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暗闇の中で子供―The Childish Darkness

舞城王太郎の小説「好き好き大好き超愛してる」では、冒頭からストレートな表現で愛について語られる。以下のような具合である。

 愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。

舞城王太郎はここで明らかに読者に対し素朴で力強いアプローチを試そうとしているが、しかし表現の強さによってむしろ読者が見逃してしまいがちになるのは、ここから必ずしも恋愛小説が開始されるわけではなく、これが実に小説についての小説であるということだ。それは二段目以降へ読み進めればすぐに分かることだ。

 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ。
 祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
 人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。

過去についての希望という表現は一種奇妙だが文脈から理解するのは容易だろう。これは言葉通り、例えば実現できなかった未来に対する「反省やら後悔やら」としてあるわけではない小説の効果について語っている。小説の奇跡によって過去は改変しうるというストレートな指摘をまずは受け取った方がいいだろう。現実にとっての効果の前に、少なくともフィクションの中でなら願いは実現されうると舞城王太郎は述べている。ここで語られているのは主に書き手の問題だが、しかし物語の奇跡を成り立たせるためには読者にも同じものが求められるはずだ。我々は物語の祈りと願いを信じ、共に祈らなければならない。我々が物語の奇跡を目撃するには、まずフィクションにおいて願いが実現されうることを信じるべきなのだ。

舞城王太郎はフィクションの効果について過去から一貫した姿勢を取っている。例としては「暗闇の中で子供」が非常に分かりやすい。この小説は主人公である奈津川三郎の一人称で書かれているが、正しくは第三章以降は奈津川三郎自身によって書かれた小説としてある。第三章以降の固有名詞や事実関係が第二章までと少しずつ異なり全体として食い違いが散見されたり、最終章において現れた人物について語られることが唐突に放棄され結末が何パターンも示されるのは第三章以降が物語であるからに他ならない。細かいところでは野崎博司の名前に侮蔑の言葉が挟まれるのも第二章までで、第三章以降にはそれがなくなる。作者はあらゆる面で第三章から別の物語が導入されているという事への注意喚起を促しているのだ。

そして、第二章の終わりが美しくもの悲しいのも、ここで物語がいったんフィナーレを迎えているからだ。このラストにはまさに小説の効用について書かれている。

 今ここにUFOが下りてくるといいと俺は思う。この手の平池の鏡のような水面の上に、音もなく。何しろ高野祥基も橋本敬も、そして暗闇に溶け込んで俺を見つめているはずの布瀬由里緒も、空から見るための大きな絵を描いたのだ。それも二枚も。ナスカの「猿」と宇宙人への手紙。高野祥基なんてそのために人を殺してさえいるのだ。バラバラにして。布瀬由里緒だって日記を焼いて遺書を残して多分自殺を図っているわけだし、橋本敬はその絵のために殺されてしまったのだ。空から見てようやく判る大きな絵のために。だからその絵を見て、誰かが空から降りてくるべきなのだ。UFOに乗って、待たせたなという感じで。俺がこれを小説として書くなら、必ずそういう結末にするだろう。物語というのはそういうものなのだ。誰かの熱意が空にいる誰かに通じたりしてもいいのだ。それが嘘であってもいいのだ。何故なら、誰かの懸命さは必ず他の誰かに見られているものだということは、物語が伝えるべき正しい真実だからだ。

以上のように書いて、このシーンの後で実際にどうなったかは描かれないまま第二章までの現実を改変するための物語として第三章以降が開始される。「好き好き大好き超愛してる」の、「既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ」という言葉は、まさにここに対応している。ラストで奈津川三郎が以下のように述べるのを参照しよう。

俺が失ったものが手足という具体的なものであって、得たものが希望などという形を持たないものであったとしても、俺はそれで大満足。

彼が四肢を失ったという「具体的な」エピソードが果たして事実かどうかについては明らかにされない。むしろどの記述も虚偽である可能性を最後まで残すことで、読者が「現実」に依拠して小説から感動を引き出そうとするのを妨げようとする。全編にわたって、巨人や幽霊など明らかに非現実的なものが登場するのも同じ意図である。読者は「現実」であるはずの第二章ですら、奈津川三郎によって書かれた「物語」なのだと考えてしかるべきなのだ。すべてが荒唐無稽なフィクションであっても、現実をベースにしていても、結局はすべて非現実であると認めつつそれに身を委ねなければならない。そうでなければ我々は物語から何も得ることができない。しかし信じることができれば、フィクションは力を得て、我々はすべてを自在に実現できる。

俺の中には希望がたくさんあって、それがどんどん現実となって叶えられていくのだ。全てを手に入れて大きくなっていくのだ。失った本物の手と足の代わりに偽物の「手」と「足」を自分の中から仕入れて俺は踊りまくるのだ。

こうして、舞城王太郎は、もうずっと、フィクションについて語っている。彼は自分の言っていることを、批評家が、読者が、なぜ分からないのか分からないのかもしれない。だから形を何度も変えながら同じことを繰り返して言っている。ただ僕には、彼がそれを繰り返すことによって、ドライブ感溢れる彼の作品自体が物語として躍動感を損うように思えてならない。彼の作家としての活動が、処女作「煙か土か食い物」で描かれたエンタテインメントへの無理解や誤解に対して反駁を繰り返す課程そのものになってしまうとしたら、たとえ彼自身がそれを受け入れるとしても、悲しいことだと思う。逆に言えば、このようなフィクションについて言及したフィクションも、舞城王太郎はエンタテインメントの1つとしてやってしまうのではないだろうか。それは興味のある人にとってはエンタテインメントとして成り立ってしまうのだから。そして彼は求められたことに応じるのがうますぎるのだ。説明を求められると説明してしまう。僕は、彼をそういう作家であるように感じたわけである。

2007.10.15 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

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