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ディエンビエンフー 3

「ディエンビエンフー」は非常に面白い。どのくらい面白いかというと、1・2巻が同時発売されたときにあまりに面白かったので、読み終わってすぐにその足で続きが載っている「IKKI」を買いに走ったほどだ。その続きというのがまたすごくいいシーンで、それがすなわち今回発売された3巻の冒頭にあたる部分だ。44ページの、大ナタを振るうトン将軍の絵なんて超マンガだ。このコマの「いいのかな? 俺様に抜かせて。」という見得の切り方にはマンガの外連味がある。ようやく、以前「角川版ディエンビエンフー」で描かれた内容を越えて、今IKKI版の「ディエンビエンフー」で西島大介がやろうとしていることは、はっきりしつつある。彼はここで少年マンガをやろうとしている。もっと言えば、面白いのは彼が、みんなが注目し渇望する「ジャンプ」ではなく、なぜか「少年チャンピオン」的な要素をも取り込もうとしているところだ。2巻冒頭のお姫さま対カリフラワー戦の「360度全方位爆弾」などでそれは顕著に見られる。

死角なし。

回避不能。

360度全方位からの

クレイモア地雷の雨。

700発×36個=

2万5200発。

この数字の過剰さは間違いなく「バキ」や「覚悟のススメ」が持っているそれだと僕は思う。これは意味としては「絶対に避けられません」ということであって、それは少年チャンピオン的な数字のインフレーションによる「絶体絶命」感の演出に多く見いだせるものだろう。それは西島大介の洗練された(指弦を操るカリフラワーの指先のコマに凝縮されたジャズレコードのジャケットのようなクールネスを見たまえ)絵と相まって非常にカッコいいシーンになっている。

この見開きは平衡感覚が大幅に崩された動きの大きいものになっている。似たような見開きは「モーニング2」で先日完結した「世界の終わりの魔法使い 小さな王子さま」でも見られた。西島大介は最近、このような歪められた全景図のカッコよさを多く描くようになっている。かつてイラストレーターとしての彼の仕事では、どちらかというと平地を正確なパースに従って描き、そこに細密なテクスチャを載せていくようなものが多かったはずだ。おそらく彼は「アトモスフィア」のラストで平面的な(でしかない)ものとしてコマ内を描く彼自身のやり方を超越してから、このような歪んだコマを多く描くようになったのではないだろうか。ぜひ付け加えておきたいが、「アトモスフィア」のラストシーンは、西島大介が平面として認識されすぎる自分の絵を逆手にとって、マンガのコマについて表現論的な批評性を見せ、さらにシミュラークルからなるマンガという(反)物語論の問題までにも1つの結論を付けている。この達成があったからこそ、彼は以後、あれほどの批評性を持った作品をずっと描いていない。おそらく今のところ、到達点としての「アトモスフィア」を直接に受け継ぐものを描く理由がないのだろう。いずれにせよ「アトモスフィア」はマンガ読者を自認する人すべてにぜひ読んでもらいたい傑作だと僕は思う。

「ディエンビエンフー」の話に戻る。西島大介がいわゆるリアリスティックな戦争マンガを描こうとしていないのは明白で、彼は「遠くにあって決して到達できない」という現代的にリアルな戦争を、少年マンガの「存在しない」リアリズムに結びつけた。だからこのマンガで人を切ればゴム人形のように輪切りにされるし、マシンガンの弾はナイフ一本ですべてはね返されることが可能なのだ。そして3巻では強力なキャラクターが次々に登場し、読者をまるで「バキ」のように単純にプロレス的な「強さ議論」へと誘う。ここで彼はバトルを見せるから、読者に楽しんでもらいたいはずなのだ。あとは、お姫さまが敗北を契機に必殺技を2つ3つも身につければ完璧なのだ。ああ、このマンガを本当にたくさんの若い読者が読んだらいいのになと思う。

しかし、これがただの「バトルマンガ」に終わっていない、というよりむしろ現代に自覚的な語り手としてある西島大介がもはやただのバトルマンガとして終わらせることができないのも事実である。キャラクター同士の見得の切り合いが終わり均衡状態が決壊したとき、人は一瞬で命を奪われる。その現代のバトルマンガに定型的にある展開を、西島大介はあっけなく命が奪われる戦争と、「かわいいキャラ」としての自分のキャラクターの希薄さに結びつけている。彼はいつも通り、入念に考え抜いたあげくに新たな題材として戦記を選び、描いている。また「2人はまだ、お互いを知らない」という毎回繰り返されるヒキの文句は、つまりは矢沢あい「NANA」と同種のものだ。西島大介は最終的に起こる悲劇を前提にしながら物語を前に進めるという物語的に極めて定型的なものを試している。この物語の定型性は多くのケータイ小説と関連付けて語ってもいいし、例えば今フジで放映しているドラマ「ラスト・フレンド」だって同じ事をやっているとも言える。簡単に言えば、彼はその定型性を利用して物語を終結に向けて「ひっぱって」いる。まさに「ヒキ」なのだ。このような定型性を常に批評的に醒めた目で理解した上で物語の要素として選び出すことができるのが西島大介という作家の真に恐ろしいところだと僕は思うのだが、しかしおそらく、その定型を完全に受け入れた上で、「愛」や「死」という素朴で、しかし重い感動を本当に読者に届けることができるかというのが、彼の今作での挑戦なのだろう。「アトモスフィア」については、2006年に出版されたにもかかわらず、今なお多くの読み手によって語られるべき言葉が語られていないように僕には思われるが、しかし既に西島大介がさらにその先に進んでしまった「ディエンビエンフー」の面白さは、何というかもう、単純に面白い。

「ディエンビエンフー」といえば、サウンドトラックが発売された折に、フライヤー用に短い推薦文のようなものを僕が書かせていただいた。その文章は今DJまほうつかいのMySpaceで読むことができる。短いが、こちらもぜひ参照していただきたい。

2008.06.18 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ

コメント

>何というかもう、単純に面白い。

そうか、そうですね。色々考えるより、まず読んでみた方が早いし、確実。
たまたま書店で見かけて、でも立ち読みは出来ないようになっていたので、ジャケットだけ見て、どんなのかな~?と。
アマゾンで書評を見てみたら、本当の戦争史を描いているわけではない云々etc …とあって、なんだか難しそうに思えてきていたのですが、やっぱり、気になるなら読んでみろ、ですね。そうします。

2009-04-01 水 22:38:16 | | valvane #3un.pJ2M [ 編集]

valvaneさん、コメントありがとうございます!
ディエンビエンフーは、本当の戦争史では全然ないですよ!でも、たぶん絵空事の戦争から、どこまで本当の戦争とか愛とかグロテスクさみたいなものを描けるのかということをやりたいんじゃないかなあと思います。西島大介という作家は自分の絵がリアルでないということを受け入れることからスタートしつつ、常にリアルに向き合おうとしているように僕には思えます。

2009-04-02 木 02:30:15 | | ソメル #- [ 編集]

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