ。

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2007.11.29 | | コメント(2) | トラックバック(1) | [音楽] [文章

恋空

こないだの座談会で吉田大助さんに会ったときに、新垣結衣について熱く語ってらしたのがずいぶん気にかかっている。僕はもう最近はすっかり「恋空」をいかにして読むかということを考えているのだ。そう思ってるくせに、たった今までどんな話かもよく知らなかった。だからこの姿勢は全く誉められないことだと思う。しかしケータイ小説は、今一番ひどい扱いをしてもいいと思われているフィクションの1つだ。たくさんの人が熱っぽく支持していて、しかし明らかに軽んじていいとされている。それは僕にとってギャルゲーやライトノベルが通過した状況と同じに見えるのだけれど、そういうふうに考えて、それらの作品を読み正して(まさに読み正すのだ)みようじゃないかという人はあまり見かけない。結局だれも、自分の好きな物だけが好きなのだから当然だ。僕はしかし、昔から何が好きというよりも、狭い場所でひどく支持を集めていて、他からは顧みられないものが好きだったと思う。そこで何が起きているのかを見聞せずにいられない。そこで何かがなぜ面白がられているのか知って、そのことをこそ面白がりたい。昔はインターネットもその1つだった。

というわけで今ウェブで「恋空」の最初の方を読んでみたんだけど、これが意外に面白い。意外にと言うと他ならぬ自分がケータイ小説を軽んじているように思われるかもしれないが、しかし本当に思っていなかった部分に面白さを感じたのだ。話がどうとかじゃなくて、単に文体がキレてていい。キレてるというのは、中高生の文章としてのリアルさがある。いわばそのままなんだから当然だと言われたら困るんだけど、模倣ですらないというのはすごいことなのだ。女子高生の間で流行っているフォークロアを本人たちから聞いているように読める。前々から思っていたのだが、いい年をした職業作家が整った文体で、例えば「現代社会における女子高生の性と現実」だのを描いたとき、それを読むのが女子高生自身であることは、そしてそれに彼女たちが共感することは、とっくの昔に少なくなってしまっている。それはナイフを持った少年だろうが何でもそうで、結局のところ作家や読者は若者たちに託して自分たちの問題を読みたがっているだけである。

中高生はこういう物語をリアルだと感じて、中高生ではない人々はそこに奇妙を感じている。それは当然のことだと思う。「恋空」が持っているリアルさとは、設定や筋や人物像が現実と照らし合わせて確からしいかということとは関係ないからだ。このリアルさは、とりわけこの物語が熱心に流通させられる場所において宿るものなのではないだろうか。そこでは一般社会から明確に切り離された別の価値観やルールが動いている。「フォークロアを本人たちから聞いている」ような読み方をした僕はそのリアルさの片鱗を味わえたように感じて、だから楽しかった。

2007.11.24 | | コメント(9) | トラックバック(1) | [文章] [映像] [ゲーム

モーニング 2007 NO.50

先日、ある雑誌の編集者の方に「2008年に新たに注目されるコミック作家は誰だと思いますか?」と問われて、僕が挙げたのは水上悟志と福満しげゆきだった。水上悟志については、「惑星のさみだれ」がどんなに少なく見積もってもアニメ化ぐらいはされるに決まっていると信じているのだが、福満しげゆきについては、ちょうどその質問をされたときに出ていたモーニングの「僕の小規模な生活」

この漫画は、あと3回で終わります。「続けろ」とおっしゃっていただければ続ける覚悟はできております。


と書かれていて、それが大変気になっていたからだった。だからほとんど、注目されてほしい、そうあってほしいという気持ちから彼の名前を挙げたのかもしれない。でも結局そのことはしばらく忘れていて、それで今週モーニングを立ち読みしたら、このマンガは最終回だった。終わることが告知されてから、欄外には読者から寄せられたコメントがたくさん載っているんだけど、それを読んでいたら感動して涙が止まらなくなった。だから雑誌を買って泣きながら自転車で帰って、家で読んでまたずっと泣いていた。

続けてほしい。お金がなくてかわいそうです。がんばっているのでもっとかわいそう。

終わらないでください。これが言いたくて、アンケートに初めて応募しました。続けてください。

やめないでください。もし連載が大変なら、私が手伝います。


それでこの連載はもうすぐに単行本が出て、描きためて2月から再開するという告知につながるんだけど、それが本当によかったなあと思って、僕はめそめそしていたのだ。

僕は考える。アンケートに「続けてほしい。お金がなくてかわいそうです」と書くことが、真摯な思いにそうしたのだとしても、いかばかりか軽薄な気持ちだったと言われたら、書いた人はそれを否定できないと思う。だけどいま、それでいいのだと思う。むしろその素朴さは好ましい。彼に向けられた「お金がなくてかわいそうです。がんばっているのでもっとかわいそう」という切なさを、僕は美しいと思う。大学で誰とも接することなく、地下の暗がりで本を読んで過ごしていた彼が、たまたま見かけたような人にその存在を認められる姿は感動的なことだ。

