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新現実 Vol.1

先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。

彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては

社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする

という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。

僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は、その決断主義も既にさらに越えられるべき段階にある、というものである)。しかし、彼の90年代からセカイ系を経て「決断主義」へ至るという主線をどう引くのか、その描き方には、今ひとつの説得力が欠けているように思った。「PLANETS」の4号においての対談で、東浩紀が彼にそれを指摘した部分がある。引用しよう。

東 (中略)例えばセカイ系の話と宮藤官九郎の話は、すごく素朴なレベルでは全然違うことだと思われるわけです。そもそも消費者層が違うからね。だから、「なんでテレビドラマの話題になってるの」みたいな反応はある意味では正しい。「セカイ系を宮藤官九郎が乗り越えた」みたいな話はそもそも存在しえない問いで、つまりそもそも見てる層が違うんだから、セカイ系が好きな連中が一方にいて、宮藤官九郎が好きな連中が一方にいるだけなんじゃないのと。それを「片方が片方を乗り越えた」という物語にするのはできないんじゃないのという反論はありうるわけだよね。むろん、宇野さんがそう考えていないのは分かるけれど、たとえそうだとしても、批評ではその反論を想定して潰すことができるようなロジックを作り上げないといけない。ところが、宇野さんの連載はそのあたりが平凡な発展史観になっていて、「セカイ系の時代→決断主義の時代→そしてセカイ系も決断主義も乗り越えられる時代へ」みたいな話になってしまっている。だからそのあたりのロジックが非常に弱い、というのは、これは単に批評の技術論として言える。「セカイ系の問題をクドカンが乗り越えた」って主張するためには、もう少し二段階か三段階のクッションがないといけない。

宇野 そんなの、そいつの視野が狭いだけじゃないですか。同じ政治状況の下にあって、同じテーマを孕んでいるのだから関連しないわけがない。こんな島宇宙化の世の中だからこそ、多様な島宇宙の並立を支えるインフラ的な空間は画一化されているわけです。

東 そうねえ。でもそれだったら、最初から島宇宙の話になってないからね。たとえばセカイ系が好きで、宇野さんとまったく問題意識が共有できない読者って、今でもおおぜいいるわけだよ。

宇野 それは単にゼロ年代に対応できていない連中なわけじゃないですか。「もうセカイ系なんていうのは九〇年代後半の残りカスなんだから、ゼロ年代には通用しない」というすごくオーソドックスなロジックで説明できますよ。

東 でもさ、「対応できていない」連中がいることもまたゼロ年代の現実なわけでしょう。「セカイ系が生き残って快調に喋っていた」ゼロ年代もあるわけじゃない。

宇野 それは「ファウスト」があって、東さんがいたからですよ。

さて、ここまでの引用で、僕が「ゼロ年代の想像力」について、この項で議論したいポイントと、また次回この連載について書くときに議論したいポイントはだいたい揃えられている。今述べたように、さしあたって、まず僕は具体的に宇野常寛の論を問う一環として、僕自身によって状況の整理を行う。それはやはり、「セカイ系とは何だったのか」という問題から始まるものだ。

この言葉について、Wikipediaに載っているような説明は、また宇野常寛の理解するそれも、以下のようなものである。

「社会」「歴史」といった中間項を抜きに「自己の内面」と「世界」が直結する「セカイ系」

この説明は、実のところ物語作法としてのセカイ系には全く注目していない。これは、このジャンルの作品が、多分に現実問題に対する批評的なアプローチから物語を成立させた面を持つからだと思われるが、そのためこれまでセカイ系についてなされた説明は、実際にはポストモダン的な時代状況およびセカイ系に類する作品群が、現在の我々にどう理解されたのか、あるいはどう支持されたのかについての説明ではあっても、なぜそれが作家に選ばれたかという明確な説明には達していない。このような説明では、作家が単に批評的な視座から判断してこのような物語を描くことにしたのだということのみを自動的に認めようとしていて、物語論としては十全とは言えない。僕がこのブログでプロフィールに「趣味はフィクションの観賞」と書いているのは、ここでは物語論的な語りを選びたいと思っているいるからだが、それゆえもあって、セカイ系が物語論の上でどのような立ち現れ方をしたのかは検証されるべきことだと感じる。そうすれば、そこから90年代と「決断主義」的なものは正しく接続可能だと思うし、同時に宇野常寛が行いたかったであろう東浩紀に対する批判も、正しい形に導けるはずだ。ざっくりと言えば、僕が今から書くのはそのような内容である。

