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文学環境論集 東浩紀コレクションL

東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。

僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味を感じている。

東浩紀はこの論考を、大塚英志の物語論を批判することから書き始めている。ここではごく簡単に説明するしかないが、それはつまりこういうことである。「物語消費論」を書いた93年頃までの大塚英志は、日本のフィクションが文学やマンガなどメディアを問わず結局は「現実は描けない」、逆に言えば物語しか書けないということを自らに認め、しかしその上でなお逆説的に現実を活写しようとするものだとしていた。そして、とりわけ困難な条件の下にその挑戦を続けるのがマンガやアニメのリアリズムであり、それは自然主義から連なる文学などのフィクションと同等に価値あるものであるとして説いていた。東浩紀はこの大塚英志の立場を「物語擁護」の姿勢であったとしている。しかし近年、具体的には2003年に「キャラクター小説の作り方」において、大塚英志は「ゲーム的な小説」について、テーブルトークRPGを例にしながら批判を行ったとされる。そこで語られる「ゲーム的な小説」とはまず次のようなものだ。

TRPGの物語は、特定の規則に則って有限の要素を組み合わせることで生まれる。したがって、そこで語られる物語は、装飾的な細部がいくら多様で複雑であろうとも、基本的には予想を超えることはない。主人公はヒロインを救い出すだろうし、強大な敵は打ち倒されるだろうし、世界の秘密は最後には明らかになるだろう。

上記の内容は大塚英志の言葉としてはこうある。「ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない、ということを伝えておきたいのです」。つまり「ゲーム的な小説」は「物語の類型化」を招き、物語の想像力を衰退させるものだということだ。東浩紀はこの大塚英志の批判について、まず「物語の類型化」を、それが避けえないものとしていったん擁護する。「ゲーム的な小説」に限らず、神話から近代小説まで物語というものが煎じ詰めれば定型に収斂可能であることは自明のものとしてあることは広く理解されてきたからだ。その条件の下でなお「現実」を描く試みとしてあったとしてこそ、大塚英志は「物語擁護」を行っていたにもかかわらず、ゲームについてはその創造性を大塚英志は見出していないと東浩紀は書いている。すなわち彼の言葉では以下のようになる。

『キャラクター小説の作り方』の答えは単純明快である。日本のマンガ(そしてその影響下にあるアニメ)は記号を用いて「死んだり傷ついたりする身体」を描くという逆説に取り組んできた。しかしゲームにはそのような試みは見られない。なぜなら、ゲームにおいては、キャラクターは何度でも生き返るからだ。リセットがある世界に死はありえない。したがって、このジャンルは、虚構を超えて現実にたどりつくことがない。

そこで、東浩紀は一つの疑問形から、彼の「ゲーム的リアリズム」への試みを開始する。

筆者の疑問は単純である。大塚はゲームの技法をTRPGで代表させ、類型化を免れえないものだと考え、そのライトノベルへの影響を否定的に捉えていた。しかしそれは正しいだろうか。

僕がいま問いたいのはこの一つの疑問である。東浩紀はそれにどのように答えていったか。まず彼は「ゲームという物語体験」の新しい形として、大塚英志の挙げたテーブルトークRPGではなく、ノベルゲームを例として提出する。そしてその構造分析をゲームというメディア全体に敷衍した形で次のように述べる。

ゲームにおける物語体験は、キャラクターが存在する物語世界(虚構)を充実させるだけでなく、プレイヤーが存在する世界(現実)を繰りこむことではじめて固有で単独的なものに変わる。

これはつまり、ゲームというものが物語と登場人物という虚構だけでなく、プレイヤーという物語外の存在の関与(ゲーム上での操作)、もしくは関与の不可能性(プレイヤーキャラクターを含む登場人物がときとしてプレイヤーの意志を離れて物語を進行させること)を内在させているという指摘である。すなわちゲームはあらかじめメタフィクションを誘発するような条件の下で成り立っているメディアであるとしたものである。「ONE」や「AIR」などの優れたノベルゲームが、彼にとってその具体例としてあるだろう。この指摘自体は全く間違いではない。しかし、このメタフィクション性の指摘のみをもって、東浩紀はつまりはゲームが「現実を描きうる」のだ、という言い方で当初の疑問に対する回答に代えてしまう。

ここでようやく、今書いているこのブログの記事において僕が指摘したい点に到達する。すなわち、ここで東浩紀は結局、ゲームも含めてフィクションは、やはりおしなべて現実を表象するからこそ価値があるのだとしてしまうのである。この回答は、実はまだ半分であるように僕は思う。なぜなら、ここでは物語が類型化を免れえないという課題については、ゲーム的リアリズムがそのメタフィクション性によって、まさにその課題自体をメタ的に指摘しうるものだという主張によってのみ解決されてしまうのである。ところが東浩紀は、その上で、あらゆる物語が類型化を免れえないことが現前した時代に作家が選ぶことが可能な態度は二つあるとして、その一つとは、作家が自分の物語が定型的なものに過ぎないことを理解した上で、商品としての物語を再生産するという方向性だとするのだ。

ジャンルや世代を問わず、いまや多くの作家が無意識にその方向を選択していると言える。純文学作家は純文学のデータベースを用いて純文学のファンに向けて、ミステリ作家はミステリのデータベースを用いてミステリのファンに向けて、アニメ作家はアニメのデータベースを用いてアニメのファンに向けて、それぞれ商品価値が高い「小さな物語」を提供する。そして、ときどき、そのいくつかがベストセラーになる。それが現代の物語消費の風景である。本論はその風景を批判するものではない。筆者もまた、それらの物語を享受し、笑ったり泣いたりして毎日を送っている。

東浩紀はこのような物語のあり方を言葉の上で認めながら、しかしそれをウェルメイドな再生産を目指すものに過ぎないものとして扱っているというのは否定できないことだろう。ここで彼は、作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする。ポストモダンにおける定型の物語の再生の課程については単に近代的な創作の延長であるとして、注意は払われないのだ。そして彼が批評家として関心を寄せるのは、作家の採りうべきもう一つの態度として述べられるもの、すなわち、彼が舞城王太郎「九十九十九」や桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」に見出した、ゲーム的な物語がメタ的な視点によってポストモダン社会の「現実」の活写に到達するようなフィクションであるとされる。「メタリアル・フィクションの誕生」の結びとして彼は次のように書いている。

