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hon-nin列伝 セキララなオンナたち

吉田豪については今さら僕が説明するまでもないがとても面白い仕事をしているライターで、中でもインタビュアーとしては非常に素晴らしい仕事をいくつもこなしている。僕も最近なぜかよくインタビューをするんだけど、吉田豪みたいにやるのがベストだよなあと思いながら、できないでいる。悔しい。吉田豪のインタビューが面白いのは、やはりタレント本を買い漁り、またメディアなどでの発言を偏執的な情熱でチェックして、インタビューイが完全に忘れていたような濃厚でダークなエピソードを切り出すところだ。東郷健や楳図かずお、角川春樹などにインタビューしまくった「人間コク宝」は読んでいないが、往年のアイドルに現役時代の暴露話を聞いた「元アイドル!」が大好きだった僕としては、「hon-nin列伝 セキララなオンナたち」はすごく面白い。

この本は荻野目慶子や土屋アンナ、麻生久美子などに話を聞いているが、僕の周囲ではなぜか麻生久美子が幼少のころ貧乏でザリガニ釣りをして夕飯に食べていたという話がインパクトがあったらしく、「hon-nin」掲載時に複数の人から「麻生久美子ってザリガニ食ってたらしいね」という話を聞いた。でもたしかに、麻生久美子の回は面白いと思う。河合義隆や深作欣二との関係をストレートに語る荻野目慶子の回が面白いのは当然だが、麻生久美子の方はかなり意外な話がポンポン出ているところが、いい。

彼は基本的にあらゆる芸能人を人間として扱っていないと思う。人間じゃないもの、超人として扱っている。または、プロレスラーとして扱っている(プロレスラーが人間ではないなんてことは今さら言うまでもないことだ)。ものすごくへりくだるというだけでなく、超人なのだから常人には察しがたい部分がたくさんあるわけで、そこをちゃんとタレント本などから見つけてきて、ご本人の意見を拝聴するわけである。そういう姿勢が面白い。付け加えるならば、彼自身がその自分のスタイルに対してどこか微妙な矜持を見え隠れさせてしまうところも、またプロレス的なものを感じさせて、僕は嫌いではない。

僕が吉田豪を評価しているのにはもう一点あって、それは、彼が、とても、本当にサブカルライターらしいところだ。彼の書くものはかつてのサブカルライターやサブカル雑誌の楽しかった部分を僕に感じさせてくれる。それはどうかするといまサブカル雑誌と呼べるものにすら備わっていないものだが、吉田豪の場合は文章の端々とか物腰からじゃなくて、彼の仕事の全体から何となくそれが漂ってくる。そこがまたサブカル的で、たぶん僕はそれで彼を好ましく思うのだ。

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2008.04.30 | | コメント(1) | トラックバック(0) | [文章

Perfume「GAME」

Perfume「GAME」は素晴らしいアルバムだと思う。これをCDトレイに載せるときに、僕の手は震えた。心臓が早鐘のように鳴った。ずっとずっと前から、彼女たちがどうやったら、彼女たちの望む場所に行くことができるのだろうかと僕は考えていた。それについてはもう何度もここに書いたし、ほかのところでも書いた。「安全なアキバ系」として一定のキャラクター性を与えられれば彼女たちは勝ちなのだという考え方は間違っているとも書いた。だからといって、彼女たちを単にいわゆるアイドルとしても、いわゆるアーティストとしても見ることは間違いだとも思った。だからこそ、Perfumeは難しい存在だったのだ。だから7年間の下積みを経たアイドルが、ついにオリコンでアルバムが1位になって、武道館でライブをやって、ゴールしたね、Perfumeってそういう「いい話」を楽しむグループなんだね、というふうに消費されるのも、やっぱりイヤだったのだ。それは果たして僕が天の邪鬼なのだと言えるだろうか。しかし、たしかにPerfumeとは切っても切り離せないことなのかもしれないけど、でもそんなストーリーのおかげでCDが売れたって、それはPerfumeの作品とは関係ないじゃないか。そう思っていた。彼女たちが自分たちについて、その物語の登場人物としての存在であると思っているのであれば、このアルバムで何も変えないだろう。ここで何も賭けないという勝ち方もあるはずなのだ。僕はそんなのイヤだった。だから僕の手は本当に震えた。

