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デトロイト・メタル・シティ

「デトロイト・メタル・シティ」というマンガを僕は世間で面白いと言われているほどに好きではなくて、だから映画にもさほどの興味がなかったが、ほとんど偶然に見に行ったところ、まったく想像を超えて非常に面白い部分があった。

この原作マンガを僕がさほど面白いと思わないのは、ギャグマンガとして、お話の中にあるギャグのリズムパターンが一定でありすぎるからだ。これはもう単純に好き嫌いの問題なのかもしれないけれど、まず「面白さ」の根源が常時、ズレたお笑いとして見た「デスメタルの凶暴性」と「渋谷系のオシャレさ」、そして何らかのマンガなどのパロディという要素に還元されてしまうところに、読んでいるうちに飽きを感じてしまう。ひとつひとつのネタが面白くないというわけではないのだけれど、冷静な見方をしてしまうと大きな笑いの要素としてはメタルとオシャレとパロディに絞られてしまう。しかも「エアレイプ」とか「ベルリンの金色の風」とか、作者が「面白い」と思いついたギャグのネタを定期的に紙面に差し挟むためだけに各話を構成しようとするところがあって、その意外性のない一定なリズム感は言ってみればこれは僕にとって、「カメレオン」などで人気を博した加瀬あつしの連続下ネタのワンパターンさと同じものだ。重ねて言うが一個ずつのネタが面白くないのではないけれど、同じ要素に収斂することができるネタが一定なリズム感で繰り返されていることに結局は飽きを感じてしまうのだ。

しかし、映画の方は原作とは違った面白さがあった。冒頭からカジヒデキが出てきて「ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME」を大熱唱していたり、着メロが「恋とマシンガン」だったり、タワーレコードで今さらカヒミ・カリィが大々的に売られているシーンがあるだけでわりと面白いのであるが、観客は特にそういうところは笑っていない。これは渋谷系というものを知っている人にだけ送られた目配せであって、それは鬼刃役でK DUB SHINEがDJ OASISと共に出演しているのと同じような小ネタである。しかし余談だがこういう映画にこういう役で平気で出たりするところがいかにもコッタ氏らしくて非常に笑えた。

しかしそんな小ネタはまさに小ネタであって、ギャグとしても物語の本筋としてもこの映画には実は全く関係がない。この映画は簡単に言えばどのように自己を実現するのかという物語であった。他人から認められたい、しかし他人は全く承認してくれない自分を追い求めること(自己承認欲求)を捨てて、本来自分が望んだ姿でなくとも、いま自分が他人に夢を与えることができている自分を肯定する、という話なのだ。自分が内発的に自覚する「個性」を認めさせようというのではなく、他人が発見してくれた自分の長所に自らを委ねて自分も他人も満たされる、という非常にゼロ年代的なテーマ性を持っている。

それだけでも宇野常寛が「ゼロ年代の想像力」で提示したポスト決断主義のモデルと比べて語ると面白そうな話だとでも言えそうなものだが、この映画はそれに加えて音楽というものに対する視線にも面白いものがあった。主人公もヒロインも、自分がオシャレな音楽に夢を抱くように、自分が不快感を感じるようなデスメタルのような音楽に夢を抱かされる他人がいる、ということにラストで気づく。面白いのは、ここで「あらゆる音楽が誰かに夢を与えうる」という題目の下に等価なものとして並べてしまわれることだ。タワーレコードが強力にバックアップしているせいかどうかしらないが、この映画は原作のマンガに比べて現代における音楽のあり方についてずっと自覚的だ。マンガでは現在のところ、デスメタルも渋谷系もズレたカッコ悪さを象徴するギャグのアイテムとしてしか扱われないし、肯定的な表現を模索しつつも、いまだ「音楽は人を殺れる」という言葉でその価値を訴えるにとどまっている。それはそれで悪いものではないが、そこに新味があるかといったらそうでもないのではなかろうか。しかし映画では、消費社会において際限なく等価にされてしまう音楽というものを自覚しつつ、しかしすべてが等価になった後でもなお、この膨大な消費材のそれぞれは誰かに「夢」を与えているかもしれないものだという他者に対する想像力の眼差しを喚起させようとする。そこでは既に、ジャンルによってマッピングしたり価値をランク付けしようとする意志もなく、ただ膨大な消費材の海に自分が愛する何かや他人が愛する何かがあるのだ、という形でのみ等価に位置づける。これはすごく今っぽいものの見方だと思う。