このような視点を手に入れたことで、私たちは今後、さまざまな作品にゲーム的リアリズムの可能性を発見することができるだろう。「ゲームのような小説」は、決して死を描けないわけではない。現実を否定するわけでもない。

彼が見出したゲーム的リアリズムは、確かにポストモダンにおけるフィクションの可能性の一つとしてあるし、一定の評価に値するものだろう。しかし、彼はついにフィクションは「現実」を描くものだという本来性を論拠にしながらその立場を確保している。ここで彼の批評は、現代に表出している作品群から批評に値するものとそうでないものを峻別し、その一方を捨てようとしているだけでなく、それは結局「人間が描けているか」などに代表される、文学論における純文学とエンタテインメントの峻別の構図に類似してしまっていないだろうか。

そこで我々は東浩紀の最初の疑問に立ち返らなければならない。いや、もっと言えば大塚英志の「ゲームのような小説」に対する批判へと戻らなくてはならない。

ただ、敵を「正義」のために次々と倒し最後には必ず勝つ「無敵」の主人公をあなたたちが全く無自覚で書いてしまうことは、自分の小説の可能性をせばめることに他ならない

このような物語は、結果としていまフィクションの可能性を狭めているだろうか。それは単にウェルメイドな再生産としてのみ、単なる商品としてのみあるのだろうか。しばしばベストセラーとして登場するそれらを、ケータイ小説を、「らき☆すた」を、ウンコをしないアイドルへの絶対的な愛情を、奈須きのこを、武道館や紅白歌合戦という大時代的な成功を目指すPerfumeに抱かれる感動を、相対性理論やかつての□□□が見せた過去の作品のデータベースからの奔放な参照を、批評は語る必要がないのだろうか。レビューは、それを一笑に付すものだとすることができるだろうか。また僕らがインターネットで作品を語るときに、ある作品への評価を、単なるランキングやマッピングの素材として片付けるべきなのだろうか。

僕はそうは思わない。ポストモダンがあらゆる事物の相対化に達したならば、我々がその状況をいま受け入れて生活していくとするならば、その状況下で他者がさまざまな作品に対して愛情を投げかけているということを我々は肯定するべきである。そのための言葉を我々は模索しなければならない。他者の愛情をおおらかに肯定するために機能する言葉を探さねばならない。しかし、それが東浩紀に突きつけられるべき問題としてはないのも、またポストモダンにおける事実である。それは、我々の一人一人に与えられた課題であるはずだ。

最後に一つの例を挙げよう。「Fateは文学」という言葉がある。これをはてなダイアリーのキーワードは、単に熱烈なファンによる過剰評価として説明している。文学とそうでないものは、悪びれもせずにより分けられようとしている。そして誰かがそのような形で愛情を語ったときに、彼を擁護する言葉が何もないということを、我々は、そろそろ遅まきにも認識するべきだ。

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2008.06.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽] [マンガ] [アニメ] [ゲーム] [映像] [ガジェット

思想地図 vol.1

「思想地図 vol.1」において、個人的に面白かったのは福嶋亮大による中国のライトノベル状況に関する考察と、韓東賢による「朝鮮学校はヤバい」という伝説から始まる議論だった。前者は僕がしばしば好む「自分の知らないところで何かが起こっている」ということについてのレポートであり、後者は90年代に社会学を楽しんだ僕としては見逃すことのできない現代のフォークロアから始まる話だったので、楽しかったのだ。

しかし最も考えさせられたのは黒瀬陽平による公募論文だった。僕はここで彼が書いているアニメ表現論は優れたものだと思うし、いま書かれるべきものとして正しいと思う。しかし、僕が注目させられたのは彼が自ら表現論を展開する動機として書いている内容だった。それは、現在のアニメ批評に表現論がなく、物語論だけが氾濫しているため「萌えアニメ」のようなものを扱えずに批評は停滞しているのではないかというものだ。黒瀬陽平の整理によると、九五年の「エヴァ」以降、物語の構造を分析する物語論的な批評がアニメでは優勢となり、〇二年の「ほしのこえ」をピークにして以後失速する。指摘されているのは、東浩紀のエヴァ論が、その作品じたいが持つメタフィクション的な構造を指摘することをもって、物語論によって表現論をも語ることを可能にしている、ということである。しかし注意すべきなのはここで黒瀬陽平は、この東浩紀によるエヴァ論のあり方が失策であると指摘しているのではなく、むしろその後アニメ評論の系譜として作品の(メタ)構造を指摘するという物語論だけが残り、結果としてアニメというメディアこそを条件として成り立つ批評性、すなわち表現論は後退した、としている点だ。彼は次のように書いている。

東がアニメにおけるメタフィクションを論じるとき、その背後には必ず八〇年代の押井的なメタフィクション性が、とりわけ『うる星やつら2』の存在があった。東のエヴァ論を物語論としてのみ読むのなら、『エヴァ』の分析を通して、押井的メタフィクションを特権的なものとする日本アニメ史があらわれてくるだろう。
 事実、東のエヴァ論はそのように読まれていたと考えてよい。なぜなら、「ポスト・エヴァ」のアニメとして『ほしのこえ』から「セカイ系」を見出す視線そのものが、東の持っていた「メタフィクション志向」を象徴するものだったからである。

僕は東浩紀がこのような書き方を選んだことについて、彼がポストモダニストらしくエヴァのメタフィクション性を正しく指摘したのだと思う。そのあり方は、虚構がそれ自体によって破綻する瞬間に作品は「現実」を表象するという、かつてポストモダンの批評がメタフィクションを語った際に多く見られた語り口として馴染み深いものなのだ。だが僕もまた、黒瀬陽平と同じく、東浩紀によるこの議論のやり方が誤りであるというわけでは全くない。しかしメタ的な構造を持った作品こそが90年代後半という「現実」を活写したのだとすることで批評となすという、この姿勢が受け入れられたとき、「アニメは現代社会の現実を描くものであり、批評は作品からそれを抽出することをもってなされるべきだ」という理解が一般化してしまったとは考えられないだろうか。エヴァは「碇シンジは僕だ」という言葉に代表されるように一般消費者にとって、またアニメについて語る者にとって現実の問題と関連付けて語る親和性があまりに高くあった。そこからアニメは、またアニメについて語ることは、つまり現実について語ることなのだという流れは強化されていったのではないかと僕は思う。

