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相対性理論「シフォン主義」

「オルタナティブ」「ミクスチャー」「アブストラクト」などの言葉を「ジャンル」として認めたときから、音楽の世界では既にすべてのジャンルが相対化されていた。もっと前、その前から、DJではない、単なるリスナーが、そしてミュージシャンが、レコード箱を漁って音楽のシーケンシャルな進化を退けたときから、そうなっていた。「レア」とか「グルーヴ」という言葉で価値は順位づけられていたが、「オルタナティブ」や「ミクスチャー」以降の世界では、それすら意味を持たなくなった。サブカルチャーの分野では、おそらく、音楽には最も速く、早く、すべては相対化された。ファッションは、長きにわたって音楽の動きを観察し、それをモードとして採り入れ続けたが、やがてそれがすべてが等価になるということを意味するのだということがはっきりする頃から、それをやめたのだ。

相対性理論がなぜよいのか、ということについてずっと考えている。相対性理論は、僕にとってそこまで心が躍らされるバンドじゃないかもしれない。しかし耳に残って、気になって、耳を傾け続けている。みんなも「これに何かあるんじゃないか」という顔をしている。

僕の考えでは、「みんながこれに何かあるんじゃないか」という顔をするというときには、少なくとも、これがたとえ「誰もが絶賛すべき何か」じゃなかったとしても、「みんながこれに何かあるんじゃないかという顔をする」という理由が何かあると思っている。そこには何かあるはずで、僕はいつもそういうものが知りたい。だから考えている。でも難しい。しかしようやく「シフォン主義」を聴いたので、何か書けねばならない。

例えばこれはジャンルを違えた形であったら「ファンファーレ」のころのロロロのようである、という言い方ができる。音楽というものは、今や、そういう言い方ができてしまう。二つのバンドは、参照されているデータベースの項が違うだけだと言ってもいいかもしれない。しかしどうやら、データベースが参照されている目的が全く違う。今、価値のすべてが相対化した中にあって、我々に残されているものとして僕が注視すべきのは、データベースが参照される態度なのではないだろうか。最近、何度も思う。

話が逸れた。逸れてはいないが、相対性理論を離れてしまった。

このバンドは「あれのようだ」「これのようだ」「何かに似ている」と思いながら聴いているうちに、最後に尾ひれのようにオリジナリティを囁こうとしているバンドのようだ。例えばそれは「LOVEずっきゅん」というフレーズの連呼であったり、あるいは「夏の黄金比」における男声コーラスのようなものだ。何かの集合体のような、何かからの剽窃で作ったふうなものを、さりげなく、無意識を装いながら作り上げて、最後にひどく素朴な要素を紛れ込ませることで別のものにしようとしている。音楽的にはそのようなものだと思う。しかしそういう意味では「テレ東」は逆の作り方がしてあるようだ。

音楽が難しいのはそれだけでは話が終わらないところで、このバンドが最も面白いのは、歌詞だ。凛としてかわいらしい不思議少女チックな女の子ボーカルが木訥としてマンガそのもののような遠未来サイキック少女ものストーリーを歌い上げる。「四月革命」「スマトラ警備隊」の歌詞に顕著だ。

やってきた恐竜 街破壊
迎え撃つ私 サイキック
更新世到来 冬長い
朝は弱い私 欠伸をしてたの

太平洋 大西洋 ここ一体何平洋よ
盗んだわたしの記憶をかえして
CIA KGB FBIに共産党の陰謀よ
誰か私を逃して

飛んでったボイジャー 惑星破壊
なすすべないあなた サイコパス
環状線渋滞 先長い
待つのつらい私 ゲームボーイしてたの

北極星 超新星 流星群にお願いよ
誰か止めて あの子のスーサイド
新幹線 連絡船 運命線よおしえて
私明日は どこでどうしてるの

思わず全文を引用してしまった。これでは引用の条件を満たせないかもしれない。しかしやはり、本当にこれは詩がいいのだな。このバンドは。「凛としてかわいらしい不思議少女チックな女の子ボーカルが木訥としてマンガそのもののような遠未来サイキック少女ものストーリーを歌い上げる」ということ自体、何かの引用から、何かと何かのミックスからモザイクから成り立ったような概念でありながら、それを措いてなお、この文字の並びはとても素敵だと僕は思う。だから僕はこのバンドのここが好きなんだと思う。

でも、このバンドが、最も、本当に、まさしく、僕が「ここが面白い」と思うところは、この詩を書いているのがこの歌を僕らが切ながるような有様で歌ってくれるボーカルの女の子じゃなくて、全然そうじゃなくて、ベースの男の子なんだ、というところだ。女の子はその歌詞を受け取って、彼女なりにあれこれ考えながら歌っている。彼らはそれを何となく作って何となく歌って何となく演奏している。でも拗ねたりしていなくて、ちっとも嫌いなそぶりはない。だけど、何となく愛する音楽を、溜め息でも吐き出すように、彼らはやってそうに見える。そしてそこが、「ファンファーレ」のころのロロロに感じたものとの違いでもある。