しかし皮肉なことなのかもしれないが、物語の最後にはディスクレイマーとして次のように表示される。

この物語はフィクションであり、物語を構成する一部の台詞・歌詞などを直接的に肯定するものではありません。

つまり「他者が夢を抱く」ことをキーワードにすべての価値観が等価であることを高らかに謳い上げる物語であってなお、この物語は「レイプ」だの「殺害」だのと連呼する曲の思想を肯定するわけではないとしつこく言い訳して回ねばならないのだ。何というか、エロゲーやロリマンガが優れた物語を描きながら、それでも「何だかんだ言ってポルノじゃないか」と言われたり、「この作品に登場するのは全員18歳以上」などと断り書きせねばならないようなものと似たものを感じて面白かった。

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2008.08.31 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [映像] [マンガ] [音楽] [文章

ゼロ年代の想像力

夏風邪をひいた。ひどい熱と腹痛と下痢で、何というかもう、最悪だ。ここ数日、自宅でうずくまって「痛い」とか「熱い」ばかり言っている。起きている間ずっと腹が痛く、しかも晩になると必ず熱が上がり、変な汗がどばっと出たり、急に寒くなってガタガタ震えだしたりする。とにかく仕事にならないので弱った。「SMスナイパー」のウェブサイト「WEBスナイパー」にて、書評を執筆させていただくという名誉な仕事を承ったのだが、おかげで進んでいない。とても申し訳ない。でも取りあえず宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の書評はアップしていただいた。この本は連載時の内容に大きく加筆されており、加筆の中でも時代にとって非常に重要と思われる問題提起を行っているためこのブログで取り扱う必要を感じていた。書評をご依頼いただいたことから、字数の指定がなかったのでブログに書こうと思ったことを全部組み込もうとして調子に乗って書いたらずいぶんと長くなり、ついに二回に分けて掲載していただくことになった(前編後編)。WEBスナイパーさんには大変ご面倒をおかけしてしまった。しかしおかげで、僕が本書について思ったことの大半はこの書評に収めることができたし、本書の全体像についてもそれなりにまとめることができたように思う。だから、興味のある方はぜひご覧ください。今週はばるぼらさんの青山正明についての連載がおやすみなので、その代わりとしてしかたなく読んでいただいても結構です。

内容としては、まあいろんな話をしているが、前編は主に本書の議論をまとめて、90年代の「ひきこもり」からゼロ年代の「決断主義」までについて言わば文化社会学的な態度を取っているのに対し、「ゼロ年代の想像力」が本当に提示したいはずのポスト決断主義的なものについては残念ながら理想論を語るレベルにとどまってしまっているようだ、という話。そして後編のほうは、この本は80年代以前の批評を無理やりに引き剥がして断絶を作るような書かれ方をしていて、それは批評として閉じているのかいないのか、それを著者はどう意識し処理したのか、みたいなことを考えつつ読むと、いつの間にかネットは従来の言説空間からずいぶん遠くに来てしまっている、ということを意識できるので面白い、という話になるだろうか。

読んでいて一番感じたのはやっぱり、書評にも書いたが、この本はとても啓蒙主義的な態度で書かれているなあということだ。ひょっとすると全編を単なる物語論として展開し、90年代の作品はこうで、ゼロ年代前半の作品はこうで、そしてゼロ年代後半の作品としてこのような移り変わりが見られる、とだけ述べる格好のつけかたもあるかもしれないのだけれど、しかし宇野常寛は90年代の「引きこもり」やゼロ年代の「決断主義」について批判しつつ、彼自身の理想とする倫理観へ人を導こうという意識が強いので、そのような本にはならない。実に啓蒙主義的な態度で本書の議論を運んでいて、結局この本は純粋な物語論の本としては成立していない。もちろんそれを目指してもいないのだろう。逆に言えば、理想論にとどまっているように見えてしまう理由もそこにある。

だが、理想を語ること自体は必ずしも間違いとは思わない。僕も彼と同じように、作品から僕個人が理想として考える社会を人に話すことはあるからだ。それに、ものすごく簡単な言い方をしてしまうと宇野常寛が読者に対して説いているのは宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」に対して「終わりのある日常を生きろ」ということなのだが、それをポスト決断主義として考えたいということを、僕は別段否定しないのだ。確かに最近のフィクションに見られる風潮として考えていくに値することだと思うし、例えば若年層のコミュニケーション研究事例などをちゃんと挟めば、実社会における風潮とも同期する動きであるとして説得力を持たせることが可能かもしれないと思う。

