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ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

速水健朗「ケータイ小説的。」は、僕が読んだここ1年ほどに上梓された批評に類する文章のうちで、最も面白い。ひょっとすると、ここ数年で最も面白いものの1つだと言っていい。

僕が本書を高く評価する理由の最たるものは、これが単にケータイ小説というジャンルを批評したものだから、ということではない。それよりもむしろこの本が、正しく批評であろうとしているからなのだ。速水健朗は、例えば、ケータイ小説を擁護するために、つまりそれを愛する人々が属するコミュニティの代表者としてなど、本書を記述してはいない。同時に、彼はケータイ小説など唾棄すべきだという理由では本書を書いていない。彼が本書を記述しようとする動機はただ、次のようなものである。すなわち、今ケータイ小説は現代の日本の社会にとって無視できない程度の支持を集めている。端的に言えば市場において十分に売れている。にもかかわらず、それは多くの論者によって無視されている。批評はそれを扱おうとしない。本書を記述する速水健朗の動機とは、ただその状況への問題意識にこそある。

ある一群の作品が多くの受け手に支持されている。そこには間違いなく、これまでと違う何かが書かれており、必ず支持される理由が存在する。つまり「ある作品は、いま何らかの形で読まれうるものなのだ」。それを記述することこそが批評である。それは批評の基本的な条件であるはずだがしかし、たったいま僕が批評に第一に求めざるを得なくなっているものである。昨今の批評はあまりに各人のコミットするコミュニティで愛される作品に社会的な承認を付加しようという動機で書かれすぎている。その態度は作家に対して、また作品が享受されている環境に対して近すぎる。それは結果的に、その批評をもって各コミュニティを閉ざすためのものにしかならない。たとえそれがある作品に対して批判的な内容であったとしても、結果的にコミュニティ同士の諍いを代弁するためだけにしか機能しない。いま、かろうじて批評として流通しているものにはそんなものがいささか多すぎるように思う。

だから、僕は以前に、速水健朗が彼のブログに書いた文言について言葉を差し挟んだのだ。彼は「ケータイ小説的。」が出版される以前にこう書いていた。

これから本を出す作家は題名に「ほんとにあった」と付けて、文末にも『恋空』ばりに「実話を元にした~」云々と入れることにしたほうがいい。僕もそうしようと思っている。

これは、ケータイ小説の読者たちが「ほんとにあった」という惹句が付いていれば満足してそれを読むということを揶揄した文章、ようするにケータイ小説というものを単に外部的に捉えて冷笑的なポーズをとれば、あたかもそれで批評的であるかのようにしながら人を満足させうる皮肉だ。その言葉は、実際には本当なのかもしれない。「ほんとにあった」と書いてあればケータイ小説の読者は自動的に物語に感動しているかもしれない。しかしそれによったとしても、結果としてケータイ小説の作品群が売れているのは事実であり、この言葉をもってのみ批評とするならば、単にそれを退ける、オミットすることで実に保守的に、ささやかな場所の安寧秩序を保とうとする態度でしかない。だから批評がもしこの事実をいま語ろうとするならば、そこに皮肉など差し挟むべきではない。「なぜそれはそうなのか」、批評が述べるべきなのはそれなのであり、それだけでよい。だが、速水健朗は「ケータイ小説的。」において、この種の皮肉を誠実に取り除いてくれた。最終的に彼がケータイ小説の好意的な読者であろうが、ページをめくるたびに頭が痛くなるほど不快に思っていようが、そんなことは批評には関係ない。彼はそのことを十分に理解して執筆を行った。だから「ケータイ小説的。」においては上記のような「リアル」が読者に求められているという事実を述べているが、しかしそのような「リアル」な物語をケータイ小説の読者が求めている理由を、ケータイ小説以外のジャンルにも氾濫している「『不幸だった過去を洗いざらい告白する』系ノンフィクション」の流行と関連づけてのみ語った。ここには批評がある。説得力があり、本書において最も興味深く読める箇所の一つになっていると思う。

