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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

さて、劇場で見てから一ヶ月以上経って、ようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について書くことができる。この一ヶ月の間に「破」については多くの意見が交換されたと思うが、僕は忙しくてあんまり見ていない。でも二次創作的だと言われているという意見をちらりと伝え聞いて、これはそんなに単純なものではないだろうと思った。では何なのか。それを、例によって今からこの文章を書きながら、考えてみたい。ただまあ、おそらく、僕の意見はこの作品を見た一ヶ月前から変わっていない。最初に僕が思ったのは鶴巻和哉がやってくれたんだということで、これは本当にすごい作品だ、ということだ。

「破」が二次創作的だという意見に対して、僕は「序」が既にそうだったというしかない。「rebuild」の「re」に込められていた反復の含意はそういうことである。旧エヴァという母体を王道の物語へと焼き直す態度はそうであった。さらに、もともと旧エヴァという作品自体が、ロボットアニメの、あるいはアニメそのものの二次創作しか描くことができないという断念からスタートしたものではなかったか。根底にアニメ的なものしか持たないモノが、それを際限なく過剰にしていくことで現実を突きつけようという作品だったのだ。だから、「破」こそは二次創作的であるという指摘はほとんど何も言っていないに等しい。ならばこの「破」とは、「re」などという反復で象徴できるようなものではないのではないのか。「破」の一字によって破壊、破綻、破産、破滅させられるものとは、やはりエヴァンゲリオンそのものなのだと思う。「序」において、しっかりとワンダバ式に盛り上げられていくヤシマ作戦や、前向きに生きるシンジの姿によって、我々は確かに王道の物語としてのエヴァンゲリオンの再話を見た。我々はそれを二次創作だと呼んでいい。「本来ありうべきだったエヴァンゲリオンを作っているのだからそうではない」というのなら、もちろん誤りである。

しかし、「破」は「序」を引き継いで同じ事をやっているとは全く言えない。むしろ、ドラマに着目すれば「序」「破」はたしかに同位相にあるのだと言っていい。だからこそ、この「破」が何かを壊したと感じさせるならば、それはドラマには全くないし、今そこを見続けてもしかたがないのである。シンジやアスカがゼロ年代的な主体性を見せているということは、むろんドラマにとって重要なことに違いない。それは疑う余地がないことだ。しかし、僕は言ってしまおう。「破」というフィルムにおいて、それはもう、物語がループを繰り返しているか否かとか、ゲンドウのセリフの元ネタがなんだとか、この物語を楽しむ上で皆が欠かすことのできない「謎解き」と同列になっていて、ともに「破」がいま何をやっているかということにとっては、あまり重要なことではない。

「序」の前口上として庵野秀明は、旧エヴァ以来、新しいアニメはなかったと述べたが、しかし後にエヴァが直面した二次創作しか描くことができないという断念を受け継いだ上でロボットアニメはなお前進してきたし、それはほかでもないガイナックスの「トップをねらえ2!」や「グレンラガン」において、輝かしい達成を見せている。だからこそ、「破」においては、旧エヴァが経験していないものがあからさまに作品に介入させられている。旧型プラグスーツの丸みを帯びたデザインや、対照的に鋭さを強調する仮設五号機のデザインは、あきらかに「旧エヴァ」より後の時代に我々が経験したガイナックスのロボットアニメ作品、たとえば「トップをねらえ2!」の系譜にあるものとして見ることができる。旧エヴァ視聴者にとって「新しいもの」として現れる「旧型」のプラグスーツは、エヴァが王道の物語として再話されることを示唆しながら、しかしそのデザインによって既に先行した存在があるということをも訴えている。アスカがテストプラグスーツを着ている瞬間に、ドラマの上でゼロ年代的な主体性を見せることなど、いわば当然のことなのである。

このように、「破」においては、とにかく視覚のうえでは至る所で旧エヴァを追い詰めようという策略が展開されている。たとえば「序」が忠実に繰り返した例の極太明朝のスーパーインポーズを取り払っていることにも「トップをねらえ!」に対した「トップをねらえ2!」に通ずるものを感じる。しかし、このスキームの頂点にいるのはやはり新キャラクターであるマリである。

