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天元突破グレンラガン

「天元突破グレンラガン」というアニメは、放映中に飛び飛びで見ていたものの、全話を通して見たことがなかった。ここ最近引きこもっていろいろな作品を鑑賞している間にようやく通して見ることができ、やはりこれは大変な作品だと思ったので、ここで何か書いてみたい。

ガイナックスというアニメ制作会社がロボットアニメを作るということは、あらかじめ、相当な苦労を伴うものとしてあるのは確かだ。彼らの作品には「トップをねらえ!」があり「新世紀エヴァンゲリオン」があり「トップをねらえ2!」があるわけで、つまり彼らは原初から「ロボットアニメを作る」ということ自体に批評的な目を持った作品を作り続けており、新たに作るにしても当然その内容はメタ的な視点を十分に踏まえた上である必要があるのだ。そしてガイナックスにおけるすべてのロボットアニメを踏まえるということは、日本のロボットアニメ史全体を踏まえるということに他ならない。自己に向き合いながら、過去と対話しながら、彼らは「新しいロボットアニメ」を提示していかねばならないのだ。

では「天元突破グレンラガン」は何をやっているのか。大枠では、この作品は全四部からなるその物語構成によって日本のロボットアニメ史を総決算しつつ更なる前進を目指そうとしていると言えるだろう。それを指摘できる糸口としてあるのは、やはりまずは第一部におけるカミナというキャラクターと、その死だろう。

カミナというキャラクターは、一体何を象徴する人物だろうか。彼は主人公であるシモンの義兄弟と名乗り、作中で「アニキ」と呼ばれる。しかし、それはシモンを社会化したり彼に生き方、ロールモデルを与える父性的な存在という意味ではない。そう考えるなら間違いである。つまり彼は、例えば「機動戦士ガンダム」におけるアムロ・レイにとってのブライト・ノアであるとは言えないのだ。カミナはシモンに規範意識を徹底させたり社会化を促すことは一切なかった。むしろそのような規範意識を彼は嫌悪していた。第五話において、村長が村人に偽神を崇めさせることで維持されているアダイ村に対して彼が激しい嫌悪感を示すのはその表れである。彼は近代において人々が生きる寄る辺として抱いたイデオロギーを象徴する人物などではなく、「大きな物語」の象徴などではない。つまりこの物語はそういう文脈で語るようには作られていない。

要するにこの物語は、実存のあり方についてよりも、やはりあくまでロボットアニメというフィクションの歴史とそのあり方を象徴的に描いたものとして読み解かれるべきである。そして、その視点で眺めた場合にカミナとは誰なのかを考えるべきである。さすれば彼はもちろん、この作品がオマージュを捧げている「ゲッターロボ」に代表される、70年代の「王道の」ロボットアニメの象徴としてあるだろう。カミナは常に、当時のロボットアニメが「当然そうである」ように行動するキャラクターである。例えば彼が「シモン、アレをやるぞ」と言えばそれは当然「ロボットの合体」なのである。彼にとってロボットが合体して戦うということは疑問を差し挟む余地のない必然なのだ。そして彼は、機械の体をまるで肉体のように柔軟に駆って敵を打ち倒す。そこに複雑な論理は必要ない。カミナが牽引する「グレンラガン」の第一部とは、そのような「古き良き」ロボットアニメに対して忠実に描かれる。

ところが、第一部の最後でカミナは死んでしまい、そこで「古き良き」ロボットアニメは終わりを迎える。思えば第一部においてはこの物語にはほとんど「死」という現実が介入してこない。原則として「死」は存在しないか、うやむやにされている。敵ロボットを倒した後でも、コクピットから脱出した操縦士が逃げ帰る姿がたびたび描かれることで、この物語の活劇は明るく楽天的な形で維持され続けるのだ。

ところが、「まるで漫画のように」不死身の活劇を繰り広げ続けていたカミナが第八話で死んでしまうことで、この物語は「死」というリアリズムに直面してしまう。だからカミナの死に端を発して、第一部の終わりから第二部以降には敵キャラクターが爆死する姿もちゃんと描かれるようになるのだ。アニキのいないロボットアニメの中で「アニキならどうするのか」を考えて敵を倒そうとするシモンは、しかし「死」というリアリズムに縛られて残虐に敵を破壊することしかできないようになる。それは「新世紀エヴァンゲリオン」が突き当たった問題と根底を同じくするものであり、だから第九話冒頭の戦闘シーンなどは「エヴァ」の戦闘描写と非常に近い陰鬱さをたたえている。また第十話の「ダメだよ、オレはアニキにはなれない」という言葉は「自分たちはかつてのロボットアニメを作ることができない」という意味に他ならない。