つまり黒瀬陽平が「押井的メタフィクションを特権的なものとする日本アニメ史」として指摘するものは、アニメを語ろうとする者がいま、ポストモダンの批評におなじみにある「メタフィクション性から現実社会の問題を指摘する」というパターン化が可能な作品のみを批評の対象としたがっている、ということである。それはまさしく、今月号の「ユリイカ」において伊藤剛が、まさに東浩紀に対して対談で指摘した内容であるように思う。132ページを見よう。

伊藤 (中略)『m9』では紙屋高雪さんが『闇金ウシジマくん』を通して下層社会について考えようといった原稿を書かれているんですけど、僕はそれに対して論難しようというのではないんです。ただ、「マンガを通して社会を知る」という素朴な社会反映論的な構えこそが社会に開かれた「批評」であるというのは違うのではないか、ということは言っておきたいんですね。

東 そういうのは昔からあるから、一概に否定するつもりはないですけど。

伊藤 もちろん、「社会反映論」がいけないと言っているのではなくって。マンガ評論という文脈で問題にしたいのは「社会反映論対表現論」という二項対立に陥ってしまうのがまずいということです。これは夏目(房之介)さんの登場以降できた図式とも言えるんですが、つまり九二年の『手塚治虫はどこにいる』で、それまでのマンガ評論がマンガに反映された社会の諸問題を読み解くということをやっていたのに対し、マンガ自体に内在する表現の法則をいったん取り出すという作業を経由しないと、社会を論じるにしても間違いを冒してしまうのではないか、ということを言い、「表現論」という言葉を使い始めた。さらに(引用者註:「しかし」?)夏目さん自身が、九七年の『マンガと「戦争」』という本で、戦後の日本マンガと戦争という問題系について考察しているんだけれども、ここで「表現論という枠組みではうまくいかなかった」と自分で言ってしまっている。(中略)「表現論」は社会の現実から離れて表現の中に沈潜していく態度であるととらえられがちになったんですね。そうした「表現論」への反発として、紙屋さんのような素朴反映論が歓迎されている部分はあると思うんですよ。
 僕は反映論と表現論は矛盾なく接続しうるものであると考えていて、実際に『テヅカ・イズ・デッド』の第二章でそういうことを書いた。つまり、それは全体をシステムとして捉えるということで、社会は作家にとって環境である、でも、作家というサブシステムにとって、社会だけが環境のすべてなのではなくて、もうひとつジャンルという環境もあるはずで、執筆においてその両方が参照されるだろうということなんです。

東 伊藤さんが言っているのは、社会が表現に対して影響を与えるのは内容ではなくて形式だということですね。それもまた昔から言われていることで、ごくシンプルに言えばこういう考え方です。内容は作者が意識して作る。だからむしろ社会反映論では説明できない。けれども形式は無意識で作られる。つまり、作者のおかれた条件が、作者の意識を経由しないで反映している。したがってそこでは社会反映論が機能する。批評は作者の無意識まで降りていき、そこで社会に出会う。要は、批評は、作者がなにを考えて作品を作ったとか、作者がなにを描きたかったかなんて、最初から相手にしていない。精神分析でも記号論でも二〇世紀以降の作品研究は基本的にそういう立場なはずですが、実際にはこのレベルまで行くと高度な話になるようで普及していない。そこで一般的には、この作品はニートの主人公が出てくるから格差社会の現実を描いているよね、という通俗的、というか「それってそのまんまじゃん」的な読解が批評だと見なされ続けている。

伊藤 そういうわかりやすい話だけじゃまずくない?というのが僕の立場です。(後略)

ここで大切なのは、これは、ここで語られているマンガや、また黒瀬陽平が指摘したアニメに限った話ではないということである。我々は批評において、レビューにおいて、作品を語ろうとするあらゆる環境において、いま「作品が現実を語っているか」ということをもってその作品を評価しようとする。そのこと自体が、必ずしも問題なのではないと僕は思う。なぜなら批評が1つの側面として、作品から現実問題を見出すというのは否定し得ないことだからだ。しかし、繰り返すが、我々が批評において、レビューにおいて、作品を語り合うあらゆる環境において、つまり、例えばいまインターネットにおいて、ある作品が現実問題を語っているから「こそ」、その作品は評価されるのであり、評価軸はただそこだけに限定され、そして現実の問題に寄り添わない作品は唾棄すべきものだと考えるならそれは間違いなのだ。

しかしまた僕は、伊藤剛や黒瀬陽平が表現論に見せる積極性とはまた違った論点を持ちたい。先ほどの引用において黒瀬陽平は、「ほしのこえ」から「セカイ系」を見出す視線そのものが「メタフィクション志向」を象徴するのだと指摘して、現在の物語論の優位を語っている。逆に言えば彼は、現在において物語論はメタフィクション的な作品から現実を見出すというポストモダンの批評にありがちなものとしてのみあるとしているのである。僕は、先日も書いたようにこれは物語論としてもまた十全なものではないと思うのだ。エヴァという反物語からいかにして2008年の状況に至るのかということを考えたときに、物語論は「ほしのこえ」などのセカイ系は「定型の物語の回復の過程」としてあるという視点を持ってよいし、物語論として正確にあるならばそうでなければならない。なぜなら、黒瀬陽平の指摘したものだけが今日の物語論として可能であるならば、それこそ物語論は「らき☆すた」などの「萌え系」の作品を扱えなくなるし、また僕が先日書いたように奈須きのこのようなエンタテインメントが現在において人気を博している事態を黙殺せざるをえなくなる。そして、それは実際にいま起こっていることなのだ。

物語論が「現実」を見出すものとしてあるという状況と、僕が先日来あちこちで書いている「定型の物語の回復」というテーマについては、もう少しだけ考察できる部分がある。それもまたやはり東浩紀の記述から、彼が「セカイ系」の時代にまさに「メタリアルフィクションの誕生」という題で行った論考から導き出されるものだ。しかしここでいったん記事を終えて、それについてはまた改めよう。

