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ゼロ年代の想像力

夏風邪をひいた。ひどい熱と腹痛と下痢で、何というかもう、最悪だ。ここ数日、自宅でうずくまって「痛い」とか「熱い」ばかり言っている。起きている間ずっと腹が痛く、しかも晩になると必ず熱が上がり、変な汗がどばっと出たり、急に寒くなってガタガタ震えだしたりする。とにかく仕事にならないので弱った。「SMスナイパー」のウェブサイト「WEBスナイパー」にて、書評を執筆させていただくという名誉な仕事を承ったのだが、おかげで進んでいない。とても申し訳ない。でも取りあえず宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の書評はアップしていただいた。この本は連載時の内容に大きく加筆されており、加筆の中でも時代にとって非常に重要と思われる問題提起を行っているためこのブログで取り扱う必要を感じていた。書評をご依頼いただいたことから、字数の指定がなかったのでブログに書こうと思ったことを全部組み込もうとして調子に乗って書いたらずいぶんと長くなり、ついに二回に分けて掲載していただくことになった(前編後編)。WEBスナイパーさんには大変ご面倒をおかけしてしまった。しかしおかげで、僕が本書について思ったことの大半はこの書評に収めることができたし、本書の全体像についてもそれなりにまとめることができたように思う。だから、興味のある方はぜひご覧ください。今週はばるぼらさんの青山正明についての連載がおやすみなので、その代わりとしてしかたなく読んでいただいても結構です。

内容としては、まあいろんな話をしているが、前編は主に本書の議論をまとめて、90年代の「ひきこもり」からゼロ年代の「決断主義」までについて言わば文化社会学的な態度を取っているのに対し、「ゼロ年代の想像力」が本当に提示したいはずのポスト決断主義的なものについては残念ながら理想論を語るレベルにとどまってしまっているようだ、という話。そして後編のほうは、この本は80年代以前の批評を無理やりに引き剥がして断絶を作るような書かれ方をしていて、それは批評として閉じているのかいないのか、それを著者はどう意識し処理したのか、みたいなことを考えつつ読むと、いつの間にかネットは従来の言説空間からずいぶん遠くに来てしまっている、ということを意識できるので面白い、という話になるだろうか。

読んでいて一番感じたのはやっぱり、書評にも書いたが、この本はとても啓蒙主義的な態度で書かれているなあということだ。ひょっとすると全編を単なる物語論として展開し、90年代の作品はこうで、ゼロ年代前半の作品はこうで、そしてゼロ年代後半の作品としてこのような移り変わりが見られる、とだけ述べる格好のつけかたもあるかもしれないのだけれど、しかし宇野常寛は90年代の「引きこもり」やゼロ年代の「決断主義」について批判しつつ、彼自身の理想とする倫理観へ人を導こうという意識が強いので、そのような本にはならない。実に啓蒙主義的な態度で本書の議論を運んでいて、結局この本は純粋な物語論の本としては成立していない。もちろんそれを目指してもいないのだろう。逆に言えば、理想論にとどまっているように見えてしまう理由もそこにある。

だが、理想を語ること自体は必ずしも間違いとは思わない。僕も彼と同じように、作品から僕個人が理想として考える社会を人に話すことはあるからだ。それに、ものすごく簡単な言い方をしてしまうと宇野常寛が読者に対して説いているのは宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」に対して「終わりのある日常を生きろ」ということなのだが、それをポスト決断主義として考えたいということを、僕は別段否定しないのだ。確かに最近のフィクションに見られる風潮として考えていくに値することだと思うし、例えば若年層のコミュニケーション研究事例などをちゃんと挟めば、実社会における風潮とも同期する動きであるとして説得力を持たせることが可能かもしれないと思う。

