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サウスパーク「Episode 1110-1112 - Imaginationland」

忙しくて結構前のことになってしまったが、このブログで「恋空」について書いていたら速水健朗さんに記事を引用していただいた。

速水さんの記事は、考えさせられるものだった。若い女の子の読者が「事実を元にしたものにしか興味を示さないという共通点」を持っているとされることに着目されて、そしてその「リアルさ」は突き詰めれば次のようなものだと書かれている。

大人の目にはかけらもリアルではないケータイ小説が、「リアル」として受け入れられているのは、なんのことはない、文字通り"本当の話"であると謳うか謳わないのかの問題なのだ。しかも、「本当」と謳う際も、実際のリアリティーはどうでもいい。

そして、速水さんは以下のようにも書かれているので、おそらくケータイ小説の読者たちがこのような軽薄な「リアルさ」を求めて作品を読むことに、どちらかと言えば批判的な立場を取っているのだと思う。

これから本を出す作家は題名に「ほんとにあった」と付けて、文末にも『恋空』ばりに「実話を元にした~」云々と入れることにしたほうがいい。僕もそうしようと思っている。

なるほど、たしかにそうだ。実際、これらの「リアル」は作品として緻密にリアリズムを積み重ねていくようなものとは違うものなのだと思う。だが、僕は速水さんの見解を正しいと思いながら、いくつかの点で意見を異にする。どうも、まとめられるか難しいけれど、今からそれについて書いてみたい。まず、ケータイ小説の読者たちこそが、このようなリアルを求めているのだという考え方についてだ。速水さんの記事を読まれた読者は、安易にケータイ小説の読者を自分たちの外部として隔離してしまえるかもしれない。例えば「今の若い者」だとか「ろくな物語を読まないドキュン連中」として。そうしたときには、彼らは想像力や物語を読む能力において自分より劣っているから、「本当にあった」という惹句が付けられたものに惹かれるのだと理解するかもしれない。

しかし、僕はちょっとそれは違うと思う。なぜなら、記事を書かれた速水さんご自身ならおそらく気づいていらっしゃることだと思うが、今「リアルな」物語を求めているのは女子学生だけではないからだ。日本中がそうだし、世界中でそうなっている。ケータイ小説の読者を愚かだと笑うときに、彼らは自分たちもまた「リアルな」物語を求めているということを忘却する。これは前にも書いたことでもあるので、以下にそっくりそのまま文章を再掲しよう。

たとえば今、アメリカでは小説が全く売れない。本当に読まれなくなってしまった。「”It”(それ)と呼ばれた子」とか、「ア・ミリオン・リトル・ピーシーズ」などのフィクションが「ノンフィクション」として売り出されてベストセラー化し問題になるなど、ひどいことがたくさん起こっているのだ。アメリカほどのことが起こっているとは思いたくはないが、日本でも今は事実をベースにしたフィクションや、ノンフィクションは飛ぶように売れるし、一部のノンフィクションに対する批判は、「それが真実かどうか」ということだけを注視する。なぜこんなことになったかというと、当たり前だが人々がフィクションよりも現実に強い興味を持っているからである。これは80年代にバースが述べたような「物語の死」とは微妙に異なる問題であり、実際、現在あちこちで行われている「物語の終焉」という議論は、現実が物語を凌駕して物語のリアリティはリアルに敵わなくなり、物語のリアリティが成り立ちにくくなってしまったということを主な問題とするものだろう。だからこそ、今、批評的に作品を語る者の多くは、現実問題やジャンル全体、または技法にフィードバックする形でしか作品を評価しえない。

「ア・ミリオン・リトル・ピーシーズ」の一件は、「サウスパーク」シーズン10の「A Million Little Fibers」で扱われているので、興味のある方はぜひ見てほしい。しゃべるタオルであるタオリーを使って米国の状況をうまく説明している(後半はマンコとケツの穴による強盗劇だが)。

話は戻るが、もちろんこれは米国だけのことじゃないのだ。日本の一般読者もまた、現実をベースにしたものを求めていて、もちろんそれが売れる。ノンフィクションと銘打たれていなくても、明らかなファンタジーであっても、リアリズムから解き放たれた物語を「トンデモ」なんてつまらない言葉を付けないと楽しむこともできない人は、今はどこにでもいる。そして、そんな輩によって、リアリズムの不備を根拠にして物語に不平を並べ立てるやり方が、当世では作品について語る上で何かの正統でもあるかのように広められてしまった。