2008.06.23 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [マンガ] [文章

ディエンビエンフー 3

「ディエンビエンフー」は非常に面白い。どのくらい面白いかというと、1・2巻が同時発売されたときにあまりに面白かったので、読み終わってすぐにその足で続きが載っている「IKKI」を買いに走ったほどだ。その続きというのがまたすごくいいシーンで、それがすなわち今回発売された3巻の冒頭にあたる部分だ。44ページの、大ナタを振るうトン将軍の絵なんて超マンガだ。このコマの「いいのかな? 俺様に抜かせて。」という見得の切り方にはマンガの外連味がある。ようやく、以前「角川版ディエンビエンフー」で描かれた内容を越えて、今IKKI版の「ディエンビエンフー」で西島大介がやろうとしていることは、はっきりしつつある。彼はここで少年マンガをやろうとしている。もっと言えば、面白いのは彼が、みんなが注目し渇望する「ジャンプ」ではなく、なぜか「少年チャンピオン」的な要素をも取り込もうとしているところだ。2巻冒頭のお姫さま対カリフラワー戦の「360度全方位爆弾」などでそれは顕著に見られる。

死角なし。

回避不能。

360度全方位からの

クレイモア地雷の雨。

700発×36個=

2万5200発。

この数字の過剰さは間違いなく「バキ」や「覚悟のススメ」が持っているそれだと僕は思う。これは意味としては「絶対に避けられません」ということであって、それは少年チャンピオン的な数字のインフレーションによる「絶体絶命」感の演出に多く見いだせるものだろう。それは西島大介の洗練された(指弦を操るカリフラワーの指先のコマに凝縮されたジャズレコードのジャケットのようなクールネスを見たまえ)絵と相まって非常にカッコいいシーンになっている。

この見開きは平衡感覚が大幅に崩された動きの大きいものになっている。似たような見開きは「モーニング2」で先日完結した「世界の終わりの魔法使い 小さな王子さま」でも見られた。西島大介は最近、このような歪められた全景図のカッコよさを多く描くようになっている。かつてイラストレーターとしての彼の仕事では、どちらかというと平地を正確なパースに従って描き、そこに細密なテクスチャを載せていくようなものが多かったはずだ。おそらく彼は「アトモスフィア」のラストで平面的な(でしかない)ものとしてコマ内を描く彼自身のやり方を超越してから、このような歪んだコマを多く描くようになったのではないだろうか。ぜひ付け加えておきたいが、「アトモスフィア」のラストシーンは、西島大介が平面として認識されすぎる自分の絵を逆手にとって、マンガのコマについて表現論的な批評性を見せ、さらにシミュラークルからなるマンガという(反)物語論の問題までにも1つの結論を付けている。この達成があったからこそ、彼は以後、あれほどの批評性を持った作品をずっと描いていない。おそらく今のところ、到達点としての「アトモスフィア」を直接に受け継ぐものを描く理由がないのだろう。いずれにせよ「アトモスフィア」はマンガ読者を自認する人すべてにぜひ読んでもらいたい傑作だと僕は思う。

「ディエンビエンフー」の話に戻る。西島大介がいわゆるリアリスティックな戦争マンガを描こうとしていないのは明白で、彼は「遠くにあって決して到達できない」という現代的にリアルな戦争を、少年マンガの「存在しない」リアリズムに結びつけた。だからこのマンガで人を切ればゴム人形のように輪切りにされるし、マシンガンの弾はナイフ一本ですべてはね返されることが可能なのだ。そして3巻では強力なキャラクターが次々に登場し、読者をまるで「バキ」のように単純にプロレス的な「強さ議論」へと誘う。ここで彼はバトルを見せるから、読者に楽しんでもらいたいはずなのだ。あとは、お姫さまが敗北を契機に必殺技を2つ3つも身につければ完璧なのだ。ああ、このマンガを本当にたくさんの若い読者が読んだらいいのになと思う。

しかし、これがただの「バトルマンガ」に終わっていない、というよりむしろ現代に自覚的な語り手としてある西島大介がもはやただのバトルマンガとして終わらせることができないのも事実である。キャラクター同士の見得の切り合いが終わり均衡状態が決壊したとき、人は一瞬で命を奪われる。その現代のバトルマンガに定型的にある展開を、西島大介はあっけなく命が奪われる戦争と、「かわいいキャラ」としての自分のキャラクターの希薄さに結びつけている。彼はいつも通り、入念に考え抜いたあげくに新たな題材として戦記を選び、描いている。また「2人はまだ、お互いを知らない」という毎回繰り返されるヒキの文句は、つまりは矢沢あい「NANA」と同種のものだ。西島大介は最終的に起こる悲劇を前提にしながら物語を前に進めるという物語的に極めて定型的なものを試している。この物語の定型性は多くのケータイ小説と関連付けて語ってもいいし、例えば今フジで放映しているドラマ「ラスト・フレンド」だって同じ事をやっているとも言える。簡単に言えば、彼はその定型性を利用して物語を終結に向けて「ひっぱって」いる。まさに「ヒキ」なのだ。このような定型性を常に批評的に醒めた目で理解した上で物語の要素として選び出すことができるのが西島大介という作家の真に恐ろしいところだと僕は思うのだが、しかしおそらく、その定型を完全に受け入れた上で、「愛」や「死」という素朴で、しかし重い感動を本当に読者に届けることができるかというのが、彼の今作での挑戦なのだろう。「アトモスフィア」については、2006年に出版されたにもかかわらず、今なお多くの読み手によって語られるべき言葉が語られていないように僕には思われるが、しかし既に西島大介がさらにその先に進んでしまった「ディエンビエンフー」の面白さは、何というかもう、単純に面白い。

「ディエンビエンフー」といえば、サウンドトラックが発売された折に、フライヤー用に短い推薦文のようなものを僕が書かせていただいた。その文章は今DJまほうつかいのMySpaceで読むことができる。短いが、こちらもぜひ参照していただきたい。

2008.06.18 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ

クイック・ジャパン78

今売りの「クイック・ジャパン」78号では、「我々は再び、何を見ようとしているのか?」という小特集で「劇場版 空の境界」について小論を載せていただきました。なんと中田健太郎さんが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」について書かれた評論と併せて載せていただくという、僕にとっては大変名誉な原稿だ。僕が書いたのは実際のところ、先日このブログで「ゼロ年代の想像力」について書いたときの「定型の物語」についての内容と大きくかぶっているが、ただ「空の境界 劇場版」についての内容なので、ずっとその作品について多く書いている。特に記事では、劇場版の第四章のパンフレットで奈須きのこさんに対して行ったインタビューから、奈須さんの言葉を引用している。それは以下のようなものだ。

たしかに九〇年代の後半の頃は「もうあらゆる王道がやりつくされたから、やってもしょうがない。それとは違うことをやるべきだ」という雰囲気があったと思います。自分もその熱に罹っていたと思います。『空の境界』をやろうと思ったのもその表れだろうし。けど、出来上がってみればこの結果ですし(笑)。ツンツンしながらも、結局は自分を育ててくれた"王道"の力をどうしようもなく愛していたんでしょうね。

