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リアル鬼ごっこ

「リアル鬼ごっこ」という小説の評価は全くひどくて、それは知っていた。いわく、物語の筋が陳腐であり、かつ展開が矛盾したものであったり突飛であったりして、とても読むに耐えないのだという。こんなものが何万部も売れて、映画化まで決まるのはおかしいという。Amazonのレビューにはそういう罵詈雑言を書き連ねたレビューがどんどん掲載されている。それによると、そもそも文章が書けておらず、この本を罵倒するレビューを書いている者の方がよっぽど豊かな日本語能力があるのだという。

僕がただ不思議なのは、そんなにひどい本ならば、なぜ何万部も売れたのだろうかということだった。Amazonレビューの意見では、小説読者の質が下がっているから、こんなものが売れるのだということだった。実につまらない意見で、そんな老人の繰り言のようなことを書いていて楽しいのだろうかと思う(もちろん彼らは楽しいのである)。そういう意見は単に書き手自身が作品を否定しただけであって、結局この本が多くの人に支持された理由について何がしかの理解をもたらすわけではない。もちろん一般読者が、自分が何か有益な思いをできなかったことを理由にして、ひどい作品だと切って捨てることはあるだろう。しかしそれだけなのであれば、彼らがやっていることとは、この本に感動して「私は面白かったです」と舌足らずに述べる少数のレビューと変わらない。感動した者たちを馬鹿呼ばわりできるのには及ばない。それどころか「こんなものに泣ける奴は愚かだ」と言う人は、結局書物に泣くことを期待するという点には半ば同意してしまっている。そして、この本がなぜ支持されるのか、一体何を描いているのかという疑問はなお残るのだ。それで僕は、文庫をひとつ買い求めて、読んでみることにした。

たしかにひどい本である。この文庫の全く何がひどいと言って、とにかく解説がひどすぎる。解説によると、この本の作者は出版不況を変えるために自費出版から現れたヒーローなのだという。それどころか、どうやら自費出版を除く既存の出版システムでは、この不況を打破することはできないのだと言っているようだ。これにはたいへん驚いた。今どき、フィクションをめぐる状況において同人活動が無視できなくなっているというのなら、いささか見飽きた類の意見だが、まだ分かる。既存の作り手たちがマーケットの動向を読めなくなっているという意見だけなら、多くの人が首肯する類のものだろう。しかしこの解説が言っているのは同人シーンのことなんかではない。我々は自費出版に賭けるしかないのだという。自費出版については、どちらかというと様々な問題があると書かれたものを僕はよく見かけるから、これをそのまま認めるわけにはいかなかった。そもそも、その解説は新人発掘と流通の仕組みについての話であって、作品がどのように優れているかとか、何が書かれているのかということではないのだ。結びの部分で、ほとんど余談のように、命を賭けた鬼ごっこという非日常的な設定に現実世界と同じ不条理さがあるから読者の共感を得たのだ、みたいなことを書いているが、現代社会の不条理をフィクションから感じるという話を今さらしたいのであれば、20世紀にも不条理小説がいろいろあるから読めばいいのではないだろうか。結局この解説は、作品について大したことを理解させてはくれない。暴動のようにつまらないぞと叫び続けるレビューの方が、ただ惨状として残される。

この文庫のカバーに書かれた呼び込み文には、さりげなく「ベストセラーの〈改訂版〉」と書かれている。出版社におなじみのやり方だと、文庫で加筆があったりした日には大々的にそのことを報じてセールスにつなげようとするものだが、ここで〈改訂版〉の文字はたった一個所、本当にささやかにしか書かれていない。だからまあ、この「改訂」は誇るべき事ではなくて、文章としてまずいところを直したという意味なのかもしれない。実際、文庫の方はそこまでの悪文とも思わなかった。別段うまいわけではないが、もっとひどい文章ならインターネット上にもたくさんあるし、もちろん商業出版されたものにだってある。僕はひどいと言われる単行本のほうを読んではいないので、それが僕に与えられたこの本だった。しかしそもそも本当の理想を言うなら、小説の善し悪しについて文章能力を認められるかどうかで判断すべきではないのだろう。

