スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | |

鉄コン筋クリート

「物語の終焉」あるいは「物語の死」という問題は、ごく最近になって論じられ始めたわけではなく、遅くとも70年代には物語の形式として今や最古に属するものの1つである小説において発見されたテーマだった。僕の印象では、この問題はほかのジャンルのフィクションにおいてもいずれは到達する問題であったが、最初に発見されたのが斜陽と言っていいジャンルである小説においてだったために、以後80年代の半ば過ぎまでは、その愛好者間においてのみ、ひっそりと危惧され続けていた。例えば1980年、ジョン・バースはエッセイ「補給の文学」の中でこんなことを書いている。ブログに引用するにはかなり長いものだが、とても確かなことが記されている上に志村正雄による訳が好きなので引用しよう。

私のエッセイの趣旨を簡単に言えば、芸術の形式と様式は人間の歴史の中に生きている、それゆえ使い尽くされた状態になりかねない――少なくとも特定の時と所における相当数の芸術家の心の中では――ということであった。つまり、芸術上の諸習慣は引っこめられたり、くつがえされたり、越えられたり、変えられたり、その意志に逆らって展開されたりもしがちなもので、その結果、新しい、いきのいい作品が生まれるということ。この論旨は、反対のしようがないと私の思うところであった。それなのに非常に多くの人々が――その中にはセニョール・ボルヘスも入っていたようだ――誤って、私は文学、少なくとも小説が死んだと言っている、すでにその命脈が完全に尽きているんだ、今日の作家に残されていることは、この尽きてしまった媒体の偉大な先輩たちをパロディ化し、茶化す――まさにある種の批評家がポストモダニズムだと言って嘆くようなことをやる――以外に何もないと言っているのだと取った。
 そんなことを私はぜんぜん言っていない。自己超越的パロディというかたちで、小説は『ドン・キホーテ』から始まると言っていいし、しばしば活性化のためにそういう様式に戻ったという著名な事実は別にして、ただちに、はっきりと言っておきたい――文学が尽きることなどあり得ないというボルヘスと私は同意見である、と。いかなる文学テクストといえど尽きることはあり得ない――その「意味」がさまざまな時、空間、言語にわたる個々の読者との関わり合いに存する――というだけの理由によっても、文学は尽きるものではない。私の以前のエッセイの誤読者に申し上げたい――文字に書かれた文学は、じっさい四千五百年の歴史を持つ(文学の定義によって、数百年のプラス・マイナスはある)が、この四千五百年という年齢が老齢なのか、成人なのか、若いのか、単なる幼児期なのか、それを知る術はないのである、と。表現できるすばらしいこと――たとえば暁とか、海とかの隠喩――の数は確かに有限であろう。同じくらい確かなことは、その数は非常に大きく、まずはほとんど無限と言ってもいいかもしれない。私たち作家は、ある種の不機嫌におちいったとき、ホメロスはおれたちより楽をしたなあ、「薔薇色の指の暁」やら、「葡萄色の暗色をした海」などと競争相手のいないうちに言ったのだから、などと感じるかもしれぬ。現存する最古の文学テクストの一つ(ウォールター・ジャクソン・ベイトが一九七〇年の研究に引用している紀元前二〇〇〇年頃のエジプトのパピュルス片)は、もの書きのハヘペルレセンブが文学の現場に到着したことの遅きに過ぎることを嘆いたもので、せいぜい私たちはこれをもって慰めとすべきであろう――

いまだ世に知られざる文句、目新しい言葉がほしいものだ、いまだ使われたことのない新しい言語、繰り返しではなく、昔の人たちがしゃべった言葉ではないものが。

ここでバースは、むしろ「文学は死なない」ということを主張しているが、最終的にこの時代を席巻したのは、彼がわずかに認めた文学表現の有限性という考え方であった。構造主義以降の思潮は、修辞表現はもちろん、物語構造全体までもパターン化して分類可能にすることで有限性の幅を縮め、「ほとんど無限」として片付けられるはずのフィールドを区画整理されうるものとして再定義した。

90年代が始まったときは、フィクションに対する不安はついに小説以外のジャンルへと波及しており、マンガについても声高に「物語の終焉」が語られ始めていた。89~90年ごろのマンガに対する言論に、「物語の終焉」というテーマが散見されるのはそんなわけである。僕が知っている限りでは、たとえば米沢嘉博などがそういう議論をしていたはずだ。以前ここにも書いた「テヅカ・イズ・デッド」にも、この時代のマンガ終焉ムードを論じた個所があったはずである。そして、松本大洋が登場したのはそういう時代であった。

僕はこのたびユリイカの原稿を書くために「鉄コン筋クリート」を読み直して、まずはひどく戸惑った。ずいぶん90年代的な物語だなあと思ったのだ。彼がこの作品で行っていることは、物語構造を原初的な単純さに求め、装飾的に比喩やオマージュに満ちた絵とセリフなどを散りばめる、現代における寓話である。彼の作品が90年代において物語としての新しさを提供しているように感じられたのは、まさにそこであった。誰もが、この作品に物語としての生命力の強さや、生や死の象徴的なイメージを感じることができる。またいくらでもペダンティックに読み解くことができる。僕は原稿の中で「魔術的リアリズム」と書いたが、これは言うまでもなく、小説において「終焉」が語られて以後魔術的リアリズムと呼ばれる作品群がブームとなった状況に、松本大洋の初期作品群の特徴とその迎えられ方が似ていると感じてのことである。この「魔術」は、物語の復権を期待されたものであったのは間違いない。かくして松本大洋は「終焉」ブーム後の時代を代表する作家だったのである。