この言葉は、まさにこのブログに先日書いた、「空の境界」から「月姫」に至った奈須きのこも、そしてセカイ系もファウストも、「木更津キャッツアイ」すらも、みんな定型の物語の再生に向かっていたのではないかという議論につながるものだ。つまり、前回の東浩紀の言葉として引用した「いまや、あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉に対応して、九八年の時点で奈須きのこははっきりと彼の言う「王道」に向かって舵を切り始めていたという僕の論の根拠がこの奈須さんの言葉にはある。

ちょうど先日、同じ問題について、評論家の福嶋亮大さんが次のように書かれていた。

たとえば、西尾維新や佐藤友哉のような小説家は、それ以前には存在しなかった。デビュー当初の彼らが徹底して暗いファンタジーを書いたのは、コミュニケーションがほとんど瓦礫のように空洞化していることを示すためだった。彼らは、人間と人間のつきあいなどとうに偽物になっていることを、切実に感じていた。しかし、やはり彼らが示すように、その虚飾に満ちたやりとりを続けることしか、もはや人間に残された道はない。もしその虚飾のコミュニケーションすら剥ぎ取られれば、人間は世界から追放されるしかない。彼らの「漫画・アニメ的リアリズム」は、そういう暗い認識と繋がっている。

とはいえ、こんな作家は例外で、いまや「漫画・アニメ的リアリズム」はまっとうな人間ドラマをやり、血の通ったコミュニケーションを描くための素材にすぎなくなっている。もちろん、僕たちはいまでも砂漠のようなコミュニケーションをやっているのだが、それがあまりにも自明になると、安定したドラマをつくることにさして大きな抵抗はなくなる。2008年の我々は、すでにコミュニケーションをきわめてポジティヴに捉えている。かつてコミュニケーションが、逃れたくても逃れられない悪夢的な行為として描かれていたことは、とうに忘れ去られていると言うしかない。宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」は、その忘却のひとつの象徴である。

ここで福嶋さんが述べている「あまりにも自明になると、安定したドラマをつくることにさして大きな抵抗はなくなる」という言葉は、一読して分かるように「砂漠のようなコミュニケーション」についてのものだ。しかしこれはやはり前述の「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので」という話と通じているのだと思う。福嶋さんはこれをコミュニケーションに関わるメタリアルなフィクションの系譜という文脈で議論なさっているが、僕が前回書いたものは単にポストモダン文学の系譜から敷衍できるとした点で異なっている。しかし両者の根は同じだ。ポストモダンという時代に人々が直面した困難に関わるものであることは間違いがない。

ただ、今回のQJの記事では、この2008年において今「まっとうな人間ドラマ」を作家たちが作るということを踏まえた上でなお、我々がそれを鑑賞し論ずることを考える時期に来ているのだ、ということをテーマにしている。そしてそのことはまた、この記事だけでなく、僕が今現在、最も問題にしたいと思っていることなのだ。「ヱヴァ」について書かれた中田健太郎さんは、結びとして次のように書かれている。

問題となっているのは、『エヴァ』の抱える反復性とオリジナリティの間の葛藤が、新しい物語世界のかたちをとって、現代の視聴者の感受性とたしかに切り結ぶこと、それ自体なのである。

エヴァが反復の物語であるということは、単にエヴァが何度も「最終話」を作り直しているということを意味するのではない。エヴァという物語が繰り返しであるということは、物語論の上でも表現論の上でも、その基礎にあるロボットアニメの文法はもちろんのこと、既に語られたあらゆる物語のデータベースから要素がサンプリングされ、それを再構成して「エヴァ」を成り立たせてある。そして「ヱヴァ」はそれに対して自覚的にありながら、なおそれを行うということを意味する。しかも庵野秀明はその再話をエンタテインメントとして作り上げるという。そして中田さんが述べようとしているのはもちろん、作り手のその力強い一手を、受け手である我々が受けて立ってしかるべきであるのだということに他ならないだろう。

「我々は再び、何を見ようとしているのか?」という小特集のタイトルは、言うまでもなく庵野秀明の「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」という言葉を正面から引き受けようと呼びかけるものだ。昨今の作り手による、この再び物語を物語ろうとするという変調は、むろん受け手の変化にも呼応したものでもあると思う。だが、しかしならば今、それが人々に享受される状況になっているということについて、我々は前向きに語るべき言葉を持つべき時期なのだ。ある作品を鑑賞することが、そしてそれに対して下す評価が、「信者」だ「黒歴史」だといった粗悪なマッピングに流用され、単に人々のコミュニケーションを暗く楽しませるだけに消費されてしまう状況は変わってきているだろうか? 少なくとも、この2作が劇場版という形で再話され、ヒットを飛ばし、DVDを驚異的に売っているということについて、我々は肯定的な言葉を紡いでいけなければならない。そうでなければならないはずだ。僕はここに主題を述べよう。我々は作品を愛し、評価を検討して、その上で再びただ愛する、という回路に達することができるだろうか。

2008.06.17 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ

新現実 Vol.1

先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。

彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては

社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする

という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。

僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は、その決断主義も既にさらに越えられるべき段階にある、というものである)。しかし、彼の90年代からセカイ系を経て「決断主義」へ至るという主線をどう引くのか、その描き方には、今ひとつの説得力が欠けているように思った。「PLANETS」の4号においての対談で、東浩紀が彼にそれを指摘した部分がある。引用しよう。

東 (中略)例えばセカイ系の話と宮藤官九郎の話は、すごく素朴なレベルでは全然違うことだと思われるわけです。そもそも消費者層が違うからね。だから、「なんでテレビドラマの話題になってるの」みたいな反応はある意味では正しい。「セカイ系を宮藤官九郎が乗り越えた」みたいな話はそもそも存在しえない問いで、つまりそもそも見てる層が違うんだから、セカイ系が好きな連中が一方にいて、宮藤官九郎が好きな連中が一方にいるだけなんじゃないのと。それを「片方が片方を乗り越えた」という物語にするのはできないんじゃないのという反論はありうるわけだよね。むろん、宇野さんがそう考えていないのは分かるけれど、たとえそうだとしても、批評ではその反論を想定して潰すことができるようなロジックを作り上げないといけない。ところが、宇野さんの連載はそのあたりが平凡な発展史観になっていて、「セカイ系の時代→決断主義の時代→そしてセカイ系も決断主義も乗り越えられる時代へ」みたいな話になってしまっている。だからそのあたりのロジックが非常に弱い、というのは、これは単に批評の技術論として言える。「セカイ系の問題をクドカンが乗り越えた」って主張するためには、もう少し二段階か三段階のクッションがないといけない。