だからライブはきっとあんまり面白くないのじゃないかって僕は思うんだけど、これで実は女の子がすっごくお客さんを煽りまくったりしたら本当に面白いんだけど、そういうことはないバンドだと思う。それでも毎日、バイクに乗りながら口ずさんでいるのだ。なぜなんだろう。でも何度も口ずさむと楽しくなる歌なのだ。

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2008.05.31 | | コメント(7) | トラックバック(0) | [音楽] [文章

ユリイカ 第40巻第5号

「ユリイカ」にて宇多田ヒカルの歌詞について書いた文章のことを、ここに書こうと思っている間に次の号が出てしまった。そうこうしているあいだに、もうすぐさらにその次の号が出るという。

今売っている号では、僕が「空の境界」について作者の奈須きのこさんに去年の夏行ったインタビューを掲載していただいている。これは僕が初めて奈須さんにお会いしてお話を伺ったときのもので、今になって読んでみるとずいぶん読者としての自分の思いが先走った部分がたくさんあって恥ずかしい。だからインタビューなのにやけに僕が話している部分が多い。何とも恥ずかしいが、時間が経っていることもあって修復のしようがないのでそのまま当時の理解を伝えるものとして掲載していただいた。

しかし見方を変えれば、このインタビューは、僕が現在、全七回上映される映画のパンフレットの中で七回に渡って奈須さんにインタビューを行えることになったきっかけになったもので、その意味で本当にユリイカ編集部に感謝したいありがたいものだったし、また、この号に掲載されているインタビューを経たからこそ、パンフレットのインタビューではさらに作品について突っ込んで考えることができたのであり、特に今月の24日から公開される劇場版「空の境界」第四章のパンフレットに至って、この作品が現在公開される意味や、奈須きのこという作家が何を意図しているのか、彼がたびたび述べる「王道の物語」とは何なのか、という課題についてついに語られ始めている。さらに、同じ今回のパンフレットで僕は講談社の太田さんにもインタビューを試みていて、そこでは「ファウスト」は「新伝綺」によって方向転換したわけではない、すべては1つの流れにあったことだったという言質を取ることができている。これによって僕はおそらく今自分が、ようやくいつか書いたように、エヴァからセカイ系へ、そして奈須きのこへ、そして2008年、現在へという移り変わりを整理することが可能になったと思う。それぞれの項目はもはや分断されてある出来事ではなく、ただ1つの流れにあったと僕はもはや確信していて、個人的には、この「Hang Reviewers High」もいよいよ佳境にさしかかっているのだなと考え始めている。

さてそれはともかく前号のユリイカである。前号は「詩のことば」という特集であって、僕はそこで「歌詞について」という題をいただいた。本当はPerfume「GAME」の歌詞について書きたかったのだが、残念ながらこの号が発売されるころにはまだ「GAME」は世に出ていない状況だったので、それは諦めた。だが、選んでいるテーマは大きく重なっていると思う。

言語は、最終的に伝達不可能性を抱えている。その上で我々が他者と歩み寄るというのはどういうことなのか、受け手は作家が送ったものをどう享受すべきなのか、僕はそれについて考える上で、今、言葉や物語が流通する、ということの可能性について検証したいと考えている。宇多田ヒカルは我々が相互理解に達することができないということを熟知しながら音楽を作り、歌詞を書き、最も流通している作家である。彼女はそこで、おそらく絶望的な気持ちで、しかしなお音楽や言葉のマジックを信じている。彼女は、その歌詞にもあるカップヌードルのようなポップさで受け手の生活に入り込み、そこで言葉が効果を発揮することに希望を捨てていない。僕が書きたかったことはだいたいそのようなことだ。

