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SFマガジン 2007年 07月号

別に映画が公開されるからというわけではないが、最初に少しだけ「新世紀エヴァンゲリオン」の話が必要だ。95年に放送されたあの作品は様々な問題提起を行ったが、当時僕が一番高く評価したのは物語が成立困難になってしまったということをはっきりと示したことである。あの作品はあらゆる物語としてのお約束を意識しつつ演出されながら、しかし主人公がロボットに乗る積極性すら獲得できない。作品にエンドマークがうたれても、作中人物は何らかの結論を視聴者に提供しない。むしろ結論を提供することができないという結論が提供される。

すべてはリアリズムの問題なのだと思う。90年代には(もとを正せば60年代から意識されていたことだが)フィクションが本質的に現実ではあり得ないということが広く一般に意識されすぎた。要するにどんなヒーローも現実としては不自然である。絵空事であって、現実の問題解決の役にたちはしない。分かりやすい結論なども現実には訪れないし、主人公であろうとも一個人の行動が物語世界全体を変えていくというストーリーテリングはリアルではない。その他。とにかくフィクションにとってリアリズムとは究極的にはフィクショナルではないことなのだと言った瞬間、我々はどんなリアリズムも構築できなくなった。こうして我々はリアリズムとフィクションの両方を同時に失ったのである。

エヴァンゲリオンはそれを打ち破ろうとした作品だったのだ。作り手は胸のすくような力強いフィクションでもって人々に現実を打破する力を与えたかった。結局それは失敗した。だがその失敗は作品としての失敗ではなかった。あの作品は当時に「どうしてもそれができない」ということを示して、それこそが当時に驚きと感動を呼んだのである。大切なのは、エヴァンゲリオンが「フィクションで現実は語れない」という断定を行ったのではないということだ。そうではなくて、リアリズムの呪いによって自縄自縛に陥ったという我々の直面する問題を明らかにして、次にフィクションはそこから抜け出すことを開始しなければならないと主張したのである。

おそらくこのエヴァンゲリオンの問題意識から連なる諸作をこそ「セカイ系」という言葉で説明すべきだと僕は思う。これらの作品はしばしば現実に向き合わないオタクが埋没する(したい)引きこもり的な虚構世界そのものであるかのように捉えられがちだが、しかしエヴァンゲリオンの到達した問題意識とは前述したようにフィクションが現実に拮抗し得ないということだけではなくてそれを踏まえた上で我々がどんな物語を描けるか、そして我々が物語を再び獲得することはできるのか、ということである。だから僕にはセカイ系の諸作もまた、そこをスタート地点としていたように思われるのだ。確かにそこには現実と向き合わないための引きこもり的な物語も含まれていただろうし、また登場人物の小さな人間関係がいきなり世界の存亡を左右してしまうような物語を自閉的であると考えてもいいだろうが、しかしジャンル全体の指向として、また時代の意識としてそのような物語世界こそが望まれたのではなかったのではないだろうか。むしろそのような作品は、物語が成り立たないという90年代の結論を超えて物語を語るひとつの手段としてこそ、中間項たる社会を捨象して個人と世界を接続するという方法を編み出したと言えるはずで、あの奇妙な世界観は物語の成立不可能性を乗り越える作法の1つだったはずなのだ。

要するに「セカイ系」という言葉は、90年代的な不能感を乗り越えようという欲求の芽生えがあってこそ成立したのである。決して90年代的な不能感そのものを表すのではない。でなければこの言葉が02年になってから人々に便利に使われブームになる必要すらないのである。90年代的な意識を象徴する言葉といえば僕には「平坦な戦場」とか「終わりなき日常」などが思い出されるが、「セカイ系」はこれらの言葉に感じられる90年代的な閉塞感を超えて物語を獲得しようという意識があり、それぞれの物語が選んだ結末がどうあろうと少なくともその意識は共有されている。あれはつまり、そういうジャンルだったのではなかっただろうか。

「SFマガジン」7月号から連載が始まった宇野常寛「ゼロ年代の想像力」のことを、僕は人から「ぜひ読んだ方がいい」と言われて早速読み、そして大変に素晴らしいと思った。特に宇野常寛の先取的な意識が高く評価できるし、セカイ系以後を「サバイブ感」「決断主義」などによって説明するのも、納得できるものだったと思う。何よりこれが「SFマガジン」に載っているというのが実に面白いことである。ただ90年代的な「引きこもり」的な意識をセカイ系(と東浩紀)に代表させ批判の対象とした上で「時代遅れなもの」として退けるやり方にはあまり賛同できなかった。なぜかというと、ここまでに述べたように僕はセカイ系自体もまた90年代の不能感を超えて表れたものだと思うし、さらに言えば彼の言う「決断主義」という新しい物語のバリエーションだってセカイ系から連続して現れたものであるはずなのである。しかし宇野常寛の語り口は、おそらく東浩紀の古さに苛立ち、また「決断主義」以降の新しさへと人々を導きたいがあまりのことだと思うが、いくぶん時代の連続性をないがしろにしてはいないかと思わされるものだった。