最初に聴いてみて、挑戦的なアルバムだと思った。彼女たちに人々がある種の画一的なイメージを想定している今だからこそ、あえてこれを出してきたのだと思った。まずそのことを喜ばしく思った。しかし、その考え方も間違っていたのだ。そもそも、彼女たちはそんなお仕着せのストーリーのことなんて頓着していなかった。彼女たちは最初からそんなものを自分たちのよりどころにするつもりはなかった。人々が今、自分たちを見ている。そのことだけを理解して、ずっと前から、最初からやりたかったことをやった。そこには、僕みたいな人間が、きっと彼女たちがするに違いないと思ってしまうようなどんな計算もなかった。中田ヤスタカもそうだった。そういう意味では、これは挑戦的なアルバムですらないのだ。だからこそ、このアルバムはものすごく強い。僕は聴く前に、本当にうっかり、それぞれの曲が「僕にとって今までのPerfumeっぽいかどうか」を聴こうとしていたのかもしれない。そうではなかったとしても、「うるさがたを満足させられる音になっているだろうか」くらいのことを考えたかもしれない。でも、その考え方はどっちもPerfumeが本当に考えていたこととは何の関係もない、ずっと保守的な見方で、僕はだから全く裏切られた。彼女たちの、ものを作ることに賭ける態度を、僕はきっと甘く見ていたはずなのだ。何度も何度もヘッドホンでこのCDを聴きながら、そういうことをクイック・ジャパンの77号に書かせていただいた。

サウンドについては誰かが何かを言うだろう。しかしこのアルバムは歌詞が素晴らしい。僕はフリッパーズ・ギターのことを考えた。これを何度も読んで、僕は「ここにおいて90年代はもう絶対に終わっている」と思った。個人的な感情なのか、世代なのか、何なのか分からないけれど、僕と近い意識を持って時代を眺めていた人には、ひょっとしたら分かるかもしれない。でもあの90年代の不安は、寂しさは一体いつ終わるんだろう、本当に終わったんだろうか、僕はずっとそう思っていた。怯えていたのかどうかはよくわからないけど。「だろうだろうはもういいだろう」というのはエレクトリック・グラス・バルーンの杉浦英治の言葉だったと記憶しているが、彼がそう言っても、しかしあのころなぜみんなが「だろう」を必要としたかはこれまであまり考えられずにきたように思う。僕もフリッパーズ・ギター・コンコーダンスを初めて見た当時、すぐに「だろう」を検索したものだが、しかしその言葉が何を意味するのかはよく分かっていなかった。もちろん、あの「だろう」という言葉は決定された未来に対する諦観だったかもしれない。「君がわかってくれたらいいのに」という叶えられない望みを抱えて、存在しない「ほんとのこと」へと船を漕ぎ出してしまえば、やがて波打ち際で女の子の首を絞めるシーンで終劇となるのだ。そこからやがてセカイ系を通過して到達した先にいるPerfumeは、「たぶん」という、「だろう」と似て非なる言葉によって、ついに世界や他者の謎を解こうとしない。永遠に接触できない他者とただ世界に存在しようとするだけの力の美しさを、彼らは表現している。

最後のときが
いつかくるならば
それまでずっと
キミを守りたい

これは90年代に描かれた絶望を、明確に過去のものとして区別している。90年代が描いた他者と、このアルバムの描く他者を並べたときに、僕はようやく90年代から現在までのパースペクティブを見た気がした。そして、このタイミングで90年代が明らかになったからこそ、今や終わりを迎えているこの21世紀の最初の10年について、僕はまとめ始められるように感じた。

そんなような、僕がこのアルバムについて感じたこととか、そもそも僕がPerfumeをどう考えているかというようなことは、もうずいぶんまとまった量のテキストになってしまった。雑誌に書いたのもあるし、ここに書いたのもあるし、ずっと前にほかのサイトに書いたのもある。それから実は今、クイック・ジャパンのブログでは藤井編集長とライターの吉田大助さんと僕が74号から77号までのPerfume特集について話した座談会の連載があって(1 2 3 4 5 6)、僕はそこで上記に書いた90年代の話とか、「Butterfly」がエロいとか、そういうことについて頼まれもしないのにずいぶん触れている。ブログに書こうとしたことだけど、ここであらかた話してしまおうと思ったのだ。そういう多分にイカれた文章を載せるメディアというのはあんまり今ないと思うんだけど、QJ編集部の皆さんはすごく熱心に更新してくださっていて、だからどうかよかったら、長いですけど、ぜひ読んでいただけるとうれしいです。