しかし、本書におけるその理想の語られ方にはどうしても違和感が残る。彼は本書の前半で、小さな物語の乱立する状況にあって、「真正な物語」を探すことは無意味で、むしろ今後は人は物語をいかにして受容していくのか、「物語との付き合い方」「読み方」こそが考えられるべきだという素晴らしい主張を行っていた。ところが結局この本は「90年代の引きこもりモードの作品やゼロ年代の決断主義に沿った作品には欠陥があるから、ポスト決断主義の考え方に沿った読み方ができる物語こそを人は読むべきだ」としてしまう。つまりここで宇野常寛もまた「真正な物語」探しに荷担して、彼自身が述べた「決断主義」の1プレイヤーとしての立場に自分を置いて動員ゲームを働かせようとする。たぶん彼はそのことも分かっていて「あえて」やっているのだと思うが、しかし結果としてそのやり方は「物語との付き合い方を考える」というような、例えば新しい受容理論の可能性を伺わせるようなものではなく、「これが次代の作品だ、他のはダメだ」と言って作品を示すばかりになってしまった。これは非常に残念である。

真正な物語を探すよりも「読み方」こそが今問われるべきだという主張は全くその通りだと言いたい。それは僕がこのブログでずっと考えていることでもある。僕はもう、たぶん宇野常寛には賛同してもらえないことだが、究極的には、例えば「AIR」が彼の言うように本当に「レイプ・ファンタジー」だったとしても「別にレイプ・ファンタジーでいいじゃん。ファンタジーなら」といかにして言うかということばかり考えている。それこそ僕の理想論で言わせてもらうと、それがマチズモだろうがエログロだろうが、今はまずいったん各人の物語の受容を否定しないことからすべてが開始されるべきではないかと思う。

もちろん、他人の愛する物語に不快感を覚える人はいるだろうし、僕だってこれは嫌だなと思う物語はある。だが、僕はそこで「寛容さ」みたいなものをうまく働かせるような批評はありえないのだろうかと思っている。宇野常寛は小さな物語の乱立にあって「各人の愛する物語をそれぞれに愛する」ということが排他性に直結するのものだということを疑わないし、インターネットが排他的な暴力を生むということを不可避であるとして疑わない。しかし僕はそれでも、まさに今ここで、他者への承認ばかりを蔓延させられないか、ということを考えている。他者に対する想像力を伸ばす。他者が自分と同じ人間だと考える。自分の愛する物語があるように、他者が愛する物語もある。それは自分にとって相容れない物語かもしれないが、しかし他者も自分と同じように何かを愛しているということを認める。そういう想像力を伸ばす訓練としての「物語の読み方」を考える。そのための「批評」というものを模索する。そのために効果的に働く言葉を作る。そうすれば、小さな物語同士の真正さを競う悲惨な闘争は越えられるのではないか。この本の主張を受けて僕個人がどう思うかを考えると、そういうことである。

あと書評に書かなかったこととして気になるのは、「Fate/stay night」の評価についてだ。このゲームに対する本書の評価は単に「決断主義的なもの」というもので、それは90年代の「引きこもり」的な物語がゼロ年代において失効しているという例としてしか挙げられていない。だが「Fate/stay night」という物語は、本当にただ決断主義的なものだっただろうか。むしろ僕は、この作品の最終シナリオは決断主義がその限界において顕してしまう暴力性をはっきりとユーザーに突きつけるもので、そこには考える余地があると思う。簡単に言えばこのゲームは全体として見ると実は、決断主義を貫いてゲームをクリアするにはセイバーという最もユーザーが愛するであろうキャラを刺し殺す選択をしなければならない残酷な構成を持ったものなのだ。さらに続編に当たるファンディスク「Fate/hollow ataraxia」は、ゲームというメディアの条件に自覚的になりながら、決断主義を踏まえた後での物語との付き合い方を扱った作品である。奈須きのこはユーザーが没入できるウェルメイドなエンタテインメントを作りつつ、同時にそれを外部から眺める視点を提供し、批評に耐えうる作品を結実させていたはずなのだ。これらの件については、ぜひなんとか一度このブログで文章にまとめてみようと思っている。

