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インシテミル

「インシテミル」というタイトルについては深く考えずに買った。あまりタイトルの意味などを推測しながら1ページ目を繰るタイプではない。最初のページに「暗鬼館」という名前と館内の見取り図があるのを見て「館モノかあ」と思うくらいのミステリ知識がある。つまりその程度の読者である。ミステリ読者としてはその程度であるから、米澤穂信についてもあまり何かを言えない。ただ、いい作家だと思うので何冊か買い求めて読んでいる。ミステリ、ライトノベル、そしてそれ以外の小説、その間に立って自分は何をしようかと考えているような作家という印象があった。いずれの方面にも笑顔を絶やさないようにしているのは保守的などっちつかずさなのか、それとも安定しない中間地点でしかできないことがあると積極的にそこを選んでいるのか。どうも判然としない部分があって、そこが面白い人だと感じている。だがともかく彼の作品で「さよなら妖精」を最初に読めたのは僕にとってよかった。ミステリという、ただ娯楽のためを目指して量産すらされるようなジャンルに縁を持ち積極的に関与する自分が、作品をもって今という現実をどのように穿つべきなのか、そういうことを考えている人だと思う。僕の好きなタイプの作家だと思った。読んで損をしたと思ったことは今までにない。

さて「インシテミル」というタイトルは「ミステリに淫してみる」という意味だと米澤穂信は語ったそうだ。しかしそれで、平素「単なるミステリ」を書かない彼があえて「単なるミステリ」そのものを書いたということだと思ってはいけない。もしそれだけの作品であるならば、この本の帯に「見つかった。何が? 私たちのミステリー、私たちの時代が。」などと書かれる理由がない。そして西島大介のような作家が装画を担当する必要などない。それなら「暗鬼館」という館モノにふさわしいイラストでもちゃっちゃと貼り付けておけばいいのだ。だが、この本はそうしていない。なぜそうなっていないのか。そして私たちの時代とは何なのか。この本は本格ミステリとしての犯人捜しはともかく、そのような謎を孕んだ状態で上梓されている。その問いを受け、回答する権利を与えられているのはただ読者だけである。米澤穂信自身が「過去八冊は、多かれ少なかれビルドゥングスロマンとミステリの割合を比で表すことができましたが、今回はミステリだけです」と語っていることすら、注意深く脇に置かねばならない。「ミステリだけ」で作られているとして、それでもこれは「ただのミステリ」ではないはずなのだ。もしも作者の言葉や帯の煽り文句、装画を担当している作家名だけを見てすべて理解したように思うのであれば、惹句を見て「これは惹句である」とだけ思うのであれば、究極的には米澤穂信という名前だけを見れば本を開く必要すらないはずだ。もちろん、そんなわけはない。ならば応えよう。

暗鬼館の形が何かに似ているなあなどと思いながら読み始める。全般について僕はその程度の洞察力である。それでも第2日目くらいまで読んで気付く。これはパノプティコンの話だ。正確に言えば、暗鬼館はパノプティコンの対極というか、似て非なるように作られた建物だということができる。巻頭に戻り、館の見取り図を見直す。花びら模様のごとく先を見通せぬよう湾曲させられた廊下や、館の中央にあるラウンジからはいずれの客室も見渡せないようになっているということを確認して確信する。そして「THE INCITE MILL」というサブタイトルに初めて思い至る。

「THE INCITE MILL」というのは言葉としてちょっとおかしいと思う。だからこれはやっぱり「淫してみる」からの語呂合わせなのであって、このメインタイトルの意味が「ミステリに淫してみる」であることに変わりはない。しかし、INCITE MILLという言葉に込められた意味がないわけではないのである。それはまさに、パノプティコンの機能と正反対のことを示そうとする呼称である。

パノプティコンとは何か。乗りかかった船なので分不相応にも書かねばならない。それはベンサムが設計した監獄である。それについてWikipediaの説明はベンサムの業績についてずいぶん行数を割いているが、しかしフーコーが「監獄の誕生」でパノプティコンについて語ったことについてはなぜかあまり書かれていない。だから説明文として今ひとつ使えないと個人的には思う。しかしが付いてあるのでパノプティコンがどのような形をしているのか見ることはできる。