しかし前半には現在の詩の状況について書くことになった。おそらく、単に「詩の特集」の一部としてこれを読むのであれば、「宇多田ヒカルの歌詞には世俗的な意味での時代性がある」とか「詩としてよくできている」ということしか書き得ないだろう。だから、彼女の書いたものが、現代に詩人が考えるべき問題を熟知した上で書かれた、まさしく詩としての時代性を持ったものである、ということを言うために、まず詩の状況について踏まえる必要があるのではないかと思ったのだ。それは現代において「いわゆる詩というもの」がただ詩人自身のためにしか存在していないという指摘に近づいてしまうため、ともすればこの特集が載せている多くの内容を形式のうえで否定する結果につながってしまいかねないと思ったが、今、それは正しかったように思う。僕がそこで言いたかったことは、中田健太郎さんが同じ号で書かれている「言語の過剰と詩の叙情」という文章の中で、もっとずっとうまく表現されているように思う。現在、多くの詩は世界に到達しようとはしていない。僕は原稿を書く前に、まずmixiの詩のコミュニティを見ることにした。そうして「これが詩の現状である」と自覚させた。書き手が氾濫して、第一読者として詩人自身が自分の書いたものを詩であると認めている。あるいは、技巧的な面で、またはそれが流通する場所で、「これらこそが詩である」という自動化された評論を可能にしてしまっている。詩は本来、読者に到達して、読者がそれと認めることで詩であり得ると僕は思っているし、現状はますますそれを押し進める結果になった。ところがいま現状では、誰もが詩人になり、そして誰も読者を求めていない。それこそがまさに詩の現在が抱える問題の核であり、それを踏まえた言葉こそが、詩人の活動にとって必要だと僕は思った。

僕の書いた上記の文章については、当初気に入っていなかったこともあり、特に誰かからの感想を期待していなかったのだが、とてもうれしいことにある知り合いが次のように感想を語ってくれた。

受け手の詩情の喚起によって詩が詩であるとすれば、
作者以外の誰にも読まれないままの詩は
現代では詩でない言葉の連なりのままなのかなとか思いました。

たぶんこれには、そうであり、またそうではない、と言うことができる。詩はいま、作者にとって詩であると安易に命名されうるからだ。「ユリイカ」に載っている最果タヒの詩を見よう。今これを文字の連なりとしてみるならば、例えばウェブの上でそれはCGIによって偶発的に作られてしまえる。もっと単純に、HTMLファイルのソースを開き、適当な部分をマウスで選択してそれを空白に置換していくだけで作ることができる(僕が過去に「ニーツオルグ」というサイトを作ったとき、最後にやったのはそういうことである)。

断っておきたいのは、これは最果タヒの、あの素晴らしい作品を貶めようと行っているのではないということだ。また、蛇足になるのかもしれないが、そしてこれは詩に限った話ではない、とも言っておきたい。例えばウェブ4コマ漫画「ねぎ姉さん」の1コマずつをバラバラにして並べ替える「ねぎの輪切り」を思い出そう。我々が目をつぶったまま「る」をクリックしたとしたら、ここにあるのはいまだ絵の連なりである(さらに蛇足を重ねるとすれば、僕はもちろん「我々が見ていないときに月は存在しない」と考えている)。ここで我々は、「る」をクリックすることによって、あくまでも4コマ漫画という「形式」が成立するのだということのみに注意喚起されるべきではない。「る」をクリックした作者であり最初の読者である私たちが目にすることによって、これは初めて何らかの意味内容を成立させるのである。「ユリイカ」においては、川上未映子らの鼎談に顕著であるが、詩人たちは自分たちの書いたものが詩なのか、あるいは小説なのか、散文なのかということについてしばしば考えあぐねている。しかし、最終的に読者によって、もしくは第一読者としての作者によって判断されるならば、その文字の連なりが本来何を意図していたとしても「詩」と呼ばれるようになるはずであるというのが僕の考えである。

最初、僕はあまり自分の書いた文章が気に入っていなかった。なぜなら、詩の状況についてはともかく、宇多田ヒカルについてはまだまだ考察するべき点が多数あり、そのそれぞれに対して僕は最終的に踏み込めなかったからだ。たとえば「誰が宇多田ヒカルを(そしてB'zを)消費しているのか?」という問題について、僕は全く触れていない。それで、編集部の方にも、もうちょっとやりようがあったのではないかと思うと後に述べたのだが、さらに後になって誇大妄想が盛り返してくると、これはもう、これでちゃんとした論点を持って書けているのではないか、と思うに至った。

ただ、宇多田ヒカルについては未だに語るべき事が残っているのは事実だ。そして、多くのポピュラーミュージックの歌詞についても。現在、おそらく90年代の後半から、流行歌の歌詞について詳細な考察を傾けるやり方は流行っていないと思う。なぜならそこにはこれまでの評論家が作品を語る上で必要としたような作詞家の意匠が見受けられにくくなっているからだし、ミュージシャン自身もあくまで音楽として自作を消費されることを好んで、歌詞について重視されないことを後押ししたからだと思う。だから歌詞はいま、安易に黙殺されうる。しかしそれは、ライトノベルが、ケータイ小説が、ギャルゲーが、アイドルが、語るべき対象として見なされなかったのと、または今なお見なされていないのと、さほど変わらない、相似の問題であると僕は思う。だから僕は歌詞を検討することを、これからしばらくなお、やめないでいるだろう。

2008.05.23 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [アニメ

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