だが物語はここで「かつてのロボットアニメを描けない」という自負を受け入れた上で前に進もうとする。カミナは第一話で、「お前じゃなくてオレを信じろ。お前の信じるオレを信じろ」と言い、次には「お前を信じるオレを信じろ」と言っていた。そして死の間際には「お前の信じるお前を信じろ」と言ったのだ。さらにニアは「シモンはアニキじゃない。シモンはシモンでいいと思います」と言う。シモンはニアとカミナの言葉をやがて理解し「自分の信じる」ロボットアニメの主人公となり、強大な敵を打ち倒すのだ。それが第二部のストーリーである。つまりこの物語は「エヴァ」の問題を作品の半ばにして超克していくのであり、それはこの時代にあって、もはや驚くべき事ですらないのかもしれない。

だからこの物語はそこで終わらずに、さらにリアリズムの問題を突きつけようとする。それが第三部以降の展開である。グレンラガンを量産化したロボットたちは俗に言う「リアルロボット」のようなリアリスティックなものになり、また敵の形状も「エヴァ」における使徒のように無機質な姿形をしたものになる。また第一部と第二部において戦いの場は常に荒野であり、それはかつてのロボットアニメや特撮ヒーローたちが主に荒野を戦場とし、あるいは市街地においても人気のない場所で戦ったことと同じようにされていた。しかしリアリズムがさらに強く意識される第三部において戦いの場は都市であり、そして敵を倒せば「巻き添えになって殺される一般市民」が現れる。このような描写は昨今のロボットアニメでは頻繁に見られるものであり、例えばごく最近の例では鬼頭莫宏「ぼくらの」にあった市街地における甚大な被害などが思い出される。第三部とは、リアリズムに縛られた現代のロボットアニメの世界そのものなのである。

この問題に対して、第二部において「ロボットアニメのヒーロー」を自覚したシモンは、被害者が出る前にグレンラガンで敵を殲滅してしまえばいいというふうに考えるのだが、それはリアリスティックなロボットアニメとは相容れない考え方であった。シモンは第二部で困難を乗り越えたように見えたが、結局彼はカミナが象徴していた「スーパーロボットもの」のヒーロー像を再帰的に採り入れることに成功しただけであり、戦争後に安定を目指す世界において彼は古い想像力を引きずったロートルに過ぎない。だから彼は戦闘にあたって都市破壊も辞さない乱暴な手段を当然のように行ってしまうが、その行動は現代のロボットアニメのリアリズムを象徴するキャラクターとなったロシウから「なぜそう楽な道を行く!」と批判されてしまう。単にスーパーヒーローが派手に戦い、「死」という問題を捨象した上で勝つという展開は、リアリズムにとっては安直なやり方、「楽な道」でしかないのだ。そして、物語中の民衆にもそれは受け入れられない。暴動を起こし、カミナの銅像を打ち倒そうとする民衆とは、ロボットアニメにリアリズムを求め、スーパーロボットによる勧善懲悪ばかりで事が済むことを許さない我々視聴者の姿に他ならない。

しかし、ロシウのリアリスティックな想像力は、結局すべての人類を救うことができない。ロシウは、シモンのやり方では世界を平和に導くことが出来ないと考えて、物語を主導する実権をシモンから奪い、新たな敵を倒すために様々な策を弄する。しかし彼は結局地球上の人間の半数も救うことができず、しかも「絶対的絶望を与える」ことを明言する最後の敵によって全滅を予告される。いかなる策も通じない「絶対的な絶望を与える」敵とは何だろうか。現実的な解法が一切通用しない相手、それはフィクションそのものだ。だからこそロシウは最後にはリアリスティックな解法を諦め、フィクショナルな解法を持ったシモンに物語の担い手を戻すことを選ばざるを得なくなる。そして、シモンは自らの想像力をどこまでも増大させながら最後の戦いに臨むのだ。最後の戦いは、敵の数が「無量大数」と表現されたり、存在確率を変動させるミサイルが出てきたり、銀河を掴んでぶん投げたりしてもうメチャメチャな展開である。敵の攻撃も、シモンや仲間達の想像力を逆手に取るようにして、想像可能ないくつもの可能世界(多元宇宙)の中に彼らを封じ込めたりする。これはもはや、フィクションの想像力そのものがぶつかり戦っているという感じになっていて、とにかく面白い。