注目すべきなのは上からの図である。「邦訳すれば全展望監視システムのこと」とWikipediaが言うように、パノプティコンには円形のフロアの周囲に独房がすべて中央を向く形で作られ、そして中央に監視台が設けられている。この監獄において看守は監視台に上がるとすべての独房の様子を伺うことができ、そして逆にそれぞれの独房からは監視台に看守がいるかどうかすら見ることができない。そのような作りになっている。フーコーの言葉によれば「中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしない」というわけである。囚人たちは、看守がいつ見ているか分からないので、たとえ見られていないときでも「見られているものと思って」模範的な囚人として行動するようになる。こうして監獄内には規律がもたらされる。看守という「権力」は中世以前の「神」と同じように、存在の如何にかかわらず個人の行動に影響を及ぼすようになる。フーコーはこのパノプティコンの特徴が

権力を自動的なものにし、権力を没個性化する

というものだとした。近代において神を失なった「個人」たちを内面から支配する権力が台頭したという、近代の権力構造の象徴としてパノプティコンを説明したのだ。この権力モデルは実際にはもっと詳細に説明されるがここではさておく。いずれにせよ近代以降、つまりは現代においても、我々の社会は抑圧によって支配する権力によって維持されているとするもので、それには一定の評価がなされている。

さてようやく暗鬼館についてである。暗鬼館は円形で、各人の部屋が中央に向けて配置されている点でパノプティコンと相似である。また中央の塔こそないものの、人々は館内のあらゆる場所、トイレの中であってすら自分たちの行動を監視されており、また「ルールブック」に定められたルールに従って行動することが義務づけられている。従わないと最悪の場合は殺害(処刑)される。人々はルールブックの熟読によってその権力から教化されずにはいられない。

ところが、暗鬼館はまたパノプティコンとは全く異なる側面を持っている。まず招かれた客は独房のように個室に住まわされるが、しかし少なくとも昼の間なら部屋を出て自由に館内を歩き回ることができる。それどころか、各部屋にはそもそも鍵をかけることができない。各人はそれぞれの部屋の扉を開けて、勝手に侵入することができるのだ。これではパノプティコンと全く正反対である。また暗鬼館のルールは絶対的なものではなく、パノプティコンのように個人を絶対的に縛る内面化された権力などでは必ずしもない。むしろ人々はルールを読み解き、脱法的にこれを出し抜くことが期待されている。

ここにおいて人々は相互に理解し合い、連帯することなどできない、というのが暗鬼館の示そうとする社会である。パノプティコンのさらに先には、そういう社会はもはやなかった。規範は絶対的には存在しなく、個々の判断によってどのように捉えても構わない。そしてそれぞれの構成員同士は自由な接触を許され他者に接近する機会が過剰に与えられているにもかかわらず、むしろそれゆえに互いに考えを共有できず、相互不信だけが暴走していくだろう。それが暗鬼館が「実験」によって証明しようとした仮説だ。登場人物たちは主催者が単に殺し合いをさせたがっている、スナッフ趣味であると理解していた。確かにこれは殺人ゲームを傍観しようとする悪趣味なものだ。しかしあくまでもこれは「実験」であって、作中では決して、例えば「ゲーム」などとは呼ばれない。「暗鬼」が「疑心暗鬼」から来た言葉であることは疑うまでもないが、それは例えば「バトルロワイヤル」で描かれた「戦闘実験プログラム」のように、実験と名に冠されながら参加者の疑心暗鬼の拡大こそを目的としたものとも異なる。「インシテミル」の「実験」は、ある意図によって作られた施設内で被験者が期待通りの行動を取るかという、社会心理学的な興味によってなされるものである。物語の序盤に、有名な電気椅子によるアイヒマンテストの挿話があるのは偶然ではない。暗鬼館がやろうとしている「実験」とはまさにそのようなものだ。暗鬼館は、見えざる権力が抑圧によって社会に規律をもたらすというパノプティコンの近代モデルを更新する意図で設計され、その機能を「実験」されている。そしてもちろん、「インシテミル」という小説が示そうとする「現代」とは、暗鬼館のモデルによって説明されるものなのである。