つまり、今は「リアルかどうか」ばかりが問題にされる。僕は2007年の漢字が「偽」だったことを恐れたし、同時に自分がこのブログでテーマに選んで一年間やっていたことが間違っていないと理解した。「偽」の一字からは、むしろ人々が本物を求めているということだけが読み取られる。みんなリアルが欲しいのだ。「紛い物」は即座にうち捨てられるべきで、だから「ケータイ小説のリアル」は「偽のリアル」として批判されうる。しかし、「本当のリアル」なんてどこにも存在しないものだ。リアルの不在を根拠に、誰が誰を批判できるのだろうか?文字にされたものは何であろうと、ついに現実ではない。フィクションについてリアリズムを楽しむやり方はあるが、それがフィクションのすべてではない。フィクションは現実ではないのだから当たり前のことだ。

速水さんはケータイ小説が「実際のリアリティーはどうでもいい」作品としてあるとして、ケータイ小説がリアリズムに則った小説ではなく、ただ「本当にあった」という惹句だけが重視されているとされた。しかし僕の考えは少し違う。「本当にあった」という惹句はたしかに必要とされているけれど、たぶんケータイ小説の読者は読み始めてしまえばそれが虚構であろうと現実であろうとどうでもいいのではないだろうか。つまり、彼らは「電車男」の読者と同じではないかと思う。あの作品は(「恋空」と同じく)創作の可能性があるとして批判され、事実関係の検証を偏執的に行おうとする者があったが、しかし物語に感動した読者たちの大半はそんなことを気にしていなかった。彼らにとって、現実かどうかなんてことは本当はどうでもいいのだ。「これは本当にあった話だが」という言葉は「昔々、あるところに」と大差ない。物語へ誘う導入にすぎない。僕が前の記事でフォークロア的だと書いたのはそういう理由だ。そして、そこから導入されるケータイ小説には、フォークロアとしてのリアリティがたしかにあると思う。それに対して、人物の描写が綿密でないとか、話の食い違いや矛盾があるという指摘が一体何の役に立つのであろうか。少なくとも、ケータイ小説の読者が紛い物に騙される馬鹿者だと言って悦に入ることには何の意味もないだろう。

突き詰めればリアリズムはリアルではない。現実と完全に一致するリアリズムなんてどこにもないのだ。むしろリアルかどうかに拘っている人こそ、ありもしない真実を物語に求めようとしている。彼らは自分が騙されていないと思いたいあまりに、うかつな物語に没入できなくなってしまう。本来なら彼らは何に騙されるかを選ぶべきだったのに、騙されないものを探しているつもりになってしまう。荒唐無稽な物語やある種の物語類型に組み入れられる作品を楽しみたいときには「トンデモ」「ベタ」などと、いちいち但し書きを用意しないと読むことすらできない。僕はそんな読者よりも「本当にあった話です」と書いてありさえすれば物語に身を委ねて涙を流すことのできるケータイ小説の読者の方が、まだ作品の受け手として優れているのではないかと思う。

サウスパークのシーズン11「Imaginationland」は、911以降に成り立てなくなった米国のフィクションを正面から見据えた、本当にすごいエピソードだ。ぜひこの話を見てほしい。フィクションが今迎えている危機を真剣に扱っている。このエピソードはエミー賞受賞記念エピソードからわざと1話ずらして作られたが(ちなみにエミー賞受賞記念エピソードはエミー賞のトロフィーを巨大なウンコの中に突っ込む話だ)、サウスパーク史上最も長い三部作構成になっていることからも、このエピソードに込められた意気込みが分かる。全部で1時間以上の長い話だが、ニコニコ動画に字幕を付けたバージョンをアップロードした立派な人がいるので、どうか多くの人に見てほしい。カートマンが以前描いた森の動物たちのくだりや半人半熊半豚のマンベアピッグのことなど、サウスパークを見たことがないと分かりにくい点もあるが、支障はないと思う。