さて、上記の引用からも読み取れるかと思うが、宇野常寛は、90年代の「引きこもり」的な想像力は「セカイ系を擁護する」東浩紀と初期の「ファウスト」によって延命されたとしている。そして「ファウスト」は3号の「新伝綺」特集によって「決断主義」的な作品の支持へ転向したとする。

あるいは東浩紀も「ファウスト」の転向については認め、そこに雑誌の姿勢として大きな切断があったはずだと両者は認識しているかもしれない。だが、僕の理解はやや異なる。まず、しごく単純な話では、奈須きのこはファウストの第一号から取り上げられている。現在公開されている劇場版「空の境界」第四章のパンフレットで僕は「ファウスト」の太田克史編集長に対してインタビューを試みているのだが、そのことはそこでも語られている。これは単に太田編集長が誌面に対して雑多に流行りのものを並べたのだと思いたい者がいれば、そうしていればいいとだけ思うが、しかし少なくとも、「セカイ系のころ」の「ファウスト」と奈須きのこは時代として切断されず同じ場所に並べられたことが当時のフィクションの状況としてあったのは間違いないのである。また宇野常寛は「ゼロ年代の想像力」の第一回において、オタク系の文化の流れが決断主義に後れを取っていたことの説明として

一九九九年放映の『無限のリヴァイアス』などのヒットこそあったものの、二〇〇四年のTYPE-MOONの台頭まで、オタク系文化の主流がこの変化に対応することはなかった。

としているが、控えめに言ってもTYPE-MOONが「台頭」したのは「月姫」(2000年)によってであるのは間違いないことで、そのことを半ば意図的にか述べていない。あるいは、「月姫」は「決断主義」的な要素を持っていないはずで「セカイ系」に連なるものだから言葉を割くまでもないということなのかもしれない。

だがこれもまた、東浩紀も宇野常寛と似た認識であるかもしれない。なぜそう考えられるか。寄る辺となるのは「新現実 Vol.1」での、大塚英志と東浩紀の対談である。この本は2002年に出版されたものだが、今回読むべきなのは136ページからの大塚英志の言葉である。

大塚 もう少し、新しい小説はどうなるのかという話をしたいんだけど、僕がそういうことを意識したのは、一つは新海に対する評価で、もう一つはTVドラマの『木更津キャッツアイ』だったのね。ぼくはけっこうはまっていたんだけど、何が面白かったかというと『木更津キャッツアイ』はその前にやっていた堤幸彦の『池袋ウエストゲートパーク』で脚本を書いていた宮藤官九郎と、メイン以外の助監督たちがメインに移行して作ったタイトルなのね。堤幸彦は『ケイゾク』とか『トリック』なんかを作って、ここのところのTV業界では先端的なことをやっている人であるわけだけど、彼が抜けた瞬間に若いスタッフたちが作品の中に、前向きで健全な主題を持ち込んできたことが面白かった。細かな断片を積み上げていって世界を構築していくのは同じ手法なんだけど、一個一個のディティールなりエピソードがきちんと主題に結びついているという作り方がしてあって、データベース的な見方をすれば、ああ、あれはあれだよね、で終わってしまうわけだけど、逆に知らないで見た場合には、きちんと意味が構成されるようになっている。ぼくが新海を褒めたのも、実に健全なプロットであり、テーマをおそれないというところが面白いと思ったからなんだよね。

