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残酷な神が支配する

先日「シベリア少女鉄道の再放送」を見に行って、それが大変面白かったのでそのことを書きたい。

もともと僕はこのブログでは、演劇や音楽イベントなど、ライブパフォーマンスに類するものはなるべく扱わないことにしている。単に収拾が付かなくなってしまうというのがその最も大きな理由で、それをやり出すと、たとえば僕はカポエイラの見せる虚構の素晴らしさについてなど、熱心に語り出したくなってしまう。ぜひそうしてしまいたくなるだろう。しかし、やはり調子に乗って何でもかんでも語ることなく、このブログはあるべきだろう。ということから、演劇のようなライブ性の高いものは扱っていない。だが「シベリア少女鉄道の再放送」はビデオ上演だったこともあるから、それを言い訳に、せっかく興味深い内容だったのでここに紹介したい。どこまでうまくこの演劇について語れるかは不明だが、やってみたいと思う。

僕がこれを見たのは先日、西島大介君に会ったときに僕が「こういう小説が書いてみたい」と話したところ、「それが描こうとしているものはシベリア少女鉄道に少し似ているかもしれない」と教えてもらい、並々ならぬ興味を持ったからだ。実際、僕が西島君に語った内容と符合する部分もあれば、そうでない部分もあったが、しかし仕掛けとして持っていたものは確かに酷似していた。今回、僕が見たのは「残酷な神が支配する」だ。この作品はミステリである。小説としてのミステリの用語に沿った言い方をすれば、これは演劇として叙述トリック行ったものであると言っていいだろう。しかしこれは、観客から隠された要素を持つようなもの、たとえば登場人物たちにとって自明である人間関係が最後の瞬間まで説明されないことによってトリックを成り立たせるようなものとは異なる。なぜなら、そのようなものはまさに叙述によるトリック、つまり結局は小説というメディアによってもまた可能なものだ。それをそのまま台本に書くことは不可能ではないし、またそれを演じることは不可能ではないが、ただ読者としてその台本を読んでも同じトリックを体験可能ならば、「演劇として叙述トリックである」とは呼べないだろう。

「残酷な神が支配する」は演劇において叙述としてあるもの、物語の進行を担う部分をトリックとして採用した。それはつまり舞台装置であり、演劇の場面転換そのものである。この劇は回転するラウンドテーブルを三カ所に仕切った舞台で演じられる。仕切られた場所のそれぞれが二面を壁として持つ扇型の舞台になっており、場面転換はこのラウンドテーブルが回転することによって行われる。それぞれの場面はいずれも大学の中の一部屋という設定になっていて、一カ所は部室、一カ所はカフェテリア、そしていま一つはシステム管理室という具合だ。それぞれの部屋の両壁には扉が付けられており、それは部室においては片方が「入り口」、もう一方は「ロッカーの扉」ということになっている。同じくカフェテリアでは扉は「入り口」と「トイレへの扉」として、そしてシステム管理室では、「入り口」と「奥の部屋への扉」としてある。僕の拙い説明ではだいぶ理解していただけるか怪しくなってきたので、仕方なく図版を示すことにする(本当は図版を作ることの方がずっと不得手なので、できれば描きたくなかったのだが)。その舞台とはこういうものである。

さてこの舞台において、扉はお互いに反対側から見れば、別の場面における「別の意味を持った扉」である。つまり部室において「入り口」であるものは、システム管理室から見れば「奥の部屋への扉」である。そしてまたシステム管理室の「入り口」は、カフェテリアにとっての「トイレへの扉」である。以下、同様にカフェテリアの「入り口」は、部室では「ロッカーの扉」としてある。役者たちは、このルールに沿って舞台に現れ、また捌けていくのだが、このミステリの「犯人」はその扉のルール自体をトリックとして使ってしまう。「ロッカーの中に人質を閉じこめるためには大学構内を移動して部室に行かなければならない」というお約束を無視して、「カフェテリアの入り口」を「ロッカーの扉」として使ってしまうのである。

ところが登場人物たちがそのトリックに気づく頃、事態はさらに混乱してしまう。「数時間前の回想シーン」が突発的に行われることで危機を脱したり、突如として舞台の外部にアントニオ猪木が映し出されたビデオスクリーンが登場し、猪木の挙動に合わせて(物語の進行を離れて)ラウンドテーブルが左右に回転してしまう。しかもそのスクリーンにうっかり接触することによって物語のキーとなるアイテムを「舞台の外部」へと取り落としてしまったりと、面倒なことが次々に起こるのだ。ここで役者が状況としておかれるメタフィクションは、すべてを喜劇へと導いてしまう。最後にはラウンドテーブルが回転を止めなくなり、役者たちはそれでも舞台の上で定型的な物語としてのミステリの台詞をしゃべり続けるために、仕方なく、まるでレコードの上の針のようにその場で行進しながら話し始める。人々はゾロゾロと、本来は別々の場所としてあるはずの部屋から部屋へ移動しながら(むしろ移動しているのは部屋の方だが)演技を続けなければならなくなるのだ。「残酷な神」としての舞台装置が「演劇」の進行を支配する中で、もはや全く「物語」の進行は成り立たなくなる。

メタフィクションが演劇に見られるのは必ずしも珍しいことではない。「第四の壁を破る」というような言葉は僕でも知っているし、「観客に見られている」ことに登場人物が気づく作品も多々ある。従ってメタフィクションという手法自体は演劇において、ありふれたものだと言ってもいいだろう。登場人物が物語を進行させようとする努力がついに失敗に終わるという点でも、それはまたメタフィクションにとって典型的なものである。しかし「残酷な神が支配する」がほかの作品と異なるのは、作品がそのメタフィクションによって演劇とは何か、現実とは何かという批評性を発現させないように働くことだと僕は思う。メタフィクションとは観客に対して、自分が演劇を見ているのだということを強く意識させる。それゆえ、たとえばこの演劇は、それが描く世界が実は外部的な「演出」によって成り立っているということをもとに「何一つ自分の思い通りには進行しないという現実」を描くという結構の付け方もできた。しかしこの作品のメタフィクション性は、メタ的な演劇がそのような形で批評的に語られうるということ自体も織り込み済みにして、雪崩式に演劇のすべてを破壊し、物語でも演劇でもないものにしてしまい、舞台の上はまさにグダグダになってしまう。最後にミステリの台詞を一通り語り終わり、役者が「もう何も言うことないわ」と言っても、なおラウンドテーブルは回り続けてしまう。この神はそこまで残酷である。せめて、この演劇のメタフィクションを批評的に語るとすれば次のようにしか言いようがないだろう。すなわち、現実なんてグダグダなものだ。それはつまり、現実とは「何一つ自分の思い通りには進行しない」ということもまた必ずしも言えないものだということである。だからこの演劇は、その「現実」をアイロニーやペシミズムには向かわせない。そこに生きる人々の焦燥と混乱を、ただ愛情深く笑い飛ばそうとする。

2008.07.03 | | コメント(1) | トラックバック(0) | [映像] [文章

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2009-11-28 土 02:40:17 | | # [ 編集]

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