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水没ピアノ―鏡創士がひきもどす犯罪

僕は「水没ピアノ」がすごく好きだ。本当にいい作品で、佐藤友哉の最高傑作だとずっと思っているし、たくさんの人に読んでもらいたい。最初読んだとき、この人の作品はいつもそうだが、序盤は全然面白くなかった。瑞々しいとでも言えば誰か満足するのか、若い作家にありがちな、文芸に憧憬を抱いて取り澄ましてみせたような修辞が過剰な一人称。佐藤友哉はどうしてもこういう端正さを求めたいのかもしれないけど僕は好きじゃないなあと思いながら読み進めた。しかし、この小説は最後にその文章も含めてすべては用意された舞台だったということを明かして、まんまと僕を裏切ってくれた。

僕はこの、佐藤友哉が種明かしを始める瞬間がとても好きだった。このころ、彼のクライマックスはいつも、はにかんで、やる気がなさそうに、めんどくせえなあと言いながら巨石をひょいと持ち上げるようにして、超面白い、読者を楽しませるエンターテインメントとしての物語を立ち上らせてくれた。逡巡して、口ごもりながらも、でも最初のページをめくったときからすべて自分の手の内にあったんだよと口の端で笑ってみせる、少年のようなその様が好きだった。物語ることに戸惑い恥じらいながらやり遂げる姿を、美しいと思った。

でもこの小説は売れなかった。本当に悲しいことに、こんなにも物語というものに向き合った、いい小説なのに。読者は、この小説を彼が思ったように読みこなさなくてもよかったんだと思う。せめて売れていればよかった。でもそうはならなかったので、だから次の作品「クリスマス・テロル」で佐藤友哉は「犯人は読者です(本当)」と言い放って、それを最後に、以後今まで、このようなエンターテインメント小説は書かなくなった。

日本の小説はもう、作家と編集者、文芸誌と文芸批評家さえいれば世界が成り立つようになっているだろうか。そこに読者は必要とされていないだろうか。佐藤友哉や桜庭一樹は立派な賞を取って「ライトノベルみたいなものから出てきた私ですがおかげさまで人並みに文芸に昇格しました」みたいな地位を得た格好になっているように感じるから、僕はそれがイヤだった。だからこそ佐藤友哉の最高傑作は「水没ピアノ」だとずっと思っていたし、今でもそう思う。だけど、悲しげに「犯人は読者です」と言った彼に対して、僕が何かを言えただろうかと最近ずっと考えている。ちっとも売れなかろうとも、数時間で消費されたあげくに放り出されようとも、それでもお前はこれを続けるべきなんだ、だって俺は面白いから、と言って、そんなことが彼の助けになったはずはない。お前はユヤタンだかいうヘタレたキャラに収まっておけば、いつか腹も膨れるさなどとは、誰も言ってはいけない。

文芸の世界は彼を認めてくれるだろう。彼には十分な力があるから、それは当然だと思う。その世界の住人は、互いに作品を優しく丁寧に読解しあって、彼が以前いた場所で抱いた苦悩を抱かせないのかもしれない。でも僕はやっぱり「読者は本当に犯人だろうか」ということを考えなきゃいけない。なぜなら僕は読者だから。「水没ピアノ」が売れなかったことに対して、僕は何もできなかった。しかし、この本面白いよと言って周囲に貸して回ればよかったわけじゃないのだ。そして今になっても、ただ必死の思いで、ずっと遠くから僕たちに到達しようとしている読み物に対して、僕は読者としてどうあるべきか考えるしかできない。作品を読もう。それを楽しんでみよう。感想を持とう。そして、他人がどう感じるのかは、そのとき関係ない。それがジャンル全体にとってどこに位置づけられるのか、どういう読者がそれを読むなんていう話が、自分がどう感じるのかよりも先になされるのは間違っている。そんなレベルから僕は「読者である」ということを考え始めなきゃいけない。

しかもこの話は、今や、すごく難しい。たとえば僕は上に「読者」と書いたけど、これはでも、小説に限った話じゃないんだ。でも今、我々は「読者」と書いてあれば「なるほどこれは小説の話だ」と思って、自分とは無関係と思ってしまえる。誰だってそうだ。ではこれを、広く一般に「受け手」と書けばいいかもしれないが、今度はかえって抽象的になってしまい、誰も自分のことだとは思わないかもしれない。だから難しい。吉田アミさんが「受け手2.0」とか「プロの受け手」と呼んでいるものは、ここまで僕が書いたのと全く同じ話で、彼女が言っていることは、今言うべきこととして疑う余地がなく正しく、僕はそれを全面的に支持したい。でも唯一、彼女と異なるのは、僕はその新しい受け手の態度に名前を与えることに躊躇したのだ。そうすることで、オルタナティブな、新しい考えを持った誰かの到来が待たれているようになることに、僕は迷った。そうではなくて、我々は一人一人、誰しもの中にある力を回復させるべきだと言うべきなのではないかと僕は思った。だから余計に僕のやることはめんどくさい。名付けないことを前提に、誰かが失っている取るに足らない力について、伝えなければならない。でも、佐藤友哉はあのころきっと僕以上に困難な道を眺めていたはずだ。それを乗り越えて彼が確かに我々に届かせたはずだった「水没ピアノ」をはかなんで「クリスマス・テロル」で吐いた呪詛を、僕は自分の問題として受け止めて、作品を鑑賞する態度について考えなくちゃいけない。

2008.04.19 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

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