テヅカ・イズ・デッド
この話は変だと思う。松永さんは意図的にかなにか分からないけど、「萌え」ということをつまりは高いレベルの「感情移入」であり「同一視」のようなものなのだ、と説明してしまっている。いくつかの話の展開を重ねることで(グインサーガから銀英伝に至る流れで)話をずいぶんと単純化させてしまっている。「物語派(グループ派)→キャラ萌え(押しメン)→属性萌えと並べると、順にマニア度・ヲタク度が高くなるような気がする」なんて言っちゃうのは、本当に言い過ぎだ。このモデルは誰かにとって面白いのかもしれないけれど、ずいぶんと話をジャンプさせすぎだろう。面白いモデルというのは、いつも正しいわけじゃないし、時として上手いことを言えてすらいない。「こういうふうに言ったら面白い」というだけのことが、今のインターネットではいつの間にか「上手いことを言っている」ようになってしまうのが助長されるみたいで、僕は好きじゃないな。
話は戻るが、そりゃシャアに同一視する人はアムロが憎いんじゃないですか。彼(彼女)はシャアなんだから。そういう人はシャアとして物語を経験するんだから、そうかもしれない。でも物語のキャラクターに「萌え」と言ってる人って、そういう人ばっかりじゃないというのはすぐ分かることだ。「アンジェリーク」をプレイしている女子は全員あのヤオイっぽい男性キャラそのものになってしまいたいわけではないだろう。むしろ、そういう人は少ないだろう。でないと世の中ボク女ばっかりだぜ。同一視の例じゃなくても、いつもナントカ派とナントカ派がしのぎを削っているわけでもないし、曖昧に幅広くいろんなキャラに萌えてる人だっているのだ。萌えというのは別に、イチオシを作ることじゃないしね。
例が古いかなあ。僕は実際、「キャラ萌え」の人じゃないんだ。だからうまい例がすぐに出てこないや。僕は正直グインサーガも銀英伝もちっとも好きじゃないんだよ。なぜなら、あえて言えばああいうのって「キャラ萌え」な物語だからなんだ。それから、キャラクターに対して殊のほか思い入れて、ふたつの陣営に分かれてしまうようなファン心理も、全く理解できない。昔から、ああいうものを見るたびに「ああ自分はこの人達の仲間にはなれないんだ」とうすら寂しかった。今でもそう思う。だから「キャラ萌え派」として彼らを擁護しているわけじゃない。でも松永さんの言ってることが変だってことは分かるよ。
変なのは、おそらく松永さんがかつて見聞した「熱狂的なファン心理」みたいなものをイコール「萌え」であると語ってしまっていることに一因があるんだと思うんだけれど、件のブログで語られている「萌え」はそういうものじゃない。じゃあどういうものかというと、もちろん「テヅカ・イズ・デッド」で説明されているようなものだろう。でも松永さんはそれには言及しないで、本書の内容からずれたところからキャラ萌えを語っている。
以上がこの本から松永さんが引用している部分で、松永さんはこれを分かりやすくした(とする)件のブログの文章に対して実際のところ、マンガを「読む」際、完全にキャラクターだけを見つめる「読み」があるとも考えにくく、逆にキャラクターの魅力をまったく無視したストーリーテリングもまた非現実的であろう。だからそうではなく、同じ読者の一回の「読み」の内部においても、複数のレヴェルの快楽が同時に駆動していると考えたほうが合理的だ。
「キャラ萌えは作品を読む上での重要な要素」と主張しているのだが、それは肯定できない。なぜなら、「物語読み」の人たちは決して「キャラクターへの感情移入をしない」のではないからである。キャラクターへの感情移入なくして、作品にのめり込むことはありえない。したがって、「物語読み」の人たちがいつも冷めた冷静な目で見ているかのような見方は誤りである。
と述べているのであるが、伊藤剛の本は別に「キャラ萌えは作品を読む上での重要な要素」としているのではないだろう。この本はキャラ萌えを伴いながら作品が読まれ、評価され、支持され、その方法論に従って物語が作られるというのがどういうことなのかが語られているのである。それにはキャラ萌えしながら「覚めた冷静な目で(作品を)見ている」という読み方すらも含んでいる、という話だ。「複数のレヴェルの快楽」とはそういうことである。ここにはおそらく大泉実成のような読み手が含まれるのだろう。
というわけで物語派の人は批評的な視点を導入していて、キャラ萌えの人はそうじゃないんですという単純な話でもなければ、現代的な物語の読みにキャラ萌えは不可欠のものだみたいなことを言ってるわけでもない。だから、この本で(そして件のブログで)前時代的な物語や読みが否定されているわけじゃない。強いて言うなら別種のものとして語られている。
もっとも、松永さんが伊藤剛を読んだ上で以上のように語られているのかどうかは分からなかった。しかしいずれにせよ松永さんの主張は伊藤剛の本に対する反論になるべきものであるはずである。しかしそうだとすると、そもそも「テヅカ・イズ・デッド」は、ちょうど松永さんが述べているような、「キャラ萌え的な物語の活況に対する前世代的な読み手にとっての無理解」を問題視するところから始まっている本なのだ。伊藤剛は、それらに対する十把一絡げな否定、あるいは誤解、あるいは黙殺、あるいは(これが最も問題だと思うのだが)無関心を論じることから出発して、「キャラ萌え」というものがどういうものかを分析的に語っているのだ。上記の引用部分だって、その一部なのだ。だから、松永さんの主張は本書の第一章に絡め取られてしまって、肝心のキャラ萌えの分析まで到達していない。「読んだけど、これには異論がある」って感じの文章じゃない。というわけでこれは変だろう、と思った次第。
ただ、僕が一番不思議なのは、一体松永さんはなぜこんな奇妙なことをわざわざ書いて、みんなにわざわざ(本当にわざわざ)見せたりするのだろう、ってことなんだけどね。キャラ萌えについてそんなに問題意識を持っているのだろうか?分からない。どちらかというと、松永さんのような読み手には必要のない本だし、議論と思うのだが。まあしかし、僕はそんなちっぽけな疑問はすぐにすっかり忘れてしまうね。そして僕が今から何をするかというと、もちろん「テヅカ・イズ・デッド」の続きを読むのさ。なぜなら、こんなふうに人がやっていることをあれこれ書くよりも、自分にとって興味深い本を読む方がずっと楽しいって、僕は知ってるからね。
2006.12.14 | | コメント(3) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章]