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最強伝説黒沢

福本伸行のマンガで重要なのは、もっともらしいハッタリだけである。それが魅力なのであるから、もちろん批判には値しない。彼は博打を題材にしたマンガを数多く描いているが、しかしそもそも彼のマンガとはどんなものであれ作り自体が博打そのもののようなハッタリに満ちている。それは「無頼伝涯」であろうと「最強伝説黒沢」であろうと変わりはない。作者は常に読者に対し凄みを効かせたハッタリを延々と語り、そのもっともらしさによって読者は以後のドラマに常ならざる緊迫感とスリルを味わうことができるようになっている。

つまりカイジやアカギが負けの代償として人体を破壊されうるというルール自体は読者にとってまだ恐怖の対象ではない。その拷問がどれだけ恐ろしいものなのかをしつこく、本当にクドクドと解説する語り口こそが彼のマンガなのである。連載が長期化した最近では次第にこのハッタリがマンガの内容そのものにすり替わってしまい、「純粋に博打の駆け引きやどんでん返しを楽しみたかった」読者に不満を抱かせているかもしれないが、形式として彼のマンガは過去も現在も変わらずハッタリであり続けている。博打自体にあまり興味がない僕には、何も変わっていないようにすら見える。

「最強伝説黒沢」における作者のハッタリは「能力に乏しい独身の40代男性は孤独な存在である」という恐怖心を煽り立てる。実際がどうであるかではなく、はじめからもっともらしさだけを重視しているこの作家は、物語の語り手としてとても優れている。「能力に乏しい独身の40代男性」が感じる「孤独」とは「自分が社会的に存在していないことになっていく」というドロップアウト感覚である。ここに恐怖と焦燥が生まれ、物語を動かしている。これは先日僕が読んだ福満しげゆき「僕の小規模な失敗」にあったテーマで、奇しくもこの二作で主人公が感じている孤独感は全く同じものだ。「僕の小規模な失敗」が最終的に得た「成功」と同じものが「最終伝説黒沢」においてもたらされなかった理由は、筋書きの上でこのマンガが迎えた破綻と、それを承知で作者が求めた結末に理由がある。

おそらくこのマンガには、連載当初から「能力に乏しい独身の40代男性は孤独な存在である」という1つのハッタリと、その男が最終的に近しい者に愛されながら死ぬ幸福を迎えるというハッピーエンドに向かって話を進めていく意志があった。作者は黒沢が近しい者に愛されるための試行錯誤のあり方として物語を展開せねばならなかったのである。それはちゃんとマンガの冒頭で「人望が欲しい・・!」というモノローグによって分かりやすく目標設定されているし、「星座の話を振って自分の誕生日に気づいてもらおうとする」「アジフライを土木作業現場の人間に振る舞う」のような慎ましいエピソードは、すべて彼らが社会における存在感を回復しようとする活動としてある。黒沢にとっての社会とは「土木作業現場」だけであり、そこでの地位向上に拘ってみせるこのエピソードは彼の現実を正しく描写している。これは「僕の小規模な失敗」の「小規模」が示すものと全く同じである。彼ら主人公達が目下の問題とするのは大きな物語の主人公として大事を成すことではなく、彼らの小規模な現実を満たすことだ、と2つのマンガは共に言っている。このことは、第一話で黒沢がサッカーの日本代表戦を誰よりも大声で応援しつつ、

オレが求めているのは……
「中田っ…!」
「森島っ…!」
っていうことじゃなくて……
オレの鼓動……
オレの歓喜。
オレの咆吼。
オレのオレによる、オレだけの……
感動だったはずだ…!

