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思想地図 vol.1

「思想地図 vol.1」において、個人的に面白かったのは福嶋亮大による中国のライトノベル状況に関する考察と、韓東賢による「朝鮮学校はヤバい」という伝説から始まる議論だった。前者は僕がしばしば好む「自分の知らないところで何かが起こっている」ということについてのレポートであり、後者は90年代に社会学を楽しんだ僕としては見逃すことのできない現代のフォークロアから始まる話だったので、楽しかったのだ。

しかし最も考えさせられたのは黒瀬陽平による公募論文だった。僕はここで彼が書いているアニメ表現論は優れたものだと思うし、いま書かれるべきものとして正しいと思う。しかし、僕が注目させられたのは彼が自ら表現論を展開する動機として書いている内容だった。それは、現在のアニメ批評に表現論がなく、物語論だけが氾濫しているため「萌えアニメ」のようなものを扱えずに批評は停滞しているのではないかというものだ。黒瀬陽平の整理によると、九五年の「エヴァ」以降、物語の構造を分析する物語論的な批評がアニメでは優勢となり、〇二年の「ほしのこえ」をピークにして以後失速する。指摘されているのは、東浩紀のエヴァ論が、その作品じたいが持つメタフィクション的な構造を指摘することをもって、物語論によって表現論をも語ることを可能にしている、ということである。しかし注意すべきなのはここで黒瀬陽平は、この東浩紀によるエヴァ論のあり方が失策であると指摘しているのではなく、むしろその後アニメ評論の系譜として作品の(メタ)構造を指摘するという物語論だけが残り、結果としてアニメというメディアこそを条件として成り立つ批評性、すなわち表現論は後退した、としている点だ。彼は次のように書いている。

東がアニメにおけるメタフィクションを論じるとき、その背後には必ず八〇年代の押井的なメタフィクション性が、とりわけ『うる星やつら2』の存在があった。東のエヴァ論を物語論としてのみ読むのなら、『エヴァ』の分析を通して、押井的メタフィクションを特権的なものとする日本アニメ史があらわれてくるだろう。
 事実、東のエヴァ論はそのように読まれていたと考えてよい。なぜなら、「ポスト・エヴァ」のアニメとして『ほしのこえ』から「セカイ系」を見出す視線そのものが、東の持っていた「メタフィクション志向」を象徴するものだったからである。

僕は東浩紀がこのような書き方を選んだことについて、彼がポストモダニストらしくエヴァのメタフィクション性を正しく指摘したのだと思う。そのあり方は、虚構がそれ自体によって破綻する瞬間に作品は「現実」を表象するという、かつてポストモダンの批評がメタフィクションを語った際に多く見られた語り口として馴染み深いものなのだ。だが僕もまた、黒瀬陽平と同じく、東浩紀によるこの議論のやり方が誤りであるというわけでは全くない。しかしメタ的な構造を持った作品こそが90年代後半という「現実」を活写したのだとすることで批評となすという、この姿勢が受け入れられたとき、「アニメは現代社会の現実を描くものであり、批評は作品からそれを抽出することをもってなされるべきだ」という理解が一般化してしまったとは考えられないだろうか。エヴァは「碇シンジは僕だ」という言葉に代表されるように一般消費者にとって、またアニメについて語る者にとって現実の問題と関連付けて語る親和性があまりに高くあった。そこからアニメは、またアニメについて語ることは、つまり現実について語ることなのだという流れは強化されていったのではないかと僕は思う。

つまり黒瀬陽平が「押井的メタフィクションを特権的なものとする日本アニメ史」として指摘するものは、アニメを語ろうとする者がいま、ポストモダンの批評におなじみにある「メタフィクション性から現実社会の問題を指摘する」というパターン化が可能な作品のみを批評の対象としたがっている、ということである。それはまさしく、今月号の「ユリイカ」において伊藤剛が、まさに東浩紀に対して対談で指摘した内容であるように思う。132ページを見よう。

伊藤 (中略)『m9』では紙屋高雪さんが『闇金ウシジマくん』を通して下層社会について考えようといった原稿を書かれているんですけど、僕はそれに対して論難しようというのではないんです。ただ、「マンガを通して社会を知る」という素朴な社会反映論的な構えこそが社会に開かれた「批評」であるというのは違うのではないか、ということは言っておきたいんですね。