それでも僕は、この作家はやっぱりどうしようもないだめな人だし、実際に彼を知る人からは困った奴だと思われるだろうし、打算的なところすらある人だと思うのだ。それに、読者からの支持があって単行本が売れても、その意味をあまり深く考えずに「ああよかった」とだけ思ってしまうと人だとすら思う。だけど彼はそれをひっくるめても、見かけたら「がんばっているのでかわいそう」と思われるほどに人生を生きていて、そこには間違いがない。最終話のラストには「僕の小規模な失敗」のラストにあった曖昧さはなくて、それはこの上なく物語的な終わりだ。読者からのコメントや、単行本発売の告知も含めて、そこにはモーニング側の編集手腕が遺憾なく発揮されているはずだと、僕はむしろ思いたい。その結末が付けられたことで、この作品はとても感動的に締められた。単行本がたくさん売れちゃえばいいのに、と僕は思う。

2007.11.19 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2007年 12月号

ちょっと忙しすぎて困っている。仕事以外の事に使う頭がほとんど用意できない。仕方がないので短い時間で何かを書いていきたい。

今売っているSTUDIO VOICEは2007年の総まとめ的な号なのですが、その中の吉田大助さん、三田格さん、宇城輝人さんが出席された座談会企画で、僭越ですが僕も末席を汚して2007年のことを少しだけ話させていただきました。僕に限って言えばあまり優れたことを述べていないのが申し訳ないですが、このブログの内容とかかわることを話させていただいていますので、よかったら、書店で見つけた折などにご一読いただけたらと思います。

この座談会は結局、4時間くらい話したのだが、なかなか全員が現在について共通して思っているところが言葉として出てこないような気がした。たぶん、お互いに近いことを述べているはずなのに、共通する言葉がどうも見いだしにくい。もちろん僕の能力不足が一番の原因なわけだが、今は本当にそういう時代になったなのだろうかとも思った。僕はこの座談会で「批評が足りない」というような話をしている。批評は成り立たないのではなく、単に足りないのだ。もっと言えば、作品を評するということ自体がいま蔑ろにされている。我々は作品について考える姿勢を正さねばならない。このトピックは今年一年間、自分の中で考えとしてずいぶんまとめられたことで、そして僕の悪いところは自分の考えがだいたい見通せてしまうとそれ自体に飽き始めることだ。だからこの座談会はずいぶん雑な語り口になっているような気がする。まずい形であっても話さないよりはマシでありたい。どんな形でも、語ることで考えを前に進めたり、改めたりすることができるかもしれないからだ。

吉田大助さんなどは僕の考えに近いところも多く述べてくださって、特に考えをすり合わせたりしたわけではない誰かが同じ意見を持っているということは自分にとって自信につながることだった。それはともかくたった今思いついたことだが、自分の中でまとまりつつある考えをそこで止めずに更に進めていくために、去年の今頃僕がそうしたように、作品についてまとまらない文章を矢継ぎ早に書いていくのは最適かもしれない。だから、いま忙しさの中にあって、このブログはもっといろいろなものについてもっと乱雑に書こう。そうしよう。

2007.11.17 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

ねぎ姉さん

僕にとって「ねぎ姉さん」がなぜ面白いかということを、数日にわたって考えた。思えば四コマというのは、それが本来は「ギャグ」マンガとして笑いを提供するために選ばれるフォーマットなのだということを強く意識せずにはいられない。これは笑いを提供するために最適化された形式だということを、多くの人が否定し得ない。吉田戦車であろうとしりあがり寿であろうと榎本俊二であろうと、あるいは業田良家であろうと小池田マヤであろうと、もちろん美水かがみであろうとあずまきよひこであろうと、たしかにいわゆる四コマギャグマンガものから派生して今や遠く離れたものとしてそれぞれの作品を作っているが、しかし、それでも彼らの作品は四つのコマで一つの笑いを提供するというごく原初的なマンガの形式を明確に意識し、利用した上で作品を成り立たせている。作家たちは、この形式が安易に笑いを提供するものだということを読者も前提として知っていることを使って、必ずしも笑いに還元されない物語を読ませようとする。

ねぎ姉さんのやり方はちょっと違っていて、そもそも物語が必要とされていない。しかし僕のあまり好きじゃない、何か高尚な意図でもって不条理劇を垂れ流そうとするような退屈なマンガとは違って、作者はやっぱりそれを笑いに昇華させることがある。作者は必ずしも笑いを提供したいわけではないが、たまたま笑いが選ばれることもある、という感じで、そこが面白い。つまりこのマンガは即興的に描かれているわけだが、これだけの数があると、そこには馬鹿馬鹿しい駄洒落そのものや手癖から生まれた雑なものが残されている。もともと即興的であるということはすべての表現が偶然に生み出されるものだということを全く意味しないから、それでいいのだ。僕はその雑多さゆえに、作者の頭の中を覗き見たような不思議な面白さを感じることができるのである。たしかこの作品が執筆された最初期に「こういうのは1000個ぐらい描かないと意味がない」みたいなことを言った人がいて、それで作者は彼の妄想を手当たり次第に並べていくに至ったように記憶しているが、今となってはそれはとてもよい助言だったように思う。

その面白さはギャグマンガとして笑いを生む手腕の巧拙とは無縁にあるものだ。たとえば「ねぎ姉さん」というタイトルがそうとは読めないように書かれたり、全くデタラメな筆跡にされたりする、マンガ自体のパロディとして考えられるような笑いは僕にとって腹を抱えて笑えるようなものだが、だがこの笑いだけを待ち続けていてもねぎ姉さんの面白さには到達できないだろう。

2007.11.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

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