最後にシモンたちは可能世界の中から「敵に打ち勝つ」という「自分たちの目指す世界」を選び取ることで勝利を掴む。かくしてこの物語は、70年代ロボットアニメの奔放な想像力からスタートし、それがいったん挫折し、しかし再帰的にそれを導入し直して、かつ最後にはあらゆる想像力の極限を突破するところで終焉する。ロボットアニメはもちろん、我々の想像力というものが果てしなく高みへと駆け上り続けるものだということを高らかに謳いあげる、これはとても素敵な物語だ。

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2008.10.14 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [アニメ

君が忘れていった水槽

アンディー・メンテのジスカルドこと泉和良さんについては、今号の「スタジオ・ボイス」誌にてインタビューさせていただいた。

そういえば、引きこもっていたせいで全く書けずにいたが、この前の号の「スタジオ・ボイス」で僕は宇野常寛「ゼロ年代の想像力」についての書評を書いている。興味がある方はバックナンバーなどで読んでいただければ幸いです。この本についてはもうずいぶんいろいろなところで書いているので特に今言うことはないが、「小説TRIPPER」の今号での東浩紀と宇野常寛の対談は、僕がWEBスナイパーの書評(前編後編)において書かせていただいた同書への疑問点とかなり近い部分を東さんが宇野さんに対して尋ねられていらっしゃるという興味深い内容なので同書に興味のある方は必読かと思う。

さて話は「スタジオ・ボイス」に戻るが、今号の特集は「ゲームを作ろう!-非ゲーム・クリエイターのための入門講座」というものであり、なかなか濃い内容の特集になっている。誌面からどこか懐かしい90年代のサブカルの香りがするのは、ゲームというメディアがまだその空気を残しているということなのだろうか。ちなみに僕の行った泉さんのインタビューの前ページには、ばるぼらさんによる神奈川電子技術研究所のインタビュー記事が掲載されていたりもする。

泉和良さんにも、今回は小説ではなくやはりアンディー・メンテについてを中心に、彼の「フリーウェアゲームスピリット」について語っていただいている。小学生の頃からMSXでゲームを作成し、地方の草の根BBSに毎日アップしていたというエピソードや、彼があの「MSX・FAN」の読者であり、そしてもちろんBio_100%やイタチョコシステムから大きな影響を受けた結果として今の活動があるというお話は、「マルチメディア」という言葉がまだ目新しかった90年代のゲームやコンピュータ文化、さらにはベーマガやMAX・FAN、POPCOMなどのような80年代の投稿ゲーム文化と今を繋ぐものとして読める、面白いものになったと思う。今号で僕は泉さんだけでなく「桃鉄」のさくまあきらさんにもインタビューを試みているのだが、こちらでも個人によるインディペンデントな活動としてのゲーム制作について興味深いお話をいただき、全体として才能を持った人物がアイデア一発で面白いことができてしまうパンク/ニューウェーブの精神が感じられる創作の可能性がまだゲームというフィールドにはあるという誌面になったように思えた。