2008.08.17 | | コメント(0) | トラックバック(2) | [文章] [ゲーム

サイコスタッフ

最近はやけにマンガについて考えている。正確には、水上悟志について考えている。僕は去年の暮れ、もしくは今年の頭に「2008年に重要なマンガ家は福満しげゆきと水上悟志だ」とこのブログに書いたと思う。もちろんその気持ちは今でも変わらない。しかし、そのころ僕は、同時に水上悟志「惑星のさみだれ」についてはまだ言葉にできないでいる、と書いたと思う。だが、どうやら最近、僕の頭の中でこのマンガについてずいぶんまとまってきたのだ。だからそろそろこのブログにも書くことができるかもしれないのだが、しかしちょっと5巻まで読み直すヒマがなくて書けないでいる。

仕方ないのでまず今日は、「惑星のさみだれ」を語る前段として必ずあるべき水上悟志のそれまでのすべての作品、とりわけ「サイコスタッフ」のことを書こうと思う。

マンガの話なので、ちょっと告知をさせてください。来る8月22日に、東京・中野ブロードウェイにある講談社BOXさんの運営するカフェ「KOBO CAFE」にて、マンガ家の西島大介君「夏休み!西島大介の一日漫画教室」をやります。僕は当日アシスタントとして、まあ要するに西島君のお話を伺う役および雑用係として出演しますので、お暇な方はぜひよかったらご応募ください。内容について詳しく書くと面白くないので秘密ですが、あえてちょっとだけ書きます。このイベントは「漫画教室」だけあって、単なるファンイベントやトークイベントではなく、あくまでマンガ家になりたいとか、マンガというものにかかわってみたいという方のためのものです。だから参加者の方に絵を描くためのペンを持って来ていただいて、実際にマンガを描いていただくことになります。しかし、例えば人物像をどう描くか、みたいな絵のレッスンをやるわけではありません。実はこのワークショップは「今現在、マンガというメディアを成立させる条件って何だろう」ということと「今現在、マンガ家というものになるってどういうことだろう」という内容になります。ちょっとひねった表現論的的な手法を使いながら「マンガを作り出す」手ほどきをしつつ、マンガを取り巻く今の状況みたいなものも語る、という感じでしょうか。まあ、西島君や僕をご存じの方にはお分りいただけるのではないかと思いますが、我々二人が揃って喋るということは、明らかに脱線を目指しつつ、しかもいかにして従来の価値観を無効化するかというような内容を目論むと思いますので、そういうところから「マンガとは」「マンガ家になるとは」ということについて考えてみたいという方はぜひご応募ください。応募にはアンケートに答えていただく必要があるので、詳しくはKOBO CAFEさんの告知をご覧ください。応募は18日まで、定員15名ですが定員以上になったら抽選になるみたいです。

さて話を戻して「サイコスタッフ」。まずこの作品は水上悟志の十八番的な導入に実に美しく則って始まる。その十八番とはこんな具合だ。まず最初の1ページ目をめくった瞬間、いきなり完全に非日常的なことが起こり、読者があっけにとられる。そして、主人公はそれを平然と受け流す。この作品に沿って説明するならば、すなわち「ラブレターをもらったと思って喜んで放課後に体育館の裏に行ってみた」というベタな日常の描かれる1ページ目から、次のページをめくった瞬間、自分を呼び出した女の子が「Bクラスサイキッカー柊光一くん あなたを惑星ルルイエ宇宙軍超能力部隊にスカウトに来ました」というベタな非日常を話し始める。そして、主人公は即座に「答え! 宇宙より大学に行きたいので! それじゃ!帰って勉強しなきゃ」と言って、そのスカウトを断る。

この、非日常が容赦なく日常に介入してきてしまい、主人公がそれを否定する、という定型は、もっとも初期の短編集「げこげこ」からずっと水上悟志の作品に受け継がれているものだ。ここで重要なのは、主人公は非日常の存在自体を否定するのではなく、それを自分の日常に含めてしまうと社会生活が成り立たないので形式的に否定せざるを得ない、という否定のされ方が取られるところである。例えば「サイコスタッフ」では、実は主人公は単に非日常を拒絶してスカウトを断ったのではなく、実際には自分の超能力に気づいていて、使いこなすことができる。しかし、そんな力を持っていても社会生活にとって何の役にも立たない、むしろ邪魔になる、と言って「普通の受験生」という自分を目指すのだ。この「非日常をいかにして受け入れるのか」というテーマは「惑星のさみだれ」にも全く受け継がれているものだし、水上悟志のこれまでの作品にとって最大のテーマでもある。これは「フィクションをいかに語るか」という問題に大きくかかわるもので、今この作家が注目されてしかるべきであると僕が思う最大のポイントはここにある。