宇野 そんなの、そいつの視野が狭いだけじゃないですか。同じ政治状況の下にあって、同じテーマを孕んでいるのだから関連しないわけがない。こんな島宇宙化の世の中だからこそ、多様な島宇宙の並立を支えるインフラ的な空間は画一化されているわけです。

東 そうねえ。でもそれだったら、最初から島宇宙の話になってないからね。たとえばセカイ系が好きで、宇野さんとまったく問題意識が共有できない読者って、今でもおおぜいいるわけだよ。

宇野 それは単にゼロ年代に対応できていない連中なわけじゃないですか。「もうセカイ系なんていうのは九〇年代後半の残りカスなんだから、ゼロ年代には通用しない」というすごくオーソドックスなロジックで説明できますよ。

東 でもさ、「対応できていない」連中がいることもまたゼロ年代の現実なわけでしょう。「セカイ系が生き残って快調に喋っていた」ゼロ年代もあるわけじゃない。

宇野 それは「ファウスト」があって、東さんがいたからですよ。

さて、ここまでの引用で、僕が「ゼロ年代の想像力」について、この項で議論したいポイントと、また次回この連載について書くときに議論したいポイントはだいたい揃えられている。今述べたように、さしあたって、まず僕は具体的に宇野常寛の論を問う一環として、僕自身によって状況の整理を行う。それはやはり、「セカイ系とは何だったのか」という問題から始まるものだ。

この言葉について、Wikipediaに載っているような説明は、また宇野常寛の理解するそれも、以下のようなものである。

「社会」「歴史」といった中間項を抜きに「自己の内面」と「世界」が直結する「セカイ系」

この説明は、実のところ物語作法としてのセカイ系には全く注目していない。これは、このジャンルの作品が、多分に現実問題に対する批評的なアプローチから物語を成立させた面を持つからだと思われるが、そのためこれまでセカイ系についてなされた説明は、実際にはポストモダン的な時代状況およびセカイ系に類する作品群が、現在の我々にどう理解されたのか、あるいはどう支持されたのかについての説明ではあっても、なぜそれが作家に選ばれたかという明確な説明には達していない。このような説明では、作家が単に批評的な視座から判断してこのような物語を描くことにしたのだということのみを自動的に認めようとしていて、物語論としては十全とは言えない。僕がこのブログでプロフィールに「趣味はフィクションの観賞」と書いているのは、ここでは物語論的な語りを選びたいと思っているいるからだが、それゆえもあって、セカイ系が物語論の上でどのような立ち現れ方をしたのかは検証されるべきことだと感じる。そうすれば、そこから90年代と「決断主義」的なものは正しく接続可能だと思うし、同時に宇野常寛が行いたかったであろう東浩紀に対する批判も、正しい形に導けるはずだ。ざっくりと言えば、僕が今から書くのはそのような内容である。

さて、上記の引用からも読み取れるかと思うが、宇野常寛は、90年代の「引きこもり」的な想像力は「セカイ系を擁護する」東浩紀と初期の「ファウスト」によって延命されたとしている。そして「ファウスト」は3号の「新伝綺」特集によって「決断主義」的な作品の支持へ転向したとする。

あるいは東浩紀も「ファウスト」の転向については認め、そこに雑誌の姿勢として大きな切断があったはずだと両者は認識しているかもしれない。だが、僕の理解はやや異なる。まず、しごく単純な話では、奈須きのこはファウストの第一号から取り上げられている。現在公開されている劇場版「空の境界」第四章のパンフレットで僕は「ファウスト」の太田克史編集長に対してインタビューを試みているのだが、そのことはそこでも語られている。これは単に太田編集長が誌面に対して雑多に流行りのものを並べたのだと思いたい者がいれば、そうしていればいいとだけ思うが、しかし少なくとも、「セカイ系のころ」の「ファウスト」と奈須きのこは時代として切断されず同じ場所に並べられたことが当時のフィクションの状況としてあったのは間違いないのである。また宇野常寛は「ゼロ年代の想像力」の第一回において、オタク系の文化の流れが決断主義に後れを取っていたことの説明として

一九九九年放映の『無限のリヴァイアス』などのヒットこそあったものの、二〇〇四年のTYPE-MOONの台頭まで、オタク系文化の主流がこの変化に対応することはなかった。

としているが、控えめに言ってもTYPE-MOONが「台頭」したのは「月姫」(2000年)によってであるのは間違いないことで、そのことを半ば意図的にか述べていない。あるいは、「月姫」は「決断主義」的な要素を持っていないはずで「セカイ系」に連なるものだから言葉を割くまでもないということなのかもしれない。

だがこれもまた、東浩紀も宇野常寛と似た認識であるかもしれない。なぜそう考えられるか。寄る辺となるのは「新現実 Vol.1」での、大塚英志と東浩紀の対談である。この本は2002年に出版されたものだが、今回読むべきなのは136ページからの大塚英志の言葉である。

大塚 もう少し、新しい小説はどうなるのかという話をしたいんだけど、僕がそういうことを意識したのは、一つは新海に対する評価で、もう一つはTVドラマの『木更津キャッツアイ』だったのね。ぼくはけっこうはまっていたんだけど、何が面白かったかというと『木更津キャッツアイ』はその前にやっていた堤幸彦の『池袋ウエストゲートパーク』で脚本を書いていた宮藤官九郎と、メイン以外の助監督たちがメインに移行して作ったタイトルなのね。堤幸彦は『ケイゾク』とか『トリック』なんかを作って、ここのところのTV業界では先端的なことをやっている人であるわけだけど、彼が抜けた瞬間に若いスタッフたちが作品の中に、前向きで健全な主題を持ち込んできたことが面白かった。細かな断片を積み上げていって世界を構築していくのは同じ手法なんだけど、一個一個のディティールなりエピソードがきちんと主題に結びついているという作り方がしてあって、データベース的な見方をすれば、ああ、あれはあれだよね、で終わってしまうわけだけど、逆に知らないで見た場合には、きちんと意味が構成されるようになっている。ぼくが新海を褒めたのも、実に健全なプロットであり、テーマをおそれないというところが面白いと思ったからなんだよね。

