恋空
こないだの座談会で吉田大助さんに会ったときに、新垣結衣について熱く語ってらしたのがずいぶん気にかかっている。僕はもう最近はすっかり「恋空」をいかにして読むかということを考えているのだ。そう思ってるくせに、たった今までどんな話かもよく知らなかった。だからこの姿勢は全く誉められないことだと思う。しかしケータイ小説は、今一番ひどい扱いをしてもいいと思われているフィクションの1つだ。たくさんの人が熱っぽく支持していて、しかし明らかに軽んじていいとされている。それは僕にとってギャルゲーやライトノベルが通過した状況と同じに見えるのだけれど、そういうふうに考えて、それらの作品を読み正して(まさに読み正すのだ)みようじゃないかという人はあまり見かけない。結局だれも、自分の好きな物だけが好きなのだから当然だ。僕はしかし、昔から何が好きというよりも、狭い場所でひどく支持を集めていて、他からは顧みられないものが好きだったと思う。そこで何が起きているのかを見聞せずにいられない。そこで何かがなぜ面白がられているのか知って、そのことをこそ面白がりたい。昔はインターネットもその1つだった。
というわけで今ウェブで「恋空」の最初の方を読んでみたんだけど、これが意外に面白い。意外にと言うと他ならぬ自分がケータイ小説を軽んじているように思われるかもしれないが、しかし本当に思っていなかった部分に面白さを感じたのだ。話がどうとかじゃなくて、単に文体がキレてていい。キレてるというのは、中高生の文章としてのリアルさがある。いわばそのままなんだから当然だと言われたら困るんだけど、模倣ですらないというのはすごいことなのだ。女子高生の間で流行っているフォークロアを本人たちから聞いているように読める。前々から思っていたのだが、いい年をした職業作家が整った文体で、例えば「現代社会における女子高生の性と現実」だのを描いたとき、それを読むのが女子高生自身であることは、そしてそれに彼女たちが共感することは、とっくの昔に少なくなってしまっている。それはナイフを持った少年だろうが何でもそうで、結局のところ作家や読者は若者たちに託して自分たちの問題を読みたがっているだけである。
中高生はこういう物語をリアルだと感じて、中高生ではない人々はそこに奇妙を感じている。それは当然のことだと思う。「恋空」が持っているリアルさとは、設定や筋や人物像が現実と照らし合わせて確からしいかということとは関係ないからだ。このリアルさは、とりわけこの物語が熱心に流通させられる場所において宿るものなのではないだろうか。そこでは一般社会から明確に切り離された別の価値観やルールが動いている。「フォークロアを本人たちから聞いている」ような読み方をした僕はそのリアルさの片鱗を味わえたように感じて、だから楽しかった。
2007.11.24 | | コメント(9) | トラックバック(1) | [文章] [映像] [ゲーム]