しかし2007年という現在において松本大洋を語るまでに、時代はかつての小説においてとは違う変遷をたどる。まず第一に、松本大洋の手法は急激に模倣された。おそらく326の登場によって、我々はコピーを重ねた「松本大洋的なもの」の極致を見たはずである。その結果何が起こったかというと、松本大洋は掛け値なしにオリジナルな作家であったにもかかわらず、恐ろしいことに326の物語と90年代における松本大洋の物語が実は全く異ならないと言うことが可能になってしまった。松本大洋が「鉄コン」で選んでいた手法とは、先にも述べたように、物語をあくまで原初的なものに求めて、セリフや絵に深いオマージュを込めていくということである。表徴として現れる絵とセリフがどうであれ、物語の単純さを崩さないことでこの「魔法」は成り立っていた。しかしそれは裏を返せば、同じく単純で強いメッセージを持ち、松本大洋から抽出された表現を用いる326を軽んじられない、ということにもなってしまうのだ。90年代から現在までに培われたマンガに対する分析的な読みは、そんな事実を我々に突きつけることが可能になる。原稿で僕が「この作品から受ける感動がそんな単純な寓意から来てたと気づかされるのはショッキングなことかもしれない」と書いたのがそれである。なぜショッキングかというと、この物語が興味深いものとして読み解かれた90年代には、確実にそれ以前にはない新しさを持ったマンガとして読まれたはずだからである。しかし2007年に松本大洋を論じることは、彼を「松本大洋的なもの」の頂点に格下げることに近づいてしまう。

さらに、90年代と今で違うことには、その物語が持つ寓意の効果がある。たとえば今、アメリカでは小説が全く売れない。本当に読まれなくなってしまった。「”It”(それ)と呼ばれた子」とか、「ア・ミリオン・リトル・ピーシーズ」などのフィクションが「ノンフィクション」として売り出されてベストセラー化し問題になるなど、ひどいことがたくさん起こっているのだ。アメリカほどのことが起こっているとは思いたくはないが、日本でも今は事実をベースにしたフィクションや、ノンフィクションは飛ぶように売れるし、一部のノンフィクションに対する批判は、「それが真実かどうか」ということだけを注視する。なぜこんなことになったかというと、当たり前だが人々がフィクションよりも現実に強い興味を持っているからである。これは80年代にバースが述べたような「物語の死」とは微妙に異なる問題であり、実際、現在あちこちで行われている「物語の終焉」という議論は、現実が物語を凌駕して物語のリアリティはリアルに敵わなくなり、物語のリアリティが成り立ちにくくなってしまったということを主な問題とするものだろう。だからこそ、今、批評的に作品を語る者の多くは、現実問題やジャンル全体、または技法にフィードバックする形でしか作品を評価しえない。魔術的リアリズムの物語が根底に持つ単純な寓意は、消費される物語の回復に対して有効に働いたが、リアリズム自体の立つ瀬が奪われていっている現在の問題には合致しない。寓意は物語の豊穣さなどもはや伝えない。現実に対する、ひどく素朴な批評として回収されてしまう。

あの映画で起っていることはそれである。映画スタッフが忠実に原作を再現した結果、純粋にあの寓意に共感する者しか見られない作品になっている。この映画は映画「時をかける少女」について熱く語る人からは絶賛はされない。しかし原作に忠実である以上、原作に対する肯定的評価だけが許され、映画だけが批判的に扱われるいわれはない。原作には複雑な意味内容があって映画にはそれがない、と考えるのは間違いなのである。そこには、映画単体ではなく「鉄コン」という物語そのものが、2006年までの間に読まれ方を変えてしまったという事実が確固としてある。そんなことを考慮して原稿を書いたわけである。映画自体を離れた話は端折ったが、試写を見たときにこのブログにメモったことの詳細は、だいたい今書いたようなことである。

あの映画は10年遅かったのだろうか、90年代なら、あの頃はまだ新しかった物語を映像化した作品として、手放しで楽しめただろうか、とも考えたが、10年前には公開なんてとても無理だったのだ。あの映画が公開できるはこびとなった時代状況には、昨今のアニメや漫画に批評的な見方をする人々の存在があったはずだ。難しいことである。

ともかく、12月の半ばからずっと考えていた「鉄コン筋クリートについて考える」という作業がひとまず片付いて何となくスッキリした。

2007.01.16 | | コメント(0) | トラックバック(2) | [マンガ] [アニメ] [文章

コメント

コメントの投稿

トラックバック

この記事へのトラックバックURL


FC2ユーザー用トラックバックはここ

小説が気になったぞ

詳細はそれぞれの項目を参照。口承文学|口承文芸散文フィクション / ノンフィクション小説紀実小説戯曲随筆(エッセイ)書評日記紀行伝記・自伝韻文詩和歌 - 短歌俳句 - 連句 - 川柳五行歌・[エッセイ]ゲンバク小説、文学ジャンク・「部落解放文学賞」の選考・[小説]“文学

2007.04.16 | 小説が気になったぞ

修辞技法修辞技法(しゅうじぎほう)とは、文章に豊かな表現を与えるための技法。ギリシア・ローマ時代から学問的な対象となっており、修辞学(レトリック、Rhetoric)という学問領域となっている。.wikilis{font-size:10px;color:#666666;}Quotation:Wikip

2007.07.28 | 小説耽読倶楽部

 | INDEX | 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。