たしかに僕も「セカイ系が既に遅れたものだ」という主張には全く異論はなく、全く今は「企画段階の構想に近い大団円となるエンターテインメント」としてエヴァンゲリオンの新作映画が作られることが可能になった時代なのだと思う。しかし今この時代の直前にあった「セカイ系」が、少なくとも第一回の内容では90年代に含められた上で単にうち捨てられてしまっているのはやや乱暴なことではないだろうか。他ならぬ宇野常寛自身が「決断主義」をもってセカイ系をはっきりと現在とは分離し過去にしたことで、セカイ系の持っていた意味について我々は振り返ることが可能になったはずなのだ。それなのに彼が単にあれを90年代に組み入れるのは惜しい。結果として「エヴァ-セカイ系-90年代」と「決断主義-00年代」という分かりやすい対立構造は用意されたが、しかし「決断主義」が唐突に時代の意識として登場するような図式になったと思われる。それはフィクションではなく現実世界を受けて登場したという説明が成り立つのかもしれないが、しかし果たして過去のリアリズムの系譜とそこまで無関係に登場するべきものなのだろうか?僕はエヴァからセカイ系に連なり、その限界を超えて「決断主義」に到達するという流れなら非常に首肯できるものだと思ったため余計にそう思った。ひょっとしたら宇野常寛はセカイ系の信奉者と新しい「決断主義」の担い手は異なる層だと考えているのかもしれないが、まず僕はそこまで対立軸ばかりを見つけるように説明付ける必要はないと思う。二派の対立という考え方をとれば、彼にとってはつまり例えば西尾維新は(そしてファウストは)セカイ系から「決断主義」的な方へと「転向」したということになるだろうが、作家たちは90年代的な閉塞状況を超えていくことを望んでセカイ系に到達し、それを踏まえて物語性を回復させていったというふうに説明しちゃだめなのだろうかと思うのだ。言葉としては02年に登場したセカイ系が90年代的で、既に遅れたものだったと言って捨てるのは性急に過ぎる。あれが確かに02年に必要とされたということを否定してはいけない。そうまでしなくても彼の主張は十分に説得力を持っているのだから、ここ7年間のフィクションの位置付けを丸ごとマッピングし直すまでの必要はないはずだ。

またおそらくセカイ系と東浩紀をまとめて90年代的なリアリズムの象徴として語っているためだと思われるが、東浩紀に対する批判もセカイ系についてと同様に時代の連続性を感じがたい部分があった。東浩紀に対する批判の多くは彼が例示する作品が古く、また彼自身が旧来的な批評に深くコミットしたものばかりだというものがあって、前にも似たようなことを書いたが、それらは十分に東浩紀に対する批判として届いてはいない。僕はまず東浩紀は、新しい作品を古い世代にも分かる流れに置いてみせることで批評を次世代に続けるダイナミズムを生み出そうとしているのだと思う。だから彼が旧来的な批評にコミットし続けているのは当然だ。それゆえに、彼の古さを正しく指摘するやり方とは、彼が旧世代を引っ張り上げて次の虚空に向かって伸ばした手をさらに掴んで引っ張り上げ、東浩紀が生んだダイナミズムをより高みへと持続しようとするものであるべきはずだ。単に古いとか旧来的だという言葉だけでは東浩紀に対する批判は成り立てないのである。宇野常寛はその点で正しい形での批判にかなり近づいているし、またもちろん「批評は終わった」などと嘯いて自らに停滞を許している甘えた連中とも違い批評を発展させる場所へと到達している。だからこそ、彼はセカイ系も、東浩紀も正しく次代へ接続させるべきだと思った。

でも、これは本当に新しいことを生み出そうとする文章で、その点で僕はとてもいいものだと思う。この文章にかけられた期待の大きさは計り知れない。彼は周囲を気にして「これは批評ではない」などと言わなくていい。その台詞からはかえって立ち位置を気にする姿勢が感じられてしまうんだ。彼はむしろ、これこそが批評だと言ってもっと過剰に突き進めばいいと思った。

2007.08.17 | | コメント(3) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ

コメント

せかい けいの たそがれ

2007-08-28 火 02:35:07 | | マユムラ タク #UP6wG1lQ [ 編集]

てつがくの たそがれという がいねんは
にーちぇ でも おもい つかない 
と おもう。

こんてんつ とは けっきょくは 
そふとうぇあ なんだ と かんがえられる
からだ。
 
 けっきょくのところそれは、

むげん が えいえんせい と とうかで

それを エヴァ が あいどる して

いる に すぎない。

 かく かたりき てき に いわせて 

いただければ。

「そおいう、ものだ。」

 ヴォネガット・ジュニア

である。

 これは えすえふ を いみ しない。

 ものがたりが のん・えヴぁ。

それだけ(ねたばらし)=(こうりゃく ほう)かく かたりき。

2007-08-28 火 02:42:25 | | まゆむら たく #NWA3XuE2 [ 編集]

マユムラ タクさん、コメントをありがとうございます!とても面白い!
書き込みを拝見して、今エヴァの新作が作られる意味について、僕はまだ何とも評価できないでいることについて思いを巡らせました。僕はおそらく公開されて見るまで何とも言えないでしょう(当たり前かもしれませんが)。ただ、少なくとも作り手にとって確実に意味のあることなんだというのはわかります。そして、それでは今の視聴者にとってエヴァをやり直すことに果たして意味があるのか、ということを実際に見て判断させてくれる機会が設けられたということで、新作はこの上もなく意義深いものだと今のところは思っています。

そういえばヴォネガットが亡くなりましたが、それにかこつけては何一つ書く気持ちが起きなかったなあ。

2007-08-28 火 09:35:15 | | ソメル #- [ 編集]

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