「かくして」なのか「また」なのか、「インシテミル」は「作者がミステリに淫してみる」小説ではない。作者は単に本格ミステリを書いているわけではない。それは単にこの小説が上述のような社会分析的な視点から眺められるからというだけではない。ミステリに淫したのは私自身なのですと、作者はどこにも描いていない。結末で主人公は館の「主人」がミステリに淫していると指摘するが、物語のタイトルがコールされるこの重要なシーンにおいて、読者は「主人」とは暗鬼館すなわちこの物語を設計した人物であろうから、つまり作者のことなのだと考えてしまっては早計である。ではミステリに淫している「主人」とは誰なのか。それを知るには作中でカードキーに書かれた「十戒」に次の項目があるのを見るといい。

主人に対し手がかりを隠蔽してはならない

この十戒とは、ミステリでは有名な「ノックスの十戒」のパロディである。これはルールブックとは違ってどうやら物語世界で強制力を持たない。では誰にとって意味があるかというと、もちろんこれは明らかに読者に対するアピールである。オマージュなのだから当然であるが、しかし自分に投げかけられている言葉だと気付くのならば、ではノックスと正しく対応させてた上で自分が何を言われているのか丹念に読み始めてもいいだろう。ただ犯人捜しをしようと思ってこの作品を読むのであれば、十戒はルールには関係なく、せいぜい過去のミステリに対するオマージュとして黙殺できるのかもしれない。あるいはメタミステリとという、あくまでもミステリの1ジャンルとして分類できるかもしれない。ジャンル小説というものを、ジャンル批評によってしか扱わない場所では必ずそうするだろう。しかしここではそのようなミステリの話法こそ放り出して構わない。米澤穂信はいつも中間地点に立っていたのだから。そうすれば十戒が何を示唆しているかはすぐに分かる。上記の十戒は、ノックスの方ではこう書かれているのだ。

読者の知らない手がかりによって解決してはいけない

つまり「主人」とは読者のことである。これは別の項目を見ても明らかだ。「ワトスン役の知能は主人のそれよりも僅かに劣ることが望ましい」とあるのは、ノックスの十戒では「ワトソン役は一般読者よりごく僅か智力のにぶい人物がよろしい」となっている。つまり結末部で行われる「主人」に対する批判とは、読者批判にほかならない。それを理解した上で、主人公による「主人」への批判を改めて読んでみよう。

要するに殺人をやらせたいのになんだかんだと理由をつけた<主人>が気に食わないし、ファンタジーだからこそ楽しいミステリをこれみよがしに誇示するように実地に持ち込んで泥まみれにした<暗鬼館>が心底気に食わない。やりたいんなら、死人が生き返る世界ぐらい用意してからやれってもんです。

おれは確かに、別にどうってことない、一山いくらのただの大学生です。だけど、だからって駒にされるいわれはない。償いをさせるなら、おれたちを駒に、高みの見物でミステリに淫してみた<主人>にさせるべきです。

もちろん、ここで物語はメタミステリを大々的に展開している。「作者とは誰なのか」ということがこの物語すべてのオチですらある。しかし、もはやメタミステリというものをミステリの1ジャンルとしてしか認識できない読者には、何のためにそれが行われているか気付くことがない。彼らには、残念ながら上記の言葉は何ら響かないであろう。そのような読者は、この物語が作った「ルール」が本格ミステリとして(つまりパズルとして)読むにあたり不備があるなどと呑気に言うことだってできる。ルールが曖昧で、多様な解釈が成り立ってしまうということは、ゲームにとっては瑕疵にすぎない。そう、これを「ゲーム」だと思っているのは結局のところこれをただジャンル小説として読もうとする読者だけである。正確に言えば、彼らはゲームということをそのように理解している。彼らは「ミステリに淫してみる」と言われれば、手軽に過ぎるジャンル批評によって語られることが無条件に許可されていると思ってしまえる。また登場人物がどんなに嘆こうと、所詮は「一山いくらの」登場人物なのだ。オビに書かれた言葉だって「全米が泣いた」と代替可能だ。「私たちの時代」なんて惹句が躍ろうと、もちろん僕が書いたパノプティコンがどんな形をしていようと全く関係ないだろう。とどのつまり彼らは「要するに殺人をやらせたい」だけである。