それにしても泉和良さん、あるいはアンディー・メンテというサークルの立場を正しく説明するのはとても重要なことだろう。彼の活動は2000年以降の「いつものところ」や「TYPE-MOON」のような「同人ゲーム」、あるいはノベルゲームの盛況とはいささか趣を異にするものとして語られなければならず、またそうしなければ小説作家としての泉和良という人物が何をやろうとしているのかも分かりにくくなるはずだ。アンディー・メンテが今年発表した作品である「君が忘れていった水槽」はウィンドウを水槽に見立てて、そこで勝手に増殖や分裂、闘争を繰り返して成長や滅亡を繰り返すデジタルな生物の様子を眺めるというものだが、内容はもちろん、この作品は音楽がとにかく素晴らしい。ゲーム中では常時BGMが流れているのではなく、何かのタイミングで不意に一曲流れてはまた静寂が訪れる。そのふっと鳴り、ふっと終わるというどこか寂寞感の残る使われ方が非常に素晴らしいわけだが、しかしこの10曲を越えるエレクトロ/アンビエントの楽曲の数々は、今年僕が聴いたすべての音楽の中でも指折りの名曲ばかりだ。明らかにゲームミュージックという範疇を超えていて、どちらかというとゲーム好きはもちろんだが、音楽好きの人や、ゲームに興味のない人にこそ聴いていただき、その質の高さに驚いてほしいものだ。そうして、泉和良という作家の驚異的な才能に興味を持っていただきたい。全くジャンルの垣根を越えて、こんなところで質の高いものを作っている人がいるということをぜひ知っていただきたい。

アンディー・メンテの楽曲や映像作品はYouTubeなどでも、たとえば「うんぽこ」「メリークリスマス アンディーメンテ」、聴くとものすごくやけっぱちで悲しい気持ちになる「あんこくねこぐんだん」、あるいは「キューティーライダー」などを楽しむことができる。「キューティーライダー」の「さよならスウィーティー」の回などはむやみに燃えるいいムービーだ。余談だが「うんぽこ」のムービーは流水大賞の優秀賞授賞式において滝本竜彦の手によって講談社の偉い人が集まる前で流されたという噂であり、だとすればなかなか抱腹絶倒なエピソードではある。

しかし「君が忘れていった水槽」に付けられた楽曲は上記にあげた動画とはまた一線を画するもので、僕はこちらの方がずっと好きだ。配布されているゲームのアーカイブを解凍すれば音声ファイルがWAVE形式で収められているので、これをiTunesなどに突っ込んで好きなときに楽しんでもいいと思う。僕はそうしている。本当に流していて気持ちのいい音楽なのだ。

2008.10.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [映像] [文章

パンドラ Vol.2 SIDE-A(2008AUTUMN)

あんまり体調がよくなくて、このブログの更新を1カ月ほど行うことが出来ないでいた。仕方がないので引きこもり気分で小説やら評論やらゲームやらアニメやら映画やらドラマやら、とにかく手当たり次第に手を付けていた1カ月であった。その末に自分の中で猛烈な勢いで90年代後半からゼロ年代前半のブームが来てしまい、西尾維新や佐藤友哉や滝本竜彦や上遠野浩平の古い作品を読み返したり、「ガンパレード・マーチ」にハマってみたりして、この10年についてや次の10年についてじっと考えていた。これはとても楽しい作業で、かなりいろいろなことに見通しが立てられた気がする。その内容は、このブログにも反映させていこうと思う。出力するばかりでなく、再読によってここまでの状況を見直すことはとても大切なことだった。引きこもるのもたまにはいいものだ。

さて、まだ全部読んでいない本について書くのは忍びないのだが、僕がそんなことをしているうちに「パンドラ」の最新号が出た。僕はこの中で「東浩紀のゼロアカ道場」のレポート記事を書かせていただいている。ゼロアカ道場についてこのブログに書いたことはないと思うが、実は僕はこの批評家発掘イベントの第二回と第三回を一見学者として拝見させていただいた。はじめに見に行ったときは、西島大介君とやる漫画教室イベントの参考になればよいと思っていたのだが、ゼロアカ道場自体がとにかく非常に面白く、また拝見していていろいろと思うところが多くあったので、今回レポート記事を書かせていただけたことはとてもありがたいことだ。

レポートの内容は、いやしくも批評をテーマとするイベントに対して、単に「現場はこんな感じでした」というだけのものを書いてもつまらないので、ゼロアカ道場というもの自体に批評的な視線を加えて、東浩紀や講談社BOXが何をやろうとしているのか、また参加者たちの行動が今の若い批評の現場に何をもたらそうとしているのかということを論じようとしている。そうするために、見学の折に参加者たちとお話しさせていただく機会があったり、あるいはウェブ上でゼロアカ道場に言及できるタイミングがあったときにも、この企画自体にはなるべく多く言葉を挟まず、あくまで第三者的に、観察者として振る舞うようにしてきた。おかげで記事の内容は、いかにも提灯記事というものではなく、内輪ノリなものでもなく、ゼロアカ道場というものを正しく突き放して書いたものにできたと思う。

