スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | |

蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1

蓮實重彦って僕は好きなんだ。この鼻につく言い方といったらなんだ。この人はいつも真顔で意地悪なことを考えて、どうすればなるべく相手が二の句を継げなくなるだろうかと考えながら喋っているのではなかろうか。実にスガスガしい。

これって映画の話なんだけど、映画に限らず「作品について語る」ことをめぐる現在の問題をそのまま語っているのがよい。つまり、こういう文章を、「蓮實重彦なので映画の話をしていますね」といういう読み方をしてしまうのが、まさに文中で語られている以下のような人なのだと僕は思う。

蓮實:そうでしょうね。映画批評家とそうでないひとの違いは何かというと、そうでないひとたちはそういうことばっかり憶えていて、クイズでもやったら彼らのほうが絶対に強い。フランスにもどこにでもいますよ、あの場面で誰がどうしたっていうのを全部憶えているひとたちが。でも、彼らはその存在を映画に快く保護されているいわば好事家ですね。骨董品のあそこが欠けているのがいいというのとほとんど同じことです。でも、骨董品ではなくてそれは茶碗なんだから、それで茶を飲めば美味いじゃないかというふうにはなかなかいかない。つまり、好事家には映画を存在させようという意志が皆無です。映画の存在は、彼らにとって自明のことなのです。批評家たちは、何歳になっても映画はそのつど驚きの対象であり、決して自明の事態ではありません。

──フィルム・スタディーズの領域でも似たようなことがいえるのではないでしょうか。重箱の隅からなにから、満遍なくあらゆるものを見たとはいうけれども、ただ映画の現在とは決定的に切り離されてしまっている場合が多いと思います。

蓮實:フィルム・スタディーズにはふたつあるような気がする。アメリカのフィルム・スタディーズは、研究者たちがお互いに評価されればそれでいい。それが社会に踏み出して映画を擁護しようなどと金輪際考えていないひとたちが書いている。

──引用された回数や、図書館に購入されることにこだわるようなレベルに留まってということですね。


これは映画の話なんだけど、断じて映画に限った話なんかじゃない。冒頭から語られている「DVDで何でも見られる時代」についても、僕はGoogleとInternet Archive、そしてPingサーバさえあればこの世界の全てを読むことができるという幻想について考えていた。蓮實重彦はこの時代状況を、「結局、現在は、自分がまだ何を知らないかということを知らないまま生きてしまうことが可能な時代」であり、「いま起こりつつあることへの視点が希薄になる」としている。その上で、作品に対する語り手達に以下のように求めている。

たとえばの話ですけれど、「ガス・ヴァン・サントとマイケル・マンと、どっちがいいのか」という問いを立てたとします。両方いいといったんじゃ批評にならないし、無理に選択することの批評性というものがあるのです。


ここは映画作家の話が具体的に出てくるため、映画に興味のない人が読み落としてしまいそうで実に心配だ。ここがもっとも大切なところなのだ。だがしかし、その下の方に、ここに引用するのにぴったりの文句があったので引用しておこう。

あなたがたのサイトに期待したいのはそういうことなんです。「僕はこれを断固支持する、支持するからには最後までそれに付き合う」、そして「それは他の監督をほめるより重要なことだ」という、依怙贔屓でもいいから、その付き合いをなんとか言葉にする。


蓮實重彦はこんなに身近で深刻な問題について語っているのだ。これを見逃して、インタビュー内の個々の映画についてのみや、さらにはたった一言だけ彼が「アニメ」だの「コンテンツ産業」だのと口にしているのを指摘するのが、「クイズでもやったら強い」ような彼らなのだろうと思う。連中がタレ流している音楽なんて、僕の人生に何の関係もない。

2006.11.14 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章

コメント

nanariです。とても共感して、書き込みました。
「現在は、自分がまだ何を知らないかということを知らないまま生きてしまうことが可能な時代」というのは、重い言葉ですね。調べればどんなことでもすぐに知ることができるという幻想が広がっていて、読むことと、情報を集めることとを、同じように考える人も増えているようです。そうした人たちが、このインタビューを、「言及されている映画監督に興味がない」とか、「今は調べたくない」とかいった理由で読み飛ばしてしまうのだとしたら、やはりとても悲しいです。どんな言葉も情報として並列されてしまっている現状は、やはり危ういものだと思います。
蓮實重彦がどこかで、「批評家はときに、自分の見ていない作品についても評価を下さなくてはならない」といった意味のことを書いていたのが、思い出されます。こうした言葉の重要性が、最近ますます実感されてきました。知らないことがあるという事実と正しく直面し、読んだり書いたりすることをひとつの賭けとして意識して、言葉の流れにある方向性を与える決断ができるような批評家は、とても少なくなっているようです。
長くなってしまいました。また、読みに来ます。

2006-11-15 水 13:32:34 | | nanari #VdCymcOY [ 編集]

nanariさん、コメントいただき誠にありがとうございます。このサイトで意図してはじめたことにそれなりの不安を持っておりましたので、ご共感いただけたのはとても励みになりました。
この蓮見重彦のインタビューは現状を直接表す、実に示唆に富んだものだと感じ、思わず次々と引用してしまいました。
すべての情報が手に入り、それらがすべて自分にとってフラットに並んでいるとする態度は、おっしゃるとおり作品に対してはもちろん、自分自身に対しても正しく向き合っていないものですよね。文中ではあえて「批評」という言葉を使いませんでしたが、事物を語ることに対する昨今の意識はなべて著しい低下を見せていると思わざるを得ません。
このような風潮はある種、一時代の流行のようなものであって欲しいです。それに対して現在性にこだわる蓮見重彦はなんと若々しい意識だろうか、と思いました。

2006-11-15 水 16:50:47 | | ソメル #- [ 編集]

コメントの投稿

トラックバック

この記事へのトラックバックURL


FC2ユーザー用トラックバックはここ

 | INDEX | 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。