僕の引用が下手で文脈を読み取っていただけるかどうか不明だが、彼は「ほしのこえ」と「木更津キャッツアイ」の両方に、テーマを恐れない、健全さを感じたという話をしているのである。多く物語論に忠実な語り口を選ぶ大塚英志によって、ここで既に「セカイ系の話と宮藤官九郎の話は、すごく素朴なレベルでは全然違うことだと思われる」という東浩紀の推測は裏切ることができる。また同時に、宇野常寛によれば「ほしのこえ」に代表されるようなセカイ系の物語とは相反するはずの「木更津キャッツアイ」は、物語論のレベルで同列に並べることができている。大塚英志がここで行っていることはそれだけではない。彼はエヴァ的な90年代の作品をも、物語論によって正確に解説している。彼の発言の続きにこう書かれている。

あさりよしとおがまんが版の解説で、「エヴァ」はビルドゥングスロマンとしてよいのではないかと書いていて、僕もある時点ではそうだと思っていたわけ。ところがある瞬間に庵野は自分の中に主題が発生してしまったことに対して、驚いたのか怯えたのかわからないけど、主題に必死に抵抗していった。それでひたすら破綻していって、ぼくが映画版の最後をあきれながらだけど評価するのは、結局最後までシンジはエヴァに乗らないわけだよね。ロボットに乗って、責任を引き受けるという少年の成長の結末を庵野は身体を張って拒否した。その主題からの身体を張った逃亡ぶりは「エヴァ」の真の主題だと思う。

この理解は、先日ブログ「灰かぶり姫の灰皿」の長岡さんが、ご自身が執筆なさっているエヴァ論の一部として紹介していた内容によって裏付けられる部分がある。僭越ながら手前勝手に論旨から読ませていただけば、長岡さんは「ガンダムの第一話にエヴァの第一話は勝てなかった」という庵野秀明の有名な言葉を引用しながら、エヴァは「少年がロボットに乗って敵と戦う」というロボットアニメの、ひいては物語というものの定型を強引な形で実現させるしかなかったとしている。これは、先だって発売された岡田斗司夫「『世界征服』は可能か?」において、庵野秀明が「ふしぎの海のナディア」を製作していた頃に言ったという「ところで、このガーゴイルって秘密結社は、なんで世界征服なんかしたいんでしょうね?」という言葉にも対応するもので、庵野秀明は少なくともエヴァを始める時点までには既に、現代に確固たるリアリズムを与えられたものとして、言い換えれば根拠を持った、定型の「お約束」に基づいた物語を描くことができないことを実感していたはずなのである。その実感とはまさに、歴史的な価値が成立不可能になったポストモダンにおいて物語が到達したものだ。ロボットアニメという、最も定型的に作られるべくあった物語の裏側にある根拠のなさは、従ってエヴァにおいては「逃げちゃダメだ」という、半ば作家自らに向けられた台詞によって解消させながらロボットアニメを成立させる必要があった、と長岡さんは述べている。しかし言うまでもないことだが、そのようにして成立させられた物語は、単に定型の物語を実現することとは違った。長岡さんも大塚英志も指摘するようにそれは反物語的な物語への導入であり、結果的には97年に、エヴァは定型の物語の根拠のなさを浮き彫りにする反物語としてのみ完結した。そして、大塚英志は、それに対するものとしてセカイ系や「木更津キャッツアイ」を語るのである。

ところが、新海にしても『木更津キャッツアイ』にしても、作品の中にテーマがあることになんら拒否反応を起こしていなくて、実に健全な作品を作るわけです。そのことがぼくは面白いと思っているんだけど、はたして彼らはそれをどこまで自覚的にやっているのかとも思う。つまり、それさえもデータベース的な展開の所産の一つであり、そこに引っかかるのはぼくみたいな古い世代だけなのかと思うんだよね。

これに対して、このとき東浩紀は次のように話している。

東 確かにその種の健全さは最近の傾向ですが、しかし、一般的に、感動させたいとか主題を入れたいと思うのはごく普通のことですからね。僕は逆に、大塚さんたちの世代がそれを執拗に避けていたということこそが、奇妙に思えるんですけど。

大塚 データベースということで言ったら、堤幸彦にしろ宮藤官九郎にしろ新海誠にしろブロッコリーにしろ使っているわけだよね。でも、そこで主題の有無という歴然とした差異が発生しているのは何故なんだろうか。

東 そこで主題の有無がそれほど重要かなあ。

大塚 主題というよりももう少し大きい意味とか、構造と言ってもいいと思うけど、意味が発生することへのおそれの有無ということは、けっこう大きな問題だと思うんだけど。たとえば、アンダーセルの大塚ギチは新海とかと同じ年代だけど、彼が書くものには意味が発生することに怯えている印象がある。新海たちは作品に意味を普通に発生させていくわけだよね。

当時の東浩紀に見落としがあったとすれば、それはおそらくここであったと僕は思う。いずれにしても、宇野常寛のやり方では、ポストモダニストである東浩紀への批判はパフォーマンスとしての意味以外では体をなせないはずだ。東浩紀はポストモダンにおける実存のあり方について注目してはいたが、ここで物語論的なレベルで考察する余地を棄却するか、あるいはそのような読みを行わない。

東 それは単に意味を発生させられない人間が下手だということではないですか? さきほども述べたように、いまの文化世界はデータベースの層とスペクタクル(=シミュラークル)の層の二層構造で作られているけれど、スペクタクルのレベルでは単に通りのよい話の方がいい。新海さんもその部分はしっかり踏まえたわけだけど、逆に、主題を恐れないことにそこまで拘る大塚さんの方が捻れている感じがする。

大塚 とすると、結局、データベース的な環境の上で、すべてがシミュラークルになってしまっているということ?でも、批評としてそう語ることと作品がそうなることは別だし、逆に完全なシミュラークル化した作品なんて存在しないんじゃない? AIでも使って創作させない限り。

東 それは八〇年代も同じですよね。だからこそ大塚さんたちの世代は意味なんて格好悪いと言ってきたわけでしょう。ただ、いまや、あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった。それだけの話じゃないですか。

