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ユリイカ 第40巻第5号

「ユリイカ」にて宇多田ヒカルの歌詞について書いた文章のことを、ここに書こうと思っている間に次の号が出てしまった。そうこうしているあいだに、もうすぐさらにその次の号が出るという。

今売っている号では、僕が「空の境界」について作者の奈須きのこさんに去年の夏行ったインタビューを掲載していただいている。これは僕が初めて奈須さんにお会いしてお話を伺ったときのもので、今になって読んでみるとずいぶん読者としての自分の思いが先走った部分がたくさんあって恥ずかしい。だからインタビューなのにやけに僕が話している部分が多い。何とも恥ずかしいが、時間が経っていることもあって修復のしようがないのでそのまま当時の理解を伝えるものとして掲載していただいた。

しかし見方を変えれば、このインタビューは、僕が現在、全七回上映される映画のパンフレットの中で七回に渡って奈須さんにインタビューを行えることになったきっかけになったもので、その意味で本当にユリイカ編集部に感謝したいありがたいものだったし、また、この号に掲載されているインタビューを経たからこそ、パンフレットのインタビューではさらに作品について突っ込んで考えることができたのであり、特に今月の24日から公開される劇場版「空の境界」第四章のパンフレットに至って、この作品が現在公開される意味や、奈須きのこという作家が何を意図しているのか、彼がたびたび述べる「王道の物語」とは何なのか、という課題についてついに語られ始めている。さらに、同じ今回のパンフレットで僕は講談社の太田さんにもインタビューを試みていて、そこでは「ファウスト」は「新伝綺」によって方向転換したわけではない、すべては1つの流れにあったことだったという言質を取ることができている。これによって僕はおそらく今自分が、ようやくいつか書いたように、エヴァからセカイ系へ、そして奈須きのこへ、そして2008年、現在へという移り変わりを整理することが可能になったと思う。それぞれの項目はもはや分断されてある出来事ではなく、ただ1つの流れにあったと僕はもはや確信していて、個人的には、この「Hang Reviewers High」もいよいよ佳境にさしかかっているのだなと考え始めている。

さてそれはともかく前号のユリイカである。前号は「詩のことば」という特集であって、僕はそこで「歌詞について」という題をいただいた。本当はPerfume「GAME」の歌詞について書きたかったのだが、残念ながらこの号が発売されるころにはまだ「GAME」は世に出ていない状況だったので、それは諦めた。だが、選んでいるテーマは大きく重なっていると思う。

言語は、最終的に伝達不可能性を抱えている。その上で我々が他者と歩み寄るというのはどういうことなのか、受け手は作家が送ったものをどう享受すべきなのか、僕はそれについて考える上で、今、言葉や物語が流通する、ということの可能性について検証したいと考えている。宇多田ヒカルは我々が相互理解に達することができないということを熟知しながら音楽を作り、歌詞を書き、最も流通している作家である。彼女はそこで、おそらく絶望的な気持ちで、しかしなお音楽や言葉のマジックを信じている。彼女は、その歌詞にもあるカップヌードルのようなポップさで受け手の生活に入り込み、そこで言葉が効果を発揮することに希望を捨てていない。僕が書きたかったことはだいたいそのようなことだ。