彼女はその運動のすべてが旧エヴァ以降のもので、フィルムにおいてほとんど別レイヤ上の存在のようにすら見える。旧エヴァを破綻させるために彼女がやるべきなのは、ただその場で動くだけでいい。彼女が口の端をよく動かして嘲笑うさまは、旧エヴァで「チャーンス」と笑ったアスカと全く別の位相で響く。マリの豊満な胸の運動はこのくらいのアニメ的な想像力に導かれており、旧エヴァ第壱話からあれほど視聴者が注意喚起を促されたミサトの胸を生身の女性のそれに引きずり下ろす。ゼロ年代アニメの存在である彼女が動き、話すたびに、アニメであることを突き詰めていたはずの旧エヴァの登場人物はどんどん過剰さを失い、反面にスキニーな実体らしさまでもを露呈してしまうのだ。カヲルは「序」に引き続き今作でも物語の外部を暗示するようなセリフをいくつか述べたが、しかしマリの登場によって彼の危うさは相対的に失われていく。カヲルのメタフィクション性は観客にとってそれ自体がフィクション内部の娯楽装置として受け入れられてしまう段階にある。言うなればカヲルは作品が虚構であることを観客に強く意識させようとなどしないのである。ここでメタフィクションは既にフィクションを食い破ってなどいない。カヲルは言葉によってメタフィクションを暗示し、それ故にドラマの上でしかメタ的でない存在だが、しかしマリはセリフの上では何一つ暗示せずに、しかし物語全体を嘲笑う、真の意味で物語の外部に立つ存在なのだ。

ほかに。旧エヴァに存在したカットが、構図を複製され、しかし描き改められ、その上で全く別の文脈でドラマに挿入させられていることに注目したい。例えばシンジが屋上で上を見上げるシーンや、レイが特攻するシーンにおいて、フィルムが伝えようとした状況、そして重要なのはエモーションが完全に別のものに置き換えられている。ここで行われているのはもはや単なる二次創作ではない。月並みな言葉になってしまうが、MAD的なものが働いている。しかしそれ以上であるようだ。シーンを作り直すだけならば「序」のようにしてやればいいのだ。みんなの知っているあのシーンの絵を描き改めましたというだけならばリメイク(re)作品だと自然に言うことができる。しかし「破」は、旧エヴァのすべて、テレビも映画もゲームもパチンコも、そのすべてを使用可能なリソースとして認識し、自由に要素を抜き出して思うままに旧作の中に忍び込ませながら、エヴァという歴史を捏造している。旧作の設定に依拠しながら別の物語を組み上げる二次創作とは違うし、旧作から映像や音声を抜き出して文脈を成立させるMADとも違うことをやっているようだ。しかもオフィシャルな作り手にしかできないそれを、意図的にやっている。

僕が唐突に思い出したのは三国志のことだった。三国志は、三国志演義がたいへん有名であり定本のように扱われているが、しかし実際のところ何が正史なのかははっきりしない。そして、今や夥しい数の三国志が、勝手気ままに創造されている。しかしそれらを見て、我々は「三国志の二次創作だ」などと考えたりはしない。三国志の一次創作物が何なのかということ、さらにいえば史実がどうであったかということすら、我々には何の関係も持たない。「破」によってエヴァにもたらされたのは、おそらくそのような事態だ。その意味で、「破」もマリも、エヴァを簒奪しようと目論んでなどはいない。「正史」は単に消滅する。そして、新劇場版の描く「偽史」が幕を閉じるころ、我々の時間は劇中と同じ2015年に追いつくだろう。これはうまくできている。

ところで、しかし、むろんこのフィルムに庵野秀明の「らしさ」はあまり感じなくて、次には彼が、本当に破綻させるということはどういうことなのか教えてくれるのかもしれない。僕はそれを待っているだろうか。僕は「破」に満足しているので、分からない。しかし、それでも、次にも何かのショッキングなものを期待してしまう。今回の劇中曲のような、あの狂った気恥ずかしいスタイルでしか味わえないものは、確かにあるのだ。

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2009.08.05 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [アニメ] [映像

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