それにしても、今や「Perfumeはなぜ売れたのか」とか言う人だっているんだ。そうしてニコニコ動画だ木村カエラだエレポップだなどと言っているんだ。今さらで、笑ってしまうんだ。それに、いまだに、そんな話し方がPerfumeを語る上で面白いものだと考える人もいるってことなのだ。あいにく、そんなことはどうだっていいんだという話ですら、とっくに終わらせてある。だから僕らはそんな言説を見ても、彼らに対してにっこりしておいてあげればいい。まあ、せめて今現在にとって意味がある問いを立てるつもりであるなら、「Perfumeはなぜ今に至るまで売れなかったのか」を考えた方がいいのにとは思う。その答えには、今という時代や、そこで僕らが陥っている問題のすべてが集約されているに決まっているのだから。でも、そんなこと考えなくたっていい。「GAME」を聴いて、よかったらPerfumeの(あの、素晴らしい)ライブを見に行ってほしい。彼女たちはここまでやったんだ。本当によかった。彼女たちはようやくスタート地点に立ったのだ。すごいよね。これからどうなるだろう。彼女たち自身も、中田ヤスタカも、ファンも、レコード会社も、誰も予期していないPerfumeは、まだ、今なお、いつもとまったく同じように継続している。疑う余地はない。それでもなお、最後の時はいつか来るだろう。しかし、だったら何だというのだ?

だからどうか皆さん、よいPerfumeを。

2008.04.29 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [音楽

水没ピアノ―鏡創士がひきもどす犯罪

僕は「水没ピアノ」がすごく好きだ。本当にいい作品で、佐藤友哉の最高傑作だとずっと思っているし、たくさんの人に読んでもらいたい。最初読んだとき、この人の作品はいつもそうだが、序盤は全然面白くなかった。瑞々しいとでも言えば誰か満足するのか、若い作家にありがちな、文芸に憧憬を抱いて取り澄ましてみせたような修辞が過剰な一人称。佐藤友哉はどうしてもこういう端正さを求めたいのかもしれないけど僕は好きじゃないなあと思いながら読み進めた。しかし、この小説は最後にその文章も含めてすべては用意された舞台だったということを明かして、まんまと僕を裏切ってくれた。

僕はこの、佐藤友哉が種明かしを始める瞬間がとても好きだった。このころ、彼のクライマックスはいつも、はにかんで、やる気がなさそうに、めんどくせえなあと言いながら巨石をひょいと持ち上げるようにして、超面白い、読者を楽しませるエンターテインメントとしての物語を立ち上らせてくれた。逡巡して、口ごもりながらも、でも最初のページをめくったときからすべて自分の手の内にあったんだよと口の端で笑ってみせる、少年のようなその様が好きだった。物語ることに戸惑い恥じらいながらやり遂げる姿を、美しいと思った。

でもこの小説は売れなかった。本当に悲しいことに、こんなにも物語というものに向き合った、いい小説なのに。読者は、この小説を彼が思ったように読みこなさなくてもよかったんだと思う。せめて売れていればよかった。でもそうはならなかったので、だから次の作品「クリスマス・テロル」で佐藤友哉は「犯人は読者です(本当)」と言い放って、それを最後に、以後今まで、このようなエンターテインメント小説は書かなくなった。

日本の小説はもう、作家と編集者、文芸誌と文芸批評家さえいれば世界が成り立つようになっているだろうか。そこに読者は必要とされていないだろうか。佐藤友哉や桜庭一樹は立派な賞を取って「ライトノベルみたいなものから出てきた私ですがおかげさまで人並みに文芸に昇格しました」みたいな地位を得た格好になっているように感じるから、僕はそれがイヤだった。だからこそ佐藤友哉の最高傑作は「水没ピアノ」だとずっと思っていたし、今でもそう思う。だけど、悲しげに「犯人は読者です」と言った彼に対して、僕が何かを言えただろうかと最近ずっと考えている。ちっとも売れなかろうとも、数時間で消費されたあげくに放り出されようとも、それでもお前はこれを続けるべきなんだ、だって俺は面白いから、と言って、そんなことが彼の助けになったはずはない。お前はユヤタンだかいうヘタレたキャラに収まっておけば、いつか腹も膨れるさなどとは、誰も言ってはいけない。