しかし前半には現在の詩の状況について書くことになった。おそらく、単に「詩の特集」の一部としてこれを読むのであれば、「宇多田ヒカルの歌詞には世俗的な意味での時代性がある」とか「詩としてよくできている」ということしか書き得ないだろう。だから、彼女の書いたものが、現代に詩人が考えるべき問題を熟知した上で書かれた、まさしく詩としての時代性を持ったものである、ということを言うために、まず詩の状況について踏まえる必要があるのではないかと思ったのだ。それは現代において「いわゆる詩というもの」がただ詩人自身のためにしか存在していないという指摘に近づいてしまうため、ともすればこの特集が載せている多くの内容を形式のうえで否定する結果につながってしまいかねないと思ったが、今、それは正しかったように思う。僕がそこで言いたかったことは、中田健太郎さんが同じ号で書かれている「言語の過剰と詩の叙情」という文章の中で、もっとずっとうまく表現されているように思う。現在、多くの詩は世界に到達しようとはしていない。僕は原稿を書く前に、まずmixiの詩のコミュニティを見ることにした。そうして「これが詩の現状である」と自覚させた。書き手が氾濫して、第一読者として詩人自身が自分の書いたものを詩であると認めている。あるいは、技巧的な面で、またはそれが流通する場所で、「これらこそが詩である」という自動化された評論を可能にしてしまっている。詩は本来、読者に到達して、読者がそれと認めることで詩であり得ると僕は思っているし、現状はますますそれを押し進める結果になった。ところがいま現状では、誰もが詩人になり、そして誰も読者を求めていない。それこそがまさに詩の現在が抱える問題の核であり、それを踏まえた言葉こそが、詩人の活動にとって必要だと僕は思った。

僕の書いた上記の文章については、当初気に入っていなかったこともあり、特に誰かからの感想を期待していなかったのだが、とてもうれしいことにある知り合いが次のように感想を語ってくれた。

受け手の詩情の喚起によって詩が詩であるとすれば、
作者以外の誰にも読まれないままの詩は
現代では詩でない言葉の連なりのままなのかなとか思いました。

たぶんこれには、そうであり、またそうではない、と言うことができる。詩はいま、作者にとって詩であると安易に命名されうるからだ。「ユリイカ」に載っている最果タヒの詩を見よう。今これを文字の連なりとしてみるならば、例えばウェブの上でそれはCGIによって偶発的に作られてしまえる。もっと単純に、HTMLファイルのソースを開き、適当な部分をマウスで選択してそれを空白に置換していくだけで作ることができる(僕が過去に「ニーツオルグ」というサイトを作ったとき、最後にやったのはそういうことである)。

断っておきたいのは、これは最果タヒの、あの素晴らしい作品を貶めようと行っているのではないということだ。また、蛇足になるのかもしれないが、そしてこれは詩に限った話ではない、とも言っておきたい。例えばウェブ4コマ漫画「ねぎ姉さん」の1コマずつをバラバラにして並べ替える「ねぎの輪切り」を思い出そう。我々が目をつぶったまま「る」をクリックしたとしたら、ここにあるのはいまだ絵の連なりである(さらに蛇足を重ねるとすれば、僕はもちろん「我々が見ていないときに月は存在しない」と考えている)。ここで我々は、「る」をクリックすることによって、あくまでも4コマ漫画という「形式」が成立するのだということのみに注意喚起されるべきではない。「る」をクリックした作者であり最初の読者である私たちが目にすることによって、これは初めて何らかの意味内容を成立させるのである。「ユリイカ」においては、川上未映子らの鼎談に顕著であるが、詩人たちは自分たちの書いたものが詩なのか、あるいは小説なのか、散文なのかということについてしばしば考えあぐねている。しかし、最終的に読者によって、もしくは第一読者としての作者によって判断されるならば、その文字の連なりが本来何を意図していたとしても「詩」と呼ばれるようになるはずであるというのが僕の考えである。

最初、僕はあまり自分の書いた文章が気に入っていなかった。なぜなら、詩の状況についてはともかく、宇多田ヒカルについてはまだまだ考察するべき点が多数あり、そのそれぞれに対して僕は最終的に踏み込めなかったからだ。たとえば「誰が宇多田ヒカルを(そしてB'zを)消費しているのか?」という問題について、僕は全く触れていない。それで、編集部の方にも、もうちょっとやりようがあったのではないかと思うと後に述べたのだが、さらに後になって誇大妄想が盛り返してくると、これはもう、これでちゃんとした論点を持って書けているのではないか、と思うに至った。