さて、話の筋に矛盾があるとか突飛であるとか、不合理な展開があるという向きに、僕はなぜそんなことを思うのか不思議である。この物語の最初のページ、「西暦3000年」という設定が述べられた時点で、読者はまあ、これがほとんど童話のような、ファンタジーノベルだと思ってもいいと思ったからだ。「西暦3000年に”佐藤”という性を持つ者が500万人を超えた」という導入部は荒唐無稽だと言ってもいい。しかしそこからはまず数字のインフレーション、過剰さを受け取るべきなのであって、これはハードSFが開始されるという合図ではないし、もちろんリアリズム小説を期待するべきでもない。

したがって、「西暦3000年なのに町並みの描写が現代と変わらないのがおかしい」などと言うのはこの冒頭を読み誤っている。そんなことが問題ではないのだ。このインフレーションについて通常ならざるものを感じるならば、それがリアリズムに則っていないという安易な指摘に留まってはいけない。それではこの作者の何が真に異常と呼べるのか分からなくなってしまう。また「佐藤探知機」などという機械が登場するからといって、それがすなわち失笑に値するわけではない。世の中には「警官殺し機」とか「心臓抜き」という道具が登場する小説だってあるだろう。

そう、たしかにこの作品には奇怪なところがある。不気味な色を湛えている。僕が本当にちょっと面白いなと思ったのはそこで、この作品には「西暦3000年」のような超然としたイメージと、「佐藤」という凡庸なイメージをこんなふうな乱暴なやり方で結びつけてしまうようなところが全編を通してある。そこではリアリズムの構築が放棄されているというよりも、従来的なリアリズムの感覚がこの作者にはないと言える。西暦3000年という漠然とした超未来と、「十三」などというひどく卑近な地名が混在したところで、この作品の気味の悪さは生まれてくる。

個人的に興味深かったのは舞台が「王国」であり、これがひどくステロタイプな絶対王政のイメージでもって描かれることだった。王は宮殿に住み、玉座に座り、クラシック音楽を聴き、ワインを飲んでいる。絶対王政どころではないかもしれない。時は西暦3000年であり、かつ現代日本的な日常を描きながらも、作者は権力というものをRPGによくあるような紋切り型のハイファンタジー的な意匠でもってイメージしてしまうのだ。日常が存続し、家庭があり、学校があり、会社組織がある一方で、権力は複雑なやり方で支配を維持しているとは考えず、いきなりRPGになってしまう。管理型の権力を想像するどころか、独裁者のようでありながらこれはビッグ・ブラザーとも違う。民衆と権力は関係づけられないまま、そこにはただ支配のイメージだけがある。こういう想像力は若い書き手と言っていい作者の現実認識がよく出ているようで面白かった。また規則的に挿入される「○月○日、○曜日、午後十一時、”リアル鬼ごっこ”○日目……スタート」などというフレーズもゲーム的なところからの借り物であり、律儀に繰り返されるその薄気味の悪さはちょっと見ものである。この作品はある倫理観に沿って書かれており、それはおそらく、リアル鬼ごっこというゲーム自体の存在をエンタテインメントの上で否定していないし、何万人が虐殺されようがかまわないようなものなのだ。そこに違和感を感じた人がこのような書き方を悪趣味だと言うならば、たしかにその人にとってそうだと言っていいだろう。しかし僕はこのように現実を認識して、こういう小説を書いてしまう若い書き手がいるということに、そして今やこれがアウトサイダーなものだと言うことすらできないかもしれない現実に、計り知れないものを見たという快感を感じてしまう。

2009.04.02 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章] [ゲーム

コメント

「”佐藤”という『性』を・・・」はオリジナルの誤記?引用誤り?
それはともかく、エントリの主張には激しく同意。売れているという事実についてどうなのかが知りたい。

2009-04-02 木 22:31:34 | | du #- [ 編集]

わたしは漫画でしたか読んだことはありませんが、確かにかなりデタラメ。
しかし、王政には多少を興味覚えましたし。読んでいくと、この作者が何をやりたいのかがわかってくる。それだけでも十分、読むに耐えるし、面白いものだと思いました。
周りの批判や解説なんてどーでもよく、ただその物語から見える作者の顔に注目すべき。まぁそういう風には、個人的に思ったり。

2009-04-07 火 02:04:19 | | ミステス #- [ 編集]

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