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ねぎ姉さん

僕にとって「ねぎ姉さん」がなぜ面白いかということを、数日にわたって考えた。思えば四コマというのは、それが本来は「ギャグ」マンガとして笑いを提供するために選ばれるフォーマットなのだということを強く意識せずにはいられない。これは笑いを提供するために最適化された形式だということを、多くの人が否定し得ない。吉田戦車であろうとしりあがり寿であろうと榎本俊二であろうと、あるいは業田良家であろうと小池田マヤであろうと、もちろん美水かがみであろうとあずまきよひこであろうと、たしかにいわゆる四コマギャグマンガものから派生して今や遠く離れたものとしてそれぞれの作品を作っているが、しかし、それでも彼らの作品は四つのコマで一つの笑いを提供するというごく原初的なマンガの形式を明確に意識し、利用した上で作品を成り立たせている。作家たちは、この形式が安易に笑いを提供するものだということを読者も前提として知っていることを使って、必ずしも笑いに還元されない物語を読ませようとする。

ねぎ姉さんのやり方はちょっと違っていて、そもそも物語が必要とされていない。しかし僕のあまり好きじゃない、何か高尚な意図でもって不条理劇を垂れ流そうとするような退屈なマンガとは違って、作者はやっぱりそれを笑いに昇華させることがある。作者は必ずしも笑いを提供したいわけではないが、たまたま笑いが選ばれることもある、という感じで、そこが面白い。つまりこのマンガは即興的に描かれているわけだが、これだけの数があると、そこには馬鹿馬鹿しい駄洒落そのものや手癖から生まれた雑なものが残されている。もともと即興的であるということはすべての表現が偶然に生み出されるものだということを全く意味しないから、それでいいのだ。僕はその雑多さゆえに、作者の頭の中を覗き見たような不思議な面白さを感じることができるのである。たしかこの作品が執筆された最初期に「こういうのは1000個ぐらい描かないと意味がない」みたいなことを言った人がいて、それで作者は彼の妄想を手当たり次第に並べていくに至ったように記憶しているが、今となってはそれはとてもよい助言だったように思う。

その面白さはギャグマンガとして笑いを生む手腕の巧拙とは無縁にあるものだ。たとえば「ねぎ姉さん」というタイトルがそうとは読めないように書かれたり、全くデタラメな筆跡にされたりする、マンガ自体のパロディとして考えられるような笑いは僕にとって腹を抱えて笑えるようなものだが、だがこの笑いだけを待ち続けていてもねぎ姉さんの面白さには到達できないだろう。

2007.11.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

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