しかしそれと同時に、記事においては「批評」という取っつきにくそうなものに似つかわしいような堅めの文体を用いるのではなく、バトル漫画の「解説キャラ」のような立ち位置に自分をおくようにしてみた。ゼロアカ道場とは「新しい批評家を発掘する」というものだが、それは一種のリアリティショーとして成り立っており、現場はまるで「批評家バトルもの」というジャンルの漫画のような演出が加えられ、またそれが見事に成功している。だから僕はその場において「魁!!男塾」の登場人物が「も 桃ーっ」とか叫びつつ説明口調でバトルで繰り広げられる技に解説を加えるような役割を自分に与えてみたわけだ。文体は「カイジ」と「バキ」と「MMR」を寄せ集めたようなものにしてあり、ご一読いただけば、どことなくバトル漫画的な説明口調をもって、ゼロアカ道場というものがどういうふうに盛り上がっているのか、またそれに今どんな意味があるのか、そして今後の課題として考えられるものは何なのかをご理解いただけるというちょっと変わったものになっている。こういう伸び伸びとした文章を印刷媒体に書くのが久しぶりな僕としては、書いていてとても楽しかった。しかもこのゼロアカ特集は「パンドラ」の巻頭特集であり、かつ結果的に僕の文章が事実上の冒頭を飾る文章となったようだ。大変な僥倖である。今回の「パンドラ」にはなんと目次が付いていて(「ファウスト」や「パンドラ」を知る人にとってはこれはわりあいに驚くべきことなのである)、その目次の先頭に「さやわか」という僕の筆名を載せていただいていて驚愕した。せっかくですからよかったらぜひ載せられた記事をご覧ください。ゼロアカ道場については、11月9日の文学フリマにて同人誌の販売部数を競うという第四回関門が行われる予定で、僕もまた同人誌を買いに走りたいと思っている。とにかくはじめは一見学者であったはずが、今や先がどうなるのかすっかり目が離せなくなってしまった。文学フリマはまだ一度も言ったことがないのだが、今から楽しみだ。

さてこの「パンドラ」だが、先ほども書いたように、残念ながらまだゼロアカ道場の特集以外のすべてのページに目を通すことはできていない。だから細かなことをここに書くことができない。しかし、編集長が今号から変わったことによる変化ははっきりと出ているように感じた。前号までとは誌面のイメージが大きく変わったように思う。ページ数の多い漫画が多くあるのと、新人作家が多く書いているせいか、ポップでフレッシュな印象の誌面になったようだ。また前号まではおもちゃ箱のような、良い意味で雑多な印象の雑誌だったが、今号は整った編集方針が感じられるように思う。

個人的には小柳粒男、泉和良、針谷卓史という講談社BOXが推している「危険な新人」の三作を最近すべて読んでいろいろと思うところがあったので、彼ら三人の新作をまずは読んでしまいたいところだ。アンディー・メンテのジスカルドこと泉和良についてはもちろんだが、小柳粒男についても「くうそうノンフィク日和」「りべんじゃー小戦争~まち封鎖」をとても興味深く読んでおり、このブログにおいて後で記事にしてみる必要を感じているため、今号の作品を読むのも楽しみにしている。「くうそうノンフィク日和」の表紙には「さあ叩け!」という煽り文句が付けられているわけだが、騙されてはいけない。この言葉によって作品は明らかに読み解かれるのを待っているのだ。このような挑発には、我々は断固として乗るべきなのである。

「ファウスト」と「パンドラ」のカラーの違いも今号ではより明確に出ているように思う。蓋し、今号においてよりはっきりとなった編集方針とは、当初から「パンドラ」が目的の一つとしていたであろう、今後の講談社BOXを担う新人育成の場としての雑誌であろうとするというところではないだろうか。「新しい小説」「新しいライトノベル」「新しい批評」「新しい漫画」という、いわばマーケットにおける「新しい商品」を準備しようというのではなく、「新しい人」を見出すという目的で、まずは今回の「パンドラ」は舵を切り始めたように僕には思われた。

2008.10.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

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