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クイック・ジャパン78

今売りの「クイック・ジャパン」78号では、「我々は再び、何を見ようとしているのか?」という小特集で「劇場版 空の境界」について小論を載せていただきました。なんと中田健太郎さんが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」について書かれた評論と併せて載せていただくという、僕にとっては大変名誉な原稿だ。僕が書いたのは実際のところ、先日このブログで「ゼロ年代の想像力」について書いたときの「定型の物語」についての内容と大きくかぶっているが、ただ「空の境界 劇場版」についての内容なので、ずっとその作品について多く書いている。特に記事では、劇場版の第四章のパンフレットで奈須きのこさんに対して行ったインタビューから、奈須さんの言葉を引用している。それは以下のようなものだ。

たしかに九〇年代の後半の頃は「もうあらゆる王道がやりつくされたから、やってもしょうがない。それとは違うことをやるべきだ」という雰囲気があったと思います。自分もその熱に罹っていたと思います。『空の境界』をやろうと思ったのもその表れだろうし。けど、出来上がってみればこの結果ですし(笑)。ツンツンしながらも、結局は自分を育ててくれた"王道"の力をどうしようもなく愛していたんでしょうね。

この言葉は、まさにこのブログに先日書いた、「空の境界」から「月姫」に至った奈須きのこも、そしてセカイ系もファウストも、「木更津キャッツアイ」すらも、みんな定型の物語の再生に向かっていたのではないかという議論につながるものだ。つまり、前回の東浩紀の言葉として引用した「いまや、あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので、意味なんて格好悪いと言う必要すらなくなってしまった」という言葉に対応して、九八年の時点で奈須きのこははっきりと彼の言う「王道」に向かって舵を切り始めていたという僕の論の根拠がこの奈須さんの言葉にはある。

ちょうど先日、同じ問題について、評論家の福嶋亮大さんが次のように書かれていた。

たとえば、西尾維新や佐藤友哉のような小説家は、それ以前には存在しなかった。デビュー当初の彼らが徹底して暗いファンタジーを書いたのは、コミュニケーションがほとんど瓦礫のように空洞化していることを示すためだった。彼らは、人間と人間のつきあいなどとうに偽物になっていることを、切実に感じていた。しかし、やはり彼らが示すように、その虚飾に満ちたやりとりを続けることしか、もはや人間に残された道はない。もしその虚飾のコミュニケーションすら剥ぎ取られれば、人間は世界から追放されるしかない。彼らの「漫画・アニメ的リアリズム」は、そういう暗い認識と繋がっている。

とはいえ、こんな作家は例外で、いまや「漫画・アニメ的リアリズム」はまっとうな人間ドラマをやり、血の通ったコミュニケーションを描くための素材にすぎなくなっている。もちろん、僕たちはいまでも砂漠のようなコミュニケーションをやっているのだが、それがあまりにも自明になると、安定したドラマをつくることにさして大きな抵抗はなくなる。2008年の我々は、すでにコミュニケーションをきわめてポジティヴに捉えている。かつてコミュニケーションが、逃れたくても逃れられない悪夢的な行為として描かれていたことは、とうに忘れ去られていると言うしかない。宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」は、その忘却のひとつの象徴である。

ここで福嶋さんが述べている「あまりにも自明になると、安定したドラマをつくることにさして大きな抵抗はなくなる」という言葉は、一読して分かるように「砂漠のようなコミュニケーション」についてのものだ。しかしこれはやはり前述の「あまりにもすべてがシミュラークルになってしまったので」という話と通じているのだと思う。福嶋さんはこれをコミュニケーションに関わるメタリアルなフィクションの系譜という文脈で議論なさっているが、僕が前回書いたものは単にポストモダン文学の系譜から敷衍できるとした点で異なっている。しかし両者の根は同じだ。ポストモダンという時代に人々が直面した困難に関わるものであることは間違いがない。

ただ、今回のQJの記事では、この2008年において今「まっとうな人間ドラマ」を作家たちが作るということを踏まえた上でなお、我々がそれを鑑賞し論ずることを考える時期に来ているのだ、ということをテーマにしている。そしてそのことはまた、この記事だけでなく、僕が今現在、最も問題にしたいと思っていることなのだ。「ヱヴァ」について書かれた中田健太郎さんは、結びとして次のように書かれている。

問題となっているのは、『エヴァ』の抱える反復性とオリジナリティの間の葛藤が、新しい物語世界のかたちをとって、現代の視聴者の感受性とたしかに切り結ぶこと、それ自体なのである。

エヴァが反復の物語であるということは、単にエヴァが何度も「最終話」を作り直しているということを意味するのではない。エヴァという物語が繰り返しであるということは、物語論の上でも表現論の上でも、その基礎にあるロボットアニメの文法はもちろんのこと、既に語られたあらゆる物語のデータベースから要素がサンプリングされ、それを再構成して「エヴァ」を成り立たせてある。そして「ヱヴァ」はそれに対して自覚的にありながら、なおそれを行うということを意味する。しかも庵野秀明はその再話をエンタテインメントとして作り上げるという。そして中田さんが述べようとしているのはもちろん、作り手のその力強い一手を、受け手である我々が受けて立ってしかるべきであるのだということに他ならないだろう。

「我々は再び、何を見ようとしているのか?」という小特集のタイトルは、言うまでもなく庵野秀明の「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」という言葉を正面から引き受けようと呼びかけるものだ。昨今の作り手による、この再び物語を物語ろうとするという変調は、むろん受け手の変化にも呼応したものでもあると思う。だが、しかしならば今、それが人々に享受される状況になっているということについて、我々は前向きに語るべき言葉を持つべき時期なのだ。ある作品を鑑賞することが、そしてそれに対して下す評価が、「信者」だ「黒歴史」だといった粗悪なマッピングに流用され、単に人々のコミュニケーションを暗く楽しませるだけに消費されてしまう状況は変わってきているだろうか? 少なくとも、この2作が劇場版という形で再話され、ヒットを飛ばし、DVDを驚異的に売っているということについて、我々は肯定的な言葉を紡いでいけなければならない。そうでなければならないはずだ。僕はここに主題を述べよう。我々は作品を愛し、評価を検討して、その上で再びただ愛する、という回路に達することができるだろうか。

2008.06.17 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ

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