文芸の世界は彼を認めてくれるだろう。彼には十分な力があるから、それは当然だと思う。その世界の住人は、互いに作品を優しく丁寧に読解しあって、彼が以前いた場所で抱いた苦悩を抱かせないのかもしれない。でも僕はやっぱり「読者は本当に犯人だろうか」ということを考えなきゃいけない。なぜなら僕は読者だから。「水没ピアノ」が売れなかったことに対して、僕は何もできなかった。しかし、この本面白いよと言って周囲に貸して回ればよかったわけじゃないのだ。そして今になっても、ただ必死の思いで、ずっと遠くから僕たちに到達しようとしている読み物に対して、僕は読者としてどうあるべきか考えるしかできない。作品を読もう。それを楽しんでみよう。感想を持とう。そして、他人がどう感じるのかは、そのとき関係ない。それがジャンル全体にとってどこに位置づけられるのか、どういう読者がそれを読むなんていう話が、自分がどう感じるのかよりも先になされるのは間違っている。そんなレベルから僕は「読者である」ということを考え始めなきゃいけない。

しかもこの話は、今や、すごく難しい。たとえば僕は上に「読者」と書いたけど、これはでも、小説に限った話じゃないんだ。でも今、我々は「読者」と書いてあれば「なるほどこれは小説の話だ」と思って、自分とは無関係と思ってしまえる。誰だってそうだ。ではこれを、広く一般に「受け手」と書けばいいかもしれないが、今度はかえって抽象的になってしまい、誰も自分のことだとは思わないかもしれない。だから難しい。吉田アミさんが「受け手2.0」とか「プロの受け手」と呼んでいるものは、ここまで僕が書いたのと全く同じ話で、彼女が言っていることは、今言うべきこととして疑う余地がなく正しく、僕はそれを全面的に支持したい。でも唯一、彼女と異なるのは、僕はその新しい受け手の態度に名前を与えることに躊躇したのだ。そうすることで、オルタナティブな、新しい考えを持った誰かの到来が待たれているようになることに、僕は迷った。そうではなくて、我々は一人一人、誰しもの中にある力を回復させるべきだと言うべきなのではないかと僕は思った。だから余計に僕のやることはめんどくさい。名付けないことを前提に、誰かが失っている取るに足らない力について、伝えなければならない。でも、佐藤友哉はあのころきっと僕以上に困難な道を眺めていたはずだ。それを乗り越えて彼が確かに我々に届かせたはずだった「水没ピアノ」をはかなんで「クリスマス・テロル」で吐いた呪詛を、僕は自分の問題として受け止めて、作品を鑑賞する態度について考えなくちゃいけない。

2008.04.19 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

Aimee Mann「Save Me」

加護亜依に起こったことについて僕はもう何にも書けそうにないし、だったら何も書かないことが賢いことなんじゃないかと思った。そもそもこのブログの形式は一人のアイドルの現在進行形の騒動について何も書けない、などと書くのには適していないのだ。それに以前、これ以上彼女に何かを言うのはもうかわいそうでできないと僕は思ったのだ。その気持ちは今も変わらない。しかし何かキーを叩いて標準出力に吐き出された結果を残しておかなければいけないと思い直した。何か言わなければ、必ず何かが決定づけられる。僕の気持ちはそこになかったことになる。僕は別に賢しくありたいわけではない。

タイトルに掲げたエイミー・マンの曲は映画「マグノリア」の中で使われている。PVにも映像が使われている。この曲について必要な解説は、みんなこちらの20000320という文章でなされている。この解説は本当に素晴らしい。長いから引用はできない。だからぜひあなたに読んでほしい。加護亜依のことを考えて、僕はこの歌とあの映画とを思い出したのだ。この映画は「ジョジョの奇妙な冒険」でも何カ所か引用されているので、それだけの興味で見ていただいても構わない。

加護亜依は謝ったりする必要はない。リストカットがどうとか(本当に書くのも嫌だが)話す必要はない。何が梨元だ。どうしようもない。愚鈍としか言いようがない。梨元勝という芸能レポーターが下劣か否かとか、メディアとしてオーマイニュースの志は高いか低いかという話はしなくたっていい。そんなことより、しかし彼女は天才だったじゃないか。それは事実でしょう。そのことを知らない人もいるとは思う。最悪なことに、もはや彼女の近くにいる人間の誰一人もそのことを認めないのだ。だからああいう酷たらしいだけのアングルでインタビューは企画されそれだけの価値のものが公表される。しかし誰か、彼女の素晴らしさを知っていたでしょう。あんなにたくさん、彼女の天才を讃えた人がいたはずでしょう。みんなさっきまでの僕のように黙っているのかしら。誰かいませんか! 彼女に行われていることを悪意あるものとして批判せよとは思わない。あえて無視せよとも思わない。そういうレベルに堕している場合じゃない。たしかに誰にとっても価値がないと言ったら嘘になるのだ。しかし、価値と言えば僕はとにかくあのすごい天才を信じるよ。畜生。もうそんなものしか残っていやしない。そうすれば彼女を助けることができると確信できないのが悲しい。だけど僕は夜祈る。僕は信じるのだ。