と独りごちる姿や、「生まれ変わるんだっ…! この新しい現場では…!」というセリフなど至る所で強調されている。

ところが、このマンガはここから、目的に接近する手段を唐突に変化させる。黒沢は自分に恥をかかせた中学生と決闘を始め、以後はラストまで若者との抗争が続く。この黒沢の現実における自己回復に見せかけた物語は、実はそれを大義名分として物語冒頭で否定される大きな物語への積極的な関与によって自己を実現しようとするものでしかない。なぜなら、ここでは若者達は常に極端なならず者、打ち倒すべき「悪」として描かれているのである。若者は、まるで黒沢を含めた弱者たちが社会的に居場所を失った原因であるかのように描かれ、本来は全く無関係であるはずの黒沢が戦う理由を強調される。それでも、黒沢がそれによって彼の周囲における存在感を高めることができるのであれば物語としては問題ないと言える。しかし、黒沢は本来「能力に乏しい独身の40代男性」であり、大きな物語に勝利する主人公ではないことが物語の大前提としてあった。それが小さな社会における自己実現を成せない苦し紛れとして大きな物語に勝利することは、まさにイカサマでありこの物語のすべてを否定している。前提として作者自身が置いたハッタリを否定しているのだ。

かくして、物語からはある程度「もっともらしさ」が失われていく。最初は騙し騙し、物語は偶然を装いながら黒沢に勝利を獲得させていくが、まぐれが何度も続くわけにはいかない。最終的に大きな物語を制する能力があったことにされた黒沢は、

今のこの姿からは想像できないが…
あの時は…
オーラが出ていた……!
他を圧するすさまじいオーラが……!

と言われるような存在になってしまう。これではもう黒沢はヒーローものの少年マンガの主人公、例えば「キン肉マン」と何ら変わらない。なぜ、このような不自然が生じたのだろうか。

黒沢は最初の中学生との決闘前に次のように述べる。

生きてりゃいい…
生きてりゃ十分なんて…
誰が思うかよ…!
理想があるんだよ……!
みな…!
みんなそれぞれ理想の男像……
人間像ってのがあって…
そういうものを…
目指すから人間だっ…!

実はこのセリフは、ラストの暴走族との戦いで述べられる思想と全く同じだ。つまり2巻の時点で既に作者はこの作品のテーマを述べてしまった。テーマが繰り返し語られることは特に問題ではないが、ただこのセリフはつまり「能力に乏しい独身の40代男性は孤独な存在である」と「その男が最終的に近しい者に愛されながら死ぬ幸福」というハッピーエンドをつなぐものとして「理想の男像を目指す」ことを提示しているのだ。黒沢が自分を回復させるものとしてついに選んだのは男性性なのだ。最後の戦いにおいてホームレスの老女が必要とされ、「今…ばあちゃん一人守れないなんて……」「女一人救えなかったんだ…と…!」「今……立てば…男にはなれるだろうよ…!」という男性性を強調したセリフが増えていくのはそういったわけである。この物語は全く明快に論点と手段を示している。つまり、能力に乏しい独身の40代男性は「男」としてあることで物語の主役として立つことができ、そうすれば近しい者に愛されながら幸福に死ぬことができるというのである。彼は自分について、はっきりと「物語がない」と言う。このストレートな表現はとても素晴らしい。その上で

オレ達は誇りうる……
物語がある…!
ガキの頃から……
何度も言われてきたはずだ……!
男だろ…って…!

と述べる。明快な論理性があり、とても気持ちがいい。

最初に読者へ言い含めたハッタリを裏切ってまで、大きな物語へと接近することを求めたのは、作者の過失であるとは言えない。男性性を回復することで大きな物語に参加すべきだというのが最終的に作者の主張だからだ。それでも黒沢が本当に「力」を持ってしまう課程はこの筋には不要だと思うし、またこのマンガが現実の問題から始まりながら巧みにそれを捨ててファンタジーに逃げ込んでいるのは明らかだが、願望を充足させる物語の効用としては非常に美しくまとまっている。読み終わって、これらの問題を山口貴由「炎のうさぎ戦士」や望月峯太郎「バタアシ金魚」はどのように描いたか非常に気になって、再読しようと思った。特にバタアシ金魚については先日も少し書いたが、ウェブ上で調べたところこのマンガについてのまともな論評はほとんど残っていないようなので、かなり読む価値を感じている。

2007.02.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ

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