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「三島由紀夫」とはなにものだったのか

ABC六本木店で買ったのは2冊の本だった。1冊を読むために袋から出す。ABCのチラシが入っていて、今度渋谷HMVの上に支店がオープンしたようだ。これは喜ばしいことと思う。そのほかには、「ほぼ日ブックスフェア」という、全く不要と思われるチラシのみ入っていた。

ABC六本木店には、なぜか三島由紀夫関連の文庫が什器ひと幅分のスペースで展開されていた。没後35年は去年であるから全く関係ないだろう。別に見るつもりはなかったが、中に橋本治「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」があるのが見え、運命的なものを感じて購入する。

僕が橋本治を読んでいたのは中学生のころだ。たぶん最初に読んだのは「革命的半ズボン主義宣言」だと思う。やがて僕は自分のことで忙しくなり読まなくなった。僕は彼の著作をよく理解したと感じていたので、我がことで忙しくなった自分が彼を読まなくなったことは彼の著作に照らし合わせても全く正しいことだったと後に思った。今でもそう思っている。そう思うこと自体が彼から影響を受けていると思う。

表紙が三島由紀夫の新潮文庫のあのデザインのパロディになっているこの本は、第一回小林秀雄賞を受賞した本だ。それは何となく知っていた。橋本治が小林秀雄賞を獲ったというのを聞いて、なんてうってつけの人がうってつけの賞を獲ったものだと思ったのを覚えている。この本はタイトル通り「戦後日本において三島由紀夫がなにものだったのか」についての本だが、同時に「私にとって三島由紀夫がなにものだったのか」という内容そのものである。この本には常に「三島由紀夫ってのはこういうことを考える奴で、でもそんなこと言われても私はこうだもんね」ということしか書いてない。橋本治の本はすべて「対象が自分にとってどうであるか」ということしか書かれていない。しかし、それを追求して、いささかも手を抜かない。自分一人のために全力で一冊の本を書けるから、「きみだけに贈るつもりの89」だって書けるのが彼である。

僕はどんなウェブサイトを作っても、どんな原稿を書いても、ますます「それが自分にとってどうであるか」ということばかりを書かねばならないと考えるようになった。僕は世界のすべてを知らないし、知るためにできることはあまりにも多いが、それをすなわちアカシックレコードを手に入れる作業だと考えてはいけない。「世界のすべて」とは僕にとって自分の見聞きしたものであり、それがすべてだと思ったからである。

「自分」がいて、その周りには、膨大な数の「自分ではない他人」がいる。「自分」がその「他人」の中で生きている以上、「自分」と「他人」の間には、相互に「影響力」が生まれる。世界は人同士の「影響力」に満ち満ちて、その中でいろいろなものが形成されて行く。それでいいではないかと、私は思うのである。仏教の唯識論が「阿頼耶識」なるものをどう言っているかは知らない。しかし三島由紀夫は、「末耶識なる」ものを≪これは自我、個人的自我の意識のすべてを含むと考へてよからう≫と規定している。だったら「阿頼耶識」を「他人への影響力と考へてよからう」と言ってもいいのである。三島由紀夫がなぜそう言わなかったのか、私には不思議である。
「阿頼耶識」は、「他人への影響力」と考えるべきである。そう考えなかったら、危険なことになる。世界はがらん洞で、自分は独りでいて、その周りに「阿頼耶識」という正体不明のものが充満していることになる。それを三島由紀夫風に言うと、≪世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。世界はどうあつても存在しなければならないからだ!≫になる。


アカシックレコードはすべての人にとって、到達できないことにその意味があるがしかし、世界の限界が僕なら、僕が日々見聞きしたすべてが自分にとってどうであるかを、できる限り言語化することが可能かもしれない。それを追求していささかも手を抜いてはいけないだろう。僕には知識も文章力も理論も全く足りないし、日々の中で書く時間すら足りない。だが書いたものがその時点での僕にとっての「それ」なので、僕としては自分にとって最善と思われるよう手を尽くしてそれを言語化するだけである。どこまで手を入れられるかは分からないが、最終的に成った形が僕にとっては「それ」であり、世界そのものとして残される。たくさんの時間がないとか文章が拙いという理由でうまく書けないとか、うまく書けないと思うと余計に書くことができないとかではなく、世界に関与するにはやるかやらないかがすべてなのだ。僕はそれを実践できなくてはならない。僕が新しくサイトを作るまでの間に書くものとしてこのブログを選んだのはそういうわけである。

彼が読者を信用する作家だったら、自分の書く作品が「読者にとっての阿頼耶識」となりうるなどということは、簡単に考えついただろう。そして、つまらない死に方などする必要はなかった。


そうそう、書くの忘れてた。上記のように言いつつさあ、そろそろ仕事が忙しくなってくるのでもうすぐしばらく休みにすると思う。

2006.11.18 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章

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