米澤穂信は彼らに笑いかけながら、いつもの彼と同じように多層的なメタ構造によって読者の常識を揺るがせようとし続ける。いつものように主人公は推理し、慢心し、挫折する。それを十八番としか思わない読者に対しても、彼はやっぱりそうしてみせる。彼がそこにコミットしながら挑発的な姿勢を取り続けるのがなぜなのか僕には分からないときがある。ひょっとしたらほどよく攻撃的で、ほどよく許容されやすい姿勢をとり続けるのがラクなのか? みたいにいぶかしんでしまうことすらある。しかしそんなわけはない。これは普通に考えれば、あまりにも困難な道なんだから。十分すぎるほどに包み隠した上で、米澤穂信は我々を挑発しようとしている。

最後に、全く関係ないような話を書こう(こういうふうに言う場合、関係がなかったためしはない)。

Perfumeが4月16日に発売するニューアルバムは「GAME」というタイトルだ。

さて、GAMEとはどういう意味か?ゲームが始まっている。

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2008.03.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽

ウルトラマンマックス第24話「狙われない街」

起きたらすごく頭が痛い。重くて痛い。肩も痛い。天候のせいかなと思っていたが、2時間くらいぼーっとしているうちに風邪が悪化しているのだと気付く。数日前から喉が痛かったのだ。まずい。変な時期にひいたものだ。頭がくらくらしてきた。薬を飲んだせいかもしれないけど、熱かな。ちょっと寝たほうがいいのかも。

突然見たくなったのでウルトラマンマックス第24話「狙われない街」を見る。この話はウルトラセブン第8話「狙われた街」へのオマージュであり、正統な続編であるということであまりにも有名だ。なにせ実相寺昭雄が監督をしているのだ。セブンによって倒されたはずのメトロン星人が実は地球に潜伏していた、という話。はっきり言えば、こんなものは最低でも30歳以上の大人が、自分のかつて好きだった一連の「ウルトラマン」シリーズへ郷愁を抱くためだけに用意されたエピソードだ。それ以外の視聴者にとっては本来そんな経緯などどうでもいい。「子供と親が一緒に楽しめる」ことを意図したのか、それとも今なおウルトラシリーズを愛する大人だけが楽しめればいいと思ったのか分からないが、いずれにせよこれは大人の視聴者に対するあけすけな目配せである。そうしてこの脚本は大人の郷愁にあぐらをかきながら、「昔は良かった」式のあまりに凡庸な社会批判を繰り広げる。それは中年層の視聴者の感動を手堅く誘おうというもので、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」と同種の奸計だ。「狙われない街」がいくぶん異なるかもしれないのは70年代直前に作られた「狙われた街」自体がいかにも懐かしい皮肉さの漂う語り口を持った社会批判だったために、単に過去を賛美するのではなく「現代はあの頃よりさらに悪化した状況にある」としている点だ。しかしいずれにせよ「狙われない街」は視聴者の大人たちの郷愁を巧みに利用して「昔の方がまだマシだった」と思わせているだけのものである。社会批判に限らず、受け手の郷愁を人質に語られる作品ではしばしば現在は最悪であり、過去はいつも美しい。

だが僕は、それも含めて「狙われない街」は面白いのだと思う。実相寺昭雄の監督した「ウルトラマンマックス」にはほかに「胡蝶の夢」があり、こちらは「ウルトラマンマックス」という虚構の世界を作るスタッフについて語るメタフィクショナルな内容を幻惑的な演出で見せるものだ。文明批判のメッセージがあまりにも色濃く、また単に郷愁を誘うかのような「狙われない街」は評価しないが実相寺昭雄の真骨頂のような「胡蝶の夢」は評価するという人や、また「胡蝶の夢」はやり過ぎだが「狙われない街」のノスタルジックさは好ましいとする人がいるが、どちらも少し残念な評価だと思う。作品に込められた自己言及的な批評性の高さで見ても「狙われない街」は相当に優れているからだ。実相寺昭雄は「狙われない街」において、郷愁や手垢の付いたような文明批判を排除せず、むしろ彼の映像の持ち味である「エキセントリック」で「アバンギャルド」なものに収めていく作品作りを意図した。歪んだ構図やデカダンな雰囲気に満ちたライティングなどの演出は今ではカギ括弧付きで表現可能な程度の「前衛的な」手法だ。しかしそれを活き活きと貫いたことによって、懐かしいモチーフと古めかしい文明批判がそれが存在した時代に似つかわしい手法によって語られることとなり、結果としてこの作品は一つのトータリティを持ったフィルムとして美しく結実している。かつての「狙われた街」では最後に次のようなナレーションが入る。

メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです。
人間同士の信頼感を利用するとは、恐るべき宇宙人です。
でもご安心ください。このお話は遠い遠い未来の物語なのです。
え? なぜですって?
我々人類は今、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから。

前述したように、このような皮肉さ自体が現在の我々にとっては懐かしいものであり、たとえ子供向け特撮アニメの中に紛れ込んでいたとしてもわざわざ新しさを感じるほどのものではない。しかしこの皮肉がある種の娯楽として享受できるものであるということは今でも変わらないし、むしろ今なら新旧を抜きにしてただ単に楽しめるはずなのだ。実相寺昭雄はそれを理解して、「狙われない街」においてこの前時代的な文明批判の語り口の肝を抜かず、そうあるべきものとして誠実に演出した。そうして作られたのが、以下の「狙われない街」のラストシーンである。

太陽が暑く照りつける屋上でカイト隊員は言う。頭上には一杯の青空。「あの人の言うとおりだ。奴は、この星に見切りを付けて故郷の星へ帰って行ったんだ……」
ミズキ隊員は振り向いて「でも……」と口ごもる。我々は一体、何と反論できるのだろうか。
唐突にピアノの不協和音。フィルムがブツッと千切れ、不意に物語は終わる。

こういう、わざとらしいほどいかにも外連味溢れる演出の懐かしいカッコよさというのは変わらない。僕は世代も違うし、セブンに郷愁など抱かない。だから郷愁を煽るだけの物語であれば見る価値はなかった。だがこのカッコよさが保証されているから、この作品は誰にだって楽しめるものだと思う。

2008.03.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [映像] [アニメ

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day

FC2は1カ月更新しないと広告が出るようになったのか。何考えてるんだ。僕はこういうのすげー嫌いだ。超嫌いだ。今すぐここからいなくなりたい。すげームカついた!!やろうやろうと思っていることをやらないことによって何らかのペナルティを受ける、みたいなのが苦手です。ゴロゴロしながら「今やろうと思ってるのに」と言っているのでてんでダメ人間なわけだが、なんかさーメールで通知が来るとかさーそのくらいのソフトさが欲しいわけ!!!

で、僕は何をしていたかというとニンテンドーDS用の推理ゲームをいろいろやっていた。「DS西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ 京都・熱海・絶海の孤島 殺意の罠」が意外に面白くて、例えばこのラテ欄的な長いタイトルであるとか、「提供 TECMO」の文字とか、場面転換時にCM前アイキャッチみたなものが入るなどの小ネタ、そしてユルい「逆転裁判」という程度に簡単でありながら文章は意外なほどしっかりとしたシナリオ、またユルい「レイトン教授」という程度に簡単な推理パズルなど小粒な面白さが満載で「おお、これは面白い面白い」と言いながら、このゲームのいかなる面白さを私が見つけまして楽しみましたみたいな話を書こうとか思っていたのだ。

しかし、そんな折に乙一の「The Book」を買って読んだら、もうそんなささやかな面白さのことなんて消し飛んでしまった。「面白いっていうのはこのくらい面白くないとだめだよね」と言われているようだ。DS西村も面白いんだけど、バカみたいに持ち上げて面白い面白いと言おうと思っていた僕が恥ずかしくなるほど「The Book」は面白かったのだ。1ページ目を開いてから、一度も本を閉じずに一晩で読み通してしまった。乙一らしい叙述トリックとか、ジョジョらしい人間賛歌とか、美麗というだけではすまない見事な装丁(表紙の革のあの感じを見たまえ)とか、いろいろと内容について触れることは可能だけれど、この本にはそれすら必要ないと思う。ただ面白いなんて、すごい。たった一つ言うことがあるとすれば、ここまでの面白さを自作に要求した乙一は執筆に5年を費やさざるを得なかったということだ。そのプライドは素晴らしいものだと思うし、実際に完成したものはまさに珠玉の名作といったものだが、甚大な時間やお金を費やして完成した大作こそが素晴らしくなりうると僕は思いたくないので、それだけは一言差し挟む余地があると思う。「DS西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ 京都・熱海・絶海の孤島 殺意の罠」 だって面白いよ。どうぞよろしく。

ううん、でも、やっぱり「The Book」の方が面白いや。悔しいほどに。

2008.03.09 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [ゲーム

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