2008.04.10 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [音楽] [映像] [マンガ

パンドラVol.1 SIDEーB

パンドラをフレッシュネスバーガーで6時間ぐらいかけて読んだ。SIDE-Aのときも思ったけど、雑多さがある。「ファウスト」は太田さんが「ひとり編集部」ということにこだわったせいかわからないけど、号を重ねるごとの変遷はあれども「太田さんはコレが見せたいのね」という統一感があった。しかしパンドラは分厚い中にいろんなものが入っているという印象。正直な話、なぜ載ってるのか僕には理解できないモノもある。だが、断じて言わねばならない。それは悪い意味ではないのである。僕は実際、雑誌としてはそういうものの方が好きなのだ。

個人誌に近いコンセプチュアルな雑誌は美しくて大好きだけど、雑誌というメディアを楽しむなら雑多すぎるほどに雑多な方が好きだ。誰か一人が凛として主張するのではなく、編集部全員が「世の中、いろいろと大変なことになってるんですよ!」と大騒ぎしているのが雑誌の醍醐味だと思う。だからパンドラは読んでいて楽しい。僕の好きなテキストが誰かにとって意味不明で、僕の引っかからなかったテキストが、誰かの熱狂を誘っているのだという想像力が持てる。思いも寄らなかった読み物に出くわすことも多い。吉田アミさんの小説もこういう本に「子供社会のルール策定者」みたいなことが書いてあると体がわりと自然に「ああ、ゲームものかな?」みたいに身構えてしまうんだけど、そうならないんだよね。そこが心地よい。「世の中いろいろすごいんです!すごいのがいろいろなんです!」という声に身を委ねられた気になる。

もともとファウストもパンドラも、あらゆる記事のサブタイトルが全部エクスクラメーションマーク付きみたいなところがあって、普通なら編集者はそういうセンスは避けなきゃって思い始めると思うんだけど、講談社BOXの人たちはますます熱にうかされたようにそれをやっていて、そこがホントにスゴいことだと思う。今、読者(評者)はそれを揶揄の対象にしようとしたりすると思うんだけど、でもそれにはあたらない。そういう読み方はいらない。いい大人が異常な熱意でそれをやっているのはすごいことだと僕は思う。むかし「ドラゴンボール」が毎週エクスクラメーションマークを増やしていったころ、僕はドキドキした。それと同じだ。やたらと「傑作」とか強い言葉が書いてある、その熱量を僕は感じたい。

今号で最も素晴らしいのは、何と言ってもアンディー・メンテのじすさんが流水大賞で優秀賞を取った作品が載っていることだ。同人ゲームのテキストは2000年以降に注目され、メディアは奈須きのこや竜騎士07など、主にノベルゲームの作家の素晴らしさを正しく世に広めたと思うんだけど、それって同人ゲーム全体の面白さが必ずしも広められたわけではないと僕は思うし、そう思っている同人ゲームのプレイヤーはいるのではないだろうか。もっと破壊的で、軽くて、感傷的で、強い、同人ゲームのあの感じ。でも、これって新しいもののように思われるのかもしれないけど、実はもっとずっと古くからあった感覚だ。だからアンディー・メンテやこの小説を同人ゲーム界のニューウェーブであるかのように紹介するのは正確ではないだろう。アンディー・メンテの良さは必ずしも奈須きのこなどのノベルゲームに連なるものじゃない。それはもっと古いものだ。例えば僕はアンディー・メンテをプレイするときにBio_100%で味わいたかったものとおなじものを感じるし、そこが好きだった。もっと昔、たいにゃんのゲームなどにだって、同じモノを感じていたと思う。それはずっと、なぜだか同人ゲームにしか見られないよさで、昔から、そして今も、そういうものを受け継いでいる同人ゲームは脈々と続いている。しかし、たとえたまごっちが爆発的に売れても、ドワンゴが今やなんだか超すごいIT企業になっても、それはなぜだか世に出なかった。だから、ずっと僕の好きだったそれが、やっぱり誰にとってもいいものなんだということをパンドラはちゃんと言ってくれたから、僕は本当にうれしかった。

それに、この素敵さは僕の好きだったインターネットの良さにも通じているのだ。それが受け継がれているものがちゃんと世に出てうれしい。

僕の好きだった、あの、インターネット。

2008.04.08 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [ゲーム

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