この話はイスラム系テロリストに米国の想像力の根源であるイマジネーションの国へ侵入され、自爆テロを仕掛けられるという話だ。なんて直截的かつ悲痛な表現だろうか。テロによってイマジネーションの国は阿鼻叫喚の地獄と化す。チャーリー・ブラウンの片足が吹っ飛び、サンタクロースが火だるまになる(ちなみに鉄腕アトムやトトロ、マリオなど日本のキャラクターも多数登場する)。国防省のペンタゴンは傷ついた米国のイマジネーションを救うためにM・ナイト・シャマランやマイケル・ベイなどハリウッドに助けを求めるが、彼らはワンパターンなシナリオでハデな映像を作っているだけで、ろくなアイデアを持っていない。最終的にペンタゴンはイマジネーションの国へ核攻撃を行おうとする。イマジネーションは放置しておけば米国の弱点になりかねないから、核によって消し去っておこうというのだ。どうせ、イマジネーションなど存在しないものなのだから、核攻撃をしても問題はない。戦争にとって邪魔で、現実にとって価値を持たないものなら、根絶やしにすべきだというのだ。カイルは攻撃をやめさせるために、イマジネーションの価値を懸命に訴える。

彼らはリアルだよ。みんなリアルだ。考えてみて。ルーク・スカイウォーカーやサンタクロースは、この部屋にいる誰よりも自分の人生に影響を与えていない?つまりイエス様がリアルであろうとなかろうと、彼は……彼は僕らの誰よりも大きな影響を世界に与えてきたんだ。同じことはバッグス・バニーや、えっと、スーパーマンやハリー・ポッターにも言えるんだ。彼らは僕の人生を変え、世界における僕の振る舞いを変えている。それって彼らが「リアル」ってことになるじゃない?彼らは想像上の存在かもしれないけど、でも、でも彼らはここにいる誰よりも重要なんだ。 彼らは僕らが死んでからも存在し続ける。とすると、僕らの誰よりもリアルなんだ。

物語がリアルとかけ離れていても、それは価値を持つし、リアルだと言うことができる。上記の台詞はシーズン7の「All About the Mormons」と対になるものだ。こちらはモルモン教を大いにバカにしたストーリーで、モルモン教徒が信じていることが全く荒唐無稽なデタラメであると紹介された後に、ずっと礼儀正しく、家族とも仲が良く、言葉遣いも丁寧で爽やかないい奴だったモルモン教徒の少年がラストシーンでスタンに対し次のように言う。

もしかすると僕らモルモン教徒は全くデタラメな頭のおかしい物語を信じているのかもしれない。そしてそれは全部ジョセフ・スミスのでっち上げなのかもしれない。でも僕は素晴らしい人生を送っているし、素晴らしい家族がいる。だからモルモン教典に感謝している。はっきり言って、僕はジョセフ・スミスのでっち上げかどうかなんてどうでもいいんだ。だって教会がいま教えていることは家族を愛し、善良であり、人を助けよということなんだから。たとえこの街の人が馬鹿げてるって思ったとしても、僕はそれでも信仰を選ぶよ。僕は君と友達になりたくていろいろやったのに、スタン、でも君はすごく傲慢で、宗教をともかくとしてただ友達になろうとはしなかった。てんで子供だね。キンタマ舐めやがれ。

カイルが言うように絵空事が現実に影響を与えることはあるし、モルモン教徒の少年が言うように誰かが信じる物語が現実らしくないからといって、我々が知っている形のリアリズムがそこにないからと言って、その物語を否定する謂われにはなれない。物語は真実を含んでいるかということを度外視して読むべきで、しかし同時に信じられるべきものである。そのことを認めないと、本来は何一つ物語を読むことなどできない。「イマジネーションの国」という設定はミヒャエル・エンデの寓話に類似しているようだが、エンデはファンタージエンを実在する世界として描いた。しかしサウスパークはそれが実在しなくても、絵空事だと分かっていてもなお、それが人に与える影響をもって実在するものと同等以上の価値を持つとしている。

結局、核攻撃は中止されたが、馬鹿なアル・ゴアのせいで核が起動してしまう。イマジネーションの国は消失し、画面は真っ白になってしまう。ここでカートマンやカイルその他の登場人物がイマジネーションの国に放り込まれて一緒に消えてしまうのは、サウスパークというアニメ自体もまたイマジネーションの産物であるということを示唆している。絶望的に悲しい光景。だが、サウスパーク世界随一の低能であるバターズの、ケタ外れの想像力によって世界は回復するのだ! すごい! 本当に涙してしまう、いいシーンだ。

それにしても、シーズン11の後半は面白い。「Imaginationland」はもちろん、前述のエミー賞受賞エピソード「More Crap」もいいし、ファイナルエピソードである「the List」は久々に子供たちだけの話で、ケニーが死んだりスタンがウェンディの前でゲロ吐いたりする懐かしいノリだし、なんだか一時期の行き詰まった感が抜けたようだ。

2008.02.07 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [文章

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