ここで「主題を恐れる」という問題がなぜ生じたかということに対して、それが「大塚さんたちの世代が」「80年代」といって世代論的に終わりにした東浩紀の評価は安易に過ぎたのではないか。単純に言っても大塚英志が述べたように新海誠と大塚ギチは同年代だ。まして、ポストモダンにおいて創作の現場では、「大きな物語」の喪失という言葉はそのままリアリズムや主題を持って物語ることができないという危機に直面したということを東浩紀が知らないはずはない。例えばミニマリズム文学の活況などもその流れにあり、もっと遡っても、ボルヘス「伝奇集」でもバース「尽きの文学」でもエーコ「文体練習」でも蓮實重彦「小説から遠く離れて」でも、ポストモダンに物語が駆動力を失っていく課程はやはりあったのだ。そして、それがついにアニメにまで到達したのがエヴァという反物語だったと僕は思う。東浩紀が、社会を成り立たせていた価値が崩壊し、何も選ぶことができない状況から生まれた物語としてのエヴァを認めていたならば、当時セカイ系や「木更津キャッツアイ」のように「最近の傾向」としてあったような「健全さ」を持つことができない物語を単に「下手」と言ってしまうことには自己撞着がないと言えるだろうか。

ただし、逆に言えばここで東浩紀は彼の展開するポストモダンの論理に基づいて正確に「健全さ」について述べているとも言えなくはない。「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉は、今このゼロ年代末の説明としてむしろ正しいと僕は思うのだ。それは「シンジではキラを止められないから」という流れとして宇野常寛によって解説される決断主義への筋道よりも、少なくとも僕には説得力のあるものに感じられる。それについてはまた述べるが、ともかく当時の東浩紀は、自身のこの言葉にあまり意味を感じなかったはずだ。だからこそ彼はこの対談の中で「ほしのこえ」についてあくまで「個人がアニメを作る」ということに注目しているし、また「月姫」についても同様に、同人ゲームから商業タイトルを越えたヒットを飛ばしたという点にのみ注目する。創作の主客が逆転する、もしくは、受け手が自給自足的に物語を再生産し続ける状況については彼は現在に至るまで鋭い考察を続けているが、そこで人々が定型の物語を尊んでいたことについてはあまり注目していないし、彼はまたそのような作品に対して、例えば「Fate/stay night」の主人公について「内面がないし、葛藤がない」という「脳天気さ」を指摘したりする。念のために記せば、ここで僕は、東浩紀はそのように物語を定型的だからと退けるべきではない、彼がこれを楽しめないのは間違っている、彼も楽しめ、というのではない。ただ、その移り変わりがポストモダン的なものに起因するとたぶん彼は気付きながら(むしろ彼は「動物化するポストモダン」の中でそこまで言及できている)、それをいわゆるポストモダン文学の潮流と照らし合わせて接続させてよかったはずだということである。

西尾維新はセカイ系のブームについて、次のように述べている

「僕にとっては、世界=物語で、身近で閉じた世界が物語そのもの。『セカイ系』と言うが、逆に、そうでない問題って小説になるの? と聞きたいくらい」

作家の立場からの発言として、彼の指摘は極めて鋭い。近代社会を成す価値の崩壊は現実を書き写す作法としてのリアリズムの手足を封じ込め、ポストモダン文学は袋小路へ至ったが、しかしこの西尾維新の言葉はリアリズムとは本来リアルではないということを把握して、さらにリアリズム小説だけがフィクションではないことを熟知して、そのことを述べている。そして、彼の言葉から敷衍するならば、セカイ系の物語とは、エヴァという反物語からの反動と捻れから極端に批評的な形で生まれようとした、必ずしもリアリズムに基づかない定型の物語への憧憬であったのではないか。

「ファウスト」もまたそうだったはずだ。太田編集長は、おそらく結果論として、新しい時代の作家をミステリから招いた。ミステリはつまり殺人が起きて、犯人がいて、解決される。その図式はまさに定型のものである。とりわけ本格ミステリは、さらに新本格ミステリは、リアリズムを越えてリアルでない「定型の物語」を描く。定型でないミステリ、例えばメタミステリ、例えば犯人がいない小説、例えばフレドリック・ブラウン「うしろを見るな」(もっとも僕はミステリをよく知らないので例として挙げるならコルタサル「続いている公園」の方がしっくりくるが)の被害者は読者だ。しかしそのようなミステリは定型の裏返しでしかない。ともかく、佐藤友哉はそれをパロディ的に自分の中に落とし込んだ。だから彼は、後に90年代以前のJ文学や日本のポストモダンや私小説のパロディを行うことだって可能で、それで彼は文学賞を取れる。舞城王太郎は常軌を逸したトリックなどを使ってリアリズム的なミステリの道具立てに全く意味がないことをことさらのように示すことで定型の物語のエモーショナルな部分の美しさを陰画のように浮き彫りにして描いたが、やがて作品を減らしていった(その姿はまるで小沢健二の辿った隘路のようだ)。対して西尾維新はデビューしてから1年もすれば定型の物語に戻っていった。彼は「クビツリハイスクール」で、ミステリが重要なのではない、つまりは定型の物語が重要なのだと理解し、そしてミステリを取り外したのだ。また奈須きのこ「空の境界」はしばしば「月姫」のプロトタイプとしてのみ語られるが、物語の原型としてだけでなく、同時に作者が「月姫」を書くための試行錯誤の課程としてあった。だからこの小説は随所で型を壊そうとして描かれており、複雑で読者に読みにくさを強いる。しかしその奥にあるものはやはり奈須きのこが「王道」と呼んで愛するもので、これを書き終える頃、奈須きのこは自らがそこに本腰を据えることを認めた。それは98年のことで、だから彼は誰よりも早く、停滞を迎えようとしていた美少女ゲームのエポックメイキングとなるエンタテインメント作「月姫」を作ることができたし、多くのユーザーがその面白さに熱狂したのだ。

こうして作家たちは、また我々は、もう一度物語を物語ることと物語を享受することを等しく目指していた。そこで「エヴァ」も「ファウスト」も、それからセカイ系である「ほしのこえ」も、また「木更津キャッツアイ」も、一つの流れに共に並びうる。そこに切断などない。何かが何かの否定としてなど、生まれていない。むしろこれは、我々すべてが目指した回復の過程だった。そしておそらく、この流れとは、東浩紀の述べた「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉から読まれるべきものだ。

これが、僕が「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて読んだときに抱いたまず1つ目の感想であり、僕自身が示したい、現状への理解の一部である。

2008.06.05 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ] [音楽

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