主人公は「なにが巨大な才能だ 努力に勝る才能なんてない」と言って、自分の超能力を否定する。彼には実は、幼少の頃に母親の病死に際して自分の超能力が何の救いももたらさなかったという経験があるのだ。つまり彼は、非日常によって成し遂げられることなど、日常を満たすものではない、というのだ。それは物語であり、現実とは違う。非現実によって満たされる現実など、克己的でない、甘えたものだ。

この問題を「サイコスタッフ」では、どう語っているか。まず「能力は適所で使ってこそ、その意味がある」「誰にも認められない努力なんか無意味だ」と言って主人公をスカウトしたヒロインこそが実は最も軍人として努力してきた人物であることが明らかにされる。「努力の人」である彼女が天才や超能力者という圧倒的な「非日常」を認めなければならない葛藤を抱きながら生きてきたという事実が示されて、主人公はそのひたむきさを好ましく思う。二人は心を通わせ、主人公は最後に、自分の持つ非日常の力によって「巨大隕石の落下から地球を守る」という非日常でしか解決し得ない問題へ正面から向き合う。成功率5%の、宇宙空間で繰り広げられる非日常的な作戦に際し、主人公はついに「がんばって」と言われて「がんばる」と答えるのだ。

やがて終盤で主人公は超能力を失い、スカウトという目的を失ったヒロインは再会を約束しながらも地球から去ってしまう。しかし彼らが「がんばった」日々は残り、二人はお互いのひとときの関係を頼りに、いつか会える日までの「地道な努力」を続けていこうとする。このラストは非常に爽やかで、そして希望に満ちたものだ。

宇宙人に惚れた男…
なんて66億人に1人
くらいなもん
だろう

超能力なんか
なくても

いつだっておれは
おれってだけで
特別な気分に
なれた

この自己肯定は超能力の有無にこだわらず、愛を捧げるたった一人の相手を受け入れることで自分を認めることができるという素晴らしいものだ。しかも宇宙人の女の子という「非日常」によって「日常」が満たされている、ということができる。これはすてきなことだ。

しかしさらに翻して考えると、「作品世界」という大きな「非日常」が単に満たされた、という言い方もできてしまう。従って「非日常をいかにして受け入れるか」という問題自体は、実は続行可能ではある。そして、その問題に再び挑み、おそらくその問題自体を内側から食い破ろうとしているのが「惑星のさみだれ」という大変な傑作なのだろう。しかし、それについては機会を改めて書こうと思う。

2008.08.11 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ

ファウスト Vol.7 (2008 SUMMER)

ここ最近、このブログはメタ批評的にありすぎて、それは僕自身気に入っていない傾向だったのだけれど、仕事のせいもあって、またいろいろ考えるところがあって、意図的にそっちに傾倒していた。しかしあれこれと書評なんかを書いて(まだ上梓されていないけど)だいたい一区切りがついたので、ようやく作品論に戻っていくことができる。ところが、そういうものをどんどん書いているうちに、今度は作品を享受する時間が取れなくなっている。これはゆゆしき問題だ。「崖の上のポニョ」も見ていないというのはおかしなことではないか。そうかとしているうちに「ファウスト」の新号がついに出てしまい、これはもう間違いなく読まねばならないのだけれど、雑誌なのに1240ページもあるのだ。読み切れない。中にも書かれているけど、これはもはや凶器である。鈍器である。読み切れないから、もう、ここにまず書いてしまう。このブログで第一に大切なのはスピードと量なのだ。

とりあえず、筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」だけは読んだ。中学生のころ筒井康隆の愛読者であった僕として、「ファウスト」に筒井康隆が、しかもいとうのいぢの絵で載るなら読まずにおられようか。だからこれだけはまず、読むのだ。全部は読めなくても、佐藤友哉特集にはまだ手が付けられなくても。

