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ユリイカ 第41巻第4号―詩と批評 (41)

年明けから気にくわないことが多く、仕舞いには何だか気が滅入って寝込んだりしていたが、なぜか2月の末くらいから急に書くものが増えてそれどころではなくなった。毎日「リラックスしつつ昏睡するほど酒を飲みたい」と思いながら1カ月くらい仕事している。

寄稿して、近日発売されそうなものをまとめて書こうかと思ったけど、やめだ。そんな箇条書きのようなものはここに全くいらない。だからまず27日に発売の「ユリイカ」4月号でRPGについて書せていただいたことについて書く。ここで僕は何となくドラクエの話をしているようだが、実は原稿を書きながら山下章の「電脳遊技考」をずっと読んでいて、本当はドラクエ以前の8ビットパソコンにおけるRPGのことをずっと考えていた。この本はとてもいい本だが、同時に90年代初頭という時代にゲームというものがどういう進化を求められていたのか、その限界がよく現れている。しかし、それも含めていい本だ。愛すべき本だ。

限界というのは強く物語を求めるようになったということで、原稿でも触れたけど、そのことは日本のRPGの方向性を決めた。

仕事の合間に、「ユリイカ」の掲載誌をちょっとめくりながら、ぼんやりと考えた。もちろん僕は、中田健太郎さんの書かれている、「ゲーム性」を旗印にしてゲームにおける物語性を批判する向きについて念頭におきながら原稿を書いたわけだ。そしてアンディー・メンテの泉和良さんも書いてらっしゃるゲームファンたちの不毛な覇権争いのことも。それで僕は、そうか、自分はインターネットの言説のありように批判的なのだなと思った。

思えば「ユリイカ」では2月号にも寄稿させていただいた。それは水村美苗「日本語が亡びるとき」についての文章で、やっぱり僕は同じだ。僕が書いたのはインターネットなどの言説をまず見聞して、それにあるていど横槍を入れるようなことを謀っているのだ。結局はそうか。そうやって、知らず僕は広くない読者を選んでしまっているかもしれない。これはけっこうへこむ。

それはともかくとして、もちろん、ネットの気持ちをあおり立てるような、ネット批判のような文章を書いたわけではない。

いや、そもそも今の書き方が誤った。媒体としてネットを批判するなどということ自体がおかしい。

インターネットはシステム上で人々をいったん横並びにする。ときどきそれは美点であると言われる。しかし、その美点を賞賛する人が「だからインターネットには従来のメディアよりもずっと優れて価値があるのだ」みたいなことを言ったりする。

まず僕が言いたいのは、そうではないだろう、ということだ。ネットに書かれたものに、ほかの媒体に持ち出せない価値があるのは当たり前で、ネットに書くということを意識する書き手ならば、そのことを最大限に利用するべきですらある。しかし、ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことだ。

横並びのシステムに乗っていて、今や等価にものを見られるようになったと言いながら、そのシステム自体は特権化できるという。そうして、やっていることは既存の価値を再強化したり、糾弾するようなことなのだ。どうしても不思議に感じる。僕がおかしいのだろうか。

あるいはメディアリテラシーということを言う人がいて、マスメディアについて批判的な読解を試みることだと解釈をしている。これは何というか、まあ、僕のちっぽけなリテラシーを最大限に働かせて言えば、いろんな意味でアメリカの思潮の流れがあって生まれてきているなと思わせるのだが、しかしこの思想に本当に深く感じ入ったなら、我々はマスメディアにも、インターネットにも、それぞれ価値を見い出して、両方を乗りこなすべきだろう。だいたい、その方がカッコいい。

ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことなのだ。ネットにだけ価値を見いだすのは楽ではある。

断っておくと、既存のメディアが滅びようとしているからそういう危機感で、ネット警戒論を述べているわけではない。だいたいそういう危機感は、ネットが覇権を握る時代が来るのだ、という考え方にやはり感化されている。既存のメディアは、(超長期的にはともかくだけど)衰退はしても滅びたりはしないだろう。

そう言うと、僕はたまたま紙媒体の仕事をしているからそういう楽観主義に胡座をかいていると思われるかもしれない。そうではない。違うのだ。もう、そういうことではないのだ。むしろ、滅びた方が、根絶やしになって全員が一箇所に流れられた方が、どれほどに話は簡単だろうか。ネットの横並びのシステムは、たしかにそういうあらゆるものが横並びになる時代を象徴しているのだ。だからこそ、ネットがすべてのメディアに取って代わることはなくなってしまったのかもしれない。覇権を争うのではない価値観は、たしかに必要とされている。

「日本語が亡びるとき」について文章を書きながら、僕は自分の文章が少なくとも水村美苗には届かないと自覚して悲しかった。どれほどネット的な文章が、あるいはネットが、あるいは携帯小説が、あるいは最近の小説が、優れている、価値があるといったって、日本語は亡びたりしないと叫んだって、言葉というのはそもそも変わっていくものなのだという話をしたって、だめなのである。言葉が届かない。どうしたらその価値観を横並びの中で共有できるのだろうか。自分だから無理なのだろうか。

だがそんなことを書き続けるのだ。

2009.03.27 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

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