つまり速水健朗は、あくまで論じる対象としてにおいては、ケータイ小説に対して否定的にも肯定的にもあろうとしていない。そのことが本書の批評が持つ説得力を全編にわたって支え続けている。彼が唯一、ケータイ小説に対して若干の違和感を差し挟むのは、上記の「『不幸だった過去を洗いざらい告白する』系ノンフィクション」の話に関連させながら、それが「アダルトチルドレン」や「デートDV」(未婚のカップルに見られる暴力を伴う束縛、ひいてはそれを強化し持続させる共依存的な関係)などの問題に強い親和性を持ってしまっているとした部分だ。例えば本書の176ページには次のようにある。

つまり、ネタばらしになってしまうが、ヒロの暴力とは、あくまで美嘉を慮ってあえて振るわれたものであり、最終的には美嘉も読み手も肯定せざるを得ないというという類のものなのだ。しかし、本当にそうであるかどうかの判断はここでは保留しておこう。

「保留しておこう」としながらも、この後で彼はケータイ小説に見られる暴力やレイプ描写が遠藤智子「デートDV 愛か暴力か、見抜く力があなたを救う」という本で紹介されているデートDVの「症例」にあまりに忠実であるとしている。だから、彼はひょっとするとケータイ小説に見られるデートDV描写を問題視するに足るものだと考えているかもしれないが、それでもそのぎりぎりの際で彼は、そこに批判を加えない。結果的に彼は「そんな物語であるにもかかわらず、なぜケータイ小説は支持されるのか」という問いへの回答を放棄しているようにも見えるかもしれないが、しかし僕はこの姿勢を高く評価したい。あくまで作品に見られる傾向を語ることで、彼はまずケータイ小説を批評の俎上に載せたのだ。あるいは彼はそこに社会病理学的なものを見い出しているかもしれないが、しかしそのように言及することに対しては距離を保ち続けるのである。そして、それを彼自身の倫理観で判断することを避けて、批評として正しくあろうとした。

もう一点、僕がこの本を高く評価する理由を挙げるとすれば、これがケータイ小説を歴史的な文脈の中に正しく位置づけようとしているということだ。彼は山口百恵や中森明菜から工藤静香、そして浜崎あゆみに至る女性アーティストの系譜に、あるいはまた尾崎豊に、そしてヤンキー文化の歴史的な流れの中にケータイ小説の源流を見い出し、ケータイ小説というものが読まれうる土壌や読者像を描き出している。このように歴史的な文脈に対象を位置づけることは批評の手順として極めてまっとうなことであるにもかかわらず、昨今の(ごく狭い界隈での、と留保を付けたいが)批評はそれを見失いつつある。そのような態度で行われる批評は現在散見される小さな、くだらない対立軸をマッピングすることを可能にしても、そこでは真に作品を論じる批評の姿勢は見失われているに違いないだろう。

本書の中で、二三の疑問点として残る部分はあった。例えば「世界の中心で、愛をさけぶ」などが、作者がどんなにフィクションであることを強調しても「実話なのか?」という問いが読者から殺到してしまう、つまりケータイ小説や「『不幸だった過去を洗いざらい告白する』系ノンフィクション」に限らず、いま広範囲の読者が「ほんとにあった話」を求めてしまっている事態についてはあえて語っていないのは、僕がいま深い関心を持っている部分なので残念に思った。また作者は、アニメやゲームといった文化にこだわり続け、「いつまでも大人になりたくない」オタク文化と対置する形で現在のヤンキー文化を「早く成熟したい」というものであると定義しているが、そこにも若干の異論を持った。これについては少しだけ詳細に検討しよう。まず、彼の言葉によればそれは142ページにある次のような解説になる。

不良少年・少女というのは、従来、学校・教師といった権威に対抗する者たちに与えられた名称だった。一方で、飲酒、喫煙、不純異性交遊、無免許による運転・暴走行為などといった不良少年・少女たちの行為は、権威への反抗であるだけでなく、自分たちは子どもではないという精一杯の背伸びしたアピールでもある。彼らが学校を卒業したからといって、これらの行為を止めるわけではなく、ほとんどそのまま続けるだけなのだ。それを咎める親や教師や学校が咎めなくなるだけのことだ。つまり、この反抗には彼ら不良少年・少女特有の、早く成熟したいという願望が現れているとも言えるのだ。