最高に面白い。これはまずい。エロ過ぎる。微エロはない。エロい。いとうのいぢのキャラが手コキするなんて、もう角川的な、またラノベ的な判断からしてありえない。しかし筒井康隆は「ライトノベル」というものについて、つまりは「中高生が性的な興味を抱くところから物語を読み始める作品群」としてあっていいということを全面的に認めて、元祖インモラル、元祖アンチタブー全開な作家として、若い書き手になど「おれ」が負けるわけない、というヒップホップ的な、空気などあえて読まない自負によってこのハードコアな小説を作り上げた。そういう意味では、この作品は「時をかける少女」のような、かつて彼が書いていたSFジュヴナイルの作品たちと比較しても、もちろん全く違う意味を持たされている。「時かけ」が美しい友情物語としてアニメ映画化され、中高年のアニメファンなどにも賞賛されている今、しかし筒井康隆という作家は、それはそれとして、ならば今の中高生を対象にしたものを書くならば、彼らと同世代の登場人物を主人公とした強烈なエロがいいだろう、という正しい時代認識を持っている。まさに読むにあたってすっかり中学生の頃の筒井康隆読者に戻っていた僕にとっても「頭がフットーしそうだよおっっ」というわけで、すぎ恵美子以降の価値観を持った小説を赤塚不二夫よりも一つ年上の作家が決然として書くのだ。かつ、同時に「時かけ」にも符合させる、学校の理科実験室、二人のタイプの違う少年、未来人、という余裕綽々とした目配せ。これはすごすぎる。

ところがこれ、終わっていない。続きがものすごく気になるところで読者に対しては手コキが寸止めなのである。「To Be Continued NEXT FAUST!」という、冗談のようなハートマークが付けられている。そうか、分かりました、つまり続きはまた二年半後ってことですね……などといくわけはないのだ。逆に言えば、そんなことになれば太田編集長は筒井康隆という大作家に対してとんでもなく礼を欠くことになるはずで、それは避けねばならない、と太田編集長自身が自覚している……はずである……たぶん。そうであってほしい! だから1136ページの「Thank you all readers! 『ファウスト』Vol.8は2008年末刊行予定です。」という、衝撃的な文句もまた、本当なのである……はずである……たぶん。

自分のことに触れさせていただくと、実は僕はこの「ファウスト」の中で、東浩紀さんにインタビューをさせていただいた。この分厚い本は東浩紀特集も備えているのであって、そこは批評の読者にもちょっと注目していただきたいあたりだ。これは「動物化するポストモダン」が三カ国語で翻訳されたということについての内容で、僕のインタビューのみについていえばもうちょっと紙幅が欲しいというか、僕の仕事の限界ギリギリの強度を読者に、そしてもちろん太田編集長や東浩紀さんにお伝えすることができなかったかもしれないが、しかし今一番語られねばならない状況論はこのインタビューで確実に東浩紀自身の口から述べていただき、紙上に封じ込めることができたという自負がある。だから今の批評について何か考えたいと思っている方には、とにかくぜひ読んでいただきたい。

佐藤友哉特集もまだ読んでいないが非常に楽しみにしている。取りあえず「佐藤友哉の人生・相談」だけ最初に読んで泣きそうになった。次に僕が読むのは、当然、鏡家シリーズの最新作にして入門編である「青酸クリームソーダ」に決まっている。ページをめくるのがもったいなくて、まだ最初の1ページしか読んでいない。どんなミステリになるのか。とてもドキドキする。あと西島大介君の漫画こそ、一番最初に読んだ。読みながらニヤニヤし、やがて爆笑していたら家人に不審がられた。

それにしてもVol.8は、本当にすぐに出るのだろうか。もはや「2008年末」というのは最初っから信じられない僕だが(佐藤友哉が書いているとおり、Vol.6にだって「Vol.7は半年後に出る」と予告されていたのだ)、それでも延びた結果として来年の春くらいに出てくれるのなら、本当にうれしい。楽しみだ。「ビアンカ・オーバースタディ」の続きだって気になるし、第一、僕は「ファウスト」が帰ってくるのをずっと待っていたんだ。本当は僕も明日までの仕事があって、やらなくちゃいけないんだけど、でもさあ、いま再び「ファウスト」の新しい1ページを読むことができるなんて、本当に幸せで、楽しくって、やめられない。そしてこの1240ページをすべて読み尽くしてしまっても、またきっと新しい1ページを届けてくれると約束してくれているのだ。「ファウスト」が続いていく世界。本当かなあ。僕は信じちゃうよ。

2008.08.10 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [アニメ

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