ただ、宇多田ヒカルについては未だに語るべき事が残っているのは事実だ。そして、多くのポピュラーミュージックの歌詞についても。現在、おそらく90年代の後半から、流行歌の歌詞について詳細な考察を傾けるやり方は流行っていないと思う。なぜならそこにはこれまでの評論家が作品を語る上で必要としたような作詞家の意匠が見受けられにくくなっているからだし、ミュージシャン自身もあくまで音楽として自作を消費されることを好んで、歌詞について重視されないことを後押ししたからだと思う。だから歌詞はいま、安易に黙殺されうる。しかしそれは、ライトノベルが、ケータイ小説が、ギャルゲーが、アイドルが、語るべき対象として見なされなかったのと、または今なお見なされていないのと、さほど変わらない、相似の問題であると僕は思う。だから僕は歌詞を検討することを、これからしばらくなお、やめないでいるだろう。

2008.05.23 | | コメント(4) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [アニメ

コメント

どうも、初めまして。
どこからこのブログに辿り着いたか覚えておりませんが、以前から時々拝見させて頂いておりました。

詩の一般論についてですが、そもそも、古代においては、詩は、神あるいは神々からの預言あるいは啓示として示されるものであったように思います(例;旧約聖書の詩篇やデルポイの信託)。
それが何を意味しているかと言えば、詩とは、物事の本質を、論理的な説明や証明を経ることなしに、直感的・直接的に表現する(鷲掴みにする)ものであるということなのではないでしょうか(たとえそれが恋愛など身近な物事を題材にしていたとしても)。その点において、評論等の文学と、詩や小説などの創作的文学が厳密にではありませんが区別されるのでしょう。
それゆえ、詩人自身は、自分の作品について、他人ほどには的確に説明することができないということも言われることがあります。なぜなら、上に述べたことに従えば、詩人はいわば媒介者にすぎないからです。
したがって、上に述べた古代の詩でもそうであったように、詩にはそれを解き明かす人が必要なのです。
mixiの詩のコミュニティなどは読んでおりませんが、「詩の現在が抱える問題」があるとすれば、上のような意味での詩ではない、つまり自分の周りの物事を表現しつつそれが自分の周りだけで終わっている、つまり物事の本質に触れていない、ソメルさんの言葉を借りれば「世界に到達しようとはしていない」ということなのではないでしょうか。言い換えれば、“詩”の形を借りた“日記”にすぎないのではないかと。

これは、あくまで理念上のことであって、現実にはどの詩がどうだとかは簡単には言えないと思いますが、ソメルさんのように詩について読み解こうとする人は必要だと思います。

ところで、そもそも私がこのコメントを書こうとしたのは、私の記事を書くにあたってソメルさんのPefumeヒストリーを一部使用させてもらおうと思ったからなのですが、記事の一部の引用とリンクの承認を頂けますでしょうか。よろしくお願いします。

長くなってしまいましたが、悪気はありませんので、今回だけだと思ってどうぞお許し下さい。

2008-06-01 日 16:38:07 | | uy-blog #- [ 編集]

uy-blogさん、興味深いお話をありがとうございます。改めて読み直して、この僕が書いた内容はいわゆる受容理論に近いのかなーと思いました。受け手と作り手が双方で作品を作り上げるってことが今あるべきだと思うんですけど、なかなかうまく言葉になりません。

>記事の一部の引用とリンクの承認を頂けますでしょうか。よろしくお願いします。

もちろん一向に構いませんというか、こちらこそぜひお願いいたします。どうもありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。

2008-06-05 木 00:23:00 | | ソメル #- [ 編集]

とりあえず導入部だけですが、記事をアップしました。
何か気がついたことがありましたら、コメントを頂けると嬉しいです。

2008-06-13 金 23:04:21 | | uy-blog #- [ 編集]

uy-blogさん、リンクをありがとうございました!これは読み応えのありそうな記事ですね。あとでぜひチェックさせていただきます!

2008-06-18 水 15:31:44 | | ソメル #- [ 編集]

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