しかし、本書におけるその理想の語られ方にはどうしても違和感が残る。彼は本書の前半で、小さな物語の乱立する状況にあって、「真正な物語」を探すことは無意味で、むしろ今後は人は物語をいかにして受容していくのか、「物語との付き合い方」「読み方」こそが考えられるべきだという素晴らしい主張を行っていた。ところが結局この本は「90年代の引きこもりモードの作品やゼロ年代の決断主義に沿った作品には欠陥があるから、ポスト決断主義の考え方に沿った読み方ができる物語こそを人は読むべきだ」としてしまう。つまりここで宇野常寛もまた「真正な物語」探しに荷担して、彼自身が述べた「決断主義」の1プレイヤーとしての立場に自分を置いて動員ゲームを働かせようとする。たぶん彼はそのことも分かっていて「あえて」やっているのだと思うが、しかし結果としてそのやり方は「物語との付き合い方を考える」というような、例えば新しい受容理論の可能性を伺わせるようなものではなく、「これが次代の作品だ、他のはダメだ」と言って作品を示すばかりになってしまった。これは非常に残念である。

真正な物語を探すよりも「読み方」こそが今問われるべきだという主張は全くその通りだと言いたい。それは僕がこのブログでずっと考えていることでもある。僕はもう、たぶん宇野常寛には賛同してもらえないことだが、究極的には、例えば「AIR」が彼の言うように本当に「レイプ・ファンタジー」だったとしても「別にレイプ・ファンタジーでいいじゃん。ファンタジーなら」といかにして言うかということばかり考えている。それこそ僕の理想論で言わせてもらうと、それがマチズモだろうがエログロだろうが、今はまずいったん各人の物語の受容を否定しないことからすべてが開始されるべきではないかと思う。

もちろん、他人の愛する物語に不快感を覚える人はいるだろうし、僕だってこれは嫌だなと思う物語はある。だが、僕はそこで「寛容さ」みたいなものをうまく働かせるような批評はありえないのだろうかと思っている。宇野常寛は小さな物語の乱立にあって「各人の愛する物語をそれぞれに愛する」ということが排他性に直結するのものだということを疑わないし、インターネットが排他的な暴力を生むということを不可避であるとして疑わない。しかし僕はそれでも、まさに今ここで、他者への承認ばかりを蔓延させられないか、ということを考えている。他者に対する想像力を伸ばす。他者が自分と同じ人間だと考える。自分の愛する物語があるように、他者が愛する物語もある。それは自分にとって相容れない物語かもしれないが、しかし他者も自分と同じように何かを愛しているということを認める。そういう想像力を伸ばす訓練としての「物語の読み方」を考える。そのための「批評」というものを模索する。そのために効果的に働く言葉を作る。そうすれば、小さな物語同士の真正さを競う悲惨な闘争は越えられるのではないか。この本の主張を受けて僕個人がどう思うかを考えると、そういうことである。

あと書評に書かなかったこととして気になるのは、「Fate/stay night」の評価についてだ。このゲームに対する本書の評価は単に「決断主義的なもの」というもので、それは90年代の「引きこもり」的な物語がゼロ年代において失効しているという例としてしか挙げられていない。だが「Fate/stay night」という物語は、本当にただ決断主義的なものだっただろうか。むしろ僕は、この作品の最終シナリオは決断主義がその限界において顕してしまう暴力性をはっきりとユーザーに突きつけるもので、そこには考える余地があると思う。簡単に言えばこのゲームは全体として見ると実は、決断主義を貫いてゲームをクリアするにはセイバーという最もユーザーが愛するであろうキャラを刺し殺す選択をしなければならない残酷な構成を持ったものなのだ。さらに続編に当たるファンディスク「Fate/hollow ataraxia」は、ゲームというメディアの条件に自覚的になりながら、決断主義を踏まえた後での物語との付き合い方を扱った作品である。奈須きのこはユーザーが没入できるウェルメイドなエンタテインメントを作りつつ、同時にそれを外部から眺める視点を提供し、批評に耐えうる作品を結実させていたはずなのだ。これらの件については、ぜひなんとか一度このブログで文章にまとめてみようと思っている。

2008.08.17 | | コメント(0) | トラックバック(2) | [文章] [ゲーム

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