僕の引用が下手で文脈を読み取っていただけるかどうか不明だが、彼は「ほしのこえ」と「木更津キャッツアイ」の両方に、テーマを恐れない、健全さを感じたという話をしているのである。多く物語論に忠実な語り口を選ぶ大塚英志によって、ここで既に「セカイ系の話と宮藤官九郎の話は、すごく素朴なレベルでは全然違うことだと思われる」という東浩紀の推測は裏切ることができる。また同時に、宇野常寛によれば「ほしのこえ」に代表されるようなセカイ系の物語とは相反するはずの「木更津キャッツアイ」は、物語論のレベルで同列に並べることができている。大塚英志がここで行っていることはそれだけではない。彼はエヴァ的な90年代の作品をも、物語論によって正確に解説している。彼の発言の続きにこう書かれている。

あさりよしとおがまんが版の解説で、「エヴァ」はビルドゥングスロマンとしてよいのではないかと書いていて、僕もある時点ではそうだと思っていたわけ。ところがある瞬間に庵野は自分の中に主題が発生してしまったことに対して、驚いたのか怯えたのかわからないけど、主題に必死に抵抗していった。それでひたすら破綻していって、ぼくが映画版の最後をあきれながらだけど評価するのは、結局最後までシンジはエヴァに乗らないわけだよね。ロボットに乗って、責任を引き受けるという少年の成長の結末を庵野は身体を張って拒否した。その主題からの身体を張った逃亡ぶりは「エヴァ」の真の主題だと思う。

この理解は、先日ブログ「灰かぶり姫の灰皿」の長岡さんが、ご自身が執筆なさっているエヴァ論の一部として紹介していた内容によって裏付けられる部分がある。僭越ながら手前勝手に論旨から読ませていただけば、長岡さんは「ガンダムの第一話にエヴァの第一話は勝てなかった」という庵野秀明の有名な言葉を引用しながら、エヴァは「少年がロボットに乗って敵と戦う」というロボットアニメの、ひいては物語というものの定型を強引な形で実現させるしかなかったとしている。これは、先だって発売された岡田斗司夫「『世界征服』は可能か?」において、庵野秀明が「ふしぎの海のナディア」を製作していた頃に言ったという「ところで、このガーゴイルって秘密結社は、なんで世界征服なんかしたいんでしょうね?」という言葉にも対応するもので、庵野秀明は少なくともエヴァを始める時点までには既に、現代に確固たるリアリズムを与えられたものとして、言い換えれば根拠を持った、定型の「お約束」に基づいた物語を描くことができないことを実感していたはずなのである。その実感とはまさに、歴史的な価値が成立不可能になったポストモダンにおいて物語が到達したものだ。ロボットアニメという、最も定型的に作られるべくあった物語の裏側にある根拠のなさは、従ってエヴァにおいては「逃げちゃダメだ」という、半ば作家自らに向けられた台詞によって解消させながらロボットアニメを成立させる必要があった、と長岡さんは述べている。しかし言うまでもないことだが、そのようにして成立させられた物語は、単に定型の物語を実現することとは違った。長岡さんも大塚英志も指摘するようにそれは反物語的な物語への導入であり、結果的には97年に、エヴァは定型の物語の根拠のなさを浮き彫りにする反物語としてのみ完結した。そして、大塚英志は、それに対するものとしてセカイ系や「木更津キャッツアイ」を語るのである。

ところが、新海にしても『木更津キャッツアイ』にしても、作品の中にテーマがあることになんら拒否反応を起こしていなくて、実に健全な作品を作るわけです。そのことがぼくは面白いと思っているんだけど、はたして彼らはそれをどこまで自覚的にやっているのかとも思う。つまり、それさえもデータベース的な展開の所産の一つであり、そこに引っかかるのはぼくみたいな古い世代だけなのかと思うんだよね。

これに対して、このとき東浩紀は次のように話している。

東 確かにその種の健全さは最近の傾向ですが、しかし、一般的に、感動させたいとか主題を入れたいと思うのはごく普通のことですからね。僕は逆に、大塚さんたちの世代がそれを執拗に避けていたということこそが、奇妙に思えるんですけど。

大塚 データベースということで言ったら、堤幸彦にしろ宮藤官九郎にしろ新海誠にしろブロッコリーにしろ使っているわけだよね。でも、そこで主題の有無という歴然とした差異が発生しているのは何故なんだろうか。