東 そういうのは昔からあるから、一概に否定するつもりはないですけど。

伊藤 もちろん、「社会反映論」がいけないと言っているのではなくって。マンガ評論という文脈で問題にしたいのは「社会反映論対表現論」という二項対立に陥ってしまうのがまずいということです。これは夏目(房之介)さんの登場以降できた図式とも言えるんですが、つまり九二年の『手塚治虫はどこにいる』で、それまでのマンガ評論がマンガに反映された社会の諸問題を読み解くということをやっていたのに対し、マンガ自体に内在する表現の法則をいったん取り出すという作業を経由しないと、社会を論じるにしても間違いを冒してしまうのではないか、ということを言い、「表現論」という言葉を使い始めた。さらに(引用者註:「しかし」?)夏目さん自身が、九七年の『マンガと「戦争」』という本で、戦後の日本マンガと戦争という問題系について考察しているんだけれども、ここで「表現論という枠組みではうまくいかなかった」と自分で言ってしまっている。(中略)「表現論」は社会の現実から離れて表現の中に沈潜していく態度であるととらえられがちになったんですね。そうした「表現論」への反発として、紙屋さんのような素朴反映論が歓迎されている部分はあると思うんですよ。
 僕は反映論と表現論は矛盾なく接続しうるものであると考えていて、実際に『テヅカ・イズ・デッド』の第二章でそういうことを書いた。つまり、それは全体をシステムとして捉えるということで、社会は作家にとって環境である、でも、作家というサブシステムにとって、社会だけが環境のすべてなのではなくて、もうひとつジャンルという環境もあるはずで、執筆においてその両方が参照されるだろうということなんです。

東 伊藤さんが言っているのは、社会が表現に対して影響を与えるのは内容ではなくて形式だということですね。それもまた昔から言われていることで、ごくシンプルに言えばこういう考え方です。内容は作者が意識して作る。だからむしろ社会反映論では説明できない。けれども形式は無意識で作られる。つまり、作者のおかれた条件が、作者の意識を経由しないで反映している。したがってそこでは社会反映論が機能する。批評は作者の無意識まで降りていき、そこで社会に出会う。要は、批評は、作者がなにを考えて作品を作ったとか、作者がなにを描きたかったかなんて、最初から相手にしていない。精神分析でも記号論でも二〇世紀以降の作品研究は基本的にそういう立場なはずですが、実際にはこのレベルまで行くと高度な話になるようで普及していない。そこで一般的には、この作品はニートの主人公が出てくるから格差社会の現実を描いているよね、という通俗的、というか「それってそのまんまじゃん」的な読解が批評だと見なされ続けている。

伊藤 そういうわかりやすい話だけじゃまずくない?というのが僕の立場です。(後略)

ここで大切なのは、これは、ここで語られているマンガや、また黒瀬陽平が指摘したアニメに限った話ではないということである。我々は批評において、レビューにおいて、作品を語ろうとするあらゆる環境において、いま「作品が現実を語っているか」ということをもってその作品を評価しようとする。そのこと自体が、必ずしも問題なのではないと僕は思う。なぜなら批評が1つの側面として、作品から現実問題を見出すというのは否定し得ないことだからだ。しかし、繰り返すが、我々が批評において、レビューにおいて、作品を語り合うあらゆる環境において、つまり、例えばいまインターネットにおいて、ある作品が現実問題を語っているから「こそ」、その作品は評価されるのであり、評価軸はただそこだけに限定され、そして現実の問題に寄り添わない作品は唾棄すべきものだと考えるならそれは間違いなのだ。

しかしまた僕は、伊藤剛や黒瀬陽平が表現論に見せる積極性とはまた違った論点を持ちたい。先ほどの引用において黒瀬陽平は、「ほしのこえ」から「セカイ系」を見出す視線そのものが「メタフィクション志向」を象徴するのだと指摘して、現在の物語論の優位を語っている。逆に言えば彼は、現在において物語論はメタフィクション的な作品から現実を見出すというポストモダンの批評にありがちなものとしてのみあるとしているのである。僕は、先日も書いたようにこれは物語論としてもまた十全なものではないと思うのだ。エヴァという反物語からいかにして2008年の状況に至るのかということを考えたときに、物語論は「ほしのこえ」などのセカイ系は「定型の物語の回復の過程」としてあるという視点を持ってよいし、物語論として正確にあるならばそうでなければならない。なぜなら、黒瀬陽平の指摘したものだけが今日の物語論として可能であるならば、それこそ物語論は「らき☆すた」などの「萌え系」の作品を扱えなくなるし、また僕が先日書いたように奈須きのこのようなエンタテインメントが現在において人気を博している事態を黙殺せざるをえなくなる。そして、それは実際にいま起こっていることなのだ。

物語論が「現実」を見出すものとしてあるという状況と、僕が先日来あちこちで書いている「定型の物語の回復」というテーマについては、もう少しだけ考察できる部分がある。それもまたやはり東浩紀の記述から、彼が「セカイ系」の時代にまさに「メタリアルフィクションの誕生」という題で行った論考から導き出されるものだ。しかしここでいったん記事を終えて、それについてはまた改めよう。

2008.06.23 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [マンガ] [文章

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