この主張には一定の説得力があるように見える。だが僕には少々引っかかった。なぜなら、彼の主張の通りであるならば、では彼らが本当に「成熟」した先、すなわち大人になったときに至る場所とは、真の意味で反社会的な存在になる道になってしまうはずであるからだ。暴走行為やシンナーなどの薬物摂取などを「成熟」への欲求に含めてしまうと、そう考えざるを得ない。もちろん、大人になっても反社会的行為を続ける人物、端的に言えばヤクザになってしまうような「ヤンキー」もいるだろうが、しかしそれはむしろ少数派であろう。僕が個人的な範囲で接した「ヤンキー」たちは、むしろ「子供の時代」に固有のものとして青年期の反社会的行為を楽しんでいるように見受けられた。狭い範囲での個人的な取材のみをもとに語ってしまうので説得力を感じていただけるか分からないが、例えば「大人」になった後の彼らは、若い時代を回想して「やんちゃしていた」などと言う。当時の反社会的な行為は自身が子供であった故の「やんちゃ」であると言うのだ。それは彼らが総じて「成熟」ということを履き違えて考えて成長していく、とすることもできようが、いささかそれでは説得力に欠ける。また、速水健朗自身も書いているように、暴走族社会には20歳になれば「卒業」して「大人の社会」に出なければならないという厳格な規律があるのが普通であることからも、彼らは反社会的行為をあくまで「子供の時代」のみに許されるものだと考えていると考えられないだろうか。

しかし、だからといってここで速水健朗の論旨に大きな変更を加える必要はないと思う。単に「いつまでも大人になりたくない」オタク文化に対して、ヤンキー文化は「大人になるという『上がり』を自覚している」と言い換えればいいだけだと思う。繰り返しになるが、「ヤンキー」の生活圏においてはこのような大人と子供を区別する規範意識が強固に内面化されている。彼らは子供であるが故に「上がり」を意識しながら「やんちゃ」な時代を謳歌し、その時代を終えれば彼らが就くべき(であると彼らが考える)職業に従順に就き、「地元」の住人となる、とするのがいいのではないだろうか。速水健朗は「ヤンキー」たちには「クリエイティブというイデオロギー」(本書129ページによると、「やりたいことをやれ」「就職とは夢をかなえること」と教える現代の教育が、若者に「ほんの一握りの人間しかクリエイティブな仕事に就くことができないにも拘わらず、多くの人がクリエイティブなことでプロになりたいという願望」を持たせてしまうこと)がないという主張を行っているが、「ヤンキー」の共同体における規範意識が強固であるが故に、それが起こらないという分析のほうが、僕にはよりしっくりくるように感じた。

しかしいずれにせよ、繰り返しになるが、そのような僕の読みと作者自身のヤンキー文化についての理解の小さな齟齬は、この本の批評性の高さを減じるものではない。作者は全く批評に対して誠実で、これは本当にワクワクさせられながら読み進められる本だった。そして、僕が感じた作者の批評に対するその誠実さは、その行き着く先で、ついに後書きとして書かれた文章においてはっきりと言葉にされていたのである。

「批評は死んだ」「批評が機能してない」と言われるようになって、もうずいぶん経つが、そもそもの原因は批評の向かう方向が間違っているのだ。相田みつをを疎外すること、ケータイ小説を疎外することでしか自分たちの優位をアピールできないところに、現代詩、純文学の行き詰まりがある。批評はその延命策に追随するばかりだから機能しないのだ。
 本書は、その「被差別文化」にスポットを当てることこそ、現代の社会を直視する批評的な行為であるという信念に突き動かされて書かれたものである。

この言葉は素晴らしい。そして本書の全編において、この言葉は裏切られていない。この本はケータイ小説についての本であると同時に、批評とは何か、批評が今何をするべきかをはっきりと示している。だから僕は、この本の意図が、作品について語ることを考える多くの読者にとって真摯に読まれることを願ってやまない。

2008.07.27 | | コメント(0) | トラックバック(1) | [文章

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疑問への返答です

『HangReviewersHigh』にて、ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たちを丁寧にとりあげていただいて、「本書の中で、二三の疑問点として残る部分はあった」とのことなので、できる限り丁寧ににお応えしたいと想います。 「世界の中心で、愛をさけぶ」などが、作

2008.08.01 | 【B面】犬にかぶらせろ!

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