東 そこで主題の有無がそれほど重要かなあ。

大塚 主題というよりももう少し大きい意味とか、構造と言ってもいいと思うけど、意味が発生することへのおそれの有無ということは、けっこう大きな問題だと思うんだけど。たとえば、アンダーセルの大塚ギチは新海とかと同じ年代だけど、彼が書くものには意味が発生することに怯えている印象がある。新海たちは作品に意味を普通に発生させていくわけだよね。

当時の東浩紀に見落としがあったとすれば、それはおそらくここであったと僕は思う。いずれにしても、宇野常寛のやり方では、ポストモダニストである東浩紀への批判はパフォーマンスとしての意味以外では体をなせないはずだ。東浩紀はポストモダンにおける実存のあり方について注目してはいたが、ここで物語論的なレベルで考察する余地を棄却するか、あるいはそのような読みを行わない。

東 それは単に意味を発生させられない人間が下手だということではないですか? さきほども述べたように、いまの文化世界はデータベースの層とスペクタクル(=シミュラークル)の層の二層構造で作られているけれど、スペクタクルのレベルでは単に通りのよい話の方がいい。新海さんもその部分はしっかり踏まえたわけだけど、逆に、主題を恐れないことにそこまで拘る大塚さんの方が捻れている感じがする。

大塚 とすると、結局、データベース的な環境の上で、すべてがシミュラークルになってしまっているということ?でも、批評としてそう語ることと作品がそうなることは別だし、逆に完全なシミュラークル化した作品なんて存在しないんじゃない? AIでも使って創作させない限り。

東 それは八〇年代も同じですよね。だからこそ大塚さんたちの世代は意味なんて格好悪いと言ってきたわけでしょう。ただ、いまや、あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった。それだけの話じゃないですか。

ここで「主題を恐れる」という問題がなぜ生じたかということに対して、それが「大塚さんたちの世代が」「80年代」といって世代論的に終わりにした東浩紀の評価は安易に過ぎたのではないか。単純に言っても大塚英志が述べたように新海誠と大塚ギチは同年代だ。まして、ポストモダンにおいて創作の現場では、「大きな物語」の喪失という言葉はそのままリアリズムや主題を持って物語ることができないという危機に直面したということを東浩紀が知らないはずはない。例えばミニマリズム文学の活況などもその流れにあり、もっと遡っても、ボルヘス「伝奇集」でもバース「尽きの文学」でもエーコ「文体練習」でも蓮實重彦「小説から遠く離れて」でも、ポストモダンに物語が駆動力を失っていく課程はやはりあったのだ。そして、それがついにアニメにまで到達したのがエヴァという反物語だったと僕は思う。東浩紀が、社会を成り立たせていた価値が崩壊し、何も選ぶことができない状況から生まれた物語としてのエヴァを認めていたならば、当時セカイ系や「木更津キャッツアイ」のように「最近の傾向」としてあったような「健全さ」を持つことができない物語を単に「下手」と言ってしまうことには自己撞着がないと言えるだろうか。

ただし、逆に言えばここで東浩紀は彼の展開するポストモダンの論理に基づいて正確に「健全さ」について述べているとも言えなくはない。「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉は、今このゼロ年代末の説明としてむしろ正しいと僕は思うのだ。それは「シンジではキラを止められないから」という流れとして宇野常寛によって解説される決断主義への筋道よりも、少なくとも僕には説得力のあるものに感じられる。それについてはまた述べるが、ともかく当時の東浩紀は、自身のこの言葉にあまり意味を感じなかったはずだ。だからこそ彼はこの対談の中で「ほしのこえ」についてあくまで「個人がアニメを作る」ということに注目しているし、また「月姫」についても同様に、同人ゲームから商業タイトルを越えたヒットを飛ばしたという点にのみ注目する。創作の主客が逆転する、もしくは、受け手が自給自足的に物語を再生産し続ける状況については彼は現在に至るまで鋭い考察を続けているが、そこで人々が定型の物語を尊んでいたことについてはあまり注目していないし、彼はまたそのような作品に対して、例えば「Fate/stay night」の主人公について「内面がないし、葛藤がない」という「脳天気さ」を指摘したりする。念のために記せば、ここで僕は、東浩紀はそのように物語を定型的だからと退けるべきではない、彼がこれを楽しめないのは間違っている、彼も楽しめ、というのではない。ただ、その移り変わりがポストモダン的なものに起因するとたぶん彼は気付きながら(むしろ彼は「動物化するポストモダン」の中でそこまで言及できている)、それをいわゆるポストモダン文学の潮流と照らし合わせて接続させてよかったはずだということである。

西尾維新はセカイ系のブームについて、次のように述べている

「僕にとっては、世界=物語で、身近で閉じた世界が物語そのもの。『セカイ系』と言うが、逆に、そうでない問題って小説になるの? と聞きたいくらい」

作家の立場からの発言として、彼の指摘は極めて鋭い。近代社会を成す価値の崩壊は現実を書き写す作法としてのリアリズムの手足を封じ込め、ポストモダン文学は袋小路へ至ったが、しかしこの西尾維新の言葉はリアリズムとは本来リアルではないということを把握して、さらにリアリズム小説だけがフィクションではないことを熟知して、そのことを述べている。そして、彼の言葉から敷衍するならば、セカイ系の物語とは、エヴァという反物語からの反動と捻れから極端に批評的な形で生まれようとした、必ずしもリアリズムに基づかない定型の物語への憧憬であったのではないか。

「ファウスト」もまたそうだったはずだ。太田編集長は、おそらく結果論として、新しい時代の作家をミステリから招いた。ミステリはつまり殺人が起きて、犯人がいて、解決される。その図式はまさに定型のものである。とりわけ本格ミステリは、さらに新本格ミステリは、リアリズムを越えてリアルでない「定型の物語」を描く。定型でないミステリ、例えばメタミステリ、例えば犯人がいない小説、例えばフレドリック・ブラウン「うしろを見るな」(もっとも僕はミステリをよく知らないので例として挙げるならコルタサル「続いている公園」の方がしっくりくるが)の被害者は読者だ。しかしそのようなミステリは定型の裏返しでしかない。ともかく、佐藤友哉はそれをパロディ的に自分の中に落とし込んだ。だから彼は、後に90年代以前のJ文学や日本のポストモダンや私小説のパロディを行うことだって可能で、それで彼は文学賞を取れる。舞城王太郎は常軌を逸したトリックなどを使ってリアリズム的なミステリの道具立てに全く意味がないことをことさらのように示すことで定型の物語のエモーショナルな部分の美しさを陰画のように浮き彫りにして描いたが、やがて作品を減らしていった(その姿はまるで小沢健二の辿った隘路のようだ)。対して西尾維新はデビューしてから1年もすれば定型の物語に戻っていった。彼は「クビツリハイスクール」で、ミステリが重要なのではない、つまりは定型の物語が重要なのだと理解し、そしてミステリを取り外したのだ。また奈須きのこ「空の境界」はしばしば「月姫」のプロトタイプとしてのみ語られるが、物語の原型としてだけでなく、同時に作者が「月姫」を書くための試行錯誤の課程としてあった。だからこの小説は随所で型を壊そうとして描かれており、複雑で読者に読みにくさを強いる。しかしその奥にあるものはやはり奈須きのこが「王道」と呼んで愛するもので、これを書き終える頃、奈須きのこは自らがそこに本腰を据えることを認めた。それは98年のことで、だから彼は誰よりも早く、停滞を迎えようとしていた美少女ゲームのエポックメイキングとなるエンタテインメント作「月姫」を作ることができたし、多くのユーザーがその面白さに熱狂したのだ。

こうして作家たちは、また我々は、もう一度物語を物語ることと物語を享受することを等しく目指していた。そこで「エヴァ」も「ファウスト」も、それからセカイ系である「ほしのこえ」も、また「木更津キャッツアイ」も、一つの流れに共に並びうる。そこに切断などない。何かが何かの否定としてなど、生まれていない。むしろこれは、我々すべてが目指した回復の過程だった。そしておそらく、この流れとは、東浩紀の述べた「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉から読まれるべきものだ。

これが、僕が「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて読んだときに抱いたまず1つ目の感想であり、僕自身が示したい、現状への理解の一部である。

2008.06.05 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ] [音楽

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