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天空の城ラピュタ

いろいろここに書く題材があって、「鉄コン」の話が書けない。しかし何となく見たくなったので「天空の城ラピュタ」を見てしまった。見たので書かねばならない。明日には鉄コンについて書きたい。

あまりジブリアニメをちゃんと見ていないが、見た中ではこの作品が一番好きだ。前に見たのは何年ぶりか忘れたが、何年も前だと思う。見始めて、最初の飛行船からシータが落ちるあたりで既に感動して泣きそうになっている。何だかまるで涙腺が弛んでいるようなのだ。前に見たときにはそれほど感動しなかったし、だいたい冒頭のシーンで感動するなんてどうかしているわけで、自分が何に感動しているかよく分からなかった。今にして思えば、あの感動は物語自体にではなかったと思う。たぶん作品の表現があまりに自由で幸福感に満ちていたからだったと思う。この作品は全くスレたところがなく、外連味もない、素敵な冒険活劇で「このアニメ映画でもってすごい話を見せて観客をワクワクさせよう」という作り手の意図がまっすぐに伝わってくる。今、こんな立場から作品を作るのはなかなか困難だ。もう今では宮崎駿ですらそれができなくなっている。僕は今では成り立ちにくい、その力の美しさに感動したのだと思う。

この話はちなみに、見てみるとナウシカに始まりトトロへと続く「自然対人間」という物語だった。過去に見たはずなのに全く気づいていなかったのは、いい加減にしか見ていなかったせいだと思いたい。まずポムじいの畏怖である。

その石には強い力がある。わしは石ばかり相手に暮らしてきたからよう分かるんだが……。力のある石は人を幸せにもするが、不幸をまねくこともようあることなんじゃ。

ましてその石は人の手が作り出したもの……。その……気になってのぉ……。

もう、これだけで十分「自然の方がエライんだぞ」というメッセージなのであるが、これがラストにシータが言う「人間は土を離れては生きられないのよ」というセリフに繋がっていく。

ここでポムじいは、飛行石自体が「人」に対する「自然」ではないという重要なことを言っている。では「自然」とは何か、ということは後に明らかになるのだが、それはラピュタにそびえ立ち、根を張り巡らす巨木であった。ムスカがラピュタの心臓部に張り巡らされていた植物や木の根に対し「後で焼き払ってやる」と言って常に不愉快そうにしているのが、自然と人間の対立の象徴である。

ラストで滅びの言葉を言ったときにラピュタの上層部が崩壊を免れるのは巨木がラピュタ全体に根を張っていたおかげだ。ここでムスカと対比されることで、自然たる巨木の勝利が示されている。このラストシーンは、一見すると単に根が張り巡らされていたせいでラピュタの崩壊が物理的な意味で防がれたということにも見える。たわんでバラバラになろうとする構造物を根がしっかりつなぎ止めた、というわけだ。しかし飛行石を根に抱いた巨木と共に、ラピュタが浮上を開始するのを見てドーラは「木だ!あの木が全部持ってっちまう!」と叫ぶ。つまり巨木が意志を持って飛行石をコントロールし、ラピュタ(のお宝)を自分たちから取り上げようとしていると彼女は言っているのだ。巨木は、登場人物の一行が訪れたことによって荒らされたラピュタを誰からも遠ざけ、園丁ロボットと植物や鳥、キツネリス達が永遠を過ごす楽園にしようとするのだ。そしてそれは成功する。

しかしここでは、飛行石自体には善悪の判断がなく、ラピュタは常に使用者の意志通りにコントロールされるということが露呈している。パズーはポムじいの危惧に対して「そんなことないよ!その石はもう二度もシータを助けてくれたじゃないか」と言ったが、それは間違いで、飛行石は意志を持って「助けてくれ」たりはしないのだ。園丁ロボットたちにラピュタを譲らねばならない理由はないのに、巨木は彼らを選び、飛行石を利用して逃走したのである。ぶっちゃけてしまえば、この巨木の判断が恣意的でないとは言えないということだ。

飛行石が劇中で力を失い、それにもかかわらず自然がその力をもってラピュタを浮上せしめたのだとしたら、「自然には圧倒的な力があり、善である」というだけの物語だった。超越的な力を持つ自然はまさに人間を越えた存在であり、その行為に善悪はない。しかしこの話では、自然は人と同じく飛行石を使って大きな力を行使する。超越的な力と巨木の意志が分離されるため、その善悪について語ることが可能になってしまっているわけだ。「あの木が全部持ってっちまう!」というセリフはそのことを鋭く指摘している。

この物語にとって最後に善として語られるのは、それでもやはり自然だ。しかし、ここでは単に「自然がエライ」というパターンとはちょっと違うアプローチがされている。つまりは自然が選んだ存在、園丁ロボットや鳥たちの楽園を観客にとって「守られるべきもの」として同意させようとしているのである。漠然とした力としての大自然ではなく、小さく閉ざされた愛らしい生態系を用意し、そこに人間が関与できずまたその必要もないことを示して、我々に不可侵の自然を意識させるのである。

だが、これではやっぱりナウシカのように自然と人間が共存できない世界だ。上昇していくラピュタに園丁ロボットの平和な世界が一瞬だけ映るのは、幸せそうでありながらも残されるものにとって悲しい光景でもあるのである。しかし、そういう終わりが正しいのかどうかという疑問はこの作品にはないし、必要ない。おそらく、そういうことを考え始めると、ユリイカ増刊のインタビューで宮崎駿が言っていたように、「もののけ姫」のようなヒロインが笑うことのない物語になるのではないだろうか。僕はもののけ姫についてあまり考えたことがないのだが、なんとなくそう思った。ともかく、それを考えずに美しくまとめ上げられたこの物語は、本当に